日島(樋島)
1298年(永仁6)4月24日に海俣(若松島)から出帆した藤太郎入道忍恵の唐船 が、樋島近 くで破損。積荷などが一里内外に広がり、樋島の在津人・百姓等が船7艘 で、関東方々 御物などの荷を1〜2度運び取る。関東御使(義首座)が派遣され、鎮 西探題より志佐 小次郎祝・奈留兵衛入道道仏・青方四郎家高らに、積荷の捜索が命じられる。(葛西殿 御物中に「あらさしのしさや」の太刀あり)<『青方文書』>
1352(観応3)年、足利直冬より伊東祐武が、「肥前国五島内日島内日島浦」の代 として、「同国西浦三十町以下地頭職」が充行なわれる。<「伊東文書」(南北朝遺文3-3323・3428)
14世紀末〜15世紀初、青方殿(固カ)宛ての篤書状案に「又ひのしまにいほたちて 候へハ、御りょうないのくつろきさつし申し候て、めてたくそんし候」(日島に庵も建 ったことからも、領内の安穏を察する事ができ、目出度く思う)とある。当時、日島は 青方氏の知行下か(もしくは日島内に所領があったか)。<『青方文書』2-324
1469年(文明1・己丑)「五島日島大守藤原朝臣盛」が対馬の宗貞国を仲介して、 朝鮮王朝に通交する。「源勝(宇久氏)管下の微者」と注記あり。<『海東諸国記』>
*『青方文書』2-411 近藤民部丞宛、栄・盛連署書状案 (欠年)九月一五日 折島の知行相論に関する内容。平戸薩摩守、宇久尾張守<幡(ノブル)=1513(永正10)年53才で没、別説1501(文亀1)年47才で没『編年史』>、純定<宇久純定?=1586(天正14)年62才没『編年史』>
1541年(天文10)6月20日、策彦の乗る遣明船(一号船)、帰国のため烏沙門 を出帆。26日、五島内の日島に着岸。二号船も入港。志賀島人がいて、防長二州・博 多のことを聞く。上陸して清水を飲む。島の側に円通寺という寺があり、詣でて茶話の 後、入浴し、船に戻る。吾国の「冥加(茗荷)・青山椒」を初めて食べる。27日、北 風なので出航せず。正使以下上陸して、円通寺で懺法三十三座を行なう。円通寺は金烏 山という(日島に副うからか)。主盟(住職)に門流を問うと、其の先は嵯峨門派であ るが、年代深遠により 流派はわからないという。「蓋し夷中の僻島以てなり」。本尊 の十一面観音は大唐から流れてきたもので33年に一度開帳する。28日、日島を出航 し南満(奈満)屋堅(ヤカタメ)に停泊する。<「策彦和尚初度集」>
日島の円通寺は、明治初年に廃寺。<角川地名辞典> ⇒後、源寿院として再興。十一面観音も現存。
金烏(キンウ)=太陽・日の異称(太陽の中に三足の烏がいるという中国の伝承)
- 「金烏・玉兎」=太陽と月(『禅林類聚』「金烏東上皆貴、玉兎西沈仏祖迷」)
- *日ノ島<『角川・日本地名大辞典42・長崎県』>
島の南側に遭難した無縁仏を供養した板碑・五輪塔が無数にあるが、かなり破損が進んでいる。
・島名の由来に、もと火ノ島で烽火所があったという説あり。最高峰の祇園山(244M)に「番屋の峠」あり。
- ・近世、日島掛りに属す。村役人は入江・今の両家が世襲。この両家には、原塚・漁生浦・小曲・芦塚の漁業権が永代許されていた。
- ・付近一帯はキリシタン集落あり。
- ・有福島への居住は近世から
- ・現在は曹洞宗清岳山神護寺、浄土宗源寿院、日島神社あり
- *『五島編年史』<公譜別録>
1550(天文19)年、中浦筋、日島にある西当麻等、皆誅に伏す。(同年、奈留長門盛信の乱あり)
- @『若松町誌』(町教育委員会)S55、『南松浦郡日島村誌』郷土誌編纂会T7
[藤田明良]
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