近藤和彦 「修正主義をこえて」

(『歴史学の最前線東京大学出版会、2004、pp.101-120をめぐるQ&A

2005. 3. 4保守

             

何人かの読者から下記のようなコメントをいただきました。有難うございます。無断で部分引用させていただきます。ご免なさい。


              車彦

1 The Agrarian History of England and Walesを『イギリス土地制度史』と訳されていますが、これまでの日本語訳と異なるようです。何らかの積極的意義があるのでしょうか?

A. 具体的なご指摘・ご質問をありがとうございます。

積極的意味はぜんぜんありません。気性として「イングランドおよびウェールズ」などとモタモタ表記するのが嫌いで、なにごとも簡素化できるなら、そうしようという方針です。この場合のイギリスとはBritainですが、とはいえ、このままではウェールズおよびスコットランドの人は不愉快千万でしょうね。

 

2 修正主義を定義、検討した上で、その(政治的)偏りを指摘した点は、長谷川貴彦論文(『社会経済史学』)の修正主義の分類等と比べても、非常に重要な指摘であると思います。ただ、先生の指摘する「修正主義」には、ステッドマン‐ジョーンズ、その影響を受けたマイルズ・テイラーやジョン・ロウレンス、また、ジョーンズに影響を受けつつも独自に議論を展開しているパトリック・ジョイス等の作品も含まれる可能性はあるのでしょうか?

A. たしかにフランス革命の修正論の場合は、Keith Baker, Lynn Hunt といった具合に revisionism と言語論的展開がほとんど直結していますね。イギリス史ではむしろ手堅い史料=実証主義に限定して用いた方がわかりやすい気がします。

旧来の通説、進歩=モデル主義を否定するものならすべて revisionism と呼ぶという立場もありうると思います(OEDのあげる外交史の用法はこれですね)。しかし、今回のぼくの発言の趣旨は、素朴実証主義、業績量産主義だけじゃ、この先(日本史も含めて)歴史学はどうなるの?という問いかけですから、手堅い史料=実証主義者への問いとしてまとめました。

 

3 アーキビストと歴史家の仕事を展望しながら、修正主義の継承と再構築を指摘されていますが、その際には、歴史家の史料に基づいた「叙述」という問題が重要であると思います。その際には、歴史家を取り巻く環境が決定的に影響を与えると考えますが、イギリスではサッチャー時代以降、日本では1990年代の経済的、社会的、政治的混迷?といった点が大きいのかな・・・と感じています。

A. まったくそのとおりで、長谷川「学界動向」の場合は、反動という一面を過度に強調しているように見えます。しかし、修正主義者には(ジョナサン・クラークは別にして)謙虚で真摯な多文化リベラルが少なくないので、ぼくは反発するのでなくその仕事を経過して先に進む、という立場しかありえないと思っています。

 すなわち、真の意味のポスト修正主義です! 2005年3月3日〉

 

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Isawyou

近藤先生が修正主義を、特定の歴史解釈を共有する共同体と定義せずに、学問を営む際のアカデミックな「態度」なのである、と指摘(p.112から113にかけて) された点が本質を突いており重要かと思います。(博士論文の「量産」についてのくだりはスパイスが効いていますが!)

 ただ私は、修正主義の行き着くところは非法則性と文書主義の「サイエンス・ゲーム」になるという危機感はあまり持っていません。このことは私自身が学んだ環境がすでに「ポスト修正主義」的だったことによるのかも知れませんが..。 「細部にこだわる修正主義には歴史像がない」という外からのコメントに対して「ああそうさ、そんなモノ持ってないよ」と言い返す"自称修正主義者"は、実際のところあまりいないのではないかと思います。

 同じ違和感は言語論的転回に関する悲観的な一般的空気にも感じています。イギリスで言語論的転回が(日本ではもう「終わった」ことになっている)「ピューリタン革命」研究に与えたインパクトは、過小評価されている印象があります。 この点については昨年、イギリス革命史研究会で発題しました。

 

A.有意義なコメントありがとうございます。

 なにを隠そう、『思想』1994年4月号の「歴史学とポストモダン」特集を企てたときの黒幕はぼくです。80年代後半からこのころまでのぼくはもっともカルチュラル・スタディズに近づいていました。Isawyouが本郷の演習に現れたのはそのころでしたか? ただ、『思想』のその後の展開に不満で、またいろいろ思うこともあり、いまでは「硬派」代表みたいにしています‥‥。

なお、近刊 『イギリス革命論の軌跡』 は、大切なテーマを不十分にあつかった論集と受けとめています。残念ながら、あなたの関与の片鱗さえみえません。 2005年3月2日〉


以上のコメントは2005年3月以降に登載。 以下のコメントは2005年1月に登載したものです。


武蔵蝮

 ‥‥本全体の書評を或る所から頼まれて、どうしようかと悩んでいます。

 貴君の論文自体からはおおいに示唆を受けました。たヾ、マルクス主義思想史の中での修正主義については、もっとまともな文献を注記すべきだったのではないでしょうか。

そもそも revisionism とは或る定説に対するやヽ劇的な反論を意味するだけで、こちらとしては賛同したり拒絶したりです。なぜ revisionism 一般がテーマなのでしょうか。

             

A.蝮先生とは世代が違うから、という逃げ方はしたくないけれど、それにしても少し感覚が異なるんでしょうか。ぼくは一しきり先生が蝮そのままに「ええかげんな物書き」に食いついて致命傷を負わせるのをはたで見ていて、ワキを固めざるをえないようになりました。幸か不幸か、まだ土俵で対決したことも、ぼくの取り組みに物言いをつけられたこともありませんが、じつは「蝮に隙をみせない」ことを第一に、稽古に励んで、今のぼくになったと言ってもいいんです。ぜひ、書評をお願いします。

             

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朱雀の君

‥‥修正主義という欧米の「先端」潮流を「紹介し学習しましょう」というスタンスは否定し、「電脳革命」と関連させつつ、われわれの根幹に食い込む研究態度として語る仕方は、ひじょうに共感いたしました。また、修正主義の成果を積極的に評価しつつも、「情況的複合性」という、よく言えば禁欲的な ”おとしどころ”をあらかじめ胚胎してしまう方法的な袋小路についても鋭く批判されているところは、とくに感銘を受けました。大きな物語や単純な因果論はもはや無効だが、かといって歴史叙述に何の方向性も目的もないわけにはいかないだろうというご指摘は、その通りだとつねづね思っております。それを放棄したら歴史教育自体が不可能になり、公衆へ還元できない歴史研究が量産されるだけで、それはきわめて寒々しい光景です。

わたし自身はいわば「反多様主義者」で、ものごとを大雑把にカテゴライズして「筋」をつけがちな性格(史料は浅く広く、あるいはつまみぐい)なので、「適度に問題を特定して文書リサーチを進める」技術を持たなければならないだろうと考えています。また、それが後々、「国際競争力」を持つことにもつながるのでしょう‥‥。

             

A.朱雀王子とは別の道をたどって、いま似たような所に立っているようですね。嬉しいかぎり。

             

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名渓

‥‥お仕事のいわばキーワード(の一つ)となっている相対化のまなざしは、近代資本主義体制あるいは近代世界システムのなかの相対的後進国(「対抗群」)における知識人の営為を論じようとした「一日も早く文明開化の門に入らしめん」(『文明の表象 英国』第1)にもよく表れているわけですが、たんに歴史にまつわるいろいろなことにくわしいというのではなく、イギリス史、西洋史、さらには歴史学という研究ないし学問そのものを「相対化」し、根本的に問い直して、その再出発を図ろうとなさっている先生の姿勢は、あまりきちんと評価されていない気がします。

しかし、ポストモダンと言われもするような知の動揺から目をそらさず、それを深いところで真摯に受けとめようとするなら、そうするしかない。そうした点でも、『歴史学の最前線』の刊行は喜ばしく、その全体をよく読んで、また考えてみようと思っています。

             

A.よく読んでくださって、ありがとう。

あるとき(90年代に海外で)留学中の東大の院生に「先生は新しい研究や言葉を自分のものになさるのがお上手です‥‥」などと言われて、ニャロメ、ぶん殴ろうかと思ったことがあったのを思い出します。たしかに appropriation とは proper なものにすること、もとの意味や文脈からはずれて勝手に我がものとし転用することだ、なんて授業で言ったことはあった。でも、最先端の成果を追っかけて、先頭切って紹介し横領し盗用することが自分の仕事だと思ったことは コレッポッチもない。こうした点で、朱雀の君とともに、いまテムズ畔にある名渓くんは、よく見抜いてくださる大切な読者です。

             

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              Ω

‥‥最後に書かれています「大きな輪郭と意味ある細部」については、おそらく先生から指導を仰ぐようになった直後にうかがったと思います。それ以来、自分の研究を進める際の「座右の銘」としてきたつもりです。これにしたがって、細部にはこだわるようになったのですが、大きな輪郭の方が、全然見えてきません。これでは、細部が「意味ある」ものではなく、いつまでたっても「細部」のままなのです。不勉強といわれれば、それまでですが。

このごろは、新しい大きな輪郭を求めるのではなく、細部と大きな輪郭をつなぐ、中規模な領域を想定してはどうかと考えるようになりました。

             

A.概念としての公共性・公共圏などは、その一つではないでしょうか。

             

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              遠い崖

‥‥いろいろなことを経て、それらを踏まえた上で、カーやネーミアの言葉に目を向けるというくだりは、とても刺激的でまた勉強になりました。

「このことは忘れないという意志の集合体」、「知的な意志をこめた仕事」としての歴史研究は、「歴史そのものにおける方向感覚」がなければ書けない。そして、それは何処までも史料の厳密かつ詳細な検討、それらとの対話を抜きには得られないのですね。感覚として実感できる気がします。

             

A.視聴率や発行部数をきそう世界から できるだけ距離を保って、しかし、書くだけの意味ある文章をしたためてゆきたいものです。 〈以上、2005年1月5日登載〉

 

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OKMT

 ‥‥修正主義の意味を限定して、貴兄らしく個別的事例を丁寧に論じていて参考になりました。ただ‥‥112頁でのJ・C・D・クラーク批判の論調の印象が強すぎて、歴史研究の当然で健全な修正(こういう言い方をしてよいのかは問題があるかもしれませんが)ということへの賛意(?)がわかりにくくなっているような気はしました。展望については小生もそのとおりだとは思うのですが‥‥後者からどのような問題が立てられるのか、ということが現在的な問題のような気がしています。

 付言すると、イギリス史研究で revision という言葉を使ったものとして小生がいつも思い出すのは、キットソン・クラークの The Making of Victorian England です。第1章の題が The Task of Revision. それまで歴史でもちいられてきた一般的概念(その一つがmiddle classだったと思いますが)や政治と経済の安易な関係付けを批判し、こうした視点にたって宗教や民衆の日常性などの文化的側面をむしろ研究対象とすること、それから歴史がしばしばrationalなものとして語られることによってirrationalとされてきたものを見過ごしてきた、そうしたことを「修正」していくことを主張したものだったと思います。トーリ史家という理由でこれまで取り上げられてこなかったのは少し残念だと小生は考えてきました。この本はたしか1962年出版で、今考えてみるとカーやトンプスンとほとんど前後していたというわけだけれど、この時期にちょうどそうした議論の枠組があったということなのでしょう。

 

A.お久しぶりです。ご指摘ありがとうございます。

 二人のクラーク(世代は親子以上に違いますが、両者ともにケインブリッジで活躍)というのがおもしろいですね。Jonathan Clark についてぼくは質の悪いデマゴーグと受けとめています。ケインブリッジ留学のときに、ジョナサンとリンダ・コリ(それからキャナダイン、イニス等々)の講義も聴きましたが、地味な人で、1985年にあのように変身するとは予想もしませんでした。Plumb, Beales, Skinner の影響の強かったケインブリッジ歴史学部では不幸な思いをしたのでしょう(対抗的に前々からElton, Cowlingが居てそこにLord Dacreが加わったのですが)。コリ先生は、始めっからライヴァル意識まる出しで、ぼくとしてはどう受けとめるべきか、当惑しました。

 Kitson Clark については、済みません、大学院に入ったばかりのころ読もうとして、最初の印象がつまらなかったものですから‥‥。忘れていました。学生って馬鹿ですね。おっしゃるとおり、1960年代のCarr, Kitson Clark, EPT をふくむケインブリッジ・コネクションが史学史的にもった意味(とその変化)にも思いを致さねばなりません。こういった問題意識は当時の院生には無理な(高級すぎる!?)論点でした。 2005年1月13日〉

 


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