朱均旺の供述(万暦20年〈1592〉3月)
(2002/7/18講読)
投書通報人(「投状報国人」)である朱均旺(が申し上げます)。(わたくしは)江
西省臨川県が本籍です。丁丑年(万暦5年。1577年)3月、(福建省章(サンズイ)州
府)海澄県の陳賓松の出洋船〔*「課船」。帰国後に餉税納入が課せられた船〕に乗
り、交趾〔*ベトナム中部〕に渡って商売をしようといたしました。船は順化〔*ク
アンビン省の茶鉢、ないしはフエ近辺?〕に停泊いたしましたが、(入港する)船舶
が多くて商売するのが難しかったため、(そこから)小船に乗り(換えて)広南〔*
ベトナム中部。ホイアンか?〕へ参りました。(帰国する)途上、倭冦に遭遇し、捕
らえられて日本に連行されました。(ところが連行先で)幸いにも同郷人の許儀後に
会いました。許儀後は、わたくし朱均旺が同郷の者であることを思いやって、薩摩の
太守(「薩摩州官」。島津義久のこと)に上申して、その倭冦の親玉を成敗してもら
い、(また)わたくし朱均旺を(許儀後の)家に住まわせ、同志の契りを結びまし
た。(わたくし朱均旺は)累年(明への)帰国を(薩摩の太守に)願い出ましたが、
許されませんでした。(ときに)去年(1591年)、関白が兵を起こして(明に)入寇
しようといたしました。許儀後たちは居ても立ってもいられぬ(有様でした)が、
(明に)出奔するすべがございませんでした。(そこでわたくし朱均旺が)自ら願い
出で、(明に)出頭して書状を携え(関白の入寇を)通報することにいたしました。
(万暦19年。1591年)9月25日に出発しようとしましたが、引き留められてしまい、
今年(万暦20年。1592年)1月16日になって、命がけで密かに出奔いたしました。許
儀後らが(通報の)条書を仕立てましたので、(それを)つぶさに陳情いたします。
隠し立てをすることなく、お上に申し上げます。
《備 考》
*「薩摩州官」が、単なる薩摩の役人ではなく、太守の島津義久を指すことは、次項
に続く文書に所収された朱均旺供述から確認することができる。
* 朱均旺が倭寇に捕縛されたのが、広南で商売を済ませた後の出洋途上であった
ことも、次項の朱均旺供述で確認できる。
* 許儀後が帰国通報せず、朱均旺が代役をつとめるに到った事情についても、上
記同様。
* 文末の許儀後の通報条書は、次々項所収の「万暦二十年二月二十八日、朱均旺
齎到許儀後陳機密事情」に相当する。
ユエというのはHueのフランス語読みなので、「フエ」が宜しいでしょう。1577年時点で阮ホアン(さんずい+黄)が本拠を現在のフエ(富春)に置いていたかどうか、ちゃんと調べてないのですが(^^;)、『大南寔録』だとまだ茶鉢(現在のクアンビン省:フエよりは北)のようにも取れます。順化は承宣の名前ですので、フエと都市名まで特定しないほうが安全かもしれません。
- それから、広南を「ベトナム南部」とするのはまずいでしょう。現在の区分だと、南部はホーチミン市やメコンデルタなどを指します。当時の広南承宣は、ダナンからクイニョン辺りまでを含むかなり広い範囲ですが、順化の南隣ですし、やはり中部とすべきでしょう。おそらくはホイアンなんだと思いますが。[蓮田隆志]
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