2000/12/30
《奄美大島》
【宇検村の文化財・ノロの遺品】
- 8:15、天気は曇。宿のすぐ近くの中央公民館内にある教育委員会を訪ねる。もちろん休暇中だが、すでに元田信有氏が開けてくれている。宇検村や焼内湾の地理、歴
史、文化財などについて、説明をうける。
- 倉木崎海底遺跡の調査で脚光をあびたこの村は、実は奄美・沖縄諸島のなかでも歴史的遺産が豊富なところである。特に「政祭一致」の琉球王朝支配のもとで集落の公的
祭祀をつかさどった女性神官=ノロの関係資料の豊かさには驚かされた。辞令書(嘉
靖と万暦年間の2通)・占術書などの古文書類の他にも、表に王権の象徴である太陽
と鳳凰、裏にオナリ神を表す蝶と牡丹を描く神扇(15点)、神具や昆布などを納め
る円櫃、中国製の羽二重や高級芭蕉布で作られた色鮮やかなドキン(神着)の数々な
どがあり、16世紀末にも遡るものもあるという。
- 最近ようやく研究者が注目しだし、重要性が認識されるようになったが、小さな村での保存体制の整備が、今後の課題だということである(現在は通販で購入したという
桐ダンスに、16世紀の間切役人辞令書等と共に納められている)。現在、宇検村で
もノロ神事はほとんど行われないが、かつてのノロの家筋、あるいは集落共有財産と
して、これらが遺品として残されており、その一部が教育委員会に寄贈・寄託されて
いるのである。一方、奄美には神がかり状態で託宣を告げる、巫女のユタが現存す
る。このユタが、ノロの遺品を災厄の元凶だというお告げを下すのとこが多く、焼か
れてしまうこともあって、近年、関係者は頭を痛めているという(この話は前日、奄
美博物館の久氏からも聞いた)。
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【焼内湾】
- 9:30、天気が下り坂なので、遺物見学を後に回し、倉木崎海底遺跡の現地に行くことにする。役場や公民館のある湯湾集落から、元田氏の車で焼内湾の湾口方面に向
う。宇検村には平地がほとんどなく、山地とこの湾からなっている。深く湾入してい
る焼内湾は、湾口が見えずまるで湖のようである。婚姻など集落間の繋がりも対岸同
士のほうが強いという。台風など時化のときには、多くの船の避難場所となり、大型
タンカーから台湾漁船までひしめいた時もあった(現在は養殖網の保護のために、大
型船は入ってこないそうである)。湾内の入江は珊瑚のリーフの有無で、港湾として
の良し悪しが分かれるが、総じてリーフは湾口部に多く、湾奥にはみられないそう
だ。湾の沿岸一体は、琉球王朝〜薩摩藩時代に「やけうち(屋喜内・焼内)間切」と
いう行政区であった。車は湾の北側の道を進み、田検、芦検、田勝、久志等の集落を
過ぎていく。
-
【宇検集落の碇家と碇石】
- 10:10、湾口に近い宇検集落に着く。藩政時代に間切役所が置かれた行政の中心であり、薩摩から派遣された役人の山川石の墓もある。派遣役人のもとで行政にあ
たった地元の有力者を「与人」という。宇検の与人「佐渡知」は、珊瑚礁を切り開い
て水路を整備するなどの功績を認められ、藩主より「碇」の苗字を名乗ることを許可
された。港の入口に弁才天石像を祀る厳島神社があるが、これは「佐渡知」が航海安
全を祈願して草創したといわれ、社前には「元禄15年」「佐渡知」と刻まれた寄進
塔が現存する(神社には帰路に寄った)。
- 宇検集落は、伝統的な珊瑚石の石垣が残る趣のある所である。たまたま通りかかった区長さんにお願いし、主人不在の碇家分家の鍵を開けてもらう。庭の植木鉢の置き台
となっている石が、実は中国船の碇石なのである。97年に倉木崎海底遺跡の報告の
ため県の埋蔵文化財研修会に参加した元田氏が、碇石に関する報告を聞き、もしやと
思い調査したという。実物を見分したが、両端のくびれカーブといい、中心の溝状加
工といい、まさに中世の碇石である。この碇石はもともと碇家本家(跡地が現在の宇
検公民館)の庭園の池に橋として使用されたものだという。前述のように碇家は、倉
木崎海底遺跡のあるに、水路を開削しているので、もしこの時に引き揚げられたもの
なら、遺物の陶磁器を積んでいた船の碇の可能性もあるという。また、その功績で苗
字を許された時、「碇」を名乗ったことが、もしもこの碇石と関係するなら、元禄期
にも碇石に関する認識が残っていたことになる。解明すべき謎が多いが興味深い問題
であろう。
-
【倉木崎海底遺跡】
- 10:20、宇検集落の先にクルマエビの養殖場に着く。その前に見える枝手久島との間にある、水深2〜3mの珊瑚礁の水道が倉木崎海底遺跡である。94年、笠利町
歴史民俗資料館の中山清美氏が、青白磁片の散布を確認、95年に予備調査、96
年〜98年の3ヵ年、宇検村教育委員会が青山学院大学・鎌倉考古学研究所や奄美ダ
イビングクラブ等の協力を得て、本格調査を実施する。長崎県鷹島町に次ぐ、日本で
2番目の大規模な水中考古学調査として、全国的に知られることになった。
- 珊瑚礁の海底から引き揚げられた遺物は、2300点にのぼる。青磁白磁の碗・更・水柱・合子等の破片で、その大部分が、12〜13世紀の竜泉窯系と同安窯系で生産
されたものである。散布地は水道の入口方面に偏っており、ある地点を過ぎると急激
に減少するという。調査団では断定を避けながらも、これらの遺物は一艘の船の積荷
であり、焼内湾に入ろうとした船が、進入口を誤って珊瑚礁の浅瀬に乗り込んだ可能
性があるといっている。
- 我々が着いたときは満潮で、調査の際に「ポイントロック」と呼ばれた岩礁のあたりに、わすかに白波がたっていた。元田氏によれば、調査の20年程前に、水路設営工
事とひらめ養殖場設置のために、珊瑚礁を掘り返す工事が行われたが、その際に下に
埋もれていた陶磁片が表面に出てきたのではないかということであった。また調査の
情報が広まると某テレビ局が、発見された「お宝」を考古学者が隠匿、それをめぐっ
て連続殺人が起こるという推理ドラマを企画したが、抗議して筋書きを変えさせたと
いうエピソードも、教えてもらった。
- 11:20、湯湾の中央公民館に戻り、出土遺物を見学。さらに昼食をとりながら、調査記録のビデオを見せてもらう(このビデオは借用しダビングさせてもらった)。
-
【小湊・外金久遺跡展】
- 12:20、湯湾を出発。通称ハイビスカスロードという山路を南西海岸側へ抜け
る。昨日、特別展を見た小湊・外金久遺跡展の現地に寄って、名護市内に戻る予定。
13:30、小湊集落(名瀬市)着。市街地とは反対側の東海岸にある集落。北側に
大川の河口がある。河口と集落の間にある砂丘の上(現状は畑地)に、大量のヤコウ
ガイが出土した外金久遺跡がある。「金久(カネク)」は、砂丘・砂堆を指す地名で
外金久に隣接して長金久・下金久などの小字が残っている。川に面した砂の採取場に
車を置き、周辺を歩く。砂丘の内側の低地は、現在は埋め立てられているが、かつて
は潟湖として水面が広がっていたことが、地図からも実際の地形からも覗える。外海
から砂丘で仕切られたこの潟湖は、港として機能していたはずで、遺跡はこの港に面
していたことになる。今も潟湖の名残りが水路として埋め残してあり、砂丘の下に小
船が一艘、繋留されていた。
- 14:10、トンネルを抜け、名瀬市街地に入る。飛行機の出発まで時間があるの
で、インターネットでチェックしていた古書店「あまみ庵」(奄美本通り商店街)に
寄ることにする。2階に「郷土誌コーナー」があり、奄美だけでなく沖縄・鹿児島関
係が、なかなかの品揃えで、自治体史、史料集、発掘調査報告書、専門書もある。な
ぜか朝鮮半島関係も充実している。おきなわ文庫(ひるぎ社)やロッコウブックス
(六興出版)など現在、入手できないものもかなり揃っていて、見事に文献情報発信
センターの役割を果たしている。
- 14:50、あまみ庵を出る。外は遂に雨模様に。
- 15:30、奄美空港着。風雨が相当強くなり、発着便の遅れも出ている。荷物を整理、カウンターで宅配便を出す。2階の土産店コーナーで、宝貝(¥250)とオウ
ムガイ(¥800)、ヤコウガイとアワビの螺鈿細工(¥1000)を購入(これら
はその後、授業で活躍することになる)。さらに食用の冷凍ヤコウガイ(¥300
0〜5000)を発見、買おうか迷っているうち、大阪伊丹便の出発時刻が迫り、後
ろ髪をひかれながら、搭乗口に走る。
- 17:15、予定を30分ほど遅れて、離陸。(橋本氏は、19:00発の東京羽田便で帰宅。)
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[藤田 明良]
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