『多分野交流ニューズレター』# No.30(2000年12月)

幸運な遭遇

近藤 和彦
2001. 1. 13 登載


 
  1998年9月の初め、オクスフォードでのこと。この大学都市の中心から北へのびるバンベリ・ロードを車でほんの数分行ったところに住むM氏の一家を訪ねた。カンリフ・クロースという緑に囲まれた住宅地に2・3階建ての低層住宅がならんでいた。M家の皆さんと近況など話しているうちに、その午後に近所で開かれるティーパーティに一緒に出てみましょうということになった。これが幸運な遭遇をうんだのである。

  芝生にいくつかテーブルをしつらえて、サンドイッチ、ケーキや果物、紅茶にワインがならぶ。三々五々集まる人は、みな名札に自分の名を書きつけてそれぞれ自己紹介する方式。つまり、近隣に住んでいても名を知らない人が多い間柄で、こうした好機に知り合おうという催しなのだ。M氏のように大学関係の人が1年単位で出入りすることも少なくないこの地区の知恵かな、と思いながら紅茶の行列に並んだ。にこやかにお茶を注いでくれる上品な婦人の名札をみると、Mary Habakkuk とある。ハバカクとは、どこにもある苗字ではない。旧約聖書に出てくるユダヤの名というくらいは知っている。もう一人名を知っているのは、著名な経済史の泰斗だ。まさか、とは思ったが、話のきっかけになると考えて、尋ねてみた。「かの有名なハバカク教授のご姻戚でしょうか。」

  この初老の婦人は体の向きを転じて、「ジョン、あなたのこと、有名な教授なのか、というお尋ねよ。」

  それはちょっと違う、と慌てるわたしの方に近づいて来てくださったのが、他ならぬサー・ジョン・ハバカクであった。面識はなかった。ただ、彼が若くして発表したイギリスの土地所有および貴族についての論文はあまりに有名であるし、また戦争中は別にして、ケインブリッジとオクスフォードのもっとも恵まれたポストを歴任したうえ、1970年代にはオクスフォード大学総長(Vice Chancellor)をつとめ、王立歴史学会会長に就いた。憚りながらイギリス史を研究しているわたしに、そうした知識はあった。だが、わたしの前に現れたサー・ジョンは、あまり背の高くない、がっしりした体格の気さくなおじさんであった(あとで調べると1915年5月生まれだから、83歳であった。それよりずっと若く元気な印象だ)。急いで自己紹介し、またM氏も初対面とのことで、一緒にちょっと即席のインタヴューを試みた。

  意外なことに、このイングランドの知的世界を代表するはずのエリートは、ウェールズの炭鉱町の公立学校から(つまり比較的貧しい階級の出身で)、奨学金をえてケインブリッジ大学に進学したのだった。歴史学を専攻し、21歳、最優秀の成績で卒業したハバカクは、オクスフォードの大学院を志望し、まずは前々から尊敬していたG・D・H・コールを訪ねたという。

  コールといえば、日本では社会主義思想史や労働運動史などの著作で有名だが、オクスフォードの「社会政治理論」教授であり、論壇で活躍し、労働党の政策決定に関与し、社会教育にも従事し、じつに多作で、探偵小説も書いている。八面六臂の活躍をした左翼のヒーローであった。憧れのコール先生に面談できるというので、1930年代の後半、胸をいっぱいにして研究室を訪ねたハバカク青年にたいして、どうしたことだろう、コールは最悪の印象しか残さなかった。当然ながら忙しいとしても、エリート臭の芬々たる所作、偉ぶった態度‥‥。ハバカクの論文から伺われる人柄は、感情や政治性をあらわにすることなく淡々と事に即した実証研究をこなしてゆく、大人の研究者である。そのハバカクが、60年あまり後、初対面の日本人に述懐したのは、かなり率直で辛辣なコール評であった。

  その後ハバカクは23歳でケインブリッジ大学ペンブルック学寮の教員(フェロー)に迎えられ、戦中は外務省および通産省に勤務したが、1950年には、オクスフォード大学のオールソールズ学寮、チチリ経済史講座の教授に迎えられた。破格に若い、35歳であった。そのとき同じ学寮のチチリ社会政治理論講座の教授職にあったのは、コールである。

  オールソールズ(諸魂)学寮とは百年戦争における死者を悼むためにヘンリ6世のとき(15世紀)にできた学寮(社団)で、中央図書館(ボドリアン)のすぐ東に位置しているが、学生は受け入れず、有望な若手研究者と代表的な講座、そして招聘研究者だけで構成する、特権的なオクスフォードのなかでもとくに特権的な学寮である。チチリ講座というのは、王とともに学寮を創始したキャンタベリ大司教チチリを記念した冠講座で、中世史、経済史、戦争史などの正教授を擁し、イギリス学界を代表するポストだと自負している。

  1957年にコールが68歳で退任するまで、二人はこの学寮のチチリ教授として、26歳違いの同僚であった。ということは、二人は学寮会議で同席したばかりでなく、昼食やディナー、コーヒーなどを同じ場所でとったのである。オールソールズの構成員(フェロー)は現在50名をこえる。正確には知らないが、当時はこれよりずっと少なかっただろう。学寮という共同体にあって、顔をあわせながら黙っていることはできない。最初はまず天気について、そして料理や果物やワインについて、調度について、無難な話題を選ぶことは可能だ。しかし、7年間のうちには政治と学問、信仰と科学、文章・人物の品定めなどに話がおよび、互いのプライヴァシーも知れてしまうことは避けられない。

  二人は気質も学者としてのスタイルも違う。コールの著書を数え上げたことはないが、優に数十はこえるだろう。その筆の速さは多くの人の記すところである。対照的に、ハバカクは研究論文は少なくないが、物書きではないから、単著は 70歳を記念して編まれた自選論文集をいれて3冊、薄い講義録を含めても計5冊である。これほどの学者にしては驚くべく少ない。むしろ『経済史評論』(Economic History Review)誌の編集や、ケインブリッジ大学出版会の講座『ヨーロッパ経済史』(Cambridge Economic History of Europe)の企画監修などで、その手腕が発揮されたと見るべきだろうか。日本で勝手に彼の論文を編んで出版した訳書が2冊あるというのも、おもしろい現象といえる。

  かたや炭鉱町から家門もハッタリもなく、才能だけでオクスフォードの教授となったハバカク。かたや富裕な家に育ち、学界や政府、マスコミの内情をよく知る根からのエリート、コール。両者ともに抜群の才能に恵まれていたのだが、ハバカクはリベラルな実証史家として学界に生き、コールは左翼知識人・物書きとしてひろく活躍した。59年、70歳を前に亡くなったコールを追悼して刊行された『労働史論集』という重要な論文集に、ハバカクは寄稿していないし、言及もされていない。

  オクスフォード大学というと、古色蒼然たるイメージがあり、とりわけその図書館には、いかにもルネサンス・人文主義の時代を彷彿とさせる雰囲気がある。だが、ただ古くて権威的なだけでは、世界中から人を惹きつけることはできない。ハバカクさん本人にも、彼をチチリ教授として迎え、総長に選んだオクスフォード大学にも、イギリスの古き良きリベラリズム、日本語にすると「大人の度量」を感得した。
 

 # 東京大学人文社会系研究科・多分野交流プロジェクトWG発行
Asa Briggs & J.Saville (eds), Essays in Labour History: In Memory of G.D.H. Cole 1889-1959
   (London: Macmillan, 1960/1967).
  これに寄稿した若き E.P. Thompson, Homage to Tom Maguire の意味については、
   『20世紀の歴史家たち』4(刀水書房)を参照。

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