許儀後・郭国安の連名による日本情報(万暦19年〈1591〉9月)

(2002/9/19講読)

  万暦20年〔*1592〕2月18日に朱均旺が(本国に)もたらして来た、許儀後によ
る(日本)機密情報。
 機密情報の陳述人である許儀後が、忠義報国のために申し上げます。わたくし許儀
後らは、辛未年〔*隆慶5年。1571年〕に広東を通過中、船を(倭寇によって)次々
と捕らわれてしまいましたが、幸いにも身につけたわずかな技芸をもって、日本の薩
摩の君〔*島津義久〕に寵愛され、恥ずかしながらも生きながらえて参りました。
(わたくし許儀後は)いたずら者の輩が倭人を誘って我が大国〔*明〕を騒がし、商
人や漁民を拉致して売り飛ばす事を、常に恨んでおりました。まこと堪え難い苦しみ
でした。乙酉年〔*万暦13年。1585年〕、わたくし許儀後らは、薩摩の君(義久)に
恐れ恐れ(右の事情を)哀訴したところ、(彼は)陳和吾と銭少峰ら10名余りの(倭
寇の)首領を殺害し、その妻子を奴婢に落としました。残る賊徒はカンボジア・シャ
ム・ルソン等の地に逃亡いたしました。ここにおいて海賊船(の活動)は少々鎮まり
ました。丁亥年〔*万暦15年。1587年〕、関白(秀吉)が薩摩・肥前・肥後を遠征し
ましたところ、またまた海賊船が密かに出没して参りました。わたくし許儀後は薩摩
の君(義久)に随行して関白に謁見し、死を冒して関白に(海賊のことを)泣訴いた
しましたところ、(関白は)命令を下して(倭冦の首領を)斬首し、(首級を)京に
送りました。ただし逃亡した2名の首領は未だ捕縛されておりません。こういうわけ
で、今にいたって海上は平穏となりました。(ところが)関白はまた(明に)攻め込
もうと欲しましたので、わたくし許儀後らは居ても立ってもいられなくなり、頃合を
見計らって船を遣わし、様子を探りました。これはまさに(明の)扶持を(かつて
?)得た者としての良き策謀〔*「此正食録者之良謀」〕であり、国の為、民の為を
思う心(から発した行動で)あります。しかしながら、唐人であって日本に長く住ん
でいる者は、みな倭冦の仲間であり〔*「唐人久住日本者、皆賊寇之党」〕、想うに
一人として真実を言おうとする者はおりません。しかも(彼らは)みな町や村に居な
がら(薩摩の)国の役儀を果たしておらず〔*「且皆市肆村居、不達国務」〕、(こ
の件についても)また一人として真実を言おうとする者はおりません。わたくし許儀
後は、罪を得ることも厭わず、辛卯年〔*万暦19年。1591年〕9月3日、遂に日本の情
勢を陳べた書状を平戸に送り、(明の皇帝陛下が日本へ)お遣わしになった船の船頭
に(これを)託して、御奉行様〔*「清台」〕に親覧していただけるよう取り計らい
ました。(ただし)海陸道中の事情により、(右の書状が無事に)届いたか否かは存
じません。(万暦19年〈1591〉)9月7日には、早くもまた確かな情報を(新たに)耳
にしました。(それは)来春(関白の軍勢が)高麗に渡って遼東を征服し、北京城を
奪取しようというものでした。それ故わたくし許儀後は再び条々書を作成し、(万暦
19年〈1591〉)9月9日、新たに(平戸へ?)来航していた船頭に渡して、御奉行様
〔*「清台」〕に転送してもらうよう取りはからいました。(しかし)これまた届い
たかどうかは存じません。(そのような状況のなか、わたくしは)日夜憂えて痛哭
し、天を仰いで歎き悲しんでおりました。幸いなことに、朱均旺が忠義心を激しく燃
え上がらせ義気を発露し、身命を賭して国に報いよう(と思い立ち)、この書状を
持って(本国へ)通告することを自ら願い出ました。わたくし許儀後は(これを聞い
て)非常に喜びました。(以下、現在の日本情勢を)詳しく申し上げます。(万暦19
年〈1591〉)9月25日、(日本)諸国(の諸大名たち)が(征明の戦役に)行きたく
ないという思いを抱いているのを見取って、薩摩国の君臣は、東海道〔*徳川家康
?〕と内通して一緒に謀反を起こそうと密議しておりました。(ただしわたくしは)
その成否がどうなったのか、存じません。もしも(日本で)一国規模の謀反が起これ
ば、関白の(明)入寇の兵は出発することが出来なくなるでしょう。しかし将来どの
ような情勢になるかは、予測がつきません。まずは用意して(秀吉の入寇を)防ぐべ
きでしょう。なにとぞなにとぞ(このことを)聖天子陛下に奏聞してください。切に
願うところは、君がその弊〔*秀吉の入寇〕を知って憂えることなく、臣がその弊
〔*秀吉の入寇〕を知って事前に防げば、国家にとって大幸であり、人民にとっても
また大幸であります。謹みかしこみ恐れながら(以下のごとく)具陳いたします。

清台という用語について、種種調べてみましたが、大漢和も引用する『称謂録』以外、見つけることが出来ませんでした。ただ、「先主を差し、清台に収送して親覧にせんとす」とある文章の「親覧」という文言から、身分の高い人を指しているように思います。皇帝か内閣の人々です。おそ らく、皇帝であれば、「御覧」という言葉を使うでしょうから、内閣大学士あたりをさすのではと思います。つまり、内閣のことを台閣と謂いますので、「清なる台閣」を縮めたのではないかと思うのです。「清なる」は無論尊敬の形容詞です。同じ用法としては、当時の言葉では、「清官」があります。なお、上奏文の提出先である役所の通政使司の雅称は、銀台司でした。[川越泰博]
清台という用語について、川越先生の説が妥当だと思います。個人が調べたところ、元史および明実録に清台という語が出ています。御史大夫のことを指していると思います。[劉序楓]
元史/本紀/卷四十三 本紀第四十三 順帝六/至正十四年:
「十二月, ...... 丙申 ,.......監察御史袁賽因不花等劾奏:「脱脱出師三月,略無寸功,傾國家之財以為己用 ,半朝廷之官以為自隨 。又其弟也先帖木兒,庸材鄙器,?汚【清臺 】,綱紀之政不修 ,貪淫之心益著。」章三上 ,詔令也先帖木兒出都門聽旨,以宣徽使汪家奴為御史大夫。丁酉,詔以脱脱老師費財,已逾三月,坐視寇盜,恬不為意,削脱脱官爵,安置淮安路,弟御史大夫也先帖木兒安置寧夏路。」
明清實録/明實録付録/崇禎長編/卷十四/崇禎元年冬十月:
「而重邊事 益當惜其【清臺】臣,以發奸,而受譴,飭法官也。」
劉先生のご指摘のように、清台とは本来は御史台の雅称でしょう。明代では御史台に代わり都察院が置かれ、都察院の官が巡撫などとして地方に派遣され、巡撫のことを「撫台」と雅称します。この場合の清台も、具体的には福建巡撫を指すのではないかと思いますが、いかがでしょうか。[中島楽章]
 
○辛未年〔*隆慶5年。1571年〕に広東を通過中、船を(倭寇によって)次々と捕らわれてしまいました○
という箇所ですが、「次々と」ではなく、「船まるごと」捕らわれてしまいましたという意味ではないでしょうか。「船連」であれば、訳稿の通りでしょうが、原文では「連船」と連は船に掛かっています。[川越]
○(わたくし許儀後は)いたずら者の輩が倭人を誘って我が大国〔*明〕を騒がし、商人や漁民を拉致して売り飛ばす事を、常に恨んでおりました。○
にある「いたずら者」は、むしろ「よこしまな者」とする方が良いのではないでしょうか。原文にある「奸徒」とは、「奸細の徒」のことであると思います。倭寇を導引した明人の間諜を差しているように考えます。[川越]

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