村井科研第3班シンポ「朝鮮と琉球」

02年8月22日於浦添市立図書館

 
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高良(総合司会)開会宣言 開会時23名(最大30名弱?)
豊見山趣旨説明:韓国の専門家と突っ込んだ討議をするのははじめて。
 
+1030
渡辺美季(東大・学振)「近世琉球における外国人漂着民収容センターとしての泊村――特に朝鮮人との関わりを通じて」
0はじめに
1泊村の特徴と泊士
2泊村の漂着民収容システムの概要(中国人と朝鮮人の扱いの違い)
3漂着民埋葬地としての泊村
4「漂着民の世話」という好機
4−1朝鮮人の処置の請込みと通事の輩出(18世紀末から通事を制度化させようとする:久米士の中国語通訳の地位はそのまま)
4−2功績としての医療活動(通常の出世コースから遠い泊士・那覇士の活躍)
5泊村漂着民収容システムの変化
6補論:唐人屋敷と朝鮮人屋敷(付地図参照)
 
+1105
深沢秋人「朝貢使節と皇帝の行幸――清代の朝鮮使節・琉球使節を中心に」
1はじめに(清朝の対外関係全体のなかでの各朝貢使節の差異――紙屋論文をさらに広げる)
2「光緒欽定大清会典事例」に見える皇帝の行幸と朝貢使節(北京内外各地のみならず盛京、熱河、南巡時なども。19c前半には北京で「蒙古包宴」)
3皇帝の行幸と北京の城門における送迎儀礼(琉球使臣が見えない理由は?)
 
+1133
米谷均「北京における朝鮮使節と琉球使節の邂逅」
おもに14c−17cの事例紹介
1中国の国都における朝鮮人と琉球人の交流関係史料(朝天録や韓国の文集など未開拓の史料まだあり)
2文集・紀行記録にみえる関連記事(14世紀末〜17世紀前半)
3李スイ光と蔡堅の交流(李スイ光のものすごい知識欲)
4おわりに(強い夷狄観・エキゾシチズム/詩作能力を重視・同文同種の友誼観とそれゆえのライバル意識)
*越南詩文集の検討の必要/では琉球詩文集は?         
 
1205終了
+1310 孫承きつ(吉+吉)(江原大学校)「朝・琉交隣関係と史料研究」
1 はじめに・・・・史料がカバーする時期と研究史の概要
2 朝・琉関係の現況と問題点・・・・王代別・テーマ別の実録記事件数一覧から見られる7点の問題。
3 朝鮮前期の朝・琉関係
(1)構造と性格
(2)偽使問題・・・・関連記事目録/交易以外に大蔵経の請求
(3)北京迂回の通交
4 朝鮮後期の朝・琉関係
5 朝・琉関係史料・・・・燕行録、宗家文書、個人の文集(最近、3000冊影印)など
6 おわりに
 
+1338
河宇鳳(全北大学校)「近世朝鮮人の琉球認識」
1はじめに
2情報収集の形態と内容
3官吏・知識人の琉球認識・・・・15c以降、小国視から向上(対等視まではいかない)。知識の蓄積。後期には実際の知識抜きに実学の主張に引きつけた「成功者」の議論
4漂流民の琉球認識・・・・前期には王朝、後期には知識人によって重視される。地方の写実的情報
5おわりに
 
+1507
閔徳基(清州大学校)「漂流民を通じた朝鮮と琉球の情報交流」
(1)はじめに
(2)朝鮮における漂流民を通じた琉球の情報と交流
(3)「琉球王子殺害説」の伝承・・・・20世紀前半まで済州島で伝承。朝鮮後期には朝鮮士大夫間に広がる。仁祖政権が光海君の悪政強調のために「琉球王子」説を捏造? しかしそれが定着。安南王子だとの訂正は定着しない。
●済州島民が他国へ漂着した際に出身地をいつわる理由。
(4)琉球記録に見える朝鮮漂流・・・・琉球側の朝鮮人に対して日本的なものを隠蔽する政策。
(5)おわりに・・・・隠蔽政策の背景としての独立の誇示
 
1440 張源哲(慶尚大学校)「朝鮮と琉球の文学的交流の一局面:漢詩の交歓を中心として」(レジュメはハングル)
*専門は比較文学
1 漢文・漢詩は東アジアの共同文庫。これに参加してはじめて東アジア文人の完全な資格。漢詩(詩)と民族詩(歌:郷歌、やまとうた、おもろor琉歌、国音詩)。漢詩は国家間関係でも重要な役割。
2 申叔舟以来の認識。16世紀末の抗日同盟論。
3 17世紀の李スイ光以来の文学的交流の深まり。代表的なのは柳得恭。庶流出身で官職より文学に励む。新詩風を創る「四家」の一人となる。清を排し明を慕う風潮に異議。外国に学ぶことを主張。北京で李鼎元と知り合う(琉球訳の著者)。各国人の作品を集めた「竝世集」を編む(日本人の作品も収録)。琉球人の作品4首。「東海の平和」を祈る作品。琉球王子殺害事件の文学世界への広がり。
4 1861蔡大鼎と朝鮮の李敏求の対話。琉球処分期の救国運動と林世功と朴ケイ寿(開化派の先駆者)の交流。訳官詩人金セキ準の琉球人に関する詩。
 
1518休憩。
1530総合討論
高良:各発表のまとめ。朝琉関係史の問題の枠組みの広がりが示される。
桃木コメント:ベトナム史・東南アジア史が学ぶものとコメントできること。
 
討論
琉球王子事件の真相は(河)
――(海域アジア史研の藤田報告)2つの漂着事件が混合してできた話。琉球内部では伝承なし?(米谷)
――1612年漂流した蔡堅は中国への貢期短縮要求など外交で尽力(豊見山)
清代属国同士の交流は禁止されてないのでは。では直接外交途絶の原因は? 朝鮮側はわかったが中国側・琉球側・日本側の事情は?(西里)
――中国の禁止規定はないだろう(深沢)
――清代における「外交」の後退?(漂流民送還は特に外交の問題ではない)(岡本)
――日本・琉球関係がやはり影響(それを越えて関係を結ぶ必要がない)(孫)
――清の成立のインパクト?(豊見山・渡辺)
タイとベトナムの関係は(西里)
――漢文で交渉(桃木)
近世カンボジアの両属と琉球を比較できるか(渡辺)
――二重王権それぞれの分属という点でやや違う。むしろ東南アジアで面白いのはオランダ支配下のジャワ王朝文化と近世琉球文化の比較では(桃木)
琉球の朝鮮観・南方観は?(孫)
――琉球側には漂流民などの情報を記録・蓄積する機構がない(真栄平)。
――明代には東南アジアは同じ進貢体制の仲間という観念。ただし関係は安定的でない。朝鮮に臣と称して朝貢したというのも疑わしい(赤嶺)
――高麗末にも臣と称している。最初はそうしていたのでは(豊見山)。
文書様式に朝鮮はうるさい(米谷)
――琉球側も相手に会わせながら形式を操作(西里)
――作詩能力と中華文明圏の外交(豊見山)
――ベトナムは儒教は形式だけ。詩は一生懸命(桃木)
――朝鮮で燕行したのは文学史に名を残す人物ばかり。琉球は朝鮮と比べるとやはりあくまで貿易。朝鮮は文化。柳得恭も北京へ本を買いに行く(張)
琉球使者は勝手に館を出入りせず?(張)
――朝鮮使者は自由?この琉球使者はどこにいた?(深沢・西里)
――琉球側に漂流記や知識人の文集における朝鮮使者との交流の記録はないのか?(河)
琉球側の対外認識全体と朝鮮観は?(孫)
――国家の文化状況が違う。結果として知識人の層とレベルが違う。北京行きの旅程の復命報告はあるが燕行録のようなものはできない(真栄平)。漂流記も個人記録はない(小野)。家譜はある(米谷)。家譜のもとになる記録があったはずだがほとんど出てこない(小野・渡辺)
――人により「どういう意味があるか」が違いそれにより朝鮮を認識するしかたが違う(渡辺)。
――中世には「万国津梁の鐘」の「三韓の秀をあつめ」(文明国観)。近世は朝鮮に限らず漂流民と一般人との接触禁止。しかし食料供給規定では朝鮮人がいちばん優遇(豊見山)。
――見張り小屋の数、王府役人の派遣の数などでは「力を抜いてる」(渡辺)
――おもろなどで朝鮮をなんと呼んだかわからない。本格的歴史編纂は1650年以降で、東南アジアや朝鮮との外交関係はなくなっている(高良)。
中国から見た朝鮮と琉球は?(渡辺・高良)
――タテマエは一視同仁でも実際の扱いでは朝鮮を優遇。とくに漂流民送還(劉) 中国史料の使い方はトウ案を含めて参照すべし皇清職貢図も面白い(劉)。
王子殺害事件。実際の王子渡航があったか。山南王子はあったがその記憶も影響? 清代の朝琉断絶の原因。現代中国から見れば清はやはり中華として連続(沖縄の孫さん)。
非中華清朝の側面も見るべし。朝鮮が入関前に藩属した点の影響は(桃木)。日朝関係の影響は(栗野)
――朝鮮は清に対して日本との関係を厳に隠す必要(孫)。
――しかし日本情報は清に提供(倭情シ文)(米谷)。
――重要な情報は流さない(申)。
――朝鮮はたしかに日本との深い関係は隠す傾向(明代から)(米谷)。
――中国側も薩摩の琉球支配を知りながら表現に苦労(西里)。
清における朝鮮の位置づけは高いが、1年4貢で回賜品はよくない(西里)。
――初期は琉球と違い取り立てもきびしい。ヨウセイ期にようやく軽減(豊見山)。
――朝鮮の負担は大という研究とそれへの批判あり。国家と商人とでも違う(河)。
――沈国慶説では上奏権が琉球国王にあるという点は特別な優遇?朱批諭旨が残っている(赤嶺)。
――朝鮮でも奏請使を送るが礼部を通すだろう(孫・河)
琉球側詩文集にないかという問題。あるのでは。ベトナム史料では見聞小録などいろいろ(米谷)
1740豊見山まとめ。朝鮮王朝実録だけで研究する時代でない。史料的にも空間的にも大きく広がり。来年の大シンポにつなげたい。
 
1745終了。終了時27人?
[桃木至朗]

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