ペトルス・アバェラルドゥス(ピエール・アベラール) Petrus Abaelardus 1079-1142 中世フランスの哲学者、神学者。本来の意味での唯名論派の創始者。ナント市郊外のル・パレに生まれ、青年期には各地をめぐって音声言語論者のロッセリヌスをはじめ様々な教師に学んだ後、パリでシャンポーのグィレルムスに師事し、教師となる。やがて(1108/9年)普遍を巡ってシャンポーのグィレルムスとの激しい論争を通してその教説を改訂させるにいたり(--> 普遍論争)、パリ郊外のサント・ジェネヴィエーヴ等で学校を開き、多くの学生を集めて、一派を形成する。また、ランのアンセルムに神学を学ぶが、ここでも師の教説を批判して、自ら聖書を教えるようになる。その後パリで哲学・神学の教師を続け、エロイーズと恋愛、一子を得、秘密の結婚をし、ついにエロイーズの縁者一味に襲われ、男根を切り取られるという惨劇にいたる。この結果サン・ドニ修道院に入って、講義を再開するが、1121年、ソアッソンの公会議でその三位一体説に関する著作の焼却が命じられる。以降はトロア近郊に建てたパラクレー礼拝堂における教師生活をへて、サン・ジルダ・ド・リュイスの修道院長となるが、1140年、サンスの公会議で弾劾され、クリュニーの修道院、さらにはソーヌ河のほとりのサン・マルセル修道院で晩年をすごした。こうした各地を経巡る生活は、その旺盛な活動がもたらす周囲との軋轢、敵対者の妨害に因るものであり、キリスト教信仰への評価とともに、毀誉褒貶さまざまに、人々に深い印象を与える生涯であった。  アバェラルドゥスの哲学的思索は論理学(弁証学)から神学、倫理学に亙っており、また『然りと否』(Sic et Non) に代表される議論の方法は後のいわゆるスコラ的方法の基となった。論理学においては、『ポルフュリオス注釈』をはじめとする論理学関係注釈書が数系統残っており、そこで主張された普遍についての説に因り、アバェラルドゥス一派は唯名論派(nominales)と呼ばれるようになった。倫理学については、『エティカ--汝自らを知れ』を著し、行為の善悪を、実行行為やそこにおける快楽から切り離して、ただ意図(intentio)ないし心における選択・決断としての同意(consensus)に帰するという、当時としては斬新で明快な心情倫理を提唱した。神学的著作としては『スンミ・ボニ神学』(Theologia `Summi Boni') 等や聖書注解があり、その他、『哲学者、ユダヤ人、キリスト教徒の対話』、自伝である『我が災厄の記』およびこれをきっかけとするエロイーズとの往復書簡集などが重要である。 [清水哲郎]