2001/3/19

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朝8:30レンタカーでスカイシーホテルより出発
 
8:45 木引町 【臨済宗龍燈山 千光禅寺】
1191年(建久2)栄西(千光国師)が二度目の渡宋から帰国して、平戸で開いた禅院(富春庵)の故地とされ、元禄年間平戸藩主松浦棟の命により、その遺跡を探し出し、1695年(元禄8)千光寺と名づけ、1713年(正徳3)現在地に寺を建立した。周辺に顕彰碑(「大哉心乎」碑)や座禅石・日本最初の茶畑(富春園)など栄西の伝承地が残っている。
 
9:00 島南端の志々伎山へ
 
9:45〜11:05 野子町 【真言宗志自伎山 阿弥陀寺】
阿弥陀寺は、志自伎山円満寺(開山文永7年、1270)の分院で、円満寺の火災によりすべての文書を焼失したため、その開山などは不明である。寛永11年(1634)年松浦藩主隆信の援助により円満寺と共に復興再建された。明治2年円満寺が神仏分離令によって廃寺となった。仏像・寺宝・古文書記録はこの寺に移されたという。
寺宝見学(仁王像・梵鐘・懸仏・鎌倉末期〜室町期の十一面観世音菩薩像・地蔵菩薩座像・不動明王像・経本・古文書撮影)
渡来仏「金銅如来像」調査(高さ5.3cm、台座横幅3.3cm、奥行き2.5cm、台座に洪武丙子(1392)の年紀)
 像背陰刻銘文:
 周(口なし、門構えの「冂」→「闔」の略か、みな・全部の意)府敬報四恩命工鋳造佛相
  *「敬服」は「敬報」の誤であろう。
 台座陰刻銘文:一様五千四十八尊
 倶用黄金鍍之所以  
 廣陳供養崇敬如来 
 吉祥如意 囗 洪武
 丙子四月吉日施
阿弥陀寺如来像の不明な部分の写真も添付いたします。
「吉祥如意 囗 洪武 」 ご教示をお待ちしています。
 
11:20 〜11:50【志々伎神社中宮】
志々岐山に上宮・中宮、宮浦に浜宮・沖宮がある。海上の安全を祈る。山の中腹に志々伎神社中宮石造物(仏像)、中国風?六角屋根(薩摩塔)が残っている。山頂への道路は不通のため、撤退。
 
12:00 −12:50大川原町【地蔵堂】
六地蔵石塔、天文12年(1543)付けの銘文ある。市内現存最も古い地蔵である。地元の信仰が強い。管理人が毎月1日・20日掃除、通夜祀るという。 地蔵堂内保存している渡来仏金銅菩薩立像(高さ13.5cm、幅最大5.7cm)と半伽楊柳観音(高さ18cm)を調査。
 金銅菩薩立像背面の銘文:
 宋景平三年(425)正月十日
 張法敬造佛像一區
 夫妻普為四恩地道 →「地道」は「六道」か
 法界衆生但昇妙果 
とあり、年代に疑問があり、追刻の可能性がある。
半伽楊柳観音像の年代も古い。宋元時代の観音像を略写した観がある。(『平戸市史 民俗編』)
*三行目の「地道」は、メモを何度みても「地道」であります。あるいは小生の誤記かもしれませんが、仏教用語で「六道」と同義であれば、「ママ」で宜しいのでしょうか。[米谷均]
*大川原地蔵堂如来像の銘文の「地道」か「六道」の件、一見「地」に見えますが、実際は「六」だと思います。ご参考に添付の写真ファイル確認してください。「四恩」と「六道」は対句になっています。
 
13:10−15 木ヶ津 【普門寺】(旧龍瑞寺跡)
室町中期松浦家二十一代天叟公(義)の隠居所であった。江戸中期三十五代観中公(熙)がここに円融山瑞龍寺を建立し、堂宇・庭園を造営した。唐風の本堂(景粛堂)・常盤蔵・石灯篭群・庭園なども現在残っている。明治4年に廃寺となった平戸城下の普門寺がここに移される。
 
13:30 川内湾に面している京崎公園で昼食。
 
14:10 〜14:50川内港 【鄭成功居宅跡地・観音堂】
鄭氏媽祖神像保存会会長の堤浩繁氏の説明を受け、1976年に発見したこの媽祖像(32.8cm)と隨臣の千里眼・順風耳(各22.5cm)に関して、従来周辺の町民は「媽祖」とは知らず、「御三体様」と呼んで祀っていた。発見当時の像は、本体の額の一部が欠落して、損毀が進んでいたので、1990年に京都国立博物館内の国宝修理所に修復を依頼したという。この媽祖像の両側に1997年に台湾台南鹿耳門及び彰化鹿港の天后宮からの分霊媽祖を祀っている。なお、鄭氏居宅地の裏の堂で発見したことから、鄭成功縁りのものも考えられる。中国との交流を示す実証的史料として価値が高い。
 
15:20平戸市内に戻り、浜下・李領氏と別れ。
 
15:30ホテル近くの魚の棚 【千日観音堂】(本成寺近く)
渡来の観音と韋駄天像を調査の予定たっだが、管理人不在のため平戸城へ移動。
 
15:40〜16:10【平戸城】
平戸城保管の木造関帝像?(高さ27cm)調査
占部氏?によれば、もと鮎川家墓地内のお堂に安置して、風雨に晒されていたという。由来は不明。『平戸市史 民俗編』では関帝像?と推定しているが、台湾に現存している多くの鄭成功像を参照すると、個人の意見では関帝ではなく、鄭成功の像と推定できると思う。
占部氏の話により、根獅子(ねしこ)の切支丹資料館に中国風武人像があるというので、急遽切支丹資料館】へ。
 
16:45〜17:20根獅子【切支丹資料館】
隠れキリシタンが祀られている日本刀を持つ武者像を調査。 厨子入り、両面の扉に十字マークあり、「聖ミカエル武者像」と名づけられ、 (本体高さ9.7cm、台座入れて16.8cm)日本風の像だと思われる。 史料館の裏にある小さい森が「うしわきさま」(ごろくにんさま)と呼ばれ、処刑された信者の遺体がここに葬られ、聖地となり、いまでも信者は素足で参りしている。
 
17:45川内峠 【塩上げ石】
大渡長者は元塩行商人で、毎日川内峠を越えて川内に商売に通っていたが、この石に差し掛かった折、ひと摘みの塩を石に載せ、安満岳に向かって将来の大成を祈願した。後に彼の願いは叶えられ、「大渡長者」と称されている。この石は今なお「塩上げ石」と呼ばれている。
 
17:55【大渡長者墓】
今最教寺の裏の墓地にある長者夫婦の供養塔と伝える五輪双塔が残っている。鎌倉末頃の作と推定され、非常に優れた作風で、長崎県を代表する石塔の一つである。近くに法印鎮信公の墓地があるが、暗くなったため、未調査。
ここで案内の久家さんと別れ、ホテルに戻る。
 
19:00頃市内の小さい料理屋(黒船)で夕食(ちゃんぽんなど)。お酒のつまみのようなものがないので(メニューにはあるが)、ちょっと寂しい。ホテルに戻って二次会。
[劉序楓]

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