村井科研5班第5回研究会(2003/5/11)

場 所:立教大学文学部荒野研究室
出席者:浅見雅一・荒野泰典・川越泰博・杉本史子・高橋公明・鶴田啓・橋本雄・ケネス=ロビンソン(50音順、敬称略、以上8名)
*今回はシンポの話し合いなどもあるためclosedにて開催しました。

1)高橋公明「海域史からみた朝鮮図」
2)橋本 雄「真贋のはざま――情報論としての偽使問題――」
3)浅見雅一「キリシタン宣教師の日本人の宗教に対する認識について」

1)高橋公明「海域史からみた朝鮮図」
 2003年8月末に韓国国史編纂委員会を訪問し、李相泰氏から大判の朝鮮図のポスターを紹介された。島の名前がこれまで見てきた朝鮮図と比べて非常に多く記されていること、氏の研究によれば15世紀の後半のものと推定されていることに興奮した。帰国後、この地図が国立公文書館所蔵の朝鮮図(トビ氏と橋本氏が見学会を企画した際の主役→参照:本ホームページ[個人調査・研究]参照)とほとんど同じ図柄であることを確認した。その後、李相泰氏のご好意と橋本氏、杉本氏、池内敏氏のご協力により、韓国国史編纂委員会の朝鮮図のポスター、国立公文書館の写真、これらの地図に関する主要論文を入手し、検討する条件が整った。  これらの地図に関する主要な研究は以下の3点で、互いにそれぞれ微妙に異なる視点から検討しているが、韓国国史編纂委員会所蔵の朝鮮図が16世紀以前に作成されたものと認定している点は共通している。
(1)青山定雄「李朝における二三の朝鮮全図について」東方文化学院『東方学報 東京』第9冊、1939年1月。
(2)長正統「内閣文庫所蔵『朝鮮絵図』およびその諸本についての研究」九州大学文学部『史淵』119輯、1982年3月。
(3)李相泰(イサンテ)「朝鮮初期に製作された『八道地図』に関する研究」母岳実学会『実学思想研究』17・18合輯、2000年12月。韓国語。
 以上を前提にして、これまでの途中経過を報告した。
 
A 韓国国史編纂委員会所蔵の「朝鮮八道地図」について
 この地図は絹本で彩色されており、サイズは91×137cmである。1923年、栢原昌三が実施した対馬史料採訪により発見され、宗伯爵家から朝鮮史編修会の前身の機関が借り受けた。その後、朝鮮史編修会の所蔵となった。
B 国立公文書館所蔵の「朝鮮国絵図」について
 この地図は紙製で彩色されており、サイズは152×91cmである。漢籍に分類され、題目は「朝鮮図」で、請求番号は「史199-4」である。紙は3枚で、継ぎ目は上から60cm弱と下から36cmあたりにある。折り目は縦は3本、横は4本である。左上と左下に「秘閣図書之章」(3行)の印があり、上が1879年(明治12)、下が1872年(明治5)に彫られたもので、いずれも紅葉山文庫から移管された本に捺されたもの。Aのきわめて忠実な写しである。ただし、地名でわずかな違いが見られる。AはBの原本と推定できる。Aは1923年まで対馬の宗家に保管されており、これ以上にさかのぼることのできる地図がなく、Bは宗家から徳川家に献上したものと考えられる。
 なお、報告会の席上で、Bだけに釜山のあたりのみに「館」の記述があり、こちらの写しが近世になってから作成されたものであることがほぼ確実となった。
 
 ついで、報告者の立場から島の名前、港の名前、赤い舟の印に注目して今後作業を行うという方針を説明した。島の名前は多く、さらに、豆満江の北にまで及び、海に関する関心の高さは注目できるが、高麗史地理志、世宗地理志、新増東国輿地勝覧などの地誌的なデータなどとセットとして一致するものはなく、もう少し検討する余地がある。
 また、席上、赤色の舟の印は、伊能図の港の地図記号とそっくりであるという橋本氏の意見があった。
 最終的には、以上の点をさらに具体的に検討することによって、海域史の立場から地図の見方を提案したい。
(1405字)

2)橋本 雄「真贋のはざま――情報論としての偽使問題――」
 外交使節の役割の主なものの一つに、海外情報の収集と伝達とがある。ここでは、国境を越えた情報論の一例題として、偽使を中心に、そのもたらした情報の「質」について考察してみたい。
 15世紀の日朝間を行き交った偽使には、架空名義の開発や第三者名義の無断使用、詐称・僭称など様々なタイプが混在し、複合化しているものがあった。ただし、真偽を判定するのが「偽使研究」の最終目的ではなく、現実の使行において、いったい誰がイニシアティヴを握っていたのか、どのような運営形態の使節であったのか、という点こそ重要である。その点を忘れないように、偽使を含む外交使節の情報を料理していかねばならない。
 偽使のもたらした情報はまったく信用できないのだろうか? あるいは、どこまで信用することが可能なのだろうか? 自分の経験で言うと、ウソは、まったく無のところからは生まれない。必ずや、何か真実の体験や知識、情報などがあって、それなりの嘘を「でっち上げる」はずである。つまり、完全に真っ赤なウソというのは存在し難く、ある現実をモティーフに「嘘・偽り」は作られるのでないか。こここそが本考察の出発点である。
 考察の前提として、偽使がどうやって作り出されるのか、「偽使の技法」とでも言うべきコード群を押さえておく必要がある。(個々の実例については報告者の旧稿などを参照されたい。)
 第1に、通交名義人の実名の一字(とくに系字の方)や官職名を変える(ex.畠山殿)。
 第2に、通交名義人やそのモデルの政治的混乱期を狙う(ex.琉球国王・肥後菊地殿)。
 第3に、通交名義人の本拠地不在時期を狙う(ex.大内殿)。
 第4に、通交権確保のための打開策として繰り出される(ex.1482年、日朝牙符制の発効と同時に登場した夷千島王遐叉使節など、偽使派遣勢力の「危機」に際して(遐叉=対馬主体の偽使とする長節子氏説に従いたい))。
 たとえば、以上のごとき「技法」が、偽使派遣の背景として指摘できよう。
 そうしたなかで、偽使通交を容易にするための、主に朝鮮王朝に対する情報工作が繰り広げられたわけである。最近、報告者の気付いた面白い実例として、肥後菊地殿名義の偽使――正確に言えば偽使の偽使――がもたらした虚偽情報の問題がある。その情報の作られ方とは、かつて米谷均氏が注目したような、対馬島内の政治情勢を、日本本土の政治情勢に投影・拡大して見せる、あの語り口である。具体的には、1470年前後の宗貞国の博多出兵という事実を、ありもしない肥後菊地氏の上洛・合戦参加として描き出していたのだ。  しかも、この1470年前後というのは、空前の偽使ブーム――朝鮮遣使ブーム――であり、大量の外交使節が朝鮮に通交した時代であった。そのとき、対馬にいた宗貞国の主導で、博多商人の協力のもと、偽日本国王使や偽王城大臣使、偽琉球国王使が仕立てられていたことは恐らく疑いない。だが、肥後菊地殿の偽使の偽使、が通交していたことから分かる通り、通交権は事実上、対馬と博多とで二重化(分裂)していたと考えられる。このように、偽使と言っても事態は複雑であり、彼らが語った内容については、十分な吟味が必要なのであった。
 偽使のもたらした情報だからと言って全面的に信用ならないとか、真使だから完全に信用できるとか、そういう単純なことではない。そして、使節の真偽審査と情報の真偽判定は得てして循環論法に陥りがちだが、使節の立場をわきまえ、その発言の真意を探ることが不可欠だ。真使の発言のなかにも、「ためにする」虚偽情報というのは存在する。
 つまり、本質的には史料批判と同じ作業(史料読解)が、国際関係をめぐる情報論には必要なのである。そして、ここにこそ、実証主義(P論)と脱構築主義(D論)との交点も見えてくるのではないか。「情報論としての偽使問題」は、その一つの試金石だとさえ言えるだろう。
(1592字)

3)浅見 雅一「キリシタン宣教師の日本人の宗教に対する認識について」
 キリシタン宣教師達は、布教地である日本の宗教を認識することを最重要課題として布教の初期段階から盛んに調査している。キリスト教が日本に伝来した戦国期には主要な宗教は仏教であり、キリシタン宣教師達は、仏僧との論争を頻繁に行なったことを報告している。フランシスコ・ザビエルは、インドとは異なって日本には聖トマスのキリスト教徒は存在せず、日本人の信仰する宗教はキリスト教とは異なるものであることを明確にした。ザビエルの布教以前には、日本にはキリスト教的な如何なる要素をも存在しなかったことは、日本の布教が完全な異教世界に対する布教であることを意味している。従って、キリスト教の神が日本では姿を変えて存在していたとする本地垂迹の発想は日本では生じなかったのである。
 キリシタン布教の方法論としては、準備福音宣教からキリスト教の教えを説く七段の段階的布教方法が採られていた。キリシタン宣教師達にとっては、布教地において本地垂迹の発想が存在したのであれば、七段の教えにおける各要素をキリスト教の教えと対比させることが必要となる。しかし、日本ではキリスト教の神の本地垂迹という発想は存在しなかったので、七段の教えに含まれる凡ての要素を直接比較することは理論上困難であった。日本人の宗教を論じる際に、創造主としての神についての議論が基礎となるのは言うまでもない。次の課題となる世界の創造は、準備福音宣教に含まれる重要問題である。ガスパル・ヴィレラは、1563年に日本人の宗教観を反映する世界の創造についての報告を執筆している。これは、ガーゴが紹介している1557年に執筆された報告に見られる世界の創造についての二つの説に、もうひとつの説を加えたものである。これによって、日本の創世神話にはキリスト教的神が存在しなかったことが確認されたのである。
 日本人の宗教については、布教の初期の段階からキリシタン宣教士達の間では様々な形で議論されてきた。キリシタン宣教師達にとって、布教地の宗教を知ることは確かに最重要課題であった筈である。布教が最大の目的である以上、現地の宗教事情は熟知しておかなければならないことである。しかし、その一方で、布教地の宗教を研究することは、あくまでも布教のための手段であって、布教地の宗教に対して論駁する方法が確立してしまえば、それ以上は深く研究する必要のないものである。そのため、初期の段階で作成されていた日本人の宗教についての報告書は、1570年頃を境として作成されなくなった。こうして、日本の主な宗教である仏教それ自体の関心よりは、仏僧との論争などに関心が移行していくのである。このことは、布教の方法論が確立していったので、布教の実践による成果の誇示へと関心が移行していったことを示している。
(1151字)

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