真実を知らせることとしての癌告知

清水 哲郎*

 癌告知の「是非」および「如何に」が問題になるときに、何が、何故問題になって いるのだろうか。問題を整理し、それについて基礎的な考察を加えることが、本論の 課題である。さて「癌告知」という用語で提示されている問題は、次の諸点に分けて 考えることができる。
 1)「告知」とは患者の状態について本人に知らせること、つまりinformed consentというときの in-form にあたる。そこで「癌告知」について考えるためには、まず情報提供という一般問題を整理しておく必要がある。
次に、「癌の」と限定して問題が立てられていることに関しては、
 2)特に「癌」という用語を使って知らせることにまつわる問題と、
 3)この語の背景に推察される状況、つまり 情報が患者にとって非常に好ましくない情報である場合にどう考えたらよいかという問題と
が区別できよう。以下、これらの区分にしたがって考察を進める。

1 「知らせる」ことの医療における位置

 「告知」という用語になにか冷たい響きを感じて、不適切な用語なのではないかと 感じるのは私だけではないだろう。何故そう感じるのかと考えるに、この語には 告 げる側から告げられる側への一方通行の行為を思わせるものがあるからではないだろ うか。「通告」・「宣告」・「告示」などの語の類語といった語感がある。何故そう なのかというと、「告げる」という語がそもそも、相手の反応等への配慮なしに、な にしろ伝えようとすることを言う行為に使われるからのようだ。「神様のお告げです」と言われれば、それまでなのである。言い替えれば、告げられた側が理解しようがしまいが、納得しようがしまいが、あるいはどの様な反応をしようが、伝えようとすることを言ってしまえば、 <告げる>行為は遂行されたのである。

 しかし、<知らせる>ということは、そういう一方的なものではない。<知らせる>過程を記述するならば、

--相手のある反応を期待しつつ情報を提供する
--情報が伝えられていると理解しつつ、聞き、分からないことは聞き返す
--問い返しに答え、また期待したように情報が受け取られているかどうかを確かめ、場合によっては補正する
--了解した合図をする(お礼をいう)....
といった両方向の対話となる。このような対話の経過を「コミュニケーションのプロセス」ということにする1)。<知らせる>ことは、このようなプロセスを通して、伝えようとすることが適切に相手に伝わって はじめて成り立つ。このように、 <知らせる>ことは伝える側と伝えられる側との協力によってなされる。いや、 <知らせる> ことに限らずコミュニケーションのプロセスを通してなされる行為は一方的行為ではあり得ず、なんらか両者の共同行為となる。 であればこそ、両者の信頼関係が成り立っているのでなければ、行為はうまくいかな いことになる。
 患者への情報提供という場面に限らず、医療全体が、患者を人間として扱うかぎり は、医療者(チーム)と患者(および家族)のコミュニケーションのプロセスであり、 したがってまた、両者の共同行為のはずである。
--患者が医療者に診療を依頼する
--それに応えて医療者は検査をし、病状を説明し、医療方針を提案する
--患者はそれを理解したならば同意する(これが informed consent)
というようにコミュニケーションのプロセスとして医療行為は進むとき、患者は医療者とともに、主体的に医療行為に参加することになる。その闘病の過程は医療行為の中での自らの分担である。 このような過程においては、患者が自己の置かれた状況を知ることは、患者が医療行 為に参加し、自らの分担を主体的に受け持つために必要な前提であり、 <知らせる>ことはこれを目指してなされる。

 およそ人間の行為 -- 今何をするかといった個別の行為から、人生ないし生き方と いった長期的なレベルでの行為までを含めて -- は、自己の置かれた状況をいかに把 握しているかということに相対的に決まる2)。したがって、状況を適切に把握できる ということは、適切な対応ができるということでもある。従って、本人がまだ知らな い本人についての情報を周囲のものが知ったならば、それを本人に知らせることは、 両者の間に良い関係がある限り、通常当然である。知らせることは、何らかの利益が 本人にもたらされること、何らかの不利益を避けることを期待してなされる。上述の 医療行為の場合についていえば、患者にその病気について情報提供することは、通常 は摂生へと患者の気をひきしめ、あるいは患者の不安を解消するといった効果をもた らす。つまり患者は自己の状況(病気)を知ることによって、現在の状況への適切な 対応(闘病)、また比較的重い病気の場合には、さらに自分の今後の人生をどう考え ていくかということも含めた対応が可能となる。

 さて、<癌告知>を<知らせる>ことの一つとしてみた場合、「癌」という用語の もたらす効果を考慮する際には、 <知らせる過程>を問題にしている。「癌」という ことによって、伝えたいことが適切に伝わらず、その結果患者の過大な不安を招くの ではないかとの問題だからである(2で考察する)。また、用語ではなく情報内容が 問題となる場合、つまり、患者に適切に内容が伝わった結果、かえって患者の望まし くない状態を招くのではないかとの懸念は、 <知らせる目的>を、つまり何を期待し て知らせるか、自己の状況を知ることによって患者は知らない場合と比べてどのよう なよりよい状態になり得るかを、問題にしている(3で考察する)。

2 「癌」という語のネットワーク

 <知らせる>ことは、知らせ手が意図した情報内容を受け手が得るに到るのでなければ成り立たないと述べた。このような点が、「癌」だと言うと患者に大きな動揺を与えるのではないかというので、躊躇するときに、当事者が配慮していることにほかならない。
 完治の見込みの高い患者に対してすら、「癌だ」と伝えることを躊躇する背景には、 「癌」という用語の医療の専門家の間で持つ意味と、一般社会において非専門家の間 で使われる際の意味とが異なっているということがある。つまり、「あなたの病気は 癌です」と医療の専門家が言う時に考えている事実と、それを聞いて非専門家が「私 は癌なのだ」と理解したときに考えている事実とは多くの場合、一致していない。そ こで、知らせようとする側は、どの様に語れば非専門家である患者に適切な理解が結 果するかを考えなければならないことになる。

 この点について、もう少し考えておこう。事実は、言葉によって捉えられ、記述さ れたもの、従って、事実の記述はそのことばの網の目の張り方に相対的である。例え ば、私たちはイカを「魚だ」という人に対して、それをただちに間違いだと言うこと はできない。私たちは動物分類学の理論に基づいて「イカは魚ではない(軟体動物で あって、魚類ではない)」という。しかし、昔からの別の分類の仕方も並存している。 例えば漁る対象は「魚」であり、狩るものは「けもの」であった。その分類からいえ ば、確かにイカは魚である。そして、そのような分類は決して過去のものでもなけれ ば、間違ってもいない。今でもイカは魚屋の店先に並んでいる--そのように私たちは 現に分類している。つまり「魚」という語は私たちの言語体系において「イカ」、「 ひらめ」、「たい」、また「けもの」、「鳥」などの語彙の織りなすネットワークの なかのひとつの結び目であって、動物分類学の言語が織りなすネットワークとプリミ ティヴな生活の中で培われた言語のそれとは異なっているが、しかしどちらのネット ワークが正しいというものではなく、ただ両者は並存しているのである。
 同様のことが、「癌」という語を含むネットワークについてもいえる。つまり、こ の語の、(イ)医学上の用語の網の目の張り方および理論の中での位置(その語の使い方 は病理学的な規準によっているはずである)と、(ロ)日常社会の用語の網の目の中での 位置(体の中のできものが増え広がる、致命的な病気)はまったく別だといってよい ほど違う。前者は病理学的な分類体系の中で定義される語であるのに対し、後者は「 誰それさんは胃ガンで大変な手術をしたが、長くは生きられなかった、誰それさんは 肺癌で早逝した・・・」というデータの束からできあがる、「望ましくない予後が予 想される、多くの場合致命的な病気」とでも言えるような位置を、「鼻っ風邪ぜ」( 放っておいても直るちょっとした病気)、「盲腸」(薬でちらせるし、手術も簡単) といった諸語彙のネットワークの中で占めているのである。

 そこで医師が「この種の甲状腺癌は性質がおだやかだから、まず生命にかかわるこ とはないだろう、特にこの患者の場合は早期発見でもあるし」というので、あっさり 「癌ですよ」と言ったとして、聞く患者には多くの場合、医師の伝えたかったことは 通じない。患者は(ロ)の意味でこの言葉を聞くからである。普通、医療側は事実と言う と(イ)のことと考える。しかしそれをそのまま医師の言葉で伝えることが、事実を知ら せることになるわけではない。
 1で考察した文脈でいえば、<知らせる>とは、伝える側が掴んでいる事実をその まま告げることではない。聞く側が持っている言語によって適切に状況を把握できて はじめて、知らせたことになる。確かに場合によっては、「摘んだ組織に少し顔つき の悪い細胞があります」3)というほうが、「癌」という語をなまじ使うよりも、適切 な把握を結果するであろう。「癌」という語を使う以上は、聞く側の言語のネットワ ークそのものを整えなおし、「癌」という語を医療側が使う意味で使えるようにする という作業を伴うのでなければ、患者に知らせた(単に告げたのではなく)ことには ならないのである。

3 告知とQOL

 「好ましくない状況を患者に伝える」ことを躊躇するのは、患者の好ましくない状 態を結果するのではないかと懸念するからだ。この時、すでに私たちは患者のQOL という視点から問題を考えはじめている。問題は結局、知らせることによってQOL が果たして向上し、あるいは保てるかという点にある。むしろ、特に不安感等 <患者の気持>が悪いほうに動き、それがさらに身体の痛みや対人関係といった、QOLを構成する他の諸要素にも響くのではないか、と心配するのである。
患者の状態について知らせること・知らせないことが患者に及ぼす影響について、 図1のように整理してみよう。


図1(WWW Version では図ではなく、次の表にしてあります。)
a:知らせない (または事実と違う情報を与える)-->  患者は自分の状態をはっきり認識できない
--> a1:不安である
--> a2: 間違った判断ないし希望的観測に立って安定する
b:知らせる -->  患者は自己の状態を認識する
--> b1: 今後の人生の見通しができる(相当の内的葛藤は当然伴うが、ある意味で安定)
--> b2: 混乱し、望みを失う

周囲のものはなんとしてもb2は避けたいと思うであろう。そのような状態はQO Lが低いと評価せざるをえないからである。ただし、一時的に b2 となっても、さら に b1 となるかも知れないということを考慮すると、「b2 を避けたい」というのがど の時点で評価してのことかも考えなければならない。
 次に知ることによって、知らなかったときの状態 a1 から b1 へと変化したならば、 それは <知らせる>が知らせ手の期待通りの結果をもたらし、QOLを高めたといえ るだろう。
  a2 の場合、いわば「寝た子をおこすような」ことをして b2 となるかもしれない 危険を冒すか、また b1 といっても、相当の内的葛藤はあるには違いないわけで、そ の場合に誤った判断ないし楽観的見通しに立った安定状態のほうが、 b1 よりもQO Lは高いのではないかという考え方もあるかもしれない。少なくとも、評価する際の スケールが、単に心の安定・不安定の度合いだけであるなら a2 の場合には、告知す る必要はないと結論されよう。
 こうして <自己の状態を知る>ということをめぐってQOLをどう理解するか、またどう評価できるかを検討しなければならない。

 <QOL>という言葉を「人格としての患者の人生の可能性(選択の幅)がどれほど広がっているか」と定義し、<QOLが高い>とは「その可能性がより広がっている」 ことと考えたい。この定義は現行の考え方および評価法を広くカバーしつつも、次の 2点についてQOL理解をより判明にすることを促すものである。第一にこれはQO Lを、患者が「現によく(幸福に)生きているかどうか」(QOL’と呼ぶことにす る)ではなく、「よく生き得る可能性をどれほど保っているか」という観点と理解し ている。多くの場合、QOL’に立ち入ることは医療の専門家の仕事ではない。第二 に、このQOL理解は、「本人が良いという状態がQOLが高いこと」という通常の 理解に必ずしも一致しない。この定義は、QOLを評価するのは患者本人であるとい う一般的帰結を含意しないからである4)

 さて私はQOL評価に際して、現行の身体的不快感、気持ちの安定度などと並ぶ、 もう一つの物差しないし座標軸として <自己の置かれた状況把握>という要素を提案 したい。自己の置かれた現実の状況を認識することは、それによってより的確な人生 の選択が可能となるという意味で、それ自体 QOLをプラスに動かすものだからであ る。この物差しについて、上述のQOL理解との関連で二点付記して置く。一つは「 自分の状態を知っているかどうか」は患者自身が測るものではないという点である。 もう一つは、「患者にその置かれたきびしい現実を知らせる」という際には、QOL のみならず、QOL’について考えざるを得ない局面もあるかもしれないという点で ある。
 「知らせるかどうか」「どのように、またどの程度まで知らせるか」といった問題 は、<自己の状況認識>というQOLの観点から考えられる。すなわち、残された人生の選択がより有効にでき、それによって患者がよりよい生を送る(終える)ことを目指して、その可能性を整えることが <知らせる>ことの意味である。もちろん虚偽の 情報はこの目的を達成しないであろうが、また医師が知っていること、予測している ことを何でもあからさまに伝えることがそれを達成するわけでもない。知らせること によって気持ちの動揺が大きく、生きる希望を失ってしまったのでは、自己の状況認 識という座標軸に関してすらQOLを向上させたことにはならない。人生の選択をす る主体が崩壊してしまったのでは、選択の可能性を広げるどころではないからである。
  <知らせる>ことにより自己認識という座標軸に関してはQOLが向上する場合で も、他の座標軸(たとえば気持ちの動揺といった)については、一時的にせよ相当の マイナスの結果を及ぼすであろうことは想像に難くない。ではそれらをどう総合的に 評価すればよいだろうか。以下は私見にすぎないが、少なくとも自己認識を向上させ るような状況の場合、他の要素にでるマイナスの影響は、適切なケアによって一時的 ・過渡的なものに止めることができよう。おそらくは解消しないであろう <悲しみ>(解消しないのが当然である)もまた、その人のQOL’を向上させるものであるのかもしれない。考えてみれば、私たちは皆死へと向かっているもの、かつ明日をも知れぬ身なのであれば、 深く静かな <悲しみ>は、そのような存在として現に自己を認 識した人に伴わざるを得ないものであろう。周囲の者もまた<悲しみ>を共にしつつ、そのような存在として人間(自己)を知ることに共に与るのである。


*しみず てつろう 北海道大学文学部助教授
発表雑誌:『癌治療と宿主』vol.3-3 (1991.7):47-52 (メディカル・レヴュー社)

1) 清水哲郎:記号と超越 -- 言葉に共に与ること. 現代哲学の冒険 15『ゼロ・ビットの世界』岩波書店1991

2) 同書参照。

3) 並木正義:癌告知と informed consent --臨床の立場から--. 漆崎一朗編著「癌と Quality of Life」ライフ・サイエンス 1990 pp.330-331

4) 石谷邦彦:QOLの概念. 漆崎編前掲書 pp.4-18


WWW Version/Jan/8/1996
発表論文リスト
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