山東・韓国旅行(荒野科研合同)(2001/4/28-5/5)
荒野科研が実施した山東半島および韓国西南海域の調査に参加したので、その内容
を概略報告する。詳細はいずれ荒野科研のホームページに掲載されるので、そちらに拠られたい。
調査団の日本側メンバーに、phase817からは荒野泰典団長をはじめ、高橋公明、藤田明良および村井の4名が参加した。その他のメンバーは次の通り。
上田信(立大教授、中国社会史)/沖森卓也(同、日本言語学)/蔵持重裕(同、日
本中世史)/小峯和明(同、日本中世文学)/山浦清(同、北東アジア考古学)/渡
辺健司(同、日本近世文学)/玉井哲雄(千葉大教授、建築史学)/深津行徳(立大
助教授、朝鮮古代史)/文純実(ムンスンシル、立大非常勤講師、朝鮮近世史)
荒野、高橋、藤田各氏にはぜひ補正をお願いしたい。
[村井章介]
[写真提供:藤田明良]
4/27(金)
- 羽田東急ホテル泊
-
4/28(土)
- 6:30羽田発JL341便で関空へ、10:30関空発NH157便に乗り継いで、現地時
間正午過ぎに青島空港着(時差1時間)。天候は雨。青島華清国際旅行社の段崇善氏
に迎えられる。マイクロバスに乗り込んで山東半島を東北東に向け走る。幅広く車が
少ない道路を疾走。地形はおおむね緩やかな丘陵で、水田はなく木が少ない。乳山市
の漁港を見る。水揚げは肥料用の小魚が大半のよう。
- 〔開成4年(839)4月26日、円仁は乳山の西浦に停泊し、30人余の新羅人が馬に乗っ
てくるのに会っている。押衙が新羅船に乗って到着するのを待って、上陸。その後幾度
か船を出すが順風に恵まれず、乳山近辺に滞留、ようやく6月3日に赤山へ向かっ
た。〕
- 乳山から半島先端の石島に向かう。日没後、石島賓館に到着。巨大な敷地をもつリ
ゾートホテル風
-
4/29(日)
- 石島漁港を見下ろす谷の中腹にある赤山(今は斥山と書く)法花院へ行
く。雨が降ったり止んだりで寒い。周りは梨畑でちょうど花盛り。いま法花院は大規
模な尼寺として栄えているが、円仁の跡を尋ねる日本人観光客を当てこんで近年再興
したもの。場所の選定は、『巡礼行記』の記載と古瓦が出土したことに拠るらしい。
境内を横切って小川が流れている。最上部の三仏宝殿からは漁港が見下ろせる。『行
記』6/29,8/16条にみえる「莫耶島」が海の向こうに霞んでいる。
- 〔『行記』6/7条によれば、法花院は赤山浦の東辺から見て「山裏」にあり、「南北
に厳峰あり、水は院庭を通して西より東へ流る。東方は海を望みて遠く開け、南西北
方は連峯壁を作す。但坤(西南)隅は斜に下るのみなり」とある。同11/16条「其の講
経・礼懺は皆新羅の風俗に拠る。但し黄昏と寅朝との二時の礼懺は且く唐風に拠り、
自余は並びに新羅の語音に依る。其の集会せる道俗・老少・尊卑は惣べて是新羅人な
り。但し三僧及び行者一人日本人なるのみ。」〕
-
- この寺の山門のところに石碑が狭いところに競い合うように建っています
が、その大半は韓国か日本からのものです。小型のものは日本からのもので「日本京
都中井英一」などと、シンプルなものですが、大型で「法華院山門建立推進委員会」
などと題目があり、委員長以下役員の名前が書いてあるようなものは、もちろん韓国
からのものです。おそらく寄付金の額が違うのでしょう。やはり張宝高についての思
いが強いということでしょうか。
[高橋公明]
-
-
- 石島の市街へ戻り、天后宮に参詣。台湾のきらびやかな媽祖に比べ、はなはだ簡
素。表情は笑いを含んでおり、脇侍も千里眼・順風耳ではない。はすむかいの新華書
店で山東省の地図を買う。ついで石島港へ。中国北部有数の漁港で、無数の漁船が停
泊する眺めは迫力がある。石島賓館に戻って昼食。
-
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山東・韓国南部調査の村井報告の、29日の石島鎮天后宮に関して、少し補足します。
- 中庭にあった重建(再建)碑によれば、明末清初、ここに商船が集まるようにな
り、その安全を祈願して、乾隆16年(1751)山西省洪洞県の王一徳なる人物が、これ
を建立したという伝承があるようです。王一徳は山東に多い山西からの移民か、もし
くは名高い山西商人だった可能性もあります。近代荒廃していたのを、古跡復興や観
光のため1991年に地元で修復し、現在のような姿になったとあります。
- 天妃とは別の部屋(中門の横)に男神像があるのを、文純実さんが発見。手に
持った杓の文字をデジカメで撮影し、帰国後、画像を調整すると「清海郡竜王」と読
めます。劉公島の劉公伝承(村井報告30日条)も海の信仰と関係あるようだし、また
遼東半島との間にある廟島列島の廟島は、龍女廟にちなむといいます(「民国・山東
通志」山川)。
- 在来の海の信仰と媽祖信仰のような外からきた信仰の、歴史的関係についての興
味深い研究素材がここにも、ここにもあるような気がしました。
[藤田明良]
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- バスに乗り、約1時間で日清戦争の海戦で有名な威海市へ。この「地区」の中心都
市。韓国の企業が2000社(?)も進出しているという。港を見たあと、荒野団長の発案
により予定を変更して、沖合に浮かぶ劉公島に渡る。15分ほどの船旅。急速に観光地
化が進んでいる。「北洋水師提督署」を転用した甲午戦争(日清戦争のこと)博物館
を見学。小雨が降り続く。ついで劉公廟へ。島を開いた人物が海の
守り神となったもので、劉公とその妻劉母が仲良く祀られている。鴻鳴著『漂泊劉公
島』を買い求める。16.80元。
- 5時少し前の船で威海港へ戻り、威海衛大厦で泊。旧市街地にある立派なホテル。雨
が強くなる。
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4/30(月
- )まっすぐな道路をひたすら走ること3時間、青島海洋大学へ。雨が降った
り止んだり。海洋文化研究所長曲金良教授、日本語言文学系主任李慶祥教授、『海洋
文化研究』編集主任朱建君助教授に迎えられる。研究所の会議室で懇談。バナナとお
茶による接待。資料が配られ、円仁入唐記についての研究プロジェクトを発足させる
提案を受ける。大学近くのホテルのレストランで昼食。雨があがる。曲先生らと別
れ、青島の旧市街をバスから見学した後、14時半ころフェリーターミナルへ。
WEIDONGフェリー社の「香雪蘭号」に乗船。コンテナ積載に時間が掛かり、予定を大
幅に過ぎて、19時前にようやく出港。
-
5/01(火)
- 船内で昼食後、荒野団長の突然の発案により、『立教大学日本学研究所紀
要』のための座談会を会議室を借りて行う。ビデオカメラで収録。テーマは渡辺氏の
研究する「遊郭」。話題は、港湾都市における立地、近世社会のなかでの位置、遊女
をめぐる民俗など。16時ころようやく上陸。タクシーで仁川駅へ、日本風建築のある
旧市街を歩いた後、駅近くの中華街で夕食。タクシーでソウル金浦空港へ。20:00発
KE1313 便で、約1時間後、光州空港着。マイクロバスで木浦の新安ビーチホテルに
22:30ころ到着。
-
5/02(水)
- 早出をして、木浦市内の旧日本人居住区を歩き、儒達山を途中まで登る。
ようやく太陽が出、新緑の木々が美しい。国立海洋遺物展示館を+++氏の案内で見
学。新安船の復元はかなり進んでいる。莞島・新安のほか、道理浦の海底遺物も展示
されている。学芸研究員の朴ヨリさんと名刺を交換。
- 優れた図録ができており(1998.12.30発行、9500ウォン)、それによると、沈船関
係の遺跡は7箇所もある。全南に5箇所(新安海底、莞島海底、務安郡海際面松石里
道理浦海底=14世紀後半・船は出ず、木浦市達里島海岸=13〜14世紀頃・復元長12m
の伝統韓船出土、珍島郡古郡面碧波里海岸=13〜14世紀・復元長19mの丸木船出
土)、忠南(泰安半島新津島里海底=高麗後期〜朝鮮時代・船は出ず)・済州(翰京
面新昌里海底=12〜13世紀・船は出ず)に各1箇所。
篠埔 木浦大学島嶼文化研究所へ。キャンパス内に地主の墓地と祠堂が残されている。
韓国側から、研究所長羅承晩教授(韓国民俗学)、歴史文化学部教授姜鳳龍教授(韓国
古代史)、金京玉研究専任教授(韓国近代史)、文炳采研究専任教授(地理学)、李
京■研究専任教授(民俗学)ほかが、日本側からは、村井・藤田ら4人が自分の研究
内容を簡単に紹介する。司会は金壽泰忠南大学校教授(韓国史)、通訳は李鎔賢高麗
大学校研究助教授(韓国・日本古代史)。ついで、まもなく開館する大学博物館を、
館長崔盛洛教授(考古学)の案内で見学。考古遺物中心の展示。研究所の建物1階の
レストランで食事。珍しく西洋風のカツレツ。
-
- 細かいことですが、村井さん、藤田さんなど4名が研究の内容を報告したのは
木浦大学島嶼文化研究所ではなく、その日の夜、黒山島のホテルです。
[高橋公明]
-
- 大学のバスに乗り、木浦旅客船ターミナルへ。13:40発の高速船で黒山島へ向か
う。八禽島と箕佐島の間を抜ける。飛禽島と都草島の間の水路中央で停船し、艀で客
を送り迎えする。頭上には両島を繋ぐ橋がある。ここを過ぎると外海。15:30大黒山
島の曵里港到着。新安郡の行政船に乗り替えて、時計回りに島を一周。途中、永山島
に寄る。同島は高麗時代に住民が羅州栄山里へ移住して、帰ってきた縁で名が付けら
れた。人口160人で、寺や村の址があるという。曵里に戻り、バスに乗って、鎮里と
の境にある支石墓群へ。全羅南道は支石墓が異常に集中している地域だという。邑洞
村から西へ、右に新羅末〜高麗初の山城を見上げながら、上羅山の頂上直下の駐車場
へ。李美子の歌った「黒山島アガシ」のテープが聴ける機械がある。急坂を登ると、
祭祀遺跡ついで烽台のあった頂上へ出る。かつて鉄の馬が出土したという。絶景。眼
下に山城の城壁が見え、その向こうに袋状の湾。邑洞村に戻り、大木の根元にある三
重石塔を見、近くの畑で青磁片を拾う。この畑で採集された「无心寺禅院」という銘
の入った瓦や、青磁片などを、民家で見せてもらう。島の中心は古代はこの邑洞里
だったが、ついで鎮里に移り(現在も面役所あり)、現在は高速船の港のある曵里に
移りつつある。
- 鎮里の村はずれの岬にある黒山島家族ホテルに入る。新安ビーチホテルの系列で、
取り付け道路や前庭は未完成。夕食後、韓国勢の勧めで、曵里漁港で「エイの刺身」
を賞味。獲れたてのものは味が悪く、腐った草の上で発酵させたものはアンモニア臭
が強烈。肝臓はやや臭いはおだやかだが、脂っこい。エイは新安郡のマスコットに
なっており、全羅道では婚礼に欠かせない魚だというが、3回目くらいにならないと
本当のおいしさは分からないとのこと。納得。
-
5/03(木)
- 朝食前に徒歩で鎮里のはずれの半島の付け根にある「処女堂」へ。嵐を
鎮めるために置き去りにされた子供が木から落ちて死んだ場所だという。山神が祀ら
れていた場所が拡張されて祠堂が作られたらしく、堂の左後ろに山神のほこらがあ
る。岬の先端にある海神のほこらへ。中はがらんどう。車道に戻ったところから、韓
国に1本しかない天然記念物だという木を見る。すでに枯れており、コールタールを
塗って保存してある。面役所によって、面長の南相昌氏の話を聞く。朝食後、曵里港
へ。旅客ターミナルの先にある古い漁港を見る。「波市」のたった場所だという。定
刻の10:30より20分以上遅れて、高速船が来る。13時少し前に木浦着。
- 行政船に乗り替えて新安沈船の現場へ向かう。船内でのり巻きと味噌汁の昼食。島
の間を抜けて曾島西側の海へ。海が次第に濁ってくる。海底の泥が巻き上げられるの
か、比較的澄んだところと薄茶色に濁ったところがまだらになっている。曾島の北端
から西へ突き出た岬の延長線上に2つの小島があり、西側の島には灯台がある。その
北側の海のどこかがその場所だという。多島海の中というよりは、外海から多島海に
入る口というべき場所である。「多島海に迷い込んで沈没」といった表現は適切でな
いことがわかった。岬の岩礁上の台地に記念碑の立っているのが見える。防築里長
(?)の用意した小船に乗り移って、岬に上陸。碑の前で記念写真。碑文によれば、こ
こから西北方2750メートルの海中、東経126度5分6秒、北緯35度1分15秒の地点が
発見地だという。ふたたび小船で行政船に戻り、来た道を木浦に帰る。
- 木浦からバスに乗って、莞島に向かう。かろうじて日没前に清海鎮のある将島の対
岸に着く。漁師の小船で将島に渡り、発掘中の遺跡を見学。莞島に向いた海岸に、陸
側から柱跡(門か)、柵列、1.5m位の幅で細い木が密に植えられた遺構の順で出土。
柵列が南へずっと延びていることは前回の訪問で聞いていたが、最後の遺構は二、三
日前に出たばかりで、性格については未検討だという。港湾関係の遺構として注目さ
れる。明日、検討委員会の視察があるとのこと。
- 戻り船に乗るころ日が暮れる。莞島市街のシーワールドホテルに入る。夕食後、21
時より地元の人との交流会。「歓迎、韓日歴史学者共同参与、張保皐と円仁の海路踏
査団来莞」と書いた横断幕まで用意されている。この会があることは曾島から帰る船
の中ではじめて聞いたことで、急遽日本側からの報告を準備することになったもの。
韓国側からは、調査団員のほかに、莞島郡守車官薫氏の短い挨拶と、張保皐研究会理
事長李京九氏の張保皐の人物評についての話があった。荒野団長が今回の調査の概要
と意義を報告したあと、村井が新安・莞島の沈没船と海底遺物について、小峯が『行
記』のテキスト研究について、藤田が全羅南道の島々について、上田が黄海・東シナ
海沿岸の港湾の立地と歴史的展開について、高橋が東アジア海域の交流を支えた海民
について、翻訳を含めて各10分程度の話をする。23時ころ終了。
-
5/04(金)
- 朝食後、車で将島対岸の山中にある新羅時代の寺院跡(法華寺という)に
行く。堰堤の下で下車し、20分ほど山中に分け入る。送電線の鉄塔があるあたりか
ら、瓦などが表面採集されたという。そこから下の斜面に石垣を使って階段状に整地
した場所がある。ここが法華寺跡だとする確証はない模様。8時半過ぎにホテルに戻
るが、行政船を使う予定が変更され、急遽民間の船を雇うことになる。ホテルのコー
ヒーショップで座談会の続きをやる。ついで、ホテルすぐ側の莞島港で船の来るのを
待つ。魚市場で競りをやっているのを見学したり、屋台でイカ刺しを賞味したり。
- 10時過ぎに船が来る。馬山レジャーという会社の釣り船で、かなり大きく、船内で
寝ころぶことができる。北へ少し航行して、将島の清海鎮遺跡を海側から観察し、莞
島港へ戻る。船内で、作ったばかりの鯛の刺身と弁当をいただく。その後まっすぐ外
海を麗水に向かう予定を変更してもらい、莞島沈船の発見された場所へ行けることに
なる。薪智島の南を通り、助薬島の東北に細長く突き出した岬の先端のすぐ側にある
沈没地点へ。このあたりの海は、新安船の現場より水が澄んでいる。地理学者の文炳
采教授から、沈船の発見場所には岬の近くで潮の流れがぶつかり合う地点という共通
の特徴がある、との説明を受ける。それで思い出したのが、『老松堂日本行録』48節
に、壱岐島勝本について「梁口に両水相撃つ処あり、崔回礼曾て沈没せし地なり、船
皆此を過ぐるを以て難と為す」とあることである。
- 沈船現場から西へ向かう途中、停船して、左右に横付けした2隻の船から燃料の補
給を受ける。平日島の北を通って広い海へ出る。波が荒くなり、ほとんどの人が船室
で仮眠をとる。外羅老島の南を通り、所里島と安島の間の水路を抜ける。円仁は大中
元年(847)9月2日に赤山莫耶口から新羅船で帰国の途につき、4日は高移島(現在の荷
衣島)に泊し、その西北100里余りにある「黒山」に言及している。5日深夜に高移島
を発し、6日午前6時ころ「黄茅島(別名丘草島)の泥浦に至り船を泊」した。8日に
発船、9日に「雁島」で休息をとり、10日の明け方には遙か東方に対馬を望み、「初
夜に至り肥前国松浦郡の北界鹿島に到って船を泊」した。「雁島」は読みがアンドで
安島に比定される。『海東諸国紀』の「雁道」も同じ読みで、関連があるかも知れな
い。東洋文庫本は黄茅島を「巨次群島東端の葛草島(麗川郡三山面の草島のことか)
らしい」とし、雁島を「巨文島なるべし」としている。前者は莞島郡青山面の大小茅
島も有力候補であるし、後者は誤りであろう。
- 予定より大幅に遅れて麗水着。ちょうど何かのお祭りで、おじいさんが鉦の音に合
わせて踊っている。港で韓国勢と別れ、マイクロバスで釜山へ向かう。馬山あたりと
釜山市内の渋滞で、ようやく23時近くに釜山駅前の広場ホテルに到着。
-
5/05(土)
- 8時30分にタクシーでホテルを出発、9時に金海空港着。11:00発KE713便で
成田へ。
-
- 最終日の5月5日、名古屋便が午後4時台だったので釜山市立博物館に行きまし
た。前回に行ったとき月曜日で見ることができなかったので、今回はどうしても見た
いと思っていました。無料で土曜日のため、家族連れがかなり見学していました。案
内のところですべての種類の図録・葉書を買っても1万ウォンでした。千円以下で
す。また、周辺にある金石史料も前回より充実していて楽しくホテルに戻ることがで
きました。
[高橋公明]
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