積極的安楽死と消極的安楽死の倫理的差異
- J.Rachels の問題提起 (NEngJMed 292, 1975: 78-80)
彼は次のような考えに異議を唱えた:
「死に近づいている人を緩和不可能な苦痛から解放するための積極的安楽死は倫理的に許されないが、延命のための積極的医療行為をしないことによって死に行くに任せることは倫理的に許される。」
- 引き合いに出した例
[ケースA−積極的] 太郎は次郎を殺そうと意図して、入浴中の次郎を湯の中に
押し込んだ。
[ケースB−消極的] 太郎は次郎を殺そうと意図して、入浴中の次郎がたまたま湯の中でおぼれるのを放置した。
AとBとでは、太郎のしたことは等しく、倫理的に悪とされるであろう。
- Rachels の主張:
- 消極的安楽死と積極的安楽死との間に倫理的な差はない。i.e. 積極的な方がだめなら消極的もだめ。消極的が許容されるなら、積極的も許容される。
- 苦しみながら無意味な最後の生を送るのを放置するほうが、積極的に死なすことによって苦しみを打ち切るよりも残酷ではないか。
- これに対しては滑り坂論などの反論があった。
この主張のどこがおかしいか。
- 治療停止は「死を意図して」なされる「消極的安楽死」と言えるか。
---> ケースBでは、事故により次郎の生命が危機に陥っていたが、太郎がちょっと援助するならば、次郎はさらによい生を送る可能性があった。
そういう場合に次郎を助けないなら死ぬと分かっていて、かつ助けないという消極的行為は、「死なそうと積極的に意図する」 ことを伴っている。
ケースA も「死なそうと積極的に意図する」ことを伴う行為に違いない。
だが、徒な延命治療をすることは患者の苦しみを長引かせるだけだ、という判断で治療を停止することは、それが「死を若干早めるという予想」 を伴っているとしても、「死を積極的に意図する」ことは伴っていない。あるいは、ぎりぎりのところで「死なすしか苦しみを緩和する方途はない」というように判断することがあったとしても、それは「死を積極的に意図する」ことではない。
- 意図と予想を区別する。
さらに、場合によっては積極的な意図 と消極的意図 とを区別する(「予想」というよりはもう少し強い選択である場合)。
cf. 生命維持を始めないこととやめること (withholding and withdrawing life sustaining treatment)の論理にも後者が適用できる。
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