アンセルムスの言語哲学

生涯と著作   アンセルムス(カンタベリーの) Anselmus (1033-1109)  中世の代表的な神学・哲学者。北イタリアのアオスタに生れ、長じて後ノルマンディのベック修道院に入り、院長ランフランクス(Lanfrancus)の弟子となる。1078年に同大修道院長、さらに1093年にカンタベリーの大司教となり、以後イギリスと大陸にまたがって活動した。

著書に、黙想のうちに神について考えぬいた『モノロギオン』のほか、『プロスロギオン』、『真理について』『何故神は人となりたもうたか』などがある。

信仰と理性   アンセルムスの思索の最大の特徴は、信仰と理性的探求の関係を自覚的に確立したところにある。その関係を次のように言っている。

「理解(知解)を求める信仰」(fides quaerens intellectum)、
「credo ut intelligam 我信ず、しかして理解せん(理解せんがために信ず)」(Prosl., 1)
「聖書の権威(auctoritas scripturae)に全く頼ることなく」証明することを試みる;しかしそれは「ratioを通して信仰に達するためではなく」、「信じている事柄のintellectusに喜びを見いだすため」である(Cur Deus Homo, 1,47)。
すなわち、彼は、権威に依拠して信じるのみで理性的探求を軽んじる態度、および理性的探求に立脚して信仰に異議を唱える態度の双方を諌めて、まず信じるところから出発した上で、信じる者が自己の信の根拠(ratio fidei)を、聖書の権威に頼ることなく探求するという姿勢を提唱した(cf. Monol., pref.)。

すなわち、権威至上主義に対してはratioを排除すべきではないと言う:

「堅いfidesの持ち主が、そのratioの発見に努力することを望むとしても、非難されるべきではない」(CDH 40)
「聖書は『信じないならば理解しないだろう』と言って、私たちを根拠の探求へと招いている(ad investigandam rationem invitat)」(ibid.)
他方、弁証学者の権威に対する傲慢な対応に対しては、まず信仰を堅くしてから始めるべきで、理解できないといって、異議を唱えるのは高慢だ、といったことを言う(対Roscelinus)(Inc.Verb.1)。

理性的探求のこのような位置づけは、以降のスコラ哲学・神学に大きな影響を与えたため、彼はスコラ学の父と呼ばれる。


講義でアンセルムスに関してテーマにすること: