『Pharma Medica』IC---私の場合--- draft Nov/1993

医療者---患者の共同を目指して

清水 哲郎 [Tetsuro Shimizu(助教授)東北大学文学部哲学科]

はじめに

インフォームド・コンセントは、医療行為の進め方(プロセス)に関わるポイントであるのみならず、医療行為の目指すこと(目的)に関わってもいる。 ここでは、この2つの側面から〈インフォームド・コンセント〉すなわち説明を受けた上での同意という概念をどう捉えたらよいかを整理したい。

医療行為の目的は、
 「P1:患者の状態を出来る限りよりよくすることだ」
ということは誰でも認めるだろう。またその進め方については、
 「P2:患者を(単なる肉体としてではなく)人間として遇する」
ことがもっとも基本的であるということにも異存はあるまい。この二つを医療行為を分析する際のいわば座標軸とすることによって、インフォームド・コンセントをはじめとする医療行為に関わる倫理的な問題の多くは整理出来るであろう。そこでこの二つの座標軸のそれぞれについて、最小限必要な考察をした上で、それを〈インフォームド・コンセント〉という概念に適用しよう。

医療行為の目的と進め方

医療行為の (1)目的と (2)進め方は、以下のようにそれぞれ下位区分に分けて考えることが出来る。

P1-1 状態の改善を目指す  医療行為に際しては患者の「置かれた状態の善し悪し」を評価し、これを可能な限り改善する事を目指して医療措置の選択がなされるのは当然のことである。ところで医学的な観点では、なにをもって「この人の状態はよい・わるい」と評価されるのであろうか。それは結局、その人の今後についてその自覚的な状態の変化と余命の予測に基づいてなされているといえよう。ここで「患者の自覚的な状態のよさ・わるさ」とは最近〈QOL〉という用語で言及される事柄に該当する。すると、
 「ある時点における医学的にみた患者の状態は、それから死の時点に到るまでに見込まれる各時点のQOLの総和として評価される。」
ということができる。

では「患者の自覚的な状態が悪い(QOLが低い)」とはどういうことだろうか。また「早く死に至る」ことはなぜ悪いのだろうか。私の見るところでは、現行のQOL評価は事実上、「患者がどれほど自由であるか」を基準にしており、これは妥当なものである。例えば、「痛い」ことが公共的に悪い状態だと認められているのは、それが患者を縛り付け、さまざまな可能性を奪い去るからだといえる。

「早く死ぬことはなぜ悪いか」にも、自由度という観点で答えることができよう。すなわち死はまさに患者の人生の可能性を断ち切るものだから悪いとされるのである。 以上のことから、QOLはある時点における患者の自由度であるのに対し、医学的に総合的に評価される患者の状態のよさ・わるさは、評価の時点以降の患者の自由度の予測される総和であることになる。

以上の点が認められるならば、患者に自己の置かれた状況について情報を提供すること(インフォーム)はこうした医療行為の目的に適ったことであるということにもなる。なぜなら人間は自己の状況を的確に把握することによって適切な対応(進路・行為の選択、またコンセント)ができるようになるという意味で、情報提供は患者の自由度を高め、つまりは一般にQOLを高めることになるからである。

P1-2 患者の充実した人生を妨げない  P1-1には、よりよくなった状態を患者が有効に使って充実した人生を送るか、それとも無為に生きるかということは、通常の医療行為の関与するところではない、ということが含意されている。とはいえ、自由度(の総和)が高いことに価値があるのは、患者がその高められた自由度を有効に使ってよく生きるためにこそなのである。そうであれば、「医療は患者が充実した人生を送ることを妨げてはならない」という原則が医療の目的には付随することになろう。 これは、医療方針の選択に際して、患者個人の人生計画・価値観・好みなどが顧慮されねばならないということの根拠となる原則である。

この原則の実現のためにインフォームド・コンセントの過程は不可欠である。つまり、医療者側からの患者の状態についての情報提供と医療方針の提案がなされた際に、患者は自らの人生計画や価値観に基づく異議を申し立てるかもしれないからである。その場合は医療側はそうした患者側からの情報を計算に入れて医療方針を再吟味し、患者との合意に達することを目指すことになろう。

P2-1 共同で行為を進める  医療行為は人間(患者)を相手とする行為である。人間を相手とする行為はすべてコミュニケーション(すなわち言葉と振舞いのやりとり)の過程を通して遂行される。それは一方的にではなく、相手と一緒に事を進めようとするプロセスにほかならない。もし一方的に事を押し進めるならば、相手を人として遇してはいないことになろう。こうして一般に、人を相手とする行為は、相手と共同でする行為とならざるを得ない。その共同性を構成するものとして、何をやるかを明確にしそれについて合意する・それぞれの分担を果たす(協力して実行する)・結果を共に評価する、といった要素を挙げることが出来る。

この観点からすれば、インフォームド・コンセントは患者を人として偶し、患者と共同してことを進めるために、不可欠のプロセスであることになる。

P2-2 患者の傍らに居る  相手を人間として遇することは、また相手との誠実なコミュニケーションを続け、相手を受容し続けることにほかならない。言い換えれば、相手の傍らに居ることであって、そうした両者の関係は、〈互いに向き合う〉と〈共に同じものに向かう〉というふたつの体位の相互交替という過程として進行する。

医療において、患者の傍らに居ることは、医療者が人間として患者を支えることにほかならない。この文脈でいえば、両者が向き合う関係において情報提供がなされ、両者が合意することにおいて、共に同じものに向かうことになる。こうしてインフォームド・コンセントは両者の人間としてのつながりを形成するものでもある。

インフォームド・コンセントに至るプロセス

以上で把握したインフォームド・コンセントの医療行為における位置づけを基礎として、次に、インフォームド・コンセントの実際の進め方に関わる一般論を整理したい。

医療者と患者の共同行為という理解からすれば、〈インフォームド・コンセント〉は、医療行為は医療者と患者との共同の決定(合意)によってなされるべきであるということを示す標語にほかならない。決定に至るプロセスは医療側からみれば次のようにまとめられよう。

医療方針の候補についてmerit---costの評価(P1-1による一般的判断)
--> 患者との話し合い(P2-1)
--> P1-2による患者の事情を考慮した判断
--> 患者との話し合い(P2-1)
(なお合意に達しない時)--> 患者を受け入れ、気持ちが変わるのを待つ(P2-2)
現在、〈インフォームド・コンセント〉は患者の側のことと理解されているが、それはこれまでの現状を反省し改革するという文脈の故であって、事柄に即して言えばインフォームド・コンセントは医療者側にも必要なことである。例えば、医療者による説明と療法の提案に対して、患者側から医療者側にその人生の事情が説明され、方針の修正が提案されたという場合を考えて見よう。それを受けて医療者が「なるほどそういう事情なら、最初の提案の修正に応じましょう」と同意することもあろう。この時、医療者側はまさにインフォームド・コンセントをしたことになる(もちろん、このような患者側の事情を考慮してもなお最初の提案を再度患者に薦める状況も有り得る)。また患者が異議なしに同意した場合にも、医療者はその同意から「患者の側には特にこの方針に抵触する事情はないようだ」という情報を得、「ではこの方針で行こう」と決定する------やはり医療者側もインフォームド・コンセントをしているのである。 こうして、情報を提供しあって、合意に達するプロセスが〈インフォームド・コンセント〉という用語によって提示される医師−患者関係の実質である。
[医療者側には、病気の状態と治療法についての専門的知識がある一方、患者側には自分の人生の実状についての情報、自分はどう生きたいかについての判断ないし人生設計がある。これら両者からの情報をお互いに提供し合い、現時点で如何にするかを考え、合意による決定に至るプロセスをこの用語は提案している、と解したい。]

もちろん、患者は非専門家であり、医師と全く同じ情報を理解することはできないし、またそれが求められてもいない。ではどの程度の情報提供が必要かというと、患者が自発的に決定に参加し、自分の分担を進んで果たすに足るだけの全体の理解をもたらすようなそれが必要だといえる。このようにインフォームド・コンセントを位置づけるならば、これに基づいて「何をどのように説明するか」という問題を具体的に考えることができよう。

インフォームド・コンセントが困難な状況

最後に、インフォームド・コンセントが得られない、ないしは得難い状況について触れておこう。ここではそのような状況の典型的なものとして、患者の意思がはっきり同定できない場合、およびこれまで述べてきたようなプロセスを経てもなお合意に達することが出来ず、しかし決断をしなければならないぎりぎりの状況に直面した場合を考える。

患者の意思が不明確  ここでは通常〈当事者能力のある患者〉・〈ない患者〉 (competent---incompetent)という区別にしたがって、議論が進められる。当事者能力があるとは、患者が医者と共同で医療方針を決定し、実行する過程に参加できる状態のことである。これに対して、昏睡状態など明らかに当事者能力を欠いた状況では、患者がもし当事者能力があったならばこの状況では何を望むかを考えつつ(患者の代理人との合意を目指すのもこれに含まれる)、医療を進めることになろう。

ここでは中間的状態がもっとも問題となる。例えば意思ははっきりしているが、それがその患者の側に立ってみても(患者の人生観や信念を考慮した上でも)適切なものとは思えないといった場合である。理解力等に障害があることがその患者の病状である、とか、極限状況にある患者はたとい当事者能力があるとみえても実は正常な判断をしていないかもしれない、等々のケースもあり得る。ここではいわば、〈患者が現に表明している意思〉と〈患者が本来考えたはずの意思〉とが相反してしまうのである。一般にP2に従えば前者が、またP1に従えば後者が立てられるべきだということになる。

これに対しては、想定される本来の患者の意思に適う措置(P1-1,1-2,2-1)を目指しつつ、患者の気持ちを尊重し、現実の患者の意識や認知力に合う対応をする(P2-2)、という方針が相応しいであろう。

合意不成立  当事者能力のある患者ないし患者の代理人の要求する措置を選択することが医療者としてできない場合、あるいは前者が拒否する措置を実行することが是非必要であると、医療者として判断しないわけにはいかない場合にはどうするか。患者側から要求された不適当な措置を医療者が拒否することはできるが、ぜひ必要と看做される措置を患者の拒否にもかかわらず強行すること(overriding)はできない、という理解が最近では有力であろう。しかし、倫理的視点からは、不適当な措置の拒否と是非必要な措置の強行とは区別できないのではないだろうか(安楽死問題における「死なすことと死ぬに任せること」や「強制的栄養・水分補給を開始しないことと既に始めていたのを中止すること」が倫理的には区別出来ないのと同様に」)。そして、ぎりぎりの状況では、患者の意思に反する是非必要な措置の強行が許されることも有り得るのではないだろうか。ただしこの場合〈是非必要な措置〉といえるのは、(1) P1-1からしてその措置をしない結果が重大な損失(生命にかかわる等)を患者にもたらすと見込まれ、かつ (2) P1-2により患者の人生観・価値観・信念等に照らしても、その措置の強行が患者に(取り返しのつかない)損失を与えることにはならないと判断される場合である(ここでは医療者---患者の二項関係でのみ考えているのであって、別の項を入れれば、「その措置をしないことが第三者の不利益になる場合」等も条件として認められよう)。ただし、患者の意思に反する措置の実行・不実行に際しては、「そうするのが正しい」のだとか、「そうしても法的に責任を問われることはない」といった発想でそれをするのではなく、むしろ「患者の気持ちに沿えなくて悪かったが、私としては仕方なかったのだ」という態度で事に当たるのが本当ではないか。それは決して患者を人間として扱わないことではない。かえって、対等の相手として扱うからこそ、このようなことになるのである。

おわりに

本論が提示した〈インフォームド・コンセント〉理解はもちろん、 決定の主導権を医師に帰するという伝統的ないわゆるパターナリズムを 否定するものである。 しかしこれはまた、最近の論者に見られる「医師の裁量権と患者の自己決定権 の双方を認め、両者の権限の境界線を明確にする」といった議論にも(限定付き でではあるが)異を唱えるものである。そうした論は法的調停の論理であって、 両者が対立することを予め勘定に入れて、 両者の主権の及ぶ領域(いわば国境線)を定める枠組である。 これは確かに法的場面では必要なものであろう。 しかし、医療の現場においては、始めから両者の対立を想定するような枠組みで はなく、両者が対等の立場で協力しあって信頼関係のうちに事を進め、 またたとい意見が一致しなくてもなお相手を認め、受容し、支えるという倫理に 相応しい理論をこそ、〈インフォームド・コンセント〉論の基礎とすべきではな いだろうか。


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