Date:2001/1/6
From:米谷均
Subject:[phase817 200] 釜山見聞録
拝啓 皆様 新世紀あけまして、おめでとうございます。
米谷です。小生、旧年末に釜山大学に行って参りました。同大学の古典籍室(第1図
書館3階)にある中村栄孝関係史料(多くは朝鮮王朝実録の日本関係記事の抜粋です)
を閲覧するのが、旅行の目的だったのですが、これ以外の図書も調べているうち、無性
に現地踏査もしたくなって、結局これを強行いたしました。その結果、ちょっと面白い
事がわかりましたので、見聞録を以下のように記し申しあげます。
(1) 仙巌寺(ソナムサ)
釜山市釜山鎮区タンガムドン(堂甘洞)の奥にある小さな寺です。この寺は、近世日
朝関係史においては、倭館の対馬島人が「闌出」してしばしば赴いた寺でして知られて
おります。「闌出」とは、倭館の外に違法に出ることで、朝鮮側から厳しく禁止された
行為で、1683年の癸亥約条においては死刑に相当する罪と定められております。ところ
が対馬島人は、これをものとせず、東莱まで出向いて温泉に浸かったりしております。
この仙巌寺も、倭館から約5〜6キロ北方に位置しているため、ここに参詣することは
勿論「死刑!」のはずなんですが、『辺例集要』をチラと見る限りでも、1665年に1回
、1695年に1回、1697年に3回の計5回の事例が確認できます(詳しくは尹裕淑さんの
「近世癸亥約条の運用実態について」『朝鮮学報』164を御覧下さい)。ところで「対
馬島人は何故にこの仙巌寺に参詣するのか?」、今に至るまで動機がよく分かっていな
いのですが、どうやらその理由らしきものが浮上して参りました。結論から申せば、こ
の仙巌寺は、中世以来、倭人たちと関わりの深い寺であったのというのが、その背景に
あるようです。戦前に編纂された『釜山府史原稿』第1巻によれば、仙巌寺は、見江寺
(新羅時代創建)が1400年に東平県から子城台付近に移建した際、現在の位置に分立し
て建てられた寺だといいます(なお見江寺は、『海東諸国紀』「富山浦之図」の中に、
倭人集落に近接して記されている寺ですが、壬辰倭乱のころ廃絶したと伝えられており
ます)。そして「仙巌寺記」(現在亡失)という記録によれば、「この寺の仏像は、倭
人によって其国(日本)に奉安されたが、災難がしきりに起こって横死する者が多数出
た。占いを立てたところ『他国の仏像を墓山の下に置いたのでタタリが出たのだ』と判
明した。そこで倭人はただちに仏像を船に載せて(朝鮮に)送り、熊川に停泊したとこ
ろ、熊浦の聖徳寺の僧がこれを受け取って供養した。(ここに)東平県の孫成敏という
者が、このことを慶尚道観察使に訴え、僧侶を率いて仏像を受け取り、本寺(仙巌寺)
に戻した。見識ある者が仏像を見て言うには『これは必ずや月氏国で作られた仏である
。容貌の美しいこと、他に異なる』と云々」と、伝えられていたといいます。仏像が日
本に持ち去られた時期などは不明ですが、熊川が出てくることから、恐らく三浦時代の
ことではないかと思います。なお崔海君氏の『釜山港』(1992年)という本によれば、
現在の仙巌寺の極楽殿にある仏像が、上記の仏像に相当するとの伝承があるようですが
、残念ながら今の仏像は古いものではなく、新造されたもののだと言います。
このような日本に渡った仏像伝承は、このほか、旧徳寺(現在廃寺。今の九徳運動場
近辺にあった寺)にも似たような伝承があり、この寺の仏像が博多姪浜の興徳寺に移奉
されたという話があるそうです。興徳寺文書にそういう話が記されていると『釜山府史
原稿』第1巻に書いてあるのですが、よく分かりません(乞御教示!)。小生は、釜山
からの帰路、博多にちょっと立ち寄って興徳寺に行ってみたのですが、よく分かりませ
んでした(そのかわり「李城国」が江月和尚のために揮毫した「海晏山」の額を発見し
ました。「李城国」とは1624年に来日の回答兼刷還使団員「李誠国」かと思われます)
。
また、この寺の庫裏の隅には、日本植民地時代の浄土真宗寺院の梵鐘がひっそりと(
隠れるように)置かれておりました。銘文によれば、本派本願寺の釜山別院「本照寺」
のために大正10年2月22日に鋳造された梵鐘で、寄進者の日本人の名前が列挙されてお
りました。こういう金石文も、是非『釜山市金石文』改訂版に載せて欲しいのですが、
まだダメですかねえ?。金東哲先生。
なお仙巌寺は、周囲を木々に囲まれた良い雰囲気の寺なのですが、付近まで高層マン
ションの建設が迫ってきており、あと1年もすれば、マンションに包囲されてしまうか
もしれません。霊水の寺としても有名な寺のようで、多くの参詣者が来ていたのですが
、そうした雰囲気もあと何年もつか、心配です。
(2) 豆毛浦倭館跡
1607年から1678年の間まであった近世の倭館跡です。倭館が草梁に移転してからは、
跡地は「古館」と呼ばれました。なにも残ってないと思ってたのですが、釜山市内で購
入した『市民のための釜山の歴史』によれば、「コグヮン」という地名が未だ残ってお
り、215頁に「コグヮンヤックク(古館薬局)」の写真が掲載されてましたので、どう
しても見たくなって写真の位置を捜しまくりました。地下鉄プサンジン駅からスジョン
ドン方面へ向かう坂道の上にありました!。付近には「コグヮン・ベーカリー」もあり
ました(本によれば、ほかにも「コグヮン歯科」や「コグヮン・マンション」があると
のことです)。船の時間が迫っていたので、写真を写すだけで満足せざるをえず、もう
少し感慨にふけりたかったと思う次第でした(今から思うと、薬局につくまで、倭館の
敷地内を全力疾走で駆け回っていたいたのですが……)。
(3) 中世倭館跡
豆毛浦倭館跡を捜索中、たまたま見つけた案内板によれば、子台城公園の西側にある
釜山鎮市場が、その敷地のようです(『海東諸国紀』の地図から見てもその可能性が高
いです)。前回9月に釜山を訪れて子城台を踏査した際、道に迷って入り込んだマーケ
ットがそうだと気付きました(写真とってない!)。回想するに、この市場は蒲団など
の日用雑貨がうず高く積まれた活気あるマーケットで、いい感じを出してたように思わ
れます。なお、子城台東側の川沿いの区域が、今から考えると、倭人集落地の跡地だっ
たのでしょう。
以上 米谷均 記す
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