三一論の形成


これは、'01後期開講の「哲学思想概論II」の資料の一部である

アレキサンドリア学派

*Clemens Alexandrinus:         今年度は扱わない

*Origenes (185/6-254/5)

De Principiis (c.230)

 神のロゴスについて哲学するという意図。

 哲学は神学の補助者・予備学として、信のアルケーを思索によって究めるもの。

 思索の基礎は啓示→聖書の解釈。

真理には、使徒の教え(新約聖書)によって明らかにされてしまっているもののほ か、未だ明らかになっていないものがあって、それは思索によって解決するようにと 使徒の後継者である我々に残された問題。

 [第1巻 神および天使について]

〈神の存在〉は改めて証明する必要ない。唯一性は確立する必要ある:理性が導く結論。

〈世界の秩序は唯一の神が保つ〉と考えてこそ、説明できる(グノーシスは義であるが 善でない旧約の神と善であるが義でない新約の神とを対比したが、そんなことない)。

父は全ての存在者のうえに働く。子は理性的存在者のうえに働く。霊は聖化された 理性的存在者のうえに働く。

神の非物質性 被造物には神の光が反映→両者の間のアナロギア

〈ロゴスは神の下位に置かれる〉 神即ロゴスが世界を創造。

 神:存在−−神の存在の分有        →被造物

 ロゴスにおいて知られる:神の真理の分有  →被造物

 父なる神は ho theos /

 ロゴスは theos しかし ho logos  (ヨハネ1 解釈)

 [第2巻 世界について]

〈創造について〉 A 先在する質料からの世界の形成 か
B creatio ex nihilo か

A のほうが合理的という意見にたいし、B のほうが合理的だという。

〈世界の永遠性〉 この世界は有限としても、それに先立つもろもろの世界があった。 世界がなければ、神は支配者ではあり得ないから。

〈創造から終末まで〉 神は先ず、理性的存在者(霊)を創った。それらは善なるもの として造られた。その天使たちの堕落後、物的世界が創られた。人間は物的身体にあ って生きる、堕落した霊。 が、いまや受肉したロゴスによる回復の行為が成遂げら れた。やがて、最後の審判・復活があって、人間は霊的身体にある生を生きることに なる。つまりそこで、別の世界がこの世界に続くことになる。(グノーシスに近い面 があるが、物的世界それ自体を悪とは言わず、善なる神が創ったとする点で、これと の違いあり)

[第3巻 自由について]

〈自由は、被造物の特性〉であって、創造主のには帰せられない。魂は身体においてあ る間は、天使により助けられ、悪魔によって妨げられつつ、勝利を目指して戦う ことができる。自由意志を持っているからこそ、善を選ぶということができる。

[第4巻 啓示・聖書] 聖書には意味の様々なレヴェルがある。

 literal meaning         :(肉) 字義の解釈

 moral meaning          :(魂) 道徳的解釈

 allegorical-spiritual meaning :(霊) 比喩的解釈

解釈上の困難は、聖書の究極的著者である神によって置かれたが、それは人間が自 分の精神を働かせるようにと配慮してのことである。

以上、ギリシア的教養に立って、信の内容について、思索の能力をフルに使って論 考。そのことのゆえに、後になって、正統的信仰から外れた面を指摘される。

ロゴスと父との関係、この世界以前の諸々の世界という考え等は、アリウス主義に つながる所あり。


                              三位一体論争

[発端] イエスは神の子→先在→神から生れたのは何時?生れる前は?父との差異は?

[ニカイヤ会議]  AD.325

[Arius の信仰告白の問題点]    ton ex autou pro panton ton aionon gegennemenon

「全ての時代に先立って」これは時間的に遡っていって、その前にという発想。

「生れた」pass.perf.part.  生れ終ったということになる。つまりこのことの前 と後とで変化ある。→生まれる前は存在しなかった。

これに対し、 Nicaea信条では(Chalcedonも)

   gennethenta (pass.1 aorist.part.)

またChalcedon では pro aionon

「時代に先立って」は 必ずしも、時代の前の時間においてということにはならな い。「生れた」のも、時間軸に沿って変化があったことを意味しない。ただ、「生れ る」ということがあったことを言っているだけ。→子は父と共に永遠的。

Athanasiusより:

「そういうわけで、聖にして完全なる三一があって、父・子・聖霊に おける神であると告白される、それは如何なる神ならぬもの、異物をも交えておらず、 創造するものと、生成したものとから成っているのでもなく、全てが創造する側であ る。それは一貫しており、ピュシスにおいて不可分であり、かつその活動は一つであ る。父は全てのことを、ロゴスにより(dia) 、聖霊において(en)行う。こうして聖な る三一が保たれる。」

[三一論の実践的意義]  Athanasius:「神が人となったのは、人が神になるため」


                              カッパドキアの3教父による理論の発展

*Gregorius Nazianzenus (c.329-389/90)

 父:生れなかったものアゲネートス、 子:生れたものゲネートス、 霊:発出したもの

 キリストの完全な人性の主張

テオロギア(父・子・霊を扱い、神的存在者自体に関わる)とオイコノミア(人間 イエスの意義;旧約・新約の救済史;被造物との関係において知られる神の現れ、三 一を扱う)の区別

*Basilius (c.330-379)

アゲネートスとゲネートスの差異は両者の非相似を意味するという論に反論。

名は不在と現存を表示する;否定的な名は不在を、善・真・義など肯定的名はその 示す性質が神において卓越してあることを示す;「不出生」とはどんな原理にも由来 しないという否定性を示す。霊についても ・・・・・

*Gregorius Nyssenus (c.335-394)

1つのウーシア((ラ)substantia,essentia)------3つのヒュポスタシ ス((ラ) persona (ギ:プロソーポン))の主張

人間神化:人間のメタノイア、愛によって三一の神とペルソナ的に交流する道

神のウーシアとエネルゲイアの区別: uは分有不可能、eにおいて分有可能、

神のuは不可知、eは神を顕わにする

e:uと不即不離に全てを顕にして発出する非被造的エネルギー

創造されない神 に対し eにおいて創造された神々になること

cf.IIペテロ1:4「神のピュシスを共にする(に与かる)ものとなる」

========Greg.Nyss.(『uとhの区別について』より)========

先ずはじめに我々が主張するのは、ピュシスによって分割されないもの( pl.) を、それらの共通のピュシスをまさに指す名前によって複数形で呼び、それらは『 多くの人間』であると言うといったことは、言語の慣習的な誤用であり、それは『多 くの人間のピュシス(pl.) 』があるというのと同じことだということである。 ・・・・・・・同一の ピュシスに与かる多くのものがいるけれども、それらすべてにおいて人間は一つである。 ・・・・・・・従って、我々は誤った習慣をこれ以上続けずに、ピュシスの名前を複数のものに適用しないほうがよい。そうすれば、我々はもはや、話法上の誤ちを神学上の教義に持ち 込むという誘惑を受けることもなくなるだろう。・・・・・・・・

全ての名前のうち、あるものは複数の数的に異なった事物に言及し、従ってより 普遍的な意味をもつ。例えば「人間」がこれである。これを使う場合には、この名前 によって、共通のピュシスを指すのであって、誰かある人を限定して指しはしない。 ・・・・・・ また名前のうち他のものはより個別の意味をもつのであって、そ れらによってはピュシスの共通性ではなく、或る事物が意味されることが観察さ れる。その限りで、それらの名前は、同じ類に属する他のものと共通なものを持 っていることは度外視される。例えば「パウロ」「テモテ」がこれである。こう いった言葉を使う際には、私たちはもはや、ピュシスの共通性に言及していない、 ・・・・・・ 。そこで、同じ部類の存在者を二あるいはそれ以上、例えば、イ ワタ、カシワバラ、ノエを取り出してみて、人間たちのウーシアについて言葉ロゴ スを探求してみれば、我々は、イワタに帰するウーシアについての一つの言葉、 また、カシワバラに帰するウーシアについての別の言葉 ・・・・・・を得る ことにはならない。そうではなく、イワタのウーシアを説明する言葉は他の人に も当てはまる。彼らは互いにホモウーシオイ(pl.:uを同じくするものども)で あって、すなわちそのウーシア( pl.)は同じ言葉でもって記述されるのである。 さて、何が共通かが考察されたうえで、我々は個別に固有であるもの―それによ ってあるものが別のものから区別されるもの―に注意を向けると、一個のものを 特徴付ける言葉はもはや他のどのものの言葉とも同じではないと分かる。・・・・・・ (こういった)個別に語られるものがヒュポスタシスという語で示される。・・・・・・

ウーシアとヒュポスタシスとの差異が人間に関してどのように該当するかを見てき た。次にこれを君が神についての教義に適用するのは間違いではない。父のエイナイ が如何なるものかについて、君がどう考えるにしても、・・・・・・ それと同じ事を子についても、また聖霊についても考えることになる。・・・・・・

さて、三一のばあいには、あらゆる混乱を免れた区別を、個別に固有であるものに より、保つことが肝要である。そこで、何がそれぞれに固有のことかを判断するには、 被造ではないとか全ての把握を越えているとかいった、共通のことを除外して考えな ければならない。・・・・・・

(ここで聖霊は、結局父から発出する、子は父から生れる、父はその存在を他の如 何なる原因にも依っていない、といった固有性が指摘される)

しかし、無限、包括的把握不可能、非被造、空間的に限定されていない、といったこ とについては、三一の間に区別はない。・・・・・・ 三一において見られるのは、 或る連続的で、不可分のコイノニアである。・・・・・・ その間には如何なる間隙 もない。

=================================引用終わり


増補 三位一体論の成立

本節は前節と重複している。読み比べて理解していただきたい。

アリウス論争で問題になったこと

三位一体とは、父なる神、その子イエス・キリスト、および聖霊の三つが、同じく神であること、ある観点からすれば三つでありながら、しかも別の観点からすれば一つの神であるという教説である。「父と子と霊」の三つが並び称されることは、既に新約聖書に含まれる文書群中にも見出され、キリスト教の思想形成においては相当古い起源を持つ。この三者を信仰の対象として言い表す信仰告白の形式も3世紀初頭のエイレナイオスをはじめ諸処に見出される\footnote{例えば、P.Schaff, The Creeds of Christendom, with a history and critical notes, Vol.2. 参照。}。ただし、並び称されることは、この三つが同じく神であると考えられていたことを必ずしも意味しない。

やがてキリスト教の教団となる流れは、その最初期においてはユダヤ教内部の一グループであった。したがって、そこではユダヤ教の信仰の対象となっている父なる神が神とされることは当然であった。またそのグループを特徴付ける主張として、ナザレのイエスと呼ばれる、最近十字架刑を受けた者が神の力により復活したと、そしてその者こそ〈キリスト=メシア〉だとすることがあったことは確かであろう。しかし、初めは、そのキリストが神であるとは考えられておらず、神の子という称号も与えられていなかったのである。やがて初期の最大の理論家パウロが、キリストは〈神の子〉であると主張し、この世に生まれるはるか前にすでに存在していた、特別な存在であるとしたが、しかし、だからといって、キリストを神だとまでは考えていなかったと思われる。しかし、パウロの名によって書かれた書簡中(したがってパウロより後であるがパウロ系の思想)には、キリストを「神にして主」とする考えが登場していると解される(以上の点については近い将来改めて詳論する)。また、『ヨハネによる福音書』は、イエス・キリストについて「言葉は神であった」と、また「父のふところにある子なる神が神を現した」とし、また「アブラハムの生れる前から私はある」と語らせている。旧約聖書のヤハウェ------七十人訳ギリシア語聖書では「キュリオス=主」------とキリストとがほとんど重なっている思想がうかがわれる。しかしながら、後にオリゲネスがしたように、「言葉は神と共にあった」というときの神と、「言葉は神であった」という時の神との間に、ある格差を認める解釈も可能であるような表現ではあったのである。

このように新約聖書に含まれる文書群をとってみても、成立年代により、またその文書の由来するグループにより思想の差が認められるのであって、総じてイエス・キリストが、神に選ばれた人間からより超越的な存在へと神格化していったことが認められよう。

しかし、改めて子は父とどういう関係にあるのかということがキリスト教の教団内で議論にならない間は、それについて理論的につめて考え、精確なことばで言い表す必要も認められなかった。したがって新約聖書の文書群に認められるような表現を、それぞれが繰り返し口にする限りで、問題は起こらなかったのである。

ニカイア信条

318年より少し前からアレクサンドリアでアリウスが神の子は被造物だと教え始め、同年にアレクサンドリアの司教アレクサンドルスが招集した会議においてアリウスの教えを断罪したことからアリウス論争がはじまる。その後アリウスは小アシアに去り、そこで支持を得るようになる------というような歴史的経過がよく語られる\footnote{本論では立ち入らなかったが、アリウスとその一派についての研究については、Caharles Kannengiesser, Current Theology: Arius and the Arians (Theological Studies 44(1983): 456-475) 参照。}。あるいは、哲学史の教科書などでは「AD325年のニカイア公会議で、アリウスとアタナシウスの間で、父と子は 「homoiousios=ウーシアが類似している」であるか「homouousios=ウーシアが同じであるかが争われた」などと、歴史的事実関係からすると不適切な説明がされることがある。しかし、本論はそうした事情について立ち入って考えるものではない。むしろ、そこで信仰者たちが見えない神について、またかつて地上で生きたことがある神について、そして今もなお信仰者たちと共にある神について、どのような姿勢で考えたか、というその思索の内実に注目したい。

以下ではまず、ニカイア公会議の結果成ったニカイア信条の言葉に注目して、この論争にこの時点でひとまず勝った側から見た時の、論争の実質と、勝った側の理論を確認することとしよう\footnote{ギリシア教父を通しての三位一体説の理論については次の文献を参照。V.ロースキィ著/宮本久雄訳『キリスト教東方の神秘思想』(勁草書房 1986年)}。同信条は、父なる神、イエス・キリスト、そして聖霊の順でそれぞれを信じるという宣言がされ、前二者については、それぞれをどのような者として信じるかが併せ語られる------同信条の成立事情を反映して、子についての規定に重点をおいており、他方、聖霊についてはただそれを信じるというだけで何の内容も語られない。この三者への信仰の告白に続いて、アナテマつまり同信条が拒絶する、神の子についての理解を挙げて、同信条は終わっている。そこで、同信条の眼目となる部分を次に引用してみる。まず、子についての規定は次の通り:

========

「また[私たちは信じる]------唯一の主イエス・キリスト、神の子、父からただひとり生れた者、すなわち、父のウーシアから[ただひとり生れた者]、神からの神、光からの光、真の神からの真の神、造られたのではなく生れた者、父とウーシアを同じくする者------を」 ==========

これに続いて、この神の子によって万物が創造されたこと、彼が人々の救いのために人となり、受難し、復活し、昇天したこと、やがて裁きのために再臨するであろうことが語られている。

また、最後のアナテマ部分は次の通り: ==========

しかし「彼が存在していなかった時が存在していた」とか、「彼が生まれる前には、彼は存在していなかった」とか、「彼は存在しないものから、あるいは、別のヒュポスタシスないしウーシアから生じた」と語り、「神の子は、[被造物だとか、]変化し、他のものになり得る」とする者を、公同の[かつ使徒的な]教会は拒絶する。 ============

ウーシアやヒュポスタシスという語が、本論が注目する〈個〉や存在に関わるもので、かつこれがどういうことかが問題なのだから、さしあたっては既成の日本語を充てずにおいた。〈ウーシア〉(実体、本質、真実在等の訳があり得る)ということで何が考えられていたかは、ニカイア信条の段階ではあまり明確ではなく、むしろこれ以降、内容が豊かになっていくということは確かであろう。とはいえ、右の引用をよく吟味するならば、ここで考えられていたことはかなり限定できる。

同信条の背景にある論争の(少なくともニカイアの理論的勝利者側から見た)眼目は、アナテマ部分で何が否定されているかを見ることによって明らかとなる。つまりそれは、「父から生まれた」とされる子の永遠性の是非だったのである。つまり、ここで否定されていることから、「子は父から生まれたのなら、生まれる前には存在していなかったはずではないか」とアリウスが主張したことがわかる。このように「生まれる」ということを理解すると、それは非存在から存在への変化であることになる。生まれる以前には存在しておらず、変化・生成ということがあり得る子は、永遠であるわけはない。これに対して子の永遠性を主張しようとするならば、「生まれる」を生成ないし変化として認めるわけにはいかないことになる。このように第一の論点として、「生まれる」は時の流れに沿った変化であるかどうかという点が、子の永遠性を巡って挙げられるのである。

次に、子の存在していない状態から存在している状態への変化を認めると、子は「何から」生成したのかが問題となる。他方そうした変化を認めない立場からすると「父から生まれた」というときの「・・・から」を「生まれる」ということの理解と併せて説明しなければならなくなる。〈ウーシア〉概念が登場するのは、この文脈においてである。これを第二の論点としよう。以下、この二つをめぐってさらに考える。

論点1:「生まれる」は時の内の変化ではない

アリウスの信仰告白というのが残っている。そこでは子について「全ての時代に先立って生まれた」と語っており、「生まれた」はここでは完了形である。つまり、それは、「生まれる前」があり、「生まれる」という動きが始まり、そして「生まれた」とその動きが完了した、ということを意味することになろう。

これに対してニカイア信条で「父のウーシアから生まれた」という時の「生まれた」はアオリストである。完了形と比較していえば、これはただ「生まれる」という動きに言及しているだけ、ということになろうか。この点は、アナテマから認められる反アリウス的立場の眼目が、時間をいくら遡ってもその時間軸上のどこかで「生まれる」という出来事が起こったのではないとして、子は父と同じく永遠の存在であると主張する点にあったことと対応している。

「生まれる」が時間軸上の特定のどこかで起こったことではないのだということによって、元来は生まれるという事が生起した時点を記すものであったはずの「世々に先立って」とか「すべての創造に先立って」といった文言の「先立って」の意味も変わってくる。結局、「生まれる」ということは、無時間的現在(としての永遠)における出来事とでも解説できそうなものとなっているであろう。これは最初期のキリスト教にはなかった考え方である\footnote{クルマン(『キリストと時』)は、キリスト教本来の時間観の中での永遠概念が、ギリシア的な無時間的永遠ないしプラトニズム的永遠というかに侵されてきていると指摘するが、これもその一例ということになろう。}。

「生まれる」を時の流れに沿った変化としてではなく捉えるということが、子は「生まれた」者であるにもかかわらず、「変化し、他のものになり得る」者ではないとすることになるのである。では、「生まれる」が状態の変化ないし生成の一種ではないとすると、子についての「生まれた」という規定は何を意味するのであろうか。それが次の第二の論点のテーマなのである。つまり「神から生まれた」ということの「生まれた」を説明するのに「神から」の「・・・から」とはどういうことかという点で、他の「神から」のあり方と差異化することによって説明する、ということがここで起っているのである。

論点2:「・・・から」と「ウーシアが同じ」

ニカイア信条の子の部分およびアナテマを通して、子の「何から」かを前置詞ekにより規定する表現が目立っている。------「父〈から〉ただひとり生れた者、すなわち、父のウーシア〈から〉[ただひとり生れた者]、神〈から〉の神、光〈から〉の光、真の神〈から〉の真の神、造られたのではなく生れた者、父とウーシアを同じくする者。」 子は父から「生れた」ということを「から」を含む言葉を重ねて言い換えることによって、「子は父から」という時の〈から〉ということのあり方として、説明しようとしているのである。「父から」ということは、「父のウーシアから」ということだと「から」の源を限定して言い換え、「神からの神、光からの光、真の神からの真の神」というように「から」の源と果てとが同じ言葉となる語り方でつぎつぎと言い換える。そして、そのように「から」を規定していることが、「造られた」というのとは違う「生れた」というあり方を提示するためであることが示され、そうした提示のつまるところとして、「ホモウーシオス」という用語が締めくくりに使われる------すなわち「父とウーシアを同じくする者」と。つまり、「生まれる」という関係を、「神から(生まれた)神」であり、したがって同じ神(つまりウーシアが同じ)なのだと説明しているのである。

〈父から〉という表現が鍵になっていることの理解のためには、〈創造〉についての思想史を思い起こすことが有益であろう。つまり、「無からの創造」という思想は、ギリシアの「アルケー(初め、原理、根拠)」------つまり万物が「そこ〈から〉」生成したところのそこ(またそこ〈へ〉と向かって消滅するそこ)------をめぐる思索を受け継ぎつつ、「ロゴスがアルケーである」という思想と抱き合わせになって成立したものだった。つまり、制作者が、自己のうちにある構想(範型、設計図)に従い何らかの材料を使って何かを制作するという、創造についてのイメージを土台にして、しかもこれを否定する仕方で、「アルケーを材料(哲学用語としては質料)面に求めても何にも行き当たらない。質料もまた造られたものだ。だから、質料面で、〈どこから〉という問いに答えると〈無から〉ということになる」と答えたのが、無からの創造であった。しかし、これは答の半分でしかない。残りの半分は「ロゴスがアルケーだ」というものであった。「神のロゴス〈から〉」世界は生成したのである。それが、「ロゴス(子)を通して」ないし「神が語ることによって」万物は創られた、という主張となる。(・・・参照。なお近著参照)

このように、ギリシアの〈アルケー〉思想との絡みで、生成に関するものとして「・・・から」という表現があるのである。またパウロも「万物は父なる神から」(1コリント8:6)と言っているように、被造物もある意味で「父から」である。そうであれば「子は父から」ではあるとしても、「造られた」という仕方で「父から」なのではなく、「生れた」という仕方でなのだという区別を語らなければならない。それが、ニカイア信条がここで「何〈から〉何が」なのかと、句を重ねて語る際の意図であろう。

「父のウーシアから」と、そして「神からの神」等々と句が積み重ねられる。確かに「生れた」のであれば「蛙の子は蛙」であって、「鳶が鷹を生む」ということは普通はあり得ない。他方、制作物は制作者を反映しているとはいえ、陶芸家は人間であるが、その作品は陶器であって人間ではない。陶器はむしろその材料である粘土と存在上近いと言えよう。陶器には「制作者の構想〈から〉」という面もあるが、通常の観点では「粘土〈から〉(造られた)」と言われる。そしてその陶器を壊して、粉々に砕けば、それは土に還えるのである。そういう意味で、陶器の実質は土塊であるといえよう。

しかし「生れる」というのはまさに「親〈から〉」なのであって、それで、「蛙の子は親と同じ蛙」なのである。

この「造られた」と「生まれた」の違いにしたがって、被造物が「父から」であることと、子が「父から」であることとを区別しようとして、〈ウーシア〉という語が登場する。すなわち子は「父のウーシアから」だといい、その結果「神からの神」といえるのだ、というのである。してみると、被造物は「父から」ではあっても「父のウーシアから」ではないことになる。ではどういえるか。

それをあのアナテマの一句が語る。つまりアリウスは子を被造物としたために、「彼は存在しないもの[=無]から、あるいは、[父とは]別のヒュポスタシスないしウーシアから生じた」としたというのである。先に触れた「無からの創造」という思想の成立から分かるように、「無から」は先立つ材料(質料)がないということである。また、別のヒュポスタシスから云々」とは、ここでは、ヒュポスタシスとウーシアの区別は定かではないにせよ\footnote{この文脈の限りでは、あるいは「ウーシアから」は生まれる関係に、また「ヒュポスタシスから」は制作関係の場合というような区別があるのかも知れない。そうだとすると、ここのヒュポスタシスは三位一体における三つのヒュポスタシスとは別の用法だったことになる。}、父以外の何か別の存在者が子に先立って存在していて、それを材料にして造られた、あるいはそれから生まれるという仕方で生じたということになる。そして、その父とは別のヒュポスタシスないしウーシアも、その起源を辿れば結局「無から」ということになるであろう。

結局、子も被造物も「父から」だとは言えるのである。しかし、被造物は「父のウーシアから」とは言えず、その観点では結局「無から」と言われる。他方、子は「父のウーシアから」であり、その結果「神からの神」であることになり、つまりは「父と同じウーシアの者」である。

では、〈ウーシア〉とは、そしてそれが〈同じ〉だとはどういうことか。

同じということ

「蛙から生まれるのは、親と同じ蛙だ」という時の〈同じ〉ということが、ことが、「神からの神」等々の説明の積み重ねの最後に〈同じウーシアの〉と言って提示していることだと思われる。そこで「〈ウーシア〉とは何か?」ということを探るには、子は親と「同じ蛙」だという際に「何が同じなのか?」を考えてみるのがよいだろう。

〈同じ〉(おなじ)といってもいろいろな場合がある。「さっき屋根の上にいた人と、今その池の中であっぷあっぷしている人とは同じ人だろうか」というのと「あなたも私も同じ人間です」というのとでは、〈同じ〉といっても、何が同じかが違う。前者は、つまり「同一個体」、後者は「個体は別々だが人であることにおいて同じ」ということである。では後者の場合、「人であることにおいて同じ」というのは何が同じなのか。また「同じ」とはどういうことか。

ここで「ぴったり重なり合う」ということだなどと答えると、「じゃあ、非常に似ているということか」と問い返されるかもしれない。そこで是と応じると、では「同じ」ではなく「似ている」と言ってもいいのではないか、とされよう。すなわち、ニカイア以降、正統側とアリウス側を調停しようとする立場---「ホモイウーシオス」---である。

それはともかく、「ぴったり重なり合う」つまり「一つ(同一)の形」だというのも一つの答え方であろう。つまり、「同じ」というのは、差し当たって複数のものが「同じ」であるというところから始めるとして、突き詰めるとどこかで「一つ」ということが出てくるのである。「あなたと私は同じ人間だ」------すなわち「人間」という〈一つ〉の種に属している------というように。もちろん、ここでは「人間という種」の存在性格についてはまだ何も結論はでていない。あるいは「一つ」ということについてもさらに解釈の余地がある。たとえば、「一つというのは、区別がつかないということだ」などと説明する、あるいは、一つとは数的に一つということだと説明するなど。例えば後に述べるニュッサのグレゴリウスは、如何に多くの個体があっても、人間は一つであって、「三人の人間」というのは不適切な表現だ」と説明している。しかし、そうしたことまではニカイア信条からは読み取れないし、おそらくはまだそこまで見解が詰められていもしなかったであろう。

むしろ、「生まれた」という用語を使うことによって、「蛙の子は蛙」ということで私たちが了解している生成のあり方をモデルにしているのだ、という点に立ち返って考えるという路線をさらに押し進めて行こう。確かに自然を眺めると、「同じものから同じものが」という生成は、生物の産出においてのみ見られる。その時に「同じ」というのは、生物を私たちが分類していく際の(分類といっても生物学の用語としてのそれではなく、私たちの日常の生活のなかでのグループ分けし、呼び分ける活動としてのそれである)基本概念である。おたまじゃくしは蛙とは似ていないけれども、だからといっておたまじゃくしを蛙と別のグループに分けはせず、「おたまじゃくしは蛙の子」だと、経過を見ていれば「やがて手が出る、足で出る」という。つまり、私たちは、ライオン、象、クジラ、犬、猫・・・と生物をグループ分けして、呼び分けていくが、そのグループ分けは「親から産まれた子は親と同じグループ」だと、いわば「血のつながり」を基準としてしているのであり、そこで一つのグループに属するもの同士は〈同じ〉なのである\footnote{ただし、「血は争えない」といって「泥棒の子は泥棒」と見ることもあるけれども、それは結果としそうなった場合、あるいは偏見によって言う場合であって、「氏より育ち」によるものだとも知っている。}。何が同じなのか=ウーシアが同じなのである。

ウーシアは確かに存在に関わる用語である。だが、ウーシアは単に見かけが、あるいは身体の構造が非常によく似ているということに関わるのではない。もちろんそうした〈似ている〉ということはウーシアを同じくする者同士の間に結果として成り立つことであろうが、似ていることからウーシアが同じということが出てくるのではない。むしろ、まさに「生まれ」なのである。子が存在するようになるその起源が親にあるということ、つまり親の身体から出て、独立して、親と等しいものへと成長するという経過を経て今ここにある者のその存在の起源が親にあるということ、親から分かれて出来たものであるということ------こうしたことを考えるときに私たちが考えている蛙の子、猫の子、・・・の親と同じ〈在り方〉が「ウーシア」という言葉で指されていることであろう。

ニカイア信条のまとめ

結局、「子は父と同じウーシアのものだ」というのは、「同じ神だ」ということであって、それは「あなたと私は同じ人間だ」や「華と琴は同じネコだ」というのと同じレベルの規定なのである。人間やネコについては実例が目の前に沢山いて、「同じXだ」といえばはそれで話がはっきりするでしょうが、「神」といってもピンからキリまで想像されている状況であるから、「神だ」さらに「真の神だ」というだけでは、精確に規定しつくしたことにはならないと思ったのであろう。「ウーシア」というような用語を持ちだしたということだと思われる。

だから、「同じウーシアの者」に「神の唯一性」などを読み込むことはできないのである。もしウーシアが同じということから、「神は一つ」というのなら、それと同 じ意味で「人は一つ、ネコも一つ」と言えるだろうからである。

では、同じウーシアだということが、あなたと私は同じ人間だ、というのと同じ線で、「父と子は同じ神だ」ということであるのならば、人間等の場合には出てこない「一つ」ということが神についてはどこで出て来るのだろうか。これに対する一つの解答が、次代のニュッサのグレゴリウスに見出される。そして、それはウーシアとヒュポスタシスを概念的に区別する作業に伴って提示されるのである。

ウーシアとヒュポスタシスの区別

ニカイア会議以降の理論の発展に貢献した人々としては、カッパドキアの3教父が有名である。父と子が区別されるとはいえ、両者に差異があるわけではないということを主張することが一つの論点だったようだ。------ナジアンツのグレゴリウス(Gregorius Nazianzenus,c.329-389/90)は、父を「生れなかったもの」(アゲネートス)、子を「生れたもの」(ゲネートス)、霊を「発出したもの」と規定した。

大バシリウス(Basilius,c.330-379) は、アゲネートスとゲネートスの差異は両者の非相似を意味するという論(エウノミウス)に反論して、名は不在と現存を表示し、中でも否定的な名は不在を示すということから、「不出生」とはどんな原理にも由来しないという否定性を示すとした------等々と概説書には書かれている。ここではこうした流れのなかで、ニュッサのグレゴリウス(Gregorius Nyssenus,c.335-394) に帰せられる、一つのウーシア−三つのヒュポスタシスの主張に注目する。

さて、ニュッサのグレゴリウスは『ウーシアとヒュポスタシス』冒頭で、同じ一つのピュシス---たとえば人間---に与かる多くの個体について「人間たち」と呼ぶような、複数形の表現は言語的慣習ではあるが誤用だ、とする。なぜなら

「同一のピュシスに与かる多くのものがいるけれども、それらすべてに おいて人間は一つである。・・・ 従って、我々は誤った習慣をこれ以上続けずに、ピュシスを指す名前を複数のものに適用しないほうがよい。そうすれば、我々はもはや、話法上の誤ちを神学上の教義に持ち込むという誘惑を受けることもなくなるだろう。」

ここで〈ピュシス〉という語が登場する。これには「自然」とか「本性」などという訳語が通常あてられるが、ここでは既に触れた生物の分類をモデルにして理解しておけばさしあたりよいであろう。つまり、ライオン、象、犬、猫・・・とグループがあるときに、同一のグループに属する諸個体に、そしてそれらにのみ共通している性質ないし存在性格ないし存在者のことである。そのピュシスを指す名前として「ライオン、象、犬、猫・・・」はある。したがって、ライオンが10頭いても、そこにあるライオンのピュシスは一つであって、そこに存在するのは「10個のライオン」ではなく「一つのライオン」だというのである。こうして次のように私たちが言うところの普通名詞と固有名詞(単称名)の区別が語られることになる:

「全ての名前のうち、あるものは複数の数的に異なった事物に言及し、従ってより普遍的な意味をもつ。例えば『人間』がこれである。これを使う場合には、この名前によって、共通のピュシスを指すのであって、誰かある人を限定して指しはしない。・・・・・・ また名前のうち他のものはより個別の意味をもつのであって、それらによってはピュシスの共通性ではなく、或る事物が意味されることが観察される。その限りで、それらの名前は、同じ類に属する他のものと共通なものを持っていることは度外視される。例えば「パウロ」「テモテ」がこれである。こういった言葉を使う際には、私たちはもはや、ピュシスの共通性に言及していない。」

以上の区別が基になって、ウーシアとヒュポスタシスが、複数のものに共通なあり方と個別のあり方として区別されつつ導入される。

「同じ部類の存在者を二あるいはそれ以上、例えば、パウロ、テモテ・・・を取り出してみて、人間たちのウーシアについての言葉(ロゴス)を探求してみれば、我々は、パウロに帰するウーシアについての一つの言葉、また、テモテに帰するウーシアについての別の言葉 ・・・・・・を得ることにはならない。そうではなく、パウロのウーシアを説明する言葉は他の人にも当てはまる。彼らは互いにウーシアを同じくするものども(=ホモウーシオイ)であって、すなわちそのウーシア(pl.)は同じ言葉でもって記述されるのである。」

ここからすると、ピュシスの場合と違って、パウロ、テモテ、・・・のウーシアは一つだとではなく、それらのウーシア(複数形で言及される)を記すロゴスは同一だと言っている。

次にこれと比較した場合のヒュポスタシスについては:

「さて、何が共通かが考察されたうえで、我々は個別に固有であるもの―それによってあるものが別のものから区別されるもの―に注意を向けると、一個のものを特徴付ける言葉はもはや他のどのものの言葉とも同じではないと分かる。・・・(こういった)個別に語られるものがヒュポスタシスという語で示される。」

以上、グレゴリウスは、ウーシアとヒュポスタシスとの差異が人間に関してどのように該当するかを説明してきた。次にこれを神に適用する。

「これを君が神についての教義に適用するのは間違いではない。父のエイナイ(=「存在する」の不定法)が如何なるものかについて、君がどう考えるにしても、・・・それと同じ事を子についても、また聖霊についても考えることになる。
「さて、三一の場合には、あらゆる混乱を免れた区別を、個別に固有であるものにより、保つことが肝要である。そこで、何がそれぞれに固有のことかを判断するには、被造ではないとか全ての把握を越えているとかいった、共通のことを除外して考えなければならない。」

こうして、ヒュポスタシスを語ることとして、以下、霊は「父から発出する」、子は「父から生れる」、父は「その存在を他の如何なる原因にも依っていない」といった固有性が指摘される。

以上の限りでは、三人の人間について、ウーシアを語る言葉は同一だが、それぞれのヒュポスタシスの固有性は三者三通りに語られるという点は、父・子・霊についても同様である。したがって、ウーシアは一つ、ヒュポスタシスは三つといっても、それは三人の人についても、三匹の猫についても同じく該当することに過ぎないのである。ということは、ギリシアの神々についてもまた「一つの神」だと言えてしまうわけで、以上の限りでは、多神論も唯一神論の区別もないことになってしまおう。

では、神が三でありながら一であるということが、神について特に語られるのは、どのようにしてか。それは個体のあり方の無限定性によるのである。例えば人間はその存在のあり方が極めて限定されたあり方をしている。空間的にも時間的にも限られた場所と時にしか存在していないし、私が占めている場所をあなたが同時に占めるわけにはいかない。そのようにしてそれぞれのヒュポスタシスは互いに独立して離れ離れにあるのである。それに対して神の三つのヒュポスタシスについては次のような事情になっている。

「無限、包括的把握不可能、非被造、空間的に限定されていない、といったことについては、三一の間に区別はない。・・・三一において見られるのは、或る連続的で、不可分のコイノニアである。・・・その間には如何なる間隙もない。」

つまり私たちにおいて見られるような個のあり方ではないのである。例えば空間的な表象で考えると、父も無限、子も無限、霊も無限ということになると、お互いにその場所が全く重複してしまう。同様にして、あらゆる面において三者は重なり合い、浸透し合って存在していることになる。それはまさに交わり---全てを共にする在り方---コイノニアなのであり、互いは離れ離れどころか、どのようなギャップもなしに共にあることになる。

こうしてみると、グレゴリウスにとっては、三位なる神が一つであることにとって決定的なのは、ウーシアが同じということではなく、三つのヒュポスタシスが、他の存在者---被造物---とは違って、限定されない在り方をしていることであり、ここに理論の要がある。そして、私の見るところでは、そのような三つのヒュポスタシスをヒュポスタシスとしての私たち個々の存在についての理解を基に提示しているところに、個についての新たな視野の拓けを見出すことができる。

個は、多くの場合、他の個との差異によって成り立つ。個体化云々とは、普遍的な人(ウーシアなる人)にどのようなものないしことを追加すれば個としての人となるかという理論の問題であった。いつ頃生きていて、何をした人で、どのような顔つき・体つきで・・・と、その個体の特徴を挙げる。特徴を挙げるということは、それによって他から区別される要素を挙げるということである。私たちも実際誰かを見分けるときには、そのような差異化に基づいて見分けているのである。ヒュポスタシスについての既に引用したグレゴリウスの言葉はまさにそのことを言っていた。そして、神の三つのヒュポスタシスのそれぞれについても、それを他から区別する特徴を表現することばが一旦は語られたのである。しかし、グレゴリウスにやや先立つ仲間たちが努めて語ろうとしたように、三位の場合は、その特徴を表わす言葉によって、何か積極的な差異を互いの間におくことはできないのでもある。それが、グレゴリウスにおいては、全てを共にするという三者間の交わりとして提示されるのであって、そうなると、限定された存在者間に成り立つ個体の差異化はここには適用できないことになる。ここに、三つのヒュポスタシスである以上、三つは別々だが、しかし、三つを互いに別々にするような差異はない、ということが成り立ち、それでもなお、一つではなく三つといえるヒュポスタシス理解が、問題として浮かび上がってくる。

個は対話の相手として浮かび上がって来る

このようなヒュポスタシス理解は、私たちが「今目の前にいる人と、昨日プールでおぼれていた人とは同じかどうか」を見分けようとするといった、個体を識別しようとする場面では分からないものである。むしろ、これは、私が誰かと対話するという場面で、向かい合っている相手を他ならぬ一個の人=ヒュポスタシスとして把握するということにおいて分かる理解なのではないだろうか。

グレゴリウスたちにとって、三つのヒュポスタシスの区別は、神に向かって、あるいは神を求めて歩むという実践的生において、まさに自らがそれに向かって信じ、祈る相手として浮かび上がってくる区別だったのだろう。「父から、子によって、霊において」という神の活動のあり方の区別は、まさに信仰者にとっては、私の内にあって、あるいは私がその内にあって、私が自己内対話する相手である霊、私が救いの希望を託し、それに依り頼みつつ祈る子、そして、そうした全ての背後にある、私が子を通して祈る相手である父------というように、それら相手の違いによってではなく、私のそれぞれへの態度の違いによって区別されるようなものであったろう。信仰者はまさにそうしたものとしてそれぞれを------信じるという仕方で------相手として立てて(想定・投映して)いる。

こうした私の推定はグレゴリウスについて語る研究者によっても肯定される。曰く、彼にとっては三位一体論は、人が「神の像」となり行く〈人間神化〉の途についての思索と表裏一体であった。また、彼は愛によって三一の神とペルソナ的に交流する道を求めた。また、人間神化といっても、神のウーシアを分有していくということではない(それは不可能)。神から放散してくるエネルゲイアに与り、神のエネルゲイアに浸透されて「神のごとくなる」こと、創造されない神と対比していえば、エネルゲイアにおいて創造された神々になること、をもとめた、云々\footnote{cf.IIペテロ1:4「神のピュシスを共にする(に与かる)ものとなる」}。


附論:ヒュポスタシス的〈個〉の系譜

さて、区別に先立つ個−性を把握する〈ヒュポスタシス〉概念を取り出したところで、三位一体のお話しはひとまず終わりとして、最後にこのような個−理解の射程を私の現在において吟味しよう。

まずは、本論冒頭で触れた現場A=中世の言語哲学である。私はここのところ当時の論理学と文法学という領域における普遍の問題を一つの研究テーマとしているが、その片隅に、このヒュポスタシス概念が微妙に変形して使われていることを指摘しておきたい。唯名論派の祖アベラルドゥスの語るところによれば、彼は普遍の性格に関して師シャンポーのグィレルムス(ギョーム)の理論を論破し、師をしてその自説変更を余儀なくさせたという。その変更は、アベラルドゥスの論から推し量ると、実は普遍をウーシア(対応するラテン語は「エッセンチア」)と見ることからヒュポスタシス(神学上対応するラテン語は「ペルソナ」)と見ることへの変更だったと言えるのである。すなわち、アベラルドゥスが普遍について対決相手の論を提示しているところから推測すると、グィレルムスは始め普遍について次のように考えていた------例えば個別の複数の人の各々から、各々を他から差異化している固有の性格を取り去ってみると、そこに残るのは(現れるのは)、複数の人に共通のもの、すなわち数的に一つの人というエッセンチアである。つまり複数の人はエッセンチアとしては一つであり、それが「人」という名称が名指す普遍である(研究者はこれを「エッセンチア理論」と呼ぶ)。これに対してグィレルムスが後に採るようになった考えは、各々の人から、各々の固有性を取り去ったときに残る(現れる)のは、はじめの人数と同じ数の普遍的なもの(=人)であって、それらは互いに何の差異もなく、ただペルソナとして区別される(「無差異理論」と呼ぶ\footnote{アベラルドゥス「ポルフュリオス註解」平凡社中世思想原典集成 前期スコラ学の巻に所収})。

前者の理論は「多数の人がいても、人のウーシア(=エッセンチア)は一つ」という考えを受け継いでいる。これに対して後者は、ペルソナ(=ヒュポスタシス)という本来は個の存在のあり方を普遍の理解に適用するというやり方で作られた理論であることになる。つまり、これは一方で、普遍というものをどうやって考えるかについては、初めの理論を踏襲して、個々のものからその個々のものを個たらしめている差異を取り去った時にそこに残る(現れる)のが普遍だとする。他方、その普遍のあり方については初めの理論を修正して、普遍にエッセンチアのあり方を見るのではなく、数的には複数で別々のものでありながらその間に何の差異もないというヒュポスタシスのあり方を見ている。

ヒュポスタシス理解が個にではなく、普遍の説明に使われるというところに、私は中世のこうした議論がグレゴリウスたち教父の思想を受け継ぐ際に落としたことを思わざるをえない。当時、普遍は文法学と論理学(弁証学)の交叉する領域の理論的関心の対象であり、彼らは第三者的な視点から、個と普遍について見てはいても、また右手にもの−左手に言葉を持って見比べつつ両者の関係について考えはしても、私が向かう相手としての個というような視点はなかった。

なお、1月23日の講義で言及したように、アベラルドゥスが「聞いて分かる」という聞き手の立場にたった表示理論を展開したことは、このような背景からして、一つの新しい哲学的思索だったのであるが、この線での方向付けには、ここでは立ち入らない。だから、差異があって初めて個体なのであって、互いに差異がないものは互いに個別化してもいなかったということになろう。


その後のギリシア教父哲学

  今年度は扱わない。