1998年5月の写真
 
 

韓国の若手東洋画家、趙顕東氏の作品より

(Copyright: Cho, Hyun-dong,転載を禁ず)


 



 趙顕東氏は韓国全羅北道南原市出身で、今年で満36歳になる若手の東洋画家です。私が彼と出会ったのは1993年の夏、南原で短期のフィールドに入っているときでした。ひょんなことから、知り合いの市庁職員の方が幹事をつとめるパンソリ同好会の練習を見学させてもらったのですが、そこに彼がおりました。それでもその時には特にあいさつなど交わすこともなく、そのまま忘れていたのですが、後日私の滞在していた宿に話があるとかでたずねてきました。何でも日本に留学したいので、今後いろいろと助けてほしいとのことでした。韓国にいるとこのような頼み事は日常茶飯事で、とりあえず話として聞いておくだけに留めていたのですが、その後彼の作業場兼美術学院(塾のようなもの)を訪ねて絵を見せてもらったり、彼の紹介で南原郷校で典校をつとめていた老人と親しくなるなど、徐々に癒着が深まってゆきました。私の韓国の知り合いのなかでは珍しく神経が細く、ある意味で繊細な人で、絵にもその細やかさがあらわれておりました。彼の作品の特徴は、韓国の民俗的なモチーフを西洋近代の洗礼を受けた若い世代の目で捉え直そうとしているところにあると思うのですが、当初は素人目にもぎこちなかった作風も、ここ二三年は随分洗練されてきて、韓国語の表現を借りれば「雅淡-hada(アダム-ハダ)」という言葉がぴったりの、こじんまりとしていて上品な作品を作っております(写真参照)。

 日本留学の夢はいつの間にかうやむやになってしまったようですが、このたび彼が東京で個展を開くことになりました。入場無料、絵の販売もない、非営利的な行事ですので、この場で宣伝をさせていただきます。

趙顕東展 −韓の雅(からのみやび)

会期:1998年6月5日(金)〜6月10日(水)

   午前10時〜午後6時30分(初日は午後2時より、最終日は午後4時まで)

場所:O(オー)美術館(JR大崎駅前大崎ニューシティー2号館2階)

入場無料

(1998年5月29日記)


4月の写真(写真はこちら

 韓国全羅北道南原市の市街地にある廣寒楼はパンソリ『春香伝』の主人公春香と李夢龍の出会いの場として韓国人ならば知らぬもののない旧跡である。春香の誕生日とされる陰暦四月八日には、毎年ここを舞台に春香祭という祝祭行事が開催される。写真は、廣寒楼の敷地内に設けられた国楽常設公演場である。国楽とは韓国の伝統音楽のことで、毎週土日の午後、地元南原市市立国楽団の団員により、この場所で、パンソリ、民謡、伝統舞踊、カヤ琴演奏、サムルノリなどの国楽が上演されている。観客は地元の老人が多かったが、中には週末を利用して南原を訪れた観光客も混じっていた。撮影は、1997年10月。

(1998年4月27日記)


1月の写真

「謹賀新年」

 1991年1月1日、韓国ソウル市新林洞の連立住宅にて撮影。当時、部屋を借りていたアパートのご主人の三女と四女。女ばかりの四人姉妹で、かしましきことこの上ない家庭であった。

(1998年1月9日記)


12月の写真

「五年前の師走」

 歳月は流れ、あれから五年たってしまいました。当時の私は韓国農村でのフィールドワークを終えて帰国後、一年半が経過していたにも関わらず、一本目の論文をなかなか仕上げられずに、煩悶の日々を過ごしておりました。気晴らしを兼ねて大統領選挙真っ盛りのソウルを訪れました。

(上左)韓国外国語大学外国人教授アパートの近くで撮影した大統領選挙候補者のポスター。ソウル滞在中、当時同大学で日本語を教えていらっしゃったK先生(現新潟県立女子短期大学)のアパートに、家主不在のまま居候をしておりました。これはそこから国鉄石渓駅に向かう途中の道ばたで写したものです。金泳三候補と金大中候補のポスターが剥がされかけているのはご愛敬。候補者番号8番の白キウァン候補の笑顔がひときわ目立ちます。元気な人でした。

(写真)

(上右)金大中候補の演説会の会場。新聞で会場を調べて行ったのですが、ソウル郊外の工場地区を流れる河原で寒い中開かれ、聴衆は労働者風の人が多かったように記憶しています。同氏は今回の大統領選では一番人気のようですが、果たして投票結果はどうなるでしょうか。

(写真)

(下左)偉大なる泡沫候補白キウァン氏の演説会での一風景。国鉄ソウル駅前の広場で開かれた演説会には、大学生から強い支持を得ている彼らしく、学生ボランティアの姿が目立ち、さながら学生集会のようでした。

(写真)

(下右)大統領選挙の投票が終わり(別に私が投票したわけではありませんが)、金泳三候補の当選を見届けた後、忠清北道報恩郡を訪れました。ここには、当時総合学術大学院大学博士課程のO氏がフィールドに入っておりました。鶏龍山の麓にある両班村落に滞在する彼は、当時精力的に両班の現地調査を行っておりました。写真は、彼の下宿先での食事風景。写真左がO氏、その右が下宿先の主人夫婦。主人夫婦は彼のことを「オ君」と呼んでおりました。主人といっても、両班門中の祭閣であるこの家をかりてすんでいる人で、この門中の墓の管理人をしていたそうです。「オ君」の疲れた笑顔が印象的です。彼も今や宝塚のK子園大学の先生で、このとき同行したAさんも都立大学の助手になりました。思えばこのときお二人に刺激されて、とにかく書きかけの論文を仕上げようという気になったのでした。

(写真)

(1997年12月9日記)


前回の扉写真

「秋夕」

 陰暦8月15日は韓国では秋夕といって、旧正月と並ぶ重要な名節(節句)である。この日には、祖先を祀る儀礼や墓参りがおこなわれ、近在の近い父系親族や都会に出ている息子たちが村に訪ねてくる。

(上左)秋夕の朝。盛装をして、茶祀(名節に四代上までの父系祖先を祀る祖先祭祀)のおこなわれる近い父系親族の家に向かう男性たち。(写真)

(上右)茶祀の膳。この家庭では、三代上までの祖先を祀っているので、位牌がわりの短冊紙が三枚屏風に貼られている。(写真)

(下左)茶祀の一場面。初献官(祀られる祖先の長孫がつとめる)の持つ酒杯に酒が注がれる。(写真)

(下右)省墓(墓参り)。(写真)

撮影日:1989年9月

撮影場所:韓国全羅北道南原郡(当時)

撮影者:本田洋

(1997年9月8日記)


その前の扉写真(写真1写真2

「真夏の農村小景」

(左)収穫した唐辛子を庭で乾す。

(右)漢薬(漢方薬)の材料になる黒山羊。

(1997年8月記)


前々回の扉写真(写真はこちら)

撮影日:1989年9月20日

撮影場所:韓国全羅北道南原郡(当時)

撮影者:本田洋

写真の説明:

 この写真は、韓国農村部のとある国民学校(日本の小学校にあたる6年制の初等教育機関。この名称については、植民地統治の残制と批判され、現在では、初等学校に改称されている)の運動会の一場面を写したものです。附属幼稚園の園児による集団舞踊で、私の調査した村の子供たちも出演しておりました。北朝鮮で写したものではないかと誤解される方もいらっしゃるのですが、園児のまちまちな服装や必ずしも一糸乱れずとは言い難い動作から、韓国のものであることは明らかではないかと思います。背景に写っている大人たちの緊張感のなさもポイントです。

 農村部で国民学校の運動会というと、地域のお祭りのようなもので、PTAでない大人たちも見物に来ますし、物売りも来たりします。昼御飯は,生徒の母親たちが、村毎に御飯を炊き出しおかずを準備して、集まって一緒に食べます。私もそこでご馳走してもらいました。

(1997年7月1日記)