2001/3/14
[出発]
- 11:40、五島福江空港に藤田・加藤・五野井・小宮・劉・橋本・伊川・米谷が到着
。福江市教育委員会の松崎義治氏と会う。市内の宿所に赴き、すでに現地入りしていた
李・伊藤と合流。カンパーナホテル内にある和風レストランで昼食をとった後、レンタ
カーと教育委員会の車輌2台で福江市内の踏査を開始する。
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〔五島観光歴史資料館〕
- 福江城(石田城)の一郭にある天守閣風の資料館。まず1階視聴覚室で福江の観光
案内映画を鑑賞し、2階で常設展示を拝見する。遣唐使・後期倭寇・キリシタンなどに関す
る展示がある。なかでも伊能忠敬の測量関係の展示が興味深く、現地で誰が測量隊に付
き添うかをめぐって福江・富江両藩の境界論争が再燃しかかったとの由を、案内の郷土
史家の方々が説明してくれた。1階資料閲覧室にて五島藩関係資料を閲覧する。これら
の資料は、長崎県立図書館所蔵の原史料をコピーして製本したもので、本棚2つ分にぎ
っしりと配架されていた。対外史関係に関わるものが意外と少ないのが残念であるが、
1769年に発生したオランダの無人船漂着事件を記した史料『明和六年 嵯峨島沖江 阿
蘭陀空船一艘漂流始終覚』が特に目に付いた。藩政資料以外に、個人蔵の史料(襖の下
張り文書が多い)のコピーにも面白いものがあり、『朝鮮人八人男女群島遭難始末記』
などがあった。
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〔明人堂〕
- 中国風の造作がなされた祠堂。かつては老朽化いちじるしい辻堂であったが、4000
万円の出資をもって近年新装された。王直が航海安全を祈願した廟堂の跡であるといい
、その居宅があったという「唐人町」に隣接し、福江川をまたぐ「唐人橋」の手前にあ
る。もともとこの堂は、地元の札所の一つであったというが、札所の方は下手に新設し
た地蔵堂に役割分担したとの由。堂内には、中央に笠を被った卵塔が、右手には「玉法
童女」の戒名が刻まれた墓石が、左手には「王直の肖像画」と題して描かれた陶板が祭
られており、肖像画の下には「王直生誕屋敷刻年石」が安置されていた。地元の伝承で
は、「玉法童女」とは王直の娘であり、父の帰国後、即身仏となったという。これらの
石塔は古い明人堂の時代から奉祀されていたようで、近辺の河川工事の際、成人男子と
7〜8才の女児と嬰児の人骨が発見されたとのこと。堂内には、唐船が停泊する唐人町
と江川城下を描いた想像図が掲げられている。また堂の後には、墓石の残欠や石門の残
骸が並べられていた。さらに後ろにまわって民家の敷地内に入ると、一枚板で作られた
井戸があったが、現在は口を塞がれてしまって旧状を察知しえない。
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〔宗念寺墓所から船着場跡へ〕
- 明人堂の裏手にある宗念寺墓所の付近には、かつての福江川の河道が走っており、
現在それが道路になっている。その旧河道をたどってゆくと、地蔵堂の付近に戻ってナタオ
レノキの大木が植わっている場所に至るが、往年、その近辺に住吉社があり、荷揚げ場
の階段があったという。かつての舟運の痕跡は、大通りを挟んで奥に続く、ウネウネと
した道路の形状にわずかに残っているのみ。荷揚げ場の旧対岸には、「たで場」
(船だて=船を陸揚げして補修する場所)という地名も残っている。『福江市史』(上:969p)
は、盛利の朱印船の船だてを行なった場所と想定している。
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〔六角井戸〕
- 大通りを明人堂から市中心方面に進むと、緩やかな上り坂になっていることが分かるが
、これは旧福江川が道路の左右を横断していた名残である。旧河道を渡ったすぐ左側の
位置に相当する場所に、六角井戸がある。現在、回りは民家に囲まれ、わずかな敷地が
残されているに過ぎない。井戸の側には水神を祭った石の祠がある。井戸の底を浚えば
何か出てきそうな感もするが、本格的な調査は未だなされていないという。同じ六角形
をしていても、平戸の六角井戸とはややタイプが異なっており、井戸枠の回りに放射状
に施された石の足場は、ここにしか見られない。なおこの六角井戸は、近世の屋敷図に
も描かれているそうだが、王直と結びつけて説明するような記事は、近世段階では見ら
れないとのことである。
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〔大円寺〕
- 五島(宇久)氏の菩提寺。川を挟んで東西二ヶ所に墓域が設定されている。まず、本堂
の横に位置する西墓地に入る。石段のすぐ横に、苔むした小さな石塔があるが、宇久囲
(かこむ)の墓であり、大永7年(1527)に没した旨が石灯篭に刻まれている。囲の墓
の奥に、中世後期から近世前期にかけての墓石が一列に連なっている。筆者が昨年3月
に訪れた折には、雑草が生い茂っていて容易に踏み込めない状態にあったが、現今おお
まかな草刈りが施されており、面目を一新していた。一番奥に、瓦葺きの堂を模した石
堂があり、中に宝篋印塔が安置されている。朝鮮侵略の陣中にて病没した宇久純玄の墓
所である(*現地では宇久盛長の妻「細御寮」の墓との説明を受けたが、恐らく間違い
である)。石堂は花崗岩のもので、壁面に五輪塔や蓮が陽刻され、かなり凝った造作を
している。背面に寛永10年(1633)の年号が刻まれているが、恐らくこの時に新造した
のであろう。西墓地を後にし、川を渡って東墓地に赴く。こちらは近世後期以降の藩主
の墓地で、石門をくぐって参道を進んだ先に、いかめしい面構えの五輪塔が林立してい
る。ただし墓地の周囲は民家にすっかり包囲されてしまっている。
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〔清浄寺〕
- 宇久氏第9代から第16代までの菩提寺であった寺。現在、第9代の宇久勝から第16代の
宇久純尭(ドン・ルイス)までを合祀した五輪塔が、寺の背後の墓地に建っている。ま
た宇久盛長(第22代盛利の父)を祭る石堂が、同じ敷地内にある。ほかにも清浄寺には
、五島藩家老の松尾家の墓石が林立しているが、規模としてはこちらの方が立派に見え
る。
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〔岩川〕
- 清浄寺を辞して民道を進むと、「ゆわがわ」と呼ばれる湧水地に至る。水場の川床には
石疂が敷かれている。説明板によれば、かつては入り江が近くまで迫り、朝鮮との交易
船が出入りして飲料水を汲んだという。また福江には同様の水場が3〜4ヶ所あり、上
大津川には西掃部(15世紀の一本松城主)が築造した「かもん川」があるという。現在
は洗濯場として利用されているが、ちょうど海藻を水洗いしていたおばさんから、かつ
てはここでウナギが捕れたとの由を聞き取った。いまなお非常に清浄な水が湧出してい
る。
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《夕食と宿所》
- 調査終了後、松崎氏同席のうえ、「か乃う」という食堂で海鮮料理を食す。キビナゴの刺
身のほか、箱フグの味噌煮、おらかぶの味噌汁などの珍味に舌鼓を打つ。なお、同食堂
は、「王直の間」「松浦の間」「倭寇の間」などの部屋があり、我々は松浦の間にて食
事を取った。夜、五島バスターミナルホテルに宿す。
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《余話》
- この日の夕食、劉さんは五島高校に勤務する知人に会うため、別行動をとった。その際
、「王直の宝」なる菓子を発見したという。なんでも赤い六角形をした箱の中に、様々なキャンデーが入れられていたとのこと。
[米谷均]
- 王直の間や松浦の間のある料理店には、わたくしもかつて行ったことがあります。
箱ふぐのみそ焼きをたらふく食べ、あらのフルコースを満喫しました。これから五島
に行かれる班の人々には、是非「かのう」のあらのコースをお勧めいたします。
[川越泰博]
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