『モラリア』 No.3, 1996 収録原稿

医療におけるQOL概念の再検討

------ 基礎理論と緩和医療への適用 ------

清水 哲郎


以下はlatexからhtmlファイルに変換途中ですが、サンプルとして提示するために 無理をして公表しています。おかしな記号の登場はお見逃しください。

医療の哲学は、別の機会に論じたように\footnote{拙論「記号と超越---ことばに共に与ること」(『ゼロ・ビットの世界』岩波書店1991年 1-71頁)}、医療の現場で為さ れていること・為されるべきだと考えられていることを精確に記述する試みとし てあり得る。本論はその試みのひとつであって、医療行為を分析する際の二つの座標軸である〈目的〉と〈プロセス〉という視点のうち、前者に関わるものであ る\footnote{この二つを分析の座標軸にすることについては、さしあたり拙論「医療倫理の基本設計」(北海道大学バイオ-メディカル・エシックス共同プロジェクト研究成果報告書 1993年 56-72頁)参照。}。 すなわち、以下では、〈QOL〉概念の検討を通して、医療行為の目的がこの概念に基づいて明晰に記述できることを提示し、さらに、そのように記述された目的は、治癒を目指す医療 (curative medicine) にも、当面の症状の緩和をめざす〈緩和医療 palliative medicine〉にも、等しく適用できることを提示する。

なお、本論のQOL論が根差しているのは、いわゆる生命倫理の議論において見られるSOL対QOL という枠組ではない\footnote{より詳しくは前掲拙論参照。}。そこにおけるQOL論は、いわば「生きるに価する生かどうか」を評価し、 生きるに価しない生ならば死を選択することもあり得るというような議論をする立場であった。 これに対して本論が根差すのは、最近の医療の実践現場においてなされるようになったQOL評価 である。それはいわば「生きるに価する生を目指して実践する」という医療活動の姿勢を表現 している。本論はそうした実践現場の姿勢を評価しつつ、〈QOL〉という概念を明確にする ことによって、実践者が自己の活動をより明晰判明に自己理解するための手掛りを提供する 試みである。

1 医療が関わるよさ

医療行為は誰かのためになされる(その個別の誰かを私たちは「患者」と呼ぶ)。 そこで、ある人のためにする行為は、いいかえればその人のよい生を目 指しているというところから始めよう\footnote{医療の目的を単に健康とすることでは問題が解決しないという点については、すでに別の機会(前掲拙論など)に論じたので、ここでは割愛する。}。すなわち \begin{quote} 「医療行為はその対象(患者)がよくあること(the patient's well-being)を目 的とする。」 \end{quote} このこと自体には誰も異存はないであろう。ただし、これは記述としてはほとんど無内容 であって、私たちは直ちに、人間はどうあれば〈よい〉のかを精確に記述することを要求 されるのである。

{\bf 〈よく生きる〉・〈充実した生を送る〉・〈よい状態〉} ここで問題にしている、 人間の生の〈よさ〉を判明にするために、これに関わる評価のいくつかの視点を区別しよう。

「人間の置かれた状態で幸不 幸はきまらない、むしろその置かれた状況においてどう生きるかで決まるのだ」 などと言うとき、私たちは〈よく生きる〉(という意味での)幸福を問題にして いる。例えば「医療によって状態が改善されたとしてもそれで人は幸 福になるとは限らない」と、また「病気だから、肢体が不自由だから不幸とはいえない、もしそう言うなら、その人は患者を自分より下にみていることになる」などと言うとき、人間の 生のよさはその状態ではなく、生き方によって決まると考えている。 ここでは、人の生のよさについて、置かれた状 態についての評価(=よい状態)と、如何に生きているかの評価(=よく 生きる)とが区別される。それは \begin{quote} 現在を結果としての状態とみるか、私が働く場とみるかを差異化する \end{quote} ことである。

生き方のよさも、さらに二つに区別され得る。 例えば「どのような生き方が〈よい〉か(=本当の幸福か)は人間には分からな い」と言って問題にする〈よい生〉がある。宗教家はそれぞれの信念に基づいて「 こう生きるのがよい」というであろう。また「哲学的議論の結果、ある生き方が よいとなるかも知れないが、すべての人がそのような議論を受け入れるとは限ら ず、したがってこの点についての共通理解は事実上ない」と主張されることもあ ろう。このような時、私たちは〈よい生〉と言って、置かれた状況に対してどの ような姿勢で対応しようとしているか、という意味での生き方を考えている。

これに対して、「充実した生を送っている」という意味で「よく生きる」という ことを語る場合がある。これは置かれた状況のなかで生きた結果として「充実して 生きた」といえるということであろう。この場合「充実した」とは、本人が「〈これ でよし〉と満足できる」ということだともいえる。また「置かれた環境が与える チャンスを十分に活用して、いろいろなことをした」といってもいいだろう。 〈充実した生〉が〈よい生〉と同じではないのは、「あの人は充実した生を送っ たかも知れないが、よく生きたとは言えない」という評価もあり得るからである。

〈充実した生〉かどうかの基準は当人の人生観・価値観である。これに対し、〈よい生〉 かどうかは、当人がどう思うかによって決まると主張されるとは限らず、立場に よっては「神による判定」や、ある原理原則に照らしての判定などが主張される こともある\footnote{「よく生きる」を、ある視点からの「よい(満足 した)状態(結果)」に還元する立場もある。例えば、神を信じて生きるならば死後 天国に行けると考える場合には、未来のよい状態が現在の生き方の理由になっている (宗教はみなこうだとはいわないが)。 蛇足 :現世内利益を唱える宗教を軽蔑して、自分達の教えはそういうものでは ないという宗教も、多くは来世での利益を唱えて人々を勧誘する。しかしそうい うなかで、何らかの利益があるから信じるというのは不純だと批判し、ただそれ がそれとして正しい(善い)からそれを選ぶのだとする立場が少数派ではあるが しばしば現れる。キリスト教においては、初期ルターの奴隷意志論がそうした 立場からの既成宗教の批判である。 イスラム神秘主義にも同様の考えが見出せるようだ。仏教にも同じ線上の理解を見出し得るという。}。

このように区別してみると、医療が直接関わる生の〈よさ〉は、〈よい生〉でも〈充実した生〉でもなく、所与としての〈よい状態〉であって、医療活動は〈充実した生〉を人が送るための環境を整えようとするものであるといえよう。 ただし生の充実にこのような仕方で間接的にであれ関わるということは、 決して「充実した人生が本当の意味で幸福な生だ」という立場に立つことではない。 そうではなく、何が真に幸福であるかを知らないということを認めるからこそ、 環境を整えるという場面を基本とし、せいぜい関わるとしても〈充実した人生〉 という場面にとどめておく、ということなのである。

医療行為に際しては患者の〈置か れた状態の善し悪し〉を評価し、これを可能な限り改善する事を目指して医療措 置の選択がなされるのは当然だ。ところで〈置かれた状態の善し悪し〉といっても 評価の観点はいくらでもあり得る------経済状態、親兄弟の状況、 、社会的地位、住宅環境等々。そこでまず、置かれた状態のよしあし について一般的に考えたうえで、医療の行う評価について考えよう。

2 QOL一般の概念

人がどのような状態に置かれて生きているかを問題にするときに、〈QOL〉 (=クォリティ・オヴ・ライフ)とい う用語が使われる。この用語のもとで私たちは充実した生のための環境を考えることが 適当であろう。つまり〈環境の中で生きる〉という枠組みで 考えるのであり、環境のよしあしが〈QOL評価〉の対象にほかならない。

QOLについては、指し当たってここでは、 これが「人はただ生きられればいいというものではなくて、その生がど のような質であるかも大事なのだ」という価値観に拠って、人のある時点での生( 生活とも生命とも人生とも理解されることがある)の質を指すものである、とだけ 言っておこう。しかし、こういっただけではQOLとして考えられる要素は広すぎ て、例えば住宅環境、自然環境といったことまで含まれてしまう。 そこで〈医療の視点からするとQOLはどう限定されるのか〉を記述しなければな らない。 上下水道や電気があるかどうかといったことがQOLの評価のポイントになるという ときには、そのような評価は、人をその人以外の事物の構成する環 境のなかに置かれたものとしてみて、その環境がその人に提供する生活の可能性 を評価している。

QOL評価は、実際には評価対象である当人の満足度をデータとしてなされている。 だが、それは、「充実度をデータとして、その要因としての環境を評価する」こと だと見るべきであろう。すなわち〈環境が個体に与える自由度------ 環境のなかで生きる------結果としての充実度〉\footnote{QOLを生活者の意識面中心に考えるか、おかれてい る環境状態で考えるか、に関して研究者の間で見解の相違がある。ここでは両見解を 結び付ける理解を提案している。詳しくは第3章で。}という枠組みを想定して、ことを みているのである。そういうわけで、私はQOLについて次のように理解・記述する ことを提案したい: \begin{quote} 一般にQOL評価は、 評価の対象となる環境が、その環境に置かれた人の人生のチャンスないし可能性(選択 の幅)をどれほど広げているか(言い換えれば、どれほど自由にしているか)、 を基準とする。 \end{quote}

{\bf QOL一般論における二つの立場}   「QOL評価は、評価の対象となる環境がそこに生きる人の人生のチャ ンスないし可能性(選択の幅)をどれほど広げているか(言い換えれば、どれほ ど自由にしているか)を見る」とする際に、私はQOLを環境に関することだと看做す 立場に立っている。すなわち、〈環境の中で生きる〉という枠組みを立てて、 充実した生のための環境を考えようとしている。 そこからすると環境のよしあしが〈QOL評価〉の内容だとするのが最も有効な のである。

だが、QOLの研究者の間でこの点は定まった見解ではなく、 QOLを生活者の意識面中心に考えるか、おかれてい る環境状態について考えるか、という二つの傾向があるようである\footnote{金子勇・松本洸編著『クオリティ・オブ・ライフ---現代社会を知る』(福村出版 1986年) 29頁。}。 これに従えば右にまとめた私の立場は後者に属するものであろう。これに対して 前者は凡そ、生活者が生きた結果満足ないし充実しているかどうかに注目し、 結果として満足ないし充実した生こそQOLの高い生である、と考えるものと言って よいだろう。

だが、私の見る所ではこの二つは必ずしも相反する立場ではない。 確かに両者の間には、 \begin{quote} 環境が個体に与える自由度------環境のなかで生きる------結果としての充実 度 \end{quote} という生活の枠組みのなかで、環境を評価するか、結果を評価するかのずれがある。

ところで、結果として生活者が満足ないし充足しているかどうかを調査したとし て、そこから帰結するのは「したがってこういう所をこう改善しよう」という 環境の改善に関する方針であろう。人のよりよい生のた めに周囲にできることは環境の設定でしかないのである------馬を水飲み場に引っ張 って行くこと、つまり水のある環境を提供すること、はできるが、無理に飲ま せることはできない、というわけである。

逆に環境のよしあしを評価することは、その環境で生きる人の満足度・充足度を データとして、その要因としての環境を評価する、という仕方でなされる。 そもそも「よい環境」というときの「よい」とは、「その環境で生きて見るならば、 満足するであろう」という意味にほかならないのである\footnote{〈よい〉の意味に関して 別の機会に行った議論を前提にして、こう言っている。註1に掲げた拙論参照。}。

そこでいずれの立場にたつにせよ、生活者の満足・充実ないし不満足・空虚とい った評価をデータとしつつも、その生活者の主観的評価で終わるのではなく、そのような結 果をもたらした様々な要素のうちから要因となっている環境を割り出し、環境 のよしあしを評価するというプロセスが必須となる。したがって、両者は実際上は それほど違ったことを考えているわけではない。 そこで、ここでは環境が生活者に提供する生の評価を〈QOL〉という用語で表わし、 生活者の充足度・満足度自体については、〈QOL'〉と呼ぶことにしたい。

生活者の充足度の要因となる環境を割り出す過程を経て、環境のよしあしは 単に生活者自身の個人的な評価ではなく、公共的な評価となる。 そして、今私たちが問題にしている事柄から言って、ここではQOLを環境について のかかる公共的評価のこととして定めるほうが適当だろう。すなわち QOLは、生活者の評価をデータとしつつも、そこからそれなりのフィルターをかけて取り 出された、生活がそこでなされる環境についての公共的評価である。

{\bf 満足と自由}   生活した結果としての満足度・充足度に対応する、環境のよしあしの基準を、 環境が生活者に提供する〈自由度〉とする理解を先に提示した。すなわち、いわば 満足度として通常理解されることを、自由度に還元する 理論構成をしたのである。この点について補足的な吟味をしておこう。

人のおかれた状態を〈よい〉ないし〈わるい〉と評価するとき、〈 よい〉は、〈欲求が満たされている〉あるいは〈欲求するならば満たされるであ ろう〉ということを意味する(〈わるい〉はその否定)。 私たちは様々なことに関して「こうありたい」と望む------そうした人 間の自然の欲求の事実にもとづいて、それが実現されているかどうかの評価とし て「誰それの置かれた状態はよい(わるい)」という。

ただし状態のよさないしQOLの評価に際しては、本人のあらゆる欲求についてそれ が実現さ れているかどうかを評価するわけではない。私たちは評価の際に、対象となる欲 求を公共的に限定し、それについて欲求が満たされている度合いを、状態のよさ の程度としている。つまり、満足度は主観的だとしても、ある点についての満足・ 不満足の評価を尺度として採用するかどうかは公共的に決定される。例えば「羽 があって飛べたらいいのに、そうでないから不満だ」と誰かが主張したとしても、 それはその人の状態のよしあしを公共的に測る際の勘定には入れられないだろう。 同様に「こんなおかずでは嫌だ」と誰かが言ったとして、ある状況では周囲の者 はこれを「わがままだ」として認めないであろう。他方、「痛みをとって欲しい」 という要請は、通常考えられる状況では、もっともなことだと認められるだろう。 つまり、個人の欲求の事実だけでその人の幸福度を決めてはいない。 こうして、個人の欲求のすべてが妥当なものと認められるわけではなく、 周囲が認める欲求とわがままだなどとして却下する欲求とが区別される。

さらにその評価は本人が参加するとはいえ、本人単独ではなく、公共的になされ る。例えば「もし本人がこういう事情を知ったなら、満足しなかったろう」とか、 「自分の幸福に気付いていない」といった評価をすることもある。つまりこの意 味でも、単に本人の現実の満足度イコール状態のよさの程度ではなく、本人が事 情を適切に認識したならばどう評価するはずであるか(すべきであるか)を公共 的に評価して、〈状態がよい・わるい〉とするのである。

では、人が生活するにあたって公共的に妥当と認められる欲求は一般的に どのようなものといえるだろうか? 言い換えれば、人の欲求を周囲の者はどう いう場合にもっともだと認める(認めない)だろうか。

この問いに対して提出される答えの候補が「より自由であること(チャンスないし 選択の幅がより広いこと)を求める欲求はもっともだと認められる」 というものである。

通常、QOLに関して言われることからは、例えば 「快適である・ない」「便利だ・不便だ」といった対が評価の基準の候補として 考えられるだろう。だが私たちは何をもって「快適」だの「便利」だのと言うの だろうか------ 生活することを形成するひとつひとつの活動をするにあたって、生活者が 抵抗を感じることなく、あるいは容易にそれが出来る場合にそう評価し、 そうでないときに「快適でない、不便だ」などというのではないか。これは そうした諸活動のそれぞれを〈より自由に〉できるかどうかということであり、 より自由であれば、それだけ更に多くのことに取り組むチャンスを私たちは 得るのである。実際にQOLということで考えられている種々の指標について も同様に自由度の評価として理解することができよう。 こうして自由度という基準に照らして、様々な欲求のうち公共的に妥当性を認め られたものがQOLの要素に対応する。 この場合は、単に本人が欲求するからというだけでなく、人間というものはこ うあるのがよいという一般性を持った基準を前提して評価していることになる。

こうした見解に対しては次のような疑義が提出されるかもしれない。自由とは 〈したい(したくない)→する(しない)〉が成り立っている状態であるといえよ う\footnote{〈したい→できる〉というと、〈できる〉をまた〈しようとする→ する〉として説明しなければならない。}。つまり自由ということも欲求の文脈 で語られるのではないか? また、わがままだとして周囲から却下される欲求もまた、 それなりの自由への欲求なのではないか?

答え:しかし、我がままが通ることを自由とは言わないだろう。自由とは妥当な欲 求が適切に実現される状態を言うのではないか。 そして、過度な欲求をする人はそういうあり方から自由でないということになる。 例えば、人は空を飛べないという点で自由に欠けるというだろうか。 また、欲求は自然的なもので、善悪無記であるか。「欲しないことができる」という のはより高い自由なのではないか。 ------こうして人間の自由とはという問題になる。

また次のような疑義もあろう。この自由という基準は共通の欲求の事実によって いるのではないか。つまり一個人の欲求の事実からではないとはいえ、 人々の共通した欲求の事実から、自由という基準が出てくるのではないか。

答え:ある意味ではそうだと認めるが、ある意味ではそうではない。 ある意味ではそうでないというのは、自由への欲求は「誰でも欲求するのが当然だ」 というように判断するのであって、「皆が欲求している」と事実を観察して判断して いるのではないからである。つまり例えばノビ太ばかりでなく多くの人が 「空を自由に飛びたいな」と思っていることが事実であるとしても、飛べない人間は 自由ではないということには必ずしもならない。「不老不死」を皆が望んでいるから といって、そうではない現実はそのために自由度の低い状態だとはならないのである。

ただし、「誰でも欲求するのが当然だ」という判断自体は、確かに相対的なものである。 したがってこの判断に依拠する「何が自由であるか」についての意見も相対的である ことにはなろう。

{\bf QOL評価の文化・歴史相対性} 何が人をより自由にし、生の可能性をより 広げるものであるか、については意見の相違があり得る(現にある)。なるほど 現代社会においては、より便利な生活、より文化的(?)な生活を保証する環境 がよりQOLが高いと言われるだろう。だが、これに対して、「果たして本当にそ うだろうか、人はそのような生活において本当の豊かさを失ってしまったの ではないか」という疑義が突きつけられてもいる。------ここでも 生き方ないし価値観の違いによる評価の違いが表面化する。

私たちは〈よい生〉・〈充実した生〉・〈よい状態〉を区別し、本当に よい生とは何かは分からない(少なくとも医療が立ち入って判断することではない) とし、むしろ充実した生を送るための環境として、よい状態を整備することに 私たちの注目する場面を限定した。だが、何がよい状態かということも 実は本当の所ははっきり確定しないのである。〈よい状態〉を〈より大なる自由 を提供する環境〉と言い換えても、既に見た通りに問題は解決しない。

そうであれば、以下でさらに考える〈よい(自由をより多く提供する)環境〉につ いての具体的考察は、私たちの多くが差し当たってそうだと評価する環境という に過ぎない。確かにそれは〈公共的〉な評価であるが、言語を同じくする限りは 誰でも一致する評価というほど普遍的に妥当するものではなく、より相対的な評価なのである。

3 医学的評価が対象とするQOL

  ではそうしたQOLないし、人の置かれた環境の一般的評価と、医療における人の状態の の評価とはどのような関係にあるのだろうか。

まず医療が医学的関心のもとで注目するのは、人をそれ自身としてみた時の状態 であることが認められるであろう。すなわちその人がどの様な社会のなかに、またどの ような住宅の状況に置かれているかといった、当人を取り巻く環境を見るのでは なく、当人そのひとがどうあるかを、人が置かれた状態として評価しよう とする。つまり、 医学的評価は、(ある人以外の事物が構成するその人の生き る環境をではなく)その人自身をその人の生きる環境として対象とする。 そこで、こうした医学的QOL評価の対象となるもの------医学的に見られた人間自身 ------を〈身体環境〉と呼ぶことにする。ただし、ここでは、精神のあり方も、状態として、また本人が生きる環境として見る限りは、〈身体環境〉に含まれる。

これを、先の一般的QOL評価を医療の場面に適用するならば、次のようになる: \begin{quote} 医学的QOL評価は基本的に、 ある人の身体環境が、現にその人の人生のチャンスないし可能性(選択 の幅)をどれほど広げているか(言い換えれば、どれほど自由にしているか)、 に注目してなされる。 \end{quote} ただし、医療活動においてなされるQOL評価は、医学的QOL評価に 限られるものではない。医療が行われる環境なども評価の対象になるわけだが、これについては別の機会に論じたい。

{\bf 医学的状態評価とQOL評価}  では、医学的な人の状態のよしあしの評価はこのよう な医学的QOL評価にほかならない、といっていいだろうか。この点を検討するた めに、医療の視点からは、何をもって「この人の状態はよい・わるい」とされ るのであるかを考えよう。

例えば、悪性腫瘍を持つ人はなぜ「状態が悪い」と判断されるのだろ うか。あるいは、そもそもなぜ悪性腫瘍は「悪性」と呼ばれるのだろうか。

これに対してはこう答えることができよう :「悪性腫瘍」と呼ばれるものがあること は、いわば客観的事実である。だがそれがあることが「悪い」と評価されるのは、結 局、その人の今後の人生について「放っておけば(あるいは可能な限りの処置をして もなお)患者の自覚的な状態はどんどん悪くなり、ついには通常見込まれる寿命より はるかに早く死に到る」と医学的に予測されるからである。「自覚的状態の悪化」と は、痛み・吐き気・だるさ・体力低下・寝たきりといった、本人にとって不満足な、避 けたい状況のことである。「通常見込まれるより早く死に至る」ことも本人が通常希 望することではない。そしてこれらを本人が嫌がることは、周囲からももっともだと 認められる。 別の例で言えば、医師がある患者について「血圧が高い」とし、これを「良くない状 態」と判定することがある。そのとき当の患者は「ふらふらする」と自覚的な現在の 状態の悪さを訴えるかもしれない。だが、医学の視点から「血圧が高くて、よくない」 と評価されるのは、単に現在本人にとって好ましくないと感じられる状況があるとい う理由によるのみではなく、今後本人に対して顕在化する可能性のあるさまざまな状 況を予測するからこそである。

言い換えれば、もしある人に生物学的観点からして通常の人とは異 なる状態が見つかったとして、それが生命の長さを短縮するような影響を及ぼさず、 また本人にとって好ましくない(そしてその本人の不満は周囲ももっともだと認める )ような状況をまったくもたらさないとしたら、その生物学的異常は「病気」(=医 学的にいって悪い状態)とは判定されないだろう。たとえばあるウィルスがそれに感 染した人の知的能力を増進させ、かつ副作用もない、ということが発見されたとする と、そのウィルスは病原体としてではなく、むしろ薬として使用されるだろう。

ここで但し書きを付加しておく必要があろう。上の例で「本人の 自覚的状態」の如何に言及したが、他の例を考え合わせれば一般的には「自覚的」かどうかというよりは、むしろ「顕在的」かどうかが区別されているということである。例えば今私が 自覚的には全く健康であるとしても、医学的にはある病気に罹っていると判定さ れ、放っておけば近い将来に昏睡状態に陥ると予測されたとする。ここで私が 昏睡状態に陥った際には、私は「状態が悪い」ということは自覚できない だろうが、状態が悪いことが顕在化したとはいえるのである。

以上から、人の状態の医学的評価は単に、「その人の身体環境が現に(顕在的に)どうであるか」のみならず、「今後どうなるか(現時点で潜在的にどうであるか)」を総合的に評価するものであると言えよう。

さて、右で〈ある時点での顕在的な状態のよしあし〉と言ったことは、先に 医学的QOL評価として提示したことに該当する。 この用語を使ってまとめれば、 医学的(病理学的等)に患者の状態を------「癌性の腫瘍がある」、「血圧が 200である」等と------記述した上で、これについて〈良い・悪い〉という価値評 価をする際には、その評価は現在以降の患者の生の長さとQOLの推移の予測に基 づいて為される。すなわち、 \begin{quote} ある時点における医学的にみた患者の状態は、それから死の時点に到るまでに 見込まれる各時点のQOLの総和が高ければ高い程よい。 \end{quote} ということができる。ここで定義した、医学的に評価される人間の状態を〈身体 状態=BS〉と呼ぶことにする。 BSを構成する要素が、評価の時点以降のQOLの継起的変化お よび死の時点までの時間であるとすると、それは結局、人の状態のよしあしを自由度 という視点から首尾一貫して評価するものであることがわかる。

医学的QOL評価の基準を、 「ある人の身体環境が、(評価の時点における)その人の人生のチャンスないし可能性(選択 の幅)をどれほど広げているか(言い換えれば、どれほど自由にしているか)」 におく本論の理解は、現行のQOL評価にも合致する。 例えば「痛み」がQOLを低下させる要素と認められるのは痛みによって患者 は二重の意味で縛り付けられ、さまざまな可能性を奪い去られているからである ------自ら選択したくない不快な状態にいわば強制的に置かれていることによっ て、また痛みに心が向けられてしまうため、他の活動が妨げられることによって。

医療の現場で患者のQOLを評価する際には、本人の 満足度を測るという仕方で得たデータをもとにして評価する。そこで QOLというのは主観的なものだと考えられがちである。だが、実際の評価をみると、 本人の満足度が直ちにQOLの程度であるとは考えられていないのである。 例えば、「おいしいものを食べて満足した」と患者が満足を表明した場合に、そ れが直接 QOLを構成する要素となるのではなく、評価する側はそこから「食欲が あり、味覚も正常で、食事を楽しむ精神的ゆとりがある」といった点を抽出して、 QOL評価の勘定に入れるはずである。つまり患者の申し立てに基づいて、自由度 を基準とする身体環境の公共的評価をしているのである。 また右に述べたように痛みは主観的なものであるとしても、痛みがQOLを低下さ せるのは、単に患者が嫌がっているからという理由でなのではなく、それが患者の 人生の可能性を狭めているという公共的に認められる理由によってこそなのである。 このようにして QOL評価は、患者の自己評価を自由度という公共的フィルターに かけて得られるものである。 こうして、先に提示した医学的QOLの理解は、現実の医療におけるQOL評価の実際 と符号していることが確認出来る。

BSを構成するもう一つの要素である、死の時点までの長さ、すなわち余命の評価も 自由度という観点で説明することができよう。すなわち早く死ぬことはま さに患者の人生の可能性を断ち切るものだから、またその限りで〈悪い〉と されるのである。

{\bf 自由の総和を最大に} 以上のことから、医学的 QOLはある時点における患者の自由度であるのに対し、BSは、評価の時点以降の 患者の自由度の予測される総和である、とまとめてよいだろう。そうであれば、医療の目的 についてこういうことができる : \begin{quote} 医療行為の目的は、患者のBSを可能な限り改善すること、 言い換えれば、行為の時点以降死に至るまでの身体環境に関するQOLの総和を可 能な限り高めることである。 \end{quote} また \begin{quote} 医療の目的は、人の今後の人生の自由度の総和を身体環境に関して可能な限り大 にすることである。 \end{quote}

この記述には「健康を目指す」ことも含んでもいるが、それ以上のことを言 っている。というのも、「健康」という状態はまさしく、その人の身体環境 に関して「選択の幅」の総和が最大限に広がっている状態と言えるからだ。 しかし、ここには更に、「患者の人生」への注目がある。それによって医療者が 患者をそれぞれ人間全体として見るのだということが表現されている。

また、「人生の可能性ないし選択の幅をできるだけ広げる(=自由度を高める)」 ということで、医療者は患者の人生を直接充実させ、幸福にすることが出 来るわけではなく、ただそのためのコンディションを整えようとするのだ、と いうことを表現している。そもそも、古の哲学者も言っているよう に、人間は健康だからといって幸福だとは必ずしも言えない。たし かに病気は人間の活動にとって妨げとなり、その選択の幅を狭めよう。そういう 意味で、その障害を除くことは患者がより充実した人生を送るチャンスを提供す ることではある。ただし、そのチャンスを活かすかどうかまでは医療の及ぶこと ではない。そのチャンスは場合によっては患者にとって、より大きな不幸へのチ ャンスですらあり得る。なまじ健康になったばかりに、病気のままだったらしな かったであろう悪いことをしてしまうかもしれないのだから。 逆に、近い将来の死が見込まれている人も、ただそれだけで不幸だとは限らない。 残された時間の過ごし方によっては、実に幸福な人生ともなり得る。しかし、現に患者 が幸福であるか、充実した人生を送っているか、についてまで医療が判断したり、 入り込んだりするのは、一般に僣越なことだろう。そうではなく、ただコンディ ションを可能な限り整えるという援助をする立場に立っているのである。

{\bf 患者の人生の充実を期待する}   先に、医療の目的を患者の置かれた状態 の可能な限りの改善と規定した際には、医療行為を通してよりよくなった状態を 患者が有効に使って充実した人生を送るか、それとも無為に生きるかということ は、通常の医療行為の関与するところではない、と言った。 では、医療行為は人が如何に生きるているかという評価には全く関わらないのか というと、決してそうではない。というのも、身体環境に関して医療は患者 をより自由にすることを目的とするわけだが、そこで目指されている自 由に価値があるのは、患者がそれを活かして、より充実した人生を送るためにこ そだからである。つまり医療行為は、患者が高められた自由度を有効に使うこと を期待してなされる。

言い換えれば、つまり医療行為は、いくらQOLの総和を可能な限り最大限に高め たとしても、それが患者の充実した人生を妨げてしまったのでは何にもならない のである。こうして、医療は通常は\footnote{「通常は」と限定したのは、例え ばターミナル・ケアなどにおいては、自由度を高めるのみならず、その高まった 自由度を如何に活かして生を充実させるかにも関わるのが適当な場面があり得る からである。}患者がよく生きることに積極的に介入するも のではないとはいえ、 \begin{quote} 「患者がよく生きることを妨げないようにする」 \end{quote} という仕方で消極的には関わっている。 このことは、医療方針の決定に際して、患者の人生観・価値観や人生計画が考慮さ れねばならない、ということとして具体化する。例えば、次のようなケースを 想定してみよう。 \begin{quote} 同じようなターミナル期にある患者が二人いた。ひとりはQOLが低くてもよ いから「娘の花嫁姿を見るまでは長く生きたい」として、化学療法を希望したが、 もうひとりは「この 論文だけは書き終えたい」ので、残りの生の期間が短くなってもよいから、執筆活動を 続けられるQOLを今暫く保持したいとして、緩和医療のみを希望した。 \end{quote} こうした場合、患者による価値評価は、医療によって得られる〈良い状態〉をどう使 うか・どう生きるかに関わっている。医療の目的は患者の身体環境を整えるこ とであるとはいえ、どう整えるかについて患者自身による人生にかかわる価値評 価の如何によって選択に違いが出るかもしれない。この点を考慮に入れることによ って、各々の患者個人に応じた目的および個々の処置の具体的選択が可能となり、 患者一人一人の生を尊重することになるのである。

以上の考察から得られた結論は次の2つの倫理規則としてまとめることができよう。 \begin{enumerate} \item 医療者は、その行為を通して、患者(行為の対象となる人間)の今後のQOLの総和を 出来る限り高めることを目指すべきである。

\item 医療者は、その行為によって、患者のよき生を妨げてはならない。 \end{enumerate}

4 緩和医療におけるQOL

〈緩和医療 palliative medicine〉は文字通り、患者に苦痛となっている さしあたっての諸症状を緩和することを目標にした医療のことである。 現在医療界では一般に、緩和医療ではQOL評価が主たる基準となるが、 治癒的医療においてはQOL評価は補完的な役割を果たすものと位置づけられている ように思われる。これに対して、本論の以上の議論は、治癒的医療の目的もまた QOL概念を使って記述されることを示すものであった。 以下では、本論が提示した医療行為の目的は、治癒的医療にのみならず、緩和医療にも 等しく妥当することを論じる。というのも緩和医療は、 通常の治癒的医療とは異なる目的のもとに為される医療であるかのような 理解、つまり、それは当面のQOLの向上を目指すに過ぎないという理解が 一般にあるように思われるからである。

「症状緩和」とは、ある辞書によれば、「苦痛の原因を取り扱うことなしに、苦痛を 和らげる薬物ないし医療措置」と定義している\footnote{Cobuild English Dictionary}。これまでに述べた理論に基づいて、私たちはこの定義中の「苦痛 を和らげる」を「患者の現在のQOLを改善する」と書き換え、また「苦痛の原 因を取り扱うことなしに」を「治癒を試みずに」とか「患者の将来のQOLを改 善するとか寿命を長くすることを試みずに」などと書き換えることができる。 こうして緩和医療は、治療的医療と次の点で区別される------前者は現在の生に関心 を持つのに対し、後者は主として将来の生に関心を持つ。例えば外科的手術は一 般に患者の現在のQOLをしばしの間(時には甚だしく)低める。それにも拘ら ず私たちは手術を治癒的医療として選択する。なぜなら問題の原因となっている 身体の部位を直したり取り去ったりすることによって、患者の将来のQOLはは るかによくなり、寿命ものびるだろうからだ。患者はよりよい将来のためにより よい現在を進んで犠牲にする。「良薬口に苦し」という諺はその文字通りの意味 においては、こうした犠牲を認容するものである。これに比していえば、緩和医療は患 者の現在のQOLに注目し、よりよい現在を目指す。こうして私たちは緩和医療 を次のように定義することができる。 \begin{quote} 緩和医療は対象となる人の現在のQOLを可能な限り高めることを目指す医療活 動である。 \end{quote} だが、これは緩和医療が先に提示した「今後のQOLの総和を目指す」という医療一般 の目的とは異なる目的に向かっていることを意味してはいない。

{\bf 緩和医療に重点をおく際の理由づけ}   先に言及した外科手術の選択に際して、患者はよりよい現在よりもよりよい将来を 優先する。なぜなら手術を受けた場合の方が受けない場合よりも、現在以降死に 至るまでのQOLの総和はよりよいと見込まれるからだ。このような 理由付けは終末期の患者に対する医療措置の選択にも適 切に適用される。そこでは、私たちは治癒的医療よりも緩和医療のほうに重きを 置くのである。様々な種類の医療ないし措置を比べながら、私たちは現在から死 に至るまでの患者のQOLの総和がもっとも高くなるようなものを選ぶ。ほとん どの終末期医療の事例において緩和医療は最善の結果をもたらすだろう。またあ る場合には緩和医療と組み合わせた治癒的医療はさらに患者のQOLの総和を増 すであろう\footnote{このように考えると、ホスピス病棟の医師には、緩和治療 についての専門的知識のみならず、癌など患者を死に直面させている当の病気と その治療の可能性についての専門的知識を十分に持っていることが要求される。 いわゆる「徒な延命」のためではなく、最善の人生の終末のためにこそ専門的知 識は必要なのである。}。

私たちが治癒的医療を止め、緩和医療に限定して医療活動を行うという場合さえ も、私たちは患者の生を短くしようなどとは意図しておらず、ただ患者のQOL の総和を増すことを意図している。ある場合には生が短くなることが予想される にも拘らず、治癒的医療を止めることがあるかも知れない------その理由は治癒 的医療を続けるよりもそのほうがQOLの総和はよりよいだろうからだ。他の ケースにおいて私たちは治癒的医療を止めるほうが患者のQOLも 改善されれば、生も延びると予測される場合もあろう。 こうして緩和医療を再優先の医療として選択することはQOLの総和を可能な限り大 にするという医療一般の目的に沿ってなされることであり、 その際には死期を早めようとも延ばそうとも意図して いないのである------もっともその際に死期が早まるないし延びると予想はする かもしれないが。

終末期の患者にとっては将来の生ではなく現在の生がもっとも重要であり(少な くとも後者を犠牲にして前者を取るということにはならない)、従って、患者の 現在のQOLの改善は、そのQOLの総和の改善に直結する。そういうわけで、 医療一般の目的設定に基づいてこそ、緩和医療が再優先の医療となるのである。

{\bf 全体的痛み及びその他の苦しみの要素からの解放}  ここで、緩和医療が 目指すQOLの保持・向上の諸側面を枚挙しておこう。 まず、緩和医療は患者を彼の自由を奪う諸力から解放することを目指す。そこで身体的 痛みその他の不快な症状がまず医療措置によって和らげられねばならない。また 精神的苦しみも取り扱われねばならない。これらの苦しみは患者の自由を奪う諸 力のうちに数えられ、QOLの精神的側面を悪化させる。それはまた身体的痛み に影響し、QOLの身体的情態をも悪化させる。

精神的苦しみないし痛みは一般に、現在置かれた状況についての患者の認識によって 影響される。例えば、身体的痛みがある人を不安にするとき、不安は痛み自体から直 接に結果するのではなく、患者の痛みがあり、従ってなにか悪いことが起こっている にちがいなく、将来もっと悪いことが生じるかも知れないという、漠然とした認識か ら結果する。同様にして、患者の状態についての情報が時として患者にとっての精神 的痛みを結果することもある。

患者のこうした精神的痛みに関しては、医療者と患者のコミュニケーションが大事 であることは当然であろう。ある種の薬はこういう場合に役立つとはいえ、もっとも基本的なアプローチは患者とのコミュニケーションであって、それを医療者は(患者への)共感を伴 って実行しようとする。精神的苦痛は自己の状況 についての患者の認識と深く連動しているので、自己の状況についての適切な情報 が提供されることが、解決につながることが多い。患者の状況が先の見込みのな い場合ですら、知らないことで不安になるよりも、それを知ることのほうが、患 者にとっておそらくはよりよいであろう。そういう場合に医療者にできるもっと も重要なケアは患者の傍らにあって、彼が絶望しないようにすることであろう。

例えばある看護の実践者は、生きる望みや喜びを失って絶望し自己の内に閉じこもって しまった患者が、適切な緩和医療と精神的ケアを通して見事に希望を取り返し、 人生の最後の日々に喜びと笑いと生きがいを見出すようになったという例を いくつも報告している。そのような気持ちの回復は、末期であって死期は近 いと思われたケースにおいてすら体力の回復をもたらし、さらに積極的治療(抗癌剤投与や 手術など)を可能にして、相当な延命と社会生活への復帰につながることさえある という\footnote{石垣靖子『ガンの痛み こころの痛み』(家の光協会1993年)参照。}。

{\bf 最後の日々に充実した生を送ること}   緩和医療は、終末期の患者のQOLをできる限り高く保つことを試みながら、 患者がその最後の日々を充実して過ごすことを期待する。 以下にQOL保持と充実した生を過ごすこととの連 関をいくつか挙げておこう。

第一に、終末期医療のケースにおいては医療者はしばしば、単に充実した生を送 るチャンスを身体環境に関して提供する(医学的QOLを高め、保持する)のみな らず、また患者が充実した生を送ることを直接に援助する(つまり患者の生 活環境全体に関して充実した生のチャンスを提供する)任務を持つ。 患者が充実した生を送ることに直接関係する諸活動は緩和医療に本来的に 含まれるものではないが、そうした諸活動はター ミナル・ケアにおいてはしばしば医療活動自体の目的に適うものとなる。 というのも、終末期の 患者は通常多くの人々との交流を維持することができなくなっており、医療者は 患者とのコミュニケーションを保つことができる数少ない人々のうちに数 えられるからである。言い換えれば、患者が医療を受ける場(病院であれ、在宅であれ)は そのまま患者の全生活が送られる場となる。医療環境は生活環境そのものなので ある。したがって患者の生の充実のための環境整備は医療環境の整備としてなさ れる。ここでは医療者は「医療のため」という限定をはずして、患者の生の充実 のためのあらゆる環境整備を配慮することになる。さもなければ、医 療者は患者が充実した生を送ることを妨げることになって しまうであろう\footnote{この点に連関して、石垣靖子さんが報告している、ターミナ ル期にある入院患者のひとりのために看護婦や栄養士、調理師が一緒になって「 おいしい」と言われるようなうどんを作ろうと毎日努力した例を挙げることがで きよう。前掲書参照。}

第二に、患者が充実した生を送るためには、患者自身の好みや価値観を尊重するこ とが重要である。例えば、私たちがQOLの一側面を他の面よりも優先させなけれ ばならない場合に、私たちはそれを患者の人生計画や好み等に応じて行うべきな のである。

第三に、QOLを改善することは充実した生を送るためである一方、逆に生が充 実することはQOLを改善しもする。生が充実すると、すくなくともQOLの精 神的側面は改善される。さらに精神的解放は身体的痛みにも良い影響を与えるで あろう。こうして、充実した生を送ることは、いわばフィードバックしてQOL の総和を増加する結果をもたらしもする。

第四に、いわゆるスピリチュアル・ケアと称されることは、患者の生の充実にこそ関わ るのであって、QOLを維持することに直接関わるのではない。 この点については、特に宗教的背景のあるターミナル・ケアに携わる人が考える 場合には、しばしば、 「どういう死生観をもっているか」「死を受容しているか」「宗教的 なものは?」といったところまでQOL評価の対象にすることがある。 またQOLというのは生きがいのことだと理解する人もいる(これは本書のいう QOL'についての見解であろう)。だが、本論は、QOLを環境ないし所与としての 「よく生き得る可能性」のことだとして、充実した生かどうか(QOL')や 人として真によく生きているかどうかということとも区別し、 「人間として真によく生きているかどうか」に立ち入ることは 医療の専門家の仕事から排除したのである。 だが「どういう死生観をもっているか」とか 「宗教心はあるか」といったことは、この問題の範囲であって、QOLや QOL'の関わるところではないのではないだろうか。 医療者が患者と触れ合う際に、ある宗教的立場からそうした事柄に関与する ことは咎められるべきではないが、それは 医療活動とはいえないだろう。こうした場面では、医療の専門家は、もはや専門家と してではなく、相手と同じ一個の人間として、患者と向き合うしかない。

ただし、ある死生観なり宗教的信念を持った結果「死を受容して気持ちが安定 している」という状態は、結果としての充足度(QOL')に関わりはする。その限りで そうした安定した状態を医療の視点からは〈よし〉とすることになろうが、それは 決して「しっかりした死生観をもつほうがよい」といった判断をしているのではなく、 その人がその人なりに充実した日々を送っている点を評価しているに過ぎないのである。

{\bf 尊厳ある死}   緩和医療は患者の尊厳ある死を結果するであろう。 尊厳死・安楽死問題については別の機会に考えるとして、ここでは緩和医療の 論理からは何がいえるかに限って触れておく。 緩和医療もまた医療行為の一般原則の下に遂行される営みであるが、それは 生を支配する原則であって、死を支配するものではないということが基本的である。 死は生の終わりでしかなく、したがって死には積極的内容がないのである。 そこからすると、QOLの今後の総和を評価するという仕方で、 ターミナル期の患者を対象とした医療方針の立て方を考える立場からは、 て患者が直ちに生を終わらせた場合と、生き続ける場合とのQOLの総和を比較す る、というようなQOL論の適用は結果しない。 私たちにできるのは、ただ異なる生き方同士の比較であって、生と死の比 較ではない。したがってまた私たちにできるのは生き方の選択であって、生か死かの 選択ではないからである。 そこで、まさにターミナル段階における栄養補給や水分補給 といった措置等の適否について判断を迫られる際にも、また、 生を直ちに終わらせたいと望む患者に対しても、「どのようにすれば、残りの生のQOL の総和を可能な限り大きくすることになるか」と考えて対応することになろう。

要するに、緩和医療は患者を苦しみから解放することを意図するとはいえ、生自 体からの解放は決して意図しないのである。かつ、この場面に至ってもなお、〈QOLの総和を 最大に!〉という医療の一般原則は、緩和医療において有効なのである。


The Concept of QOL ------Basic Analysis and Application to Palliative Medicine
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