グローバル化の世界史

『歴史と地理』No.554山川出版社、2002年5月)pp.1-12

近藤 和彦

 2002. 8. 11 登載


 

 わたしは一介の大学教師であって、文部科学省の役人ではありません。ただ今回の高等学校学習指導要領(地歴・世界史)の改訂に協力した一人として、一見解はもっています。また世界史教科書の執筆者でありますが、中学・高校の教育経験はありません。今日はフィードバックのよい機会でもあると思い、個人としての資格で来ました。お話しすることについて、それ以上の責任は負えません*1

 

1.世界史という科目

 

◇中学歴史と高校世界史

 十代の青少年は、テレビや新聞、そして本やインターネットなどから歴史や世界のことを断片的に知っています。また、中学校社会科では、日本を中心に歴史を学び、日本と外国の地理を学習しています。高校の世界史という科目では、世界の歴史をはじめて、そして大多数の生徒にとっては人生唯一の機会として系統的に学習するわけです。

 世界史は高校における必修科目であり、A・Bの二つに分かれます。両者の違いは、細かいことを挙げればたくさんありますが、おもに授業時間(単位)についてAがBの半分であること、Aは「近現代史を中心に」と強調されている点に凝集しています。「世界史Bは進学用でキチンとしている。Aは受験に関係ないからええかげん」という誤解があるかもしれないが、それは大きな間違いです。両者の本質は共通しています。新学習指導要領のために、協力者会議でさまざまのことを討論しましたが、世界史A・Bいずれの場合も、二十一世紀の国際社会をになう次世代の日本人のための必修科目と位置づけられています。量的な差は大きいが、にもかかわらず、ねらいと構成は本質的に同じです。

 世界史という科目の第一のねらいは、二十一世紀の日本国民にとって必要不可欠なことの学習です。すなわち、過去のすべてではなく、現代に生きるわたしたちに関係する人類の経験、文明の歩みを明らかにし、また世界史の流れのなかで日本史をとらえなおすということです。これは二十一世紀の国民的常識を形成することにもなります。

第二に、他教科ですでに進められている生徒の自主的・主体的な学習を世界史でも促進する、ということです。これはまた、歴史学が問いかけの学問であるという原点に立ち帰ることにもなるだろうと、期待しています。

 第三に、これは外的な要請ですが、完全週休二日制をとるからには、効率的な教育のために教材を精選・厳選しなくてはならない。そのためにも中学歴史との対応、連続性を考慮したい。中学で学習した歴史(また、生活や他教科からえている知識)と高校世界史とは、意識的・積極的に関連させない法はありません。

 

◇教科書の組み立て

 新しい学習指導要領にもとづき新しい教科書が編集されているわけですが、ほとんどの世界史の教科書は、イントロと最後の部分を除いて考えると、大きく三ないし四の大項目(部)から構成されるでしょう。以下、世界史Aをベースに、Bとの異同も考えあわせながら話を進めます。

 第一部では、ユーラシアの各地域世界について、どのような風土と人々によって、それぞれの宗教・文化がはぐくまれ、独自の政治社会ができあがったのか、地理的条件と現代にいたる特質を、世界史Aでは骨太に、Bでは古代史の経過にそくして学びます。なおまた、Aでは各地域のあいだの交流を、とくにユーラシアの八世紀から十五世紀くらいまでの各局面にそくして、二つのテーマを選択して学習します。Bでは、第二部として七世紀、イスラーム勃興以来の歴史を丁寧に学習します。

 Aの第二部は、Bの第三部にあたりますが、十五〜十六世紀から十九世紀までをあつかいます。豊かなアジアをめざしてヨーロッパ人が大航海に乗り出したことにより、各地域世界のあいだの交渉は密接になり、世界は構造的な一体化へとむかいます。それまで孤立していた南北アメリカも世界史に登場し、しだいに重要性を増します。そして十九世紀にはヨーロッパがアジアを支配するようになるが、それはなぜか、という問いかけは不可欠です。

 Aの第三部であつかうのは、二十世紀です。(厳密にいえば、指導要領のAとBはこの時代区分で異なります。Aでは二十世紀という時代を広くとらえ、世紀末の第二次産業革命、大衆社会、帝国主義も、二十世紀という時代の特質として扱おうとしています。Bの切れ目は伝統的な一九一四年であり、帝国主義と日露戦争は長い十九世紀の問題として扱われます。すこし観点が異なるのでこうなっていますが、こうでなくてはならない、と窮屈に考えない方がよいでしょう。)

 二十世紀という時代には、世界戦争と科学技術がきわだち、また経済成長と民主主義の発達をともないつつ、それ以前にみられなかったほど世界がシステムとして一体化しました。しかし、一体化といっても、世界がすべて均質で同じ風景になってしまったのではありません。各地の歴史的文化は死に絶えることなく、世界資本主義と自然環境、膨張主義と民族といった矛盾もあらわになりました。戦争や殺し合いは人類の歴史とともに古いが、機関銃や地雷、衛星写真とコンピュータ操作されたミサイルなどを駆使した現代の戦争は、十九世紀までの戦争とは破壊力が決定的に違う。わたしたちは十日ほど前に巨大な覇権国の中枢をつくテロリズム攻撃をテレビで目撃したばかりですが、かつてリンカンが暗殺されたり、ケネディが狙撃されたりした歴史的なテロが牧歌的にさえ思えてくるほどの衝撃です。現代の最先端の技術とシステムは、複合的で破壊力がありながら、反面で、もろく弱い。

 これまで人類が築いてきた文明をうけつぎ、さらに発展させるために、二十一世紀のわたしたちはどうすればよいのか、何ができるのか。世界史とは、生徒にとって関心も関係もない遠い過去のことを暗記する科目ではなく、問いかける科目です。E・H・カーは「歴史とは、現在と過去との対話である」と述べました*2。問いかけしだいで、過去は異なる答を返してきます。ベテランの先生方は、工夫された問いから授業をはじめ、生徒の興味を引きつけることに熟達しておられるでしょう。新指導要領にもとづく教科書では、いろいろな形で生徒が自主的・主体的にとりくむ糸口が設けられます。しかし、授業について釈迦に説法をするのは愚かなので、グローバル化ないし世界の一体化という観点から、世界史をどのようにとらえなおせるか、という話に移ります。

 

2.グローバル化の世界史

 

◇世界史の書きなおし

 時代とともに、人の過去への問いかけは変化し、それに応じて歴史は書きかえられてきました。先のよく見えないときにこそ、人は来し方をふりかえり、省察します。歴史をきちんと理解することなしに、前に進むことはできません。「人は後ずさりしながら未来へ入ってゆく」とヴァレリーは言いました*3

 かつての「近代歴史学」の特徴をあげるなら、第一に「国史」という枠組がありました。学問としての歴史学は十九世紀の大学で確立します。ドイツのランケ史学が有名ですが、じつはその影響はドイツからすみやかにフランスやイギリスなどヨーロッパ諸国、合衆国、そして日本にも及びました。ちょうど十九世紀後半、国民国家建設の時代に、新しい学問としての経済学や国家学と密接に関係しながら発達することになった歴史学にも、国民主義の刻印が刻みこまれました。波高き世界における祖国の統一、議会制度の発達、その国制の正統性、あるいは富国強兵・殖産興業の物語に照明があてられたのです。

 第二に、王公や将軍、偉人の列伝、戦争や権力闘争、外交の決定的な局面が重視されました。「列強」とよばれることになるいくつかの主権国家の政治的経験、その担い手とみなされたエリート(男性)たちの活躍が語りつがれ、教訓とされました。

 第三に、どの国も典型的には、封建社会 絶対主義 市民革命 産業社会といった段階を踏んで、マラソンのように決まったコースを走るはずと想定する「ロードレース史観」がひろく信じられていました。その世界史像によれば、イギリスのように正しい道を走って早く近代文明にゴールインした先進国と、日本のようにいまだレース途上の後進国、あるいはさらに道からはずれてしまった所もあるわけです。神のご加護を、と祈りたくなる歴史観です。

 こうした歴史学は、二十世紀に大きく二波にわたってゆっくりと変貌します。第一の波は両大戦間、一九二〇年代〜三〇年代に高まります。第一次大戦のあと、アルザスのストラスブール大学で、歴史、経済、社会、地理をあつかう諸学問の幸せな統一として、有為の若手研究者たちが旗揚げしたのが『社会経済史年報』、のちの『アナール』誌の前身です。大恐慌をむかえる一九二九年のことでした。とはいえ、これは孤立した現象ではなく、その前後にドイツでもイギリスでも、そして日本でも社会経済史の専門誌が創刊されています。なお、この時期にはマルクス主義の影響も決定的でした。これは歴史をただの事件や偶然の総和としてとらえるのでなく、また部分はシステムをなす全体の要素としてとらえ直し、さらに科学のような法則性を明らかにしようとしました。日本の『歴史学研究』が一九三三年に創刊されたのも、その波頭の一つでした。

 第二波は、一九六〇年代です。西側諸国で民主主義と脱植民地化、高度成長の成果が定着し、人と情報の交流がすすみ、またヴェトナム戦争が泥沼化したころ、大学の大衆化、合衆国をはじめとする公民権闘争の時代でした。

 この二つの波によって、歴史学はどう変わったのか。その結果をやはり三点にまとめると、こうなります。第一に、国史でなく、日本なら東アジアのなかで考えなおし、イギリスならヨーロッパや大西洋という広域のなかで捉えなおす、という観点です。第二に、権力者や偉人でなくふつうの男女をあつかい、戦争と権力政治でなく日常生活を問い、イデオロギーでなく心性をみる、社会史、民衆史、生活史、ジェンダー史です。高等な芸術に限定しない文化史もこの時代の産物です。以上とも関係するが、第三に「ロードレースの世界史」のなかで愛国的なエリートが刻苦勉励していた時代から、いまや広域システムとマイノリティの統合、環境問題と低成長の時代をむかえて、人々の世界と歴史をみる目は変わりました。カウボーイのように、善の悪にたいする戦争を呼号する権力者もいないではないが、良識ある人々の目は、それぞれの文化的背景をみとめて歴史の複線的なパスを想定し、長期にわたってゆったり変化するシステムと、その複合性に注目するようになってきたのではないでしょうか*4

 こうした今日の歴史学からグローバル化を捉えなおすと、どうなるか。古代以降それぞれの時代の東西交流があって、世界史に軌跡を残し、それを高校世界史でも扱います。しかし、本格的なシステムを形成するグローバル化の動きは、大航海と植民の十六世紀から始まります。こういったからといって、十六世紀からただちに西ヨーロッパが全地球を支配しはじめたのではありません。I・ウォーラステインの場合*5、現代を説明するために、十六世紀から「世界システム」がどのように展開してきたか、と問題を立てます。しかし、十九世紀まで、ヨーロッパとアメリカをふくむ「世界システム」は、あくまで地球上の複数のシステムのうちの一つ、現代から遡及するかぎりで意味ある一つ、というのに留まるでしょう。ウォーラステインはまた、あとでも申しますが、各時代の覇権国の絶対的な力を強調しすぎです。そうした存在に対抗した諸国のプライドと闘いを十分に見ないことには、世界史を理解することはできないでしょう。

 もう一つ、近年の実証的な歴史研究の蓄積によって、修正主義と称する立場が一定の力をもっています。これは「市民革命」や「産業革命」など、かつての進歩主義的なグランド・セオリで重視されていた歴史的な画期、ドラマティックな転換を否認し、歴史における連続性、個性、偶然、そして細部の実証を強調するものです。一種の実証至上主義、また保守主義でもありますが、これを好き嫌いで断定することはできません。わたしたちは修正主義の膨大な研究成果をふまえて考えざるをえません*6

 

◇グローバル化の第1サイクル

 先にもふれた新しい学問の専門誌『アナール』を第二次大戦後にリードした泰斗の一人、F・ブローデルとその協力者F・スプーナがまとめたヨーロッパの物価研究があります。膨大な統計を処理した、おもしろい集計グラフがたくさんあるのですが、そのうちとくに中世末から一八世紀までの小麦価格をグラフにしたものの一部を〈図1〉に示します。これはヨーロッパ全域五〇数ヶ所の都市の小麦の価格変動をまとめて一覧にしたもので、度量衡や通貨の違いを換算するために、単位あたりの価格を銀のグラム重量であらわします。また対数グラフなので、変化の率や高低の幅が正確に表現されています*7

〈図1 ヨーロッパの小麦価格〉

 一四五〇年から一七五〇年の間には、ルネサンスから大航海・宗教改革・宗教戦争・主権国家システム・三十年戦争・絶対王政・重商主義・植民地戦争・啓蒙など、世界史の重要事項が続きます。そうした近世ヨーロッパのすべての小麦価格のうち統計の残っていたものは、すべてこのグラフの帯の中に収まるのです。馬の肩から鼻先までを横から見たような形ですが、では、ここに商業革命、オランダの繁栄、イギリスの覇権、近代世界システムなどは、どう現れているのか。

 この三〇〇年間のグラフから読みとれる第一の特徴は、ヨーロッパ市場圏にかかわるものです。十五世紀に、小麦という生活必需品の価格は各地の需給のままにあちこち方向性の定まらない動きをしめし、ヨーロッパの最高値(43)と最低値(6)には七倍以上の差がありました。ルネサンス期にはヨーロッパ市場とよべるほどのまとまりは存在しなかったのです。十六世紀は成長の時代で、一六〇〇年までにインフレーションがすすみ、どこでも小麦価格は三〜四倍に上昇しましたが、ヨーロッパ全体の最高(120)と最低(20)の差をみると約六倍で、あまり変わらなかった。戦争、反乱、疫病の続いた十七世紀はヨーロッパ全域におよぶ再調整の時代であり、各地域でいかなる政治社会が成立し、それぞれどのような政策パスをとったかが、以後の各歴史を決定します。十八世紀には急速に価格の幅が縮まり、最高(75)と最低(38)の差は二倍未満となる。すなわち馬の鼻先のような十八世紀なかばに、ようやくヨーロッパ広域の市場圏が成立したといえるのです。

 なお、同一時点で物価が他より高いのは、経済活動が活発ということの現れですし、十七世紀後半以降のように、物価が全体にゆっくり下がり収斂するのは、競争や合理化によるコストダウンの結果です。

 第二は、ローカルな特色、ヨーロッパ各地の相対的な位置の意味です。中世経済の中心だったイタリア都市はヨーロッパ全体にわたる十六世紀の好況には伴走しましたが、一六〇〇年からは相対的な衰退の一路をたどります。スペイン各地もほとんど同じ動きを示すのですが、財政の破綻をくりかえす十七世紀のうちに、そもそも継続的なデータがえられなくなってしまいます。それにたいして、それまでヨーロッパの中位にあったオランダやイギリスの都市は、一七世紀後半からほとんど最高値をつけるにいたります。ヨーロッパ経済の中心が地中海から北西に移動したこと(商業革命)が、ここにも現れています。ただ、オランダは十八世紀にはやや低迷してしまいます。

 この三〇〇年間を通じてずっと最低値をつけているバルト海南岸は、十六世紀から西欧の需要にこたえる穀倉として大量に穀物を輸出し、ヨーロッパ穀価を底上げしました。ポーランドの大農場を経営した貴族(グーツヘル)たちは、麦を売って大きな利益をあげたのですが、結局はその麦がヨーロッパ全域における価格の収斂をもたらす効果があったわけです。このグラフには示されていませんが、じつは北アメリカの穀価も、この帯の範囲内に収まっていました。すでに十八世紀前半の十三植民地は、タバコや米だけでなく小麦・棒鉄などをイギリスに輸出し、ヨーロッパ・大西洋市場圏の一角をなしていたのです。イギリスなど西欧の農業経営者はこの低廉な輸入麦にたいする対策として、自国の農業生産力をあげるために数々の改良を講じるしかなかった。農業改良案の公募、「カブのタウンゼンド」や排水のための蒸気機関の利用もふくめて、いわゆる「農業革命」の効果が、ヨーロッパ最高値のゆっくりしているが確実な低落傾向に現れています。

 このグラフにみられるようにほぼ三〇〇年かけて小麦のヨーロッパ統一市場が形成されたということは、交通の便をはじめとして経済・社会のインフラがととのったということを意味します。しかも南イギリス・オランダ・北フランスを中心とする経済は、ただこの地域が他の周辺地域を従属させるというだけでなく、バルト海や北アメリカの安価な麦がヨーロッパ中枢の農業の対応を強いるという形で、構造的なシステムをなしていました。

 じつは、ここまで国を単位に話をしてきましたが、経済・社会は国境をこえ、また一つの国の内部にも異質な要素をかかえていますので、どうしても窮屈な点が残ります。おもしろい図をご覧にいれます。人口集中もまた繁栄の現象ですが、〈図2〉は一八〇〇年ころのヨーロッパの人口密度を示します。一種の人口の稠密回廊をなしていますが、これは長い時間をかけてゆったり北上する途上です。イモムシ(ナメクジ?)のような形をした人口稠密回廊がポー川、ライン川から海峡をわたり、テムズ川経由でマンチェスターに向かうかのようにみえます*8

 ここから、いわゆる産業革命の解釈も変わってきます。発明発見による一国の生産力の爆発的な上昇から産業革命、あるいは産業資本主義の勝利を説くのは、あまりに一面的な謬説です。

 十八世紀にはイギリス・フランスを中心に、西インドから東インドまでおよぶ植民地争奪戦、いわゆる「第二次百年戦争」が続いただけでなく、またアジア・アメリカの物産が西欧にゆきわたりました。一〇〇%海外から輸入するしかない茶・コーヒー・砂糖・綿・陶磁器が、西欧人の消費意欲をかきたてました。消費革命、衒示的消費ともよばれる、こうした経済の活性化は、しかし、それだけ本国の貿易収支を悪化させたのです。植民地およびヨーロッパでうちつづく戦争のための戦費を調達し、兵站をにない、人口増にともなう食糧・社会問題にも対処しなければならない政府としては、苦慮するところです。

 衒示的消費のにない手は西欧人にかぎりません。ポーランドの貴族たちも、西インドのプランターたちも、港市で輸出品の対価として、贅沢な衣服や家具、そして茶・食器・本などを買い求めました。そのなかには東インドからイギリスの港を経由してもたらされた捺染綿布や陶磁器・茶も、そしてパリやアムステルダム・ロンドンで出版された物語や雑誌、啓蒙の書物もふくまれていました。東インド産品の再輸出という十八世紀グローバル化を象徴する事実は、イギリスの貿易収支をさらに悪化させます。

 必要は発明の母。ここにイギリス産業革命の秘密があります。ワットの蒸気機関やアークライトなどの紡績機は、発明家の伊達や酔狂で製作され広まったのではありません。必要=需要(デマンド)のないところで発明の才にまかせて生産力(サプライ)を高めれば、ただ滞貨の山をもたらすだけで、結果は破産だ、というのは経済学以前の常識でしょう。十八世紀の世界商品となり、在来の産業を圧迫し、貿易赤字を生じたインド綿織物や中国・日本の陶磁器について、イギリスはその代替(模造)商品の開発、製造に全力をかたむけ、しかし代替できない茶・コーヒー・砂糖については、その産地を植民地として支配しました。産業革命とは、イギリスが貿易赤字から抜け出すための苦肉の策であり、国民的なプロジェクトでした*9

 七年戦争(一七五六〜六三年)をすぎても、国民生産の成長は年率にすればやっと〇・七%に届くか届かないかで、一%をこえるのは、ようやく一七八〇年代でした。現代人の目からみると緩慢かもしれないが、すべてがゆっくり進んだ時代です*10。全ヨーロッパと大西洋圏におよぶ市場をしたがえたイギリスにおける成長の意味は大きい。十八世紀後半から数十年かけて、イギリスは海外物産の輸入国から自国製品の輸出国となり、さらに「世界の工場」、自由主義の祖国としてこれを海外にも浸透させるようになります。こうしてイギリスのイニシアティヴのもとに、グローバル化の第一サイクルが完結します。

 しかし、グローバル化は、完成とともに抵抗や対抗をまねきます。アメリカ独立戦争(一七七五〜八三年)は、いわばイギリス重商主義帝国から出奔した長男が戦いとった自立だったといえます。また、このときのフランスの反英参戦には、七年戦争の意趣返しという意味がありました。アメリカ独立を直ちには認めず、革命フランスとも軍事的に対峙した、というので十八世紀イギリスは反革命、旧体制と見られがちかもしれませんが、じつはたいへん成熟した市民社会でした*11。一七八六年、英仏のあいだに結ばれた通商条約によって、イギリスにはフランスのワインと啓蒙出版物が流入し、フランスにはイギリスの工業製品が流入しました。このリベラルな通商条約によって利したのは、イギリスの商工業関係者とフランスのワイン業者などですが、国民経済の観点からすると、フランスの負った傷は深い。フランス革命は経済的にみると、すでに破綻した財政の再建に失敗し、イギリス工業力に遅れをとったフランスの窮余の措置という面もありました*12。ナポレオンが一八〇六年、ベルリン条例(大陸封鎖)によってヨーロッパ大陸を囲い込んでもくろんだのは、イギリス自由経済に対抗できるヨーロッパ帝国の樹立でした。とはいえ、フランスは全面的に負けていたわけではなく、イギリス流自由主義とは別様の集権的政治文化が存在しました。

 グローバル化の第一サイクルは、イギリスを中心とする近代世界システムの成立をもたらし、その帰結はイギリス産業革命とフランス革命であり、このころの「世界」には大西洋とともにインド洋も含まれるようになりました*13。この二つの革命を転機に、グローバル化は第二サイクルに入ります。

 

◇グローバル化の第2サイクル

 厳密な意味で「近代」を時間的に定義するとしたら、十八世紀末、イギリス産業革命、フランス革命によって始まり、第一次大戦/ロシア革命で終わる、いわゆる長い十九世紀(一七八九〜一九一四/一七)です。その期間に確立した近代なるもの(モダニティ)は、じつはそれ以前の近世に内容的に形成され、また現代にまで連続しています。近代は今も過ぎ去ろうとしないし、依然として問題であり続けます*14

 その近代史を貫くのは世界資本主義のシステムと、そのなかでの対抗と従属です。イギリスの覇権にいくつかの西欧ライバル諸国が挑み、生産力と自由主義とキリスト教に支えられた「近代文明」が世界の秩序を維持しました。十九世紀のグローバル化とは、つきつめていえばイギリスの下の秩序、イギリスに従うならえられる平和(パクス・ブリタニカ)です。パクス・ブリタニカの中枢には、自由経済をとなえるイギリスがあり、これに対抗して国家の凝集力を強め、国民経済の保護育成をはかる欧米の列強がイギリスを囲むようにならんでいました。「対抗群諸国」と藤瀬浩司氏の名付けた国は、典型的にはドイツ、合衆国、そしてロシア、日本であって、フランスの位置は微妙です。ウィーン会議後もフランスはヨーロッパ文明の中心としての実力とプライドは消えません。第二帝政のもとのオースマンの都市改造、幕末の日本への積極的援助、一八六〇年の英仏通商条約(自由貿易)にそれは表明されています。もう一つの文明国として、イギリスと対等にクリミア戦争でも太平天国でも協力し、競合するライバルでした。

 そのさらに周辺には、これら列強に抵抗する、あるいは従属するアジア、アフリカ、ラテンアメリカが位置していた。近代のグローバル化とは、中心・対抗群諸国・従属地域の三層システムを形成し、その外にあった無縁の地(地上の楽園?)を追いつめ、消去する過程だったといえるでしょう。このうち、アフリカは壊滅状態で、十九世紀末に列強の利己心のままに分割されてしまいましたが、アジアではトルコ、インド、中国は屈辱的な経験をしながらもなんとか自力更正のパスを探っていました。そうした意味では単純な三層構造でなく、かつて藤瀬氏のとなえたように、対抗群・従属群のなかにいくつかの型を考える複合的な構図がぜひ思い起こされるべきでしょう。いずれにしても、この対抗群諸国の模索の意味を重視することが重要だと考えます*15

 リベラルな文明を世界秩序として押しつけてきたパクス・ブリタニカにたいして、有効な処方箋をとなえたのが、フランス革命の年にドイツに生まれたF・リストです。訴追されてアメリカに亡命し、ふたたび帰国したリストがとなえたドイツ関税同盟(一八三三年)は、いまだ統一ならぬドイツ国民のための政策でした。すなわち、いまだ幼弱な国民経済を関税障壁によって保護育成し、歴史的なドイツの国民文化をまもり、将来の国民国家の基盤をととのえようとする戦略でした。リストの主著は『政治経済学の国民的システム』(一八四一年)と題されています。やがて富国強兵の結果、一八七一年に成立したビスマルクのドイツ帝国は、パクス・ブリタニカに敵対することはなく、労働政策をはじめとして多くを摂取しつつ、しかしイギリス自由主義とは異なる型の「大きな国家」をつくりあげました。一八九〇年、ビスマルクを追放したヴィルヘルム二世の親政のもと推進された「世界政策」は、明白にイギリス的秩序への挑戦でした。日本もロシアもドイツの後尾に付して、この世界システムの対抗群の新参として世界史に参加することになったのです。

 

◇第3サイクルとこれから

 グローバル化の第二サイクル、すなわちパクス・ブリタニカに挑戦したのはドイツ帝国で、世紀転換期から貿易や軍備をめぐるこぜりあいが続き、第一次大戦では四年余りの総力戦で決着をつけることになりました。このときイギリスは単独で勝利することはできず、盟友フランスとともにたたかい、対抗群の一国アメリカの参戦が不可欠でした。

 ドイツ帝国に代わって、リベラリズム文明に対抗するもう一つの文明、新しい時代を宣言したのが、革命ロシアでした。一九一九年のコミンテルン、二二年に結成されたソヴィエト社会主義共和国連邦によって、グローバル化の第三サイクル、すなわち「短い二〇世紀」(一九一七/一九〜九一)が始まりました。ソ連邦はロシア帝国いらい継承したバルト海や中央アジア地域の民族的・宗教的なしがらみを、普遍的「正義」をかかげることによって抑制しました。この共和政治は、フランス革命におけるジャコバン派の経験にならいながら、革命独裁と軍の力によって内外の反革命を鎮圧し撃退し、みずからをグローバルに推し広めようとしました*16。十七世紀なかばのイギリス、十八世紀末のフランス、二十世紀のロシア、ともに「共和国」と訳す慣行になっていますが、語源はラテン語のレスプブリカ、すなわち古代ローマ人や人文主義者が論じた「公共の善」を銘記し、普遍的な価値をたからかに宣明する政体です。フランス革命、ロシア革命ともに、そのはじめから一方で熱烈な支持者、他方で心底から嫌悪する人々が生じたのは、当然でした。

十八世紀末に成立したアメリカ合衆国も、もう一つのイデオロギー的普遍性をとなえる共和国であり、大国に成長していました。その合衆国とソ連邦という、二つの正義、二つの普遍的な価値をとなえる超大国を二つの中心とする楕円構造の世界秩序が、七〇年ほど続いたわけです。

 楕円をなしていた世界秩序は、ソ連邦という一つの中心が一九九一年に自滅したことによって、不安定です。第三サイクルは終息し、つぎに来るべき第四サイクルの様相は不明のまま、近未来より先の予測のつかぬままに世界は漂流しているかに見えます。

 これまでせいぜい三〇〇年あまりの欧米発信の近現代史とは異質の要素が、リベラルで世俗的な市場主義に対抗して、アジアの活気、政教一致のイスラームなど、独自の文化と倫理的な秩序を主張しています。だが、空白になってしまった楕円の二つ目の中心を、中華帝国があるいはイスラーム世界が取って代わり、力の覇権ばかりでなく、広く公共性(publicness)を証すことができるかどうか。グローバル化の第四サイクルにおいてリーダーシップを発揮するためには、生産力や軍事力や自由市場やOSにとどまらず、多くの人々を納得させることのできる何らかの共同性(共同体)がともなわなければならないでしょう。

ピューリタン革命からジャコバン独裁、ボリシェヴィキとその後継者にいたる、近現代の「公共の善」を信じた革命とは異質の、柔軟な秩序が求められています。純粋で絶対の正義を代表していなくてもよい、複雑系としての人類社会に対応できるイニシアティヴが望まれます。いま開発や二酸化炭素、遺伝子操作などをはじめ、生命と環境をめぐる問題は、すでに「待ったなし」なのです。新しい秩序とイニシアティヴは、世界史の知恵に支えられてのみ提起されるでしょう。

 

*1 これは二〇〇一年九月二一日、長野県総合教育センター(塩尻)における講演をもとにしている。当日は中央線の事故で大幅に時間が制限され、はしょった部分があるので、それを補い、また註を加えた。

*2 E・H・カー(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』(岩波新書、1962

*3 ヴァレリー(柴田三千雄訳)「歴史についての講演」『ヴァレリー全集』一一巻(筑摩書房、1983

*4 パスとはコンピュータ用語だが、この場合、選択される経路・道という意味。

*5 Immanuel Wallerstein The Modern World-System と題する三部作は一九七四〜八九年にニューヨークで刊行。岩波書店および名古屋大学出版会から川北稔訳で刊行。

*6 松浦高嶺『イギリス近代史を彩る人びと』(刀水書房、2002)のコメントを参照。

*7 F. Braudel & F. Spooner, 'Prices in Europe from 1450 to 1750', Cambridge Economic History of Europe, IV (Cambridge, 1967).  当日はOHPで多くのグラフを見ていただいたが、ここには総括図のみ示す。

*8 一六〇〇年ころの人口密度のイモムシについては、近藤和彦「近世ヨーロッパ」『岩波講座 世界歴史』一六巻(1999)、二〇ページを参照。また、ポー・ライン・マンチェスタ枢軸については、政治学の観点から高橋進「国家の生成と機能」『岩波講座 転換期における人間』五巻(一九八九)も論じている。

*9 「工芸奨励協会」が代替商品開発のための技術をプロモートする民間財団として一七五四年に始まった。また道路・水路の改善、貧民対策のプロジェクトも含めて、あらゆる公共的な問題が議会で審議決定され、法人によって実現するところにイギリスらしさが現れる。大野誠『ジェントルマンと科学』(山川出版社、1998)、近藤和彦編『長い十八世紀のイギリス その政治社会』(山川出版社、2002

*10 成長率については、近藤和彦『文明の表象 英国』(山川出版社、1998)、一五七ページ。なお産業革命初期の製造業の工場は、みな水力工場であった。小松芳喬『産業革命期の企業者像』(早稲田大学出版部、1979

*11 その国制と政治社会の実際については、『長い十八世紀のイギリス』を参照。

*12 一七八六年の通商条約をめぐる国内事情を分析したのは、青木康「ホイッグ党のイーデン条約反対論」『西洋史学』一〇四(一九七六)。また各国民経済と地域の多元的重層構造について、遅塚忠躬「フランス革命の世界史的位置」『史学雑誌』九一・六(1982

*13 ただし、ウォーラステインの場合、フランス革命の画期性は限りなく小さく評価される。政治・文化のダイナミクスを貶価する彼の立場、地勢・経済決定論から当然であろう。

*14 遅塚忠躬・近藤和彦編『過ぎ去ろうとしない近代』(山川出版社、1993

*15 藤瀬浩司『近代ドイツ農業の形成』(御茶の水書房、1967

*16 石井規衛『文明としてのソ連』(山川出版社、1995


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