ナグネの会 2001710日(水) 於:東京大学教養学部
 
南原関王廟と関羽崇拝:吏族の関与を中心に
 
本田 洋(東京外国語大学AA研)
筆者の許可なく,この資料の一部,あるいは全体を引用することを禁じます。

はじめに1章2章3章4章考察参照文献



はじめに
#南原地域の吏族集団と関王廟
・吏族[家系]:ここでは,朝鮮後期に地方官衙の胥吏(郷吏)を世襲的に輩出していた家系(含,その父系子孫)という意味で用いる。
・南原の吏族家系:「首吏チバン」として,寧川李氏後松公派・松岩公派・應禎系・景祚公派,南原梁氏兵部郎中公派上巷・下巷門中。その他,戸房・刑房などを輩出した家系として東莱鄭氏,金海金氏,江華魯氏忠粛公派以頌系,利川徐氏節孝公派,晋州姜氏殷烈公派錦洞門中,密陽朴氏,玉川趙氏太師公派など。旧邑治に世居。
・朝鮮末期〜植民地期における南原吏族の社会組織と邑内の関連施設:老契所(→南原養老堂→南原耆老会)・少契所・路奠契,禅院寺契,関王廟契,遺愛廟契;南・北官書堂,観徳亭・奮衛亭(いずれも射亭),社稷壇,金府使墓;広寒楼,春香祠堂,錦水亭(cf. 本田, 1999; Honda, 2001
・関王廟:中国三国時代の武将関羽(字,雲長)を祀る廟
cf. 名称:実録では,関王廟,武安王廟,関廟,南廟(漢城南大門外の関王廟),東廟(漢城東大門外の関王廟),誕報廟(但し,全羅道康津古今島と南原のみ),関帝廟(高宗光武6[1902]年以降);関聖廟,聖帝廟,聖廟
cf. 所在
―漢城:朝鮮王朝が香祝を下していたものとして南廟,東廟;高宗代創設の北廟(明成皇后の保護で眞霊君と称する李姓女の創建),西廟(皇后厳妃の保護で賢霊君と称する巫女尹氏の創建);民間のものとして芳山洞関帝廟,奨忠洞関聖廟,その他各社の廟
―地方:実録に見られるものとして,全羅道康津古今島,慶尚道安東・星州,全羅道南原;高宗代に開城,河東
 
#発表の目的:南原関王廟・関羽崇拝の変遷と王朝・地方官衙・吏族等の関与,ならびに現状について,各種文献資料(実録,邑誌,関連団体文書など),吏族子孫等からの聞き取り調査,及び関王廟における儀礼の参与観察をもとに考察する。

1.朝鮮における関王廟の設立と関羽崇拝・信仰の実態
*中国では南北朝,或いは宋代より廟が建てられ,国家的に祀られる。民間でも,一部地方的に祀られてきたが,明代に,おそらく『三国志演義』の流布との関連で,軍神,または除禍降福の神格として,広く信仰されるようになる。関王の神蹟・異事を記録した書籍とともに,「忠義経」「覚世真経」「関帝明聖経」「関聖帝君実話」等の経典類も編纂刊行される(金龍國, 1997)。

1-1. 関王廟の設立(cf. 金龍國, 1997[1965]; 李在崑, 1996
#漢城と地方における関王廟の設立:壬辰・丁酉倭乱が契機,朝鮮に来援した明の武将が設立(南廟と地方の関王廟),あるいは明皇帝の要請・援助で朝鮮朝が設立(東廟)。

#南廟:宣祖31[1598]年,明の遊撃将陳寅が,倭乱における関羽の神助(平壌等での勝利と戦傷の完治)に報いるために,漢城南崇礼門外山麓に関王廟を創建(宣祖実録314月によれば,陳寅が居所の後園の上にあった旧家をそのまま利用して関王廟を建て,塑像を設置,さらに改修。楊鎬等の明将が銀を援助。朝鮮朝も一部援助)。

#東廟:戦乱が集結した後,明の使臣萬世徳が,関公の至大なる陰助に報いるために廟を設立することを要請する明帝神宗の詔書と,基金4,000金を伝える。宣祖実録32[1599]4月・6月によれば,廟設立の場所を,興仁門(東大門)外の造山近辺とするか(朝鮮王),南大門外とするか(明将葉靖國)で問題に。結局,東大門外永渡橋脇に決定。宣祖実録327月〜34[1601]7月,工事の難航と担当官の懲罰。同年8月・9月,論功行賞。各種私撰文集によれば,宣祖35[1602]年春,竣工。
*文臣のなかには,関王廟の設置を,「虚誕」(いつわり,でたらめ)であると批判する者もあった。

#地方の関王廟
『燃藜室記述』別集巻四諸祠条によれば,
―康津古今島:宣祖丁酉[1597],都督陳王+-火が創建。
―安東府:宣祖戊戌[1598],真定営都司薛虎臣が創建。
―星州牧:宣祖丁酉[1597],天将茅國器が創建。
―南原府城西門外:宣祖己亥[1599],都督劉糸+廷が創建。
→安東・星州は粛宗実録37[1711]年正月と一致。しかし,『海東聖蹟志』祠廟条(光緒丙子[1876])によれば,南原は宣祖30[1597]年丁酉,遊撃将藍芳威によって創建。また,金龍國(1997[1965])は,康津・安東・南原廟の創建者(南原廟は藍芳威)が現地へ到着したのは宣祖31[1598]年春,康津廟の場合は同年7月であったと諸文献にあることから,前者三廟は同年3月以降,後者は同年7月以降の創建と推定。

1-2. 朝鮮朝による儀礼行為:漢城・地方関王廟に,王による親祭,官員を派遣しての致祭,降香祝,補修,賜額,堅碑
#宣祖代
・宣祖実録31[1598]5月によれば,513日の関羽の生辰に朝鮮王が行礼する件について,前日,備辺司は前例が無く,翌日というのも急すぎるので,中国の将軍の要請通り行う(明将と一緒に四拝礼)のは難しい,礼官に焚香し敬意を表する儀式を決めさせるのはどうか上奏。大明会典増祀神祇篇には四孟朔と歳暮,及び生辰にすべての官員を送って致祭するとある。行礼当日,王は再拝する礼式を行う。その後,明将が廟の前庭で催した雑戯にも王が親臨したことに対して,臣下が批判。
・宣祖実録318月によれば,明将が関王廟で会盟し帖文を作成。その後,四拝→焚香→三献→読祝→四拝。贊者が白鶏を掴み,宰人が殺して血を暖かい酒に混ぜ,誓帖を読み,血酒を順に飲む。
・宣祖実録3110月,関王廟に焚香。
*中国式の儀礼に対する朝鮮朝の反応

#光海君代
・光海君日記4[1612]6月によれば,東・南関王廟の祭礼は,纛所(軍神である纛神を祀るところ)の例により,毎年春秋の驚蟄日と霜降日に,官員を派遣して挙行。

#粛宗代
・粛宗実録17[1691]2月,王は貞陵に詣でた帰りに,宋太祖が武成王(太公望)の祠堂に歴謁した故事を引いて,武安王廟(おそらく東廟)に駐駕し,入って遺像を見ようと思い,諸大臣に節目を講定させる。左議政は周王が商容の閭門で式礼を行ったのに倣うべきであるとするが,右議政は拝礼も式礼も宜しくなく,礼にすべきであるとする。王は後者に従う。その翌日,東南関王廟の破損箇所を改修し,官員を派遣して致祭をし,祭文に王自身が考え,感嘆した意を込めることを命ずる。
・粛宗実録29[1703]6月,王が教して語った内容に,自分は近年拝陵の時に東廟に歴入している,一方,南廟は明の遊撃将によって創建されたが朝鮮も出財し,宣祖も臨幸した例がある,南廟には生像が安置されていると聞く,明日外出する際に歴過したいと。翌日,南関王廟を歴過し,礼して立ち,近侍を顧みて,「これは生像である。東廟の塑像に比べて,大いに生気がある」という。そして西壁隅の僧像を指して,「これは何のために設けたのか」と聞くと,近侍が「俗称,普浄長老です」と答え,王は頷く。また,「武安の精忠大義,萬古昭昭にして,私の嘗て深く慕う所なり」云々。辛未[1691]の例によって,東廟で致祭することを命ずる。
・粛宗実録36[1710]3月,王が諸臣に東・南関王廟で拝礼をせずに礼をすることは礼を失してはいないかどうかと聞き,諸臣は礼が適当であると答える。
・粛宗実録36[1710]10月,全羅道古今島の関王廟(東廡に都督陳王+-火と忠武公李舜臣が追享されている)の賜額に関連して,祭日は京中関王廟にならって驚蟄・霜降とすることを通知すること,饌品は宣武祠の例によること,香祝は京から下送することなどを決める。
・粛宗実録37[1711]年正月,安東・星州関王廟の享祀について,古今島と一緒に挙行することにし,その後に検討して補修することを命ずる。その節目は,東・南関王廟の例により,驚蟄・霜降を祭日とし,祭羞(祭需)は竹+邊豆を用い,献官は本邑営将,或いは堂上の武官守令を選んで送り,配位には堂下武官を選んで用い,諸執事は郷将官を任用することとする。
cf. 崇明事大思想の膨張との関連(金龍國, 1997

#英祖代
・英祖実録15[1739]5月,関王廟で再拝礼を行い,神像と龍袍(帝王の正服)の補修を命じる。
・英祖実録22[1746]8月,宣陵に詣でた後,南関王廟に歴臨して拝礼を行う。承旨を派遣して,東・南関王廟で致祭し,龍袍,左右の塑像,及び墻垣をあわせて補修させる。顕霊昭徳王廟の六字を親書し,東・南関王廟に掲げる。安東・星州・古今島関王廟を改修することにする。
・英祖実録26[1750]8月,懿陵に行幸した後,回駕して関王廟に歴臨する。星州関王廟の塑像と廟宇の剥落が甚だしいことを聞き,観察使に命じて改修させるように命ずる。

#正祖代
・正祖実録5[1781]年閏5月,関王廟の祭品と儀式を整理修正する。
・正祖実録9[1785]11月,四朝御製による武安王廟碑を東・南廟にたてる。
・正祖実録16[1792]8月,明の副・棆奚子龍を康津誕報廟に配する。

#純祖代
・純祖実録32[1832]年壬辰2月,創建を始めた旧甲がまためぐってきたので,武安王南廟は,自ら奠酌礼を行い,日は来月上旬に撰入すること,東廟は将臣に摂行させること,南原・康津の両廟は,本道兵水使を献官として分進させることとする。312日,南関王廟に詣でて,奠酌礼を行う。14日,湖南誕報廟,嶺南関王廟の王の衣服と金+甫陳(祭器の一種)を艤霪から両道の観察使に通知して新備させ,この後,観察使の巡歴の時に視察して補修すること,年限は七年と定め,必要な物力は公の穀をもって相殺することを命ずる。

1-3. 民間の関羽信仰
#実録記事
・顕宗実録12[1671]年,関王廟塑像に水気が流下した跡があり,京城の民が争って血涙が流下したと伝える。
・粛宗実録29[1703]6月,都承旨が廟中での淫祀を禁ずることを請う。
・英祖実録37[1761]12月,近来,東・南関王廟が淫祠を成しているので,特に戒めて禁断することを命じる。

#李能和の著述
・『朝鮮道教史』:「朝鮮の人々も関聖帝を信奉し,財神と見なして,鍾路普信閣の脇に祀り…。また,毎年10月(朝鮮では昔から10月をサンダルとして,神に祭祀をするが,三韓以来の習俗である)になると,市場の商家で南廟に告祀をし,財運を祈ったが,この風俗は中国から伝来したものである」
・『朝鮮巫俗考』:「京城内姑婆の輩,自ら関聖帝君己に降ると謂って,祠廟を造り神像を奉ず,問卜者往き,祈祷者往く,金銭を取りて以て生を営む」

#村山智順, 『朝鮮の類似宗教』
・「朝鮮における関羽崇拝も,始めは国家的であったものが,いつしか一般民衆の間に迎えられ,招福除災を目的として信仰する,一種の民間信仰になった」
・民間信仰としての関帝崇拝
a) 関帝廟中心の崇神団体
―地方的,階級的,職業的に関羽を崇拝する者が集まって教団を作る。「千壽社」「篤誠社」「月誠社」「日誠社」「永明社」「漢明社」「敬明社」「忠眞社」などのように「社」と称し,一定の期日を定め,団体として,あるいは代表をたてて,関帝廟に参拝。
―有志の団体であるので,社員の資格と数に制限が無く,寄付金を募って費用に充てたり,契を設けて費用を支弁したりした(講中のようなもの)。
―篤信にして余裕のあるものは,その社に属する小祠を造り,関帝の画本または像を奉安して,随時の参拝に資した(ex. 忠眞社,千壽社)。参拝時または廟の祭日等には賑々しく繰り出した。殊に京城の商工団体である都家のごときは,互いにそのにぎわいを競う所から,大々的な参拝行為をとった。
―この崇信団体は,東廟を中心とするもののみで30をくだらなかったが,韓末に至って,有名無実の有様となってしまった。
b) 個人崇拝者,殿内巫
―元来,関帝に対する崇拝は,身分,職業,年齢,男女の如何に拘わらなかったのであるから,個人として参拝し崇敬する者も無数にあり,その篤信者に至っては,画像を室内に勧請して尊崇し,しかも月々あるいは定期的に関帝廟に参拝した。
―殿内巫は,関帝を祭神として,祈祷,解寃を営業とする巫女で,京城付近では,韓末にかけて殊にその盛行をみた。元来,開城の巫女が高麗の将軍神である崔瑩を主たる祭神となすに対して,京城の巫女の間に,この関帝を祭神とする者があった。上下貴賤等しく,関帝廟を中心として関帝を崇拝する者が多いので,彼女たち自身が関帝を降神し関帝の名によって災禍を述べ,自家の営業状態をよくせんがために,次第にその数を増した。
―韓末,巫のあいだに,眞霊君(李姓女。明成皇后に親近し,皇后を帰依させ,崇洞の北に関帝廟を建て,皇后の権威を背景に絶大な勢力を誇った→北廟),賢霊君(巫女尹氏。時の皇后厳妃を動かし,明成皇后の建廟に対抗して,二宮洞西大門外盲唖院の地に関帝廟を建て,二宮洞大監と称せられた→西廟)のように,王后を誘引して,関帝廟を新造し,宮内の親任を恣にする者が出るに及んで,益々関帝崇神の殿内巫が幅をきかせるに至った。
・維持社:南廟を中心とする。南廟は宣祖朝の創建で,朝鮮時代は大成殿文廟に対して武廟となし,云々。民衆においても,東廟の関帝は死せる関帝なるに反し,この廟の関帝は生ける関帝であると称し,東廟と別個に尊崇。隆煕2[1908]年,亨祀整理の際,南廟の祀典も廃止となったが,当時の致誠団体である春秋社,日誠社,普成社,永明社,敬明社等の崇信団体が,率先して寄付金を募集し,寄付者3,300人,金額10,750圓を得て,大正2[1913]年,総督府より土地建物の払い下げを受け,若干の祭田を購入して,南廟維持社を組織。大正12[1923]年財団法人としての認可を受け,殿宇を関聖廟と改称し,亨祀礼節を文廟のそれに準じて行うことにした。社員は当時200名,現在100余名。

*「壬辰倭乱の明将たちによって関王廟が創設され,関王に対する崇拝行事が韓末に至るまで伝承されてきた間には,民間信仰化し,婦女子と地方父老はもちろんのこと,士大夫・知識人層にまでも,伝播したことがわかる」(金龍國,1997

1-4. 関聖教(村山, 『朝鮮の類似宗教』)
・大正9[1920]年,朴基洪と金龍植が,関帝を崇拝する崇神団体,殿内巫,および一般信者を糾合して,教団を組織。殿内巫によって誤って伝えられる関帝の教えを矯正し,関帝の忠烈勇義を以て民衆を善導するために,趣旨,綱領,27条の教規を制定し,李載克を総管長に推し,崇仁洞の東廟に本部を,各地に支部を設けて,大々的に布教に従事。しかし,ほどなく創立協議者の朴と金のあいだに不和を生じ,金は別に関聖教総本部を設立,大正13[1924]年には本部を京城蓮建洞に移した。
cf. 綱領:
一,本教は聖帝の精忠大義と荘厳なる巍徳強化を闡明すること
一,至聖至尊の徳化を誠心尊奉するよう指導すること
一,聖訓の真理を一般社会に発揮して信仰心を培養すること
・崇拝対象:関帝。塑像(南・北廟),銅像(東廟),あるいは画像(西廟,一般信者の家)。容貌は,「赤顔・長髯・凰目(目尻のつり上がった眼)」で,体躯魁偉。他に,関平将軍(関帝の長子),周創[ママ]将軍,趙累将軍,王甫将軍,普浄大師(玉泉寺僧)を一組とする。四将軍は,聖帝の前立神として,普浄大師は,関聖帝君の御教(明聖経)がこの寺僧の夢によって世に伝えられたため,聖経の伝道者として尊崇。この組み合わせ以外に,『三聖訓経』に依拠して,文昌帝君(晋の張亞)と孚佑帝君(唐の呂洞賓)をあわせて祀る者もある(千壽社の崇神もこの三聖神)。
・修行:神像に参拝して経文を読誦。経文は,『明聖経』が必読,『覚世眞経』『三聖経』もひろく読まれる。漢文を読めない者は諺解本で。短時間の参拝時,または臨機常時の読誦には『関聖訓寶誥』を連読。
・関聖教教徒・布教所・教区数(昭和9[1934]8月現在調査)
―全鮮:教徒数2,285名(男1,230名,女1,055名),布教所6,教区(警察署管内)3
 ―京畿道:教徒数2,184名(男1,174名,女1,020名),布教所3,教区1
 ―忠清南道:教徒数101名(男56名,女45名),布教所3,教区2
―年次地方別:明治45[1912]年頃より出現。忠清南道で,昭和6[1931]年頃より関聖教の活動
―教別年次別教勢:類似宗教のなかでは中規模(崇神系のなかでは最大)

2.南原関王廟の沿革
2-1. 実録記事から
命立祠於南原縣,祀壬辰戦亡天将李新芳,毛永[ママ]先,蒋表等三人。又以呉興業,追亨於七忠臣鄭期達等祠宇(忠烈祠のこと)。興業,即其時軍餉有司而戦死者。先是,湖南暗行御史李真儒,陳聞,命本道詳察具奏(粛宗42[1716]年閏3月)
*この年の秋に,朴乃貞が東門内に関王廟を重創,明の三将を配亨する。[2-2参照]
・南原康津両廟,則献官令本道兵水使,分進(純祖32[1832]2月)
・命湖南誕報廟・嶺南関王廟,衣示+対(王の衣服)金+甫陳(祭器の一種),自礼知委両道道臣,一並新備,此後則道臣巡歴時,奉審修補,年限以七年為定,所入物力,以公穀会減(純祖32[1832]3月)
大王大妃教曰,今年,即宣廟丁酉旧甲,而天将撻伐之績,百世不可忘。宣武祠征東官軍祠,遣承旨致侑。因此思之,本朝殉義諸臣,実難倶挙,而此時南原之役,尤切興愴。本府誕報廟及忠烈祠,遣道内秩高守令,一体致祭(憲宗3[1837]8月)
 
2-2. 邑誌
2-2-1. 『龍城誌』(1702年刊行)には関王廟に関する言及なし。ただし,巻之二城郭条丁酉陥城事蹟に明の三将の戦死と,戊戌[1598]年,「天朝,斬楊元・陳愚衷,伝首於我国,至提督陣。劉糸+廷,設奠祭之」という記事が見える。
 
2-2-2. 『龍城続誌』巻之四祠廟条新増(1923年刊行)
*以下の記事は掲載順。
1)
・宣宗朝の壬辰変で,明の神宗が援軍を送った時,藍遊戎が関王の塑像を造り祈祷して神助を得る。
・己亥[1599],都督劉糸+延が碑を竪て,事績を記す。
2)
・粛宗朝丙申[1716],朴侯乃貞が廟宇を府東門内に重創する。皇明東征で死して事えた三将,李新芳,蒋表,毛承先を右に配する。
*盧廷圭「顕霊昭徳武安王廟重修記」(正祖朝鄭存中重修時の記録)には同年秋とあり,2-1と対照すれば,明の三将を祀るようにとの王命に従って,関王廟に配享したと推測される。同じく,宣宗己亥の立石の後,この重創まで,「其後興廃,文献無徴」。
・英祖朝辛酉[1741],許侯糸燐-火が,閭里(人里)に逼近であるという理由で,西門の外に移建する。
*『海東聖蹟誌』廟祠考には,英廟17[1741]年辛酉に「命額誕報」とある。
3)
・正祖朝[1776-1800],鄭侯存中が重修を啓聞し,廟貌益々隆,御筆をもって額を掲げ,繍袞(刺繍のある公の礼服)を着せ,関平,周倉を陪し,春秋に祀を亨し,香祝は上より奉来し,七人の祭官は各邑の守宰をもって定行する。衣衣+對(王の服)は七年毎に朝家より改備する。
*「顕霊昭徳武安王廟重修記」によれば,英祖辛酉の移建後38年間修理されることがなかったが,「今年秋,鄭侯存中,公服祇謁,彳+扁視廟貌」とあることから,1780年頃と推測される。また,「八月日祝冊自京城至」。一方,『海東聖蹟誌』廟祠考には,正廟5[1781]年辛丑に「御筆掲額」とある。
4)
・顕廟辛丑[1661],郡内の人である姜夏吉+吉が営邑に呈籥+頁し,晋文鍾がそれに随って設力して,別将及び下隷を置き,給料を画材し,以て守衛を備える。そのとき,官銭において殖本す。
*この記事は,『龍城続誌』が初出。以下,同じ。
・光武四年辛丑[1901],官銭に混入したものを取り戻して,中に矯救する(?)。
5)
・高宗辛卯[1891],京の人である趙在允が二千金を納財し,別備銭中に取殖し,利金を以て毎日の水刺の資となす。
*後述の『誕報廟誕忌祭需重創契案』(序文は18652月記)に,京居司果(五衛に属していた正六品の武職)趙在允(癸卯[1852]生。字,在明)が,辛卯[1891]に銭2,000両を納めて加入したとある。
・光武二年己亥[1899],香祝が廃止され,闕亨をしいてせず(享をしいて欠かず?),郡内の諸老が春秋例祭を質素に奉奠するのみ。本廟契員,慨然と発議し,合わせて870両を出金し,殖本取利して,一年七回の亨祀を精略排進す。
・繍衣年久しく黴びて痛む。丁巳[1917],契員また出財し,中国に注請し,改備す。華商等,またこれを欽慕し,繍帳卓衣また效誠をなす。
・歳庚申[1920],儒会所尊聖契銭より500金を捐して画付し,故に本廟契銭とあわせ3斗水田を買い置き,亨費に補い用いる。
*南原郷校尊聖契(1919年創立)の条例に,契銭元額が1,700圓で,そのうち,「金百圓関王廟享需銭補助事」とあるのがこれに該当する(『南原郷校誌』1995年)。
 
2-2-3. 『南原誌 全』(1960年刊行)
*以下,己亥[1959]
・檀紀4276[1943]年癸未,倭政末期に壬辰の戦嫌と称し,関聖塑像および同配宥の諸位を没破焼却し,維持財産を在郷軍団に帰付。
4278[1945]年乙酉815日,解放をむかえ,郡有志は全域を傾注し再び一新復旧し,前例によって年七回亨祀。賢労者は李火+玄純。
 
3.南原関王廟契と関羽崇拝
3-1. 南原関王廟契(以下,廟契とする)の沿革と朝鮮末〜植民地期の活動
3-1-1. 廟契の創設と重創
#『誕報廟誕忌祭需重創契案』(序文は乙丑[1865]仲春[2]下澣[=下旬]知府[=府使]延昌安膺壽書)
・「序文」によれば,朝家が春夏に香祝をくだし,道内の守臣将に命じて仕えさせていたが,邑の人がそれでは満足せず,誕日と忌日に祭を行うことにし,ともに財を出し大いに助け合った。契案と条約の制定は,みな白太守によって備えられた。
・「事蹟」によれば,初めは,春秋亨の他に,513日誕降之辰と1020日遐昇之時の祭奠はなく,衆が久しく残念がっていた。
*「座目」第一頁の三人目が,「前縣監白致彦,銭30両甲午[1834]」で,彼が白太守であると思われる。よって廟契と誕忌祭の創始は1834年頃と推測される。また,「座目」第二頁一人目の,「安東士人南相奎」が,同年に銭10両を寄贈している。さらに,その後,府先生金履鍾が癸卯[1843]に水田4斗落を,李胤愚が戊申[1848]に田2斗落を寄贈。
→純祖実録にある壬辰・丁酉の旧甲との関係?
・「事蹟」によれば,前別将徐萬靖(1817年生)が,十年余りの間,別将執事の任に出入し,祀事奉行の節,祭需宰割の次を看検挙行していた。たまたま病にかかって多年,則ち誕忌の二祀をもっぱら守僕一名に委ね,十年がたった。丁巳[1857]年,前将校魯正民が本廟の別将に逢差され,その事蹟を見て,ただその物財が炸率していることを惜しむのみならず,その奉行が粗忽であることを切に憂いた。そこで魯正民は徐萬靖と儀式祭需について相談して,重創を謀った。左に挙げた契員が財を持ち寄って,以前は40両であった本銭が,今は240両となった。[以下,丁巳契とする]
・「座目」第二頁によれば,前別将徐萬靖が甲寅[1854]に銭10両を,魯正民が丁巳[1857]に銭5両を寄贈。
*以前の本銭40両とは,白致彦と南相奎の寄贈額の合計か?
 
#徐萬靖と魯正民の経歴
・徐萬靖:老契所壬申案によれば,字道裕,丁丑[1817]生;南原吏任・武任先生案によれば,[庚戌1850年閑良,癸丑1853]軍官庁礼房,[壬子1852年,癸丑1853]軍官庁掌務,[丁卯1867年前別将,戊辰1868]軍官庁行首,[辛未1871年巡将]立馬庁行首,[壬申1872]蛟龍鎮別将,[癸未1883]副座(大庁?),[甲申1884]巡将,[乙酉1885]領首(大庁領座?);戊子[1888],路契長(老契長の誤りか?)・禅院寺契西奉[]化主として,禅院寺の重修を主導。
*武任の諸職・要職(軍官庁行首,蛟龍鎮別将,大庁領座?)を歴任。
・魯正民:名需吉+吉,一名正民,字永則,庚午[1810]生;[己酉1849]軍官庁掌務;1868年没。
 
3-1-2. 丁巳契の活動
#『誕報廟誕忌祭需重創契案』「条約」
1) 祭を行うとき,各所任の祭官は,三日前に備望(候補者の姓名を具して推薦?)し,輪示(回覧)し,預め定めること。
2) 掌議・有司のうちの一人が倒れたときには,掌議が指名して,稟報(上使に告げること)し,官より差出(官員を任命すること)し挙行すること。
3) 二回の祭亨(誕・忌祭)のとき,用いる宰需は官の帖文(官府の長が属官に下す文書)によって屠用すること。
4) 契員のうちで身故のあった者は,長子孫を継入させ,例銭はその力に随って備納させること。
5) 掌議・有司および守僕・下人一名は,節歳饌としておのおの5銭ずつ上下すること。
6) 祭亨のときに用いる各種のものは,下記の亨祀の翌日に,掌議が諸会して,いちいち検察し施行すること。
7) 祭需の代銭を犯用(依託を受けた銭穀,または保管すべき銭穀を消費すること)する者,過って滞納・不納する者は,掌議が論じ,官家に報じ,処分を待って施行すること。
*地方官衙による統制

#『誕報廟誕忌祭需重創契案』「座目」
・閑良張鳳允:銭5両甲子[1864]
・同知李重仁:銭10両。紅門石柱用下。
・京居士李秉河:銭10両。田2斗落只,葛峙坊鋸岩坪天字員。
・京居司果趙在允(癸卯[1843]仙。字在明):辛卯[1891]入。
―銭2,000両。進庁し殖本した利銭800両,本年(辛卯[1891]か?)1111日より始めとなし,水刺(王に進める食事)を進排。余利銭は用に随って進排。閏また進排。
*『龍城続誌』の記事と一致。
又,420両。本年21日より始めとなし1110日に至り水刺進排。
又,30両。本年624日,生辰祭亨新創進排。明くる年を始めとなし,上項剰余銭中および契銭中,量に随って進排。
*事蹟では誕降の辰が513日とされており,これは宣祖実録の記事と一致するが,現在の南廟のように,624日を誕辰日とする所もある(李在昆, 1996)。また,南廟や奨忠洞関聖廟のように,513日と624日の両日を祭日としている例もある。
・金堤趙善民(丁酉[1837]生。字元初):銭100両。辛卯[1891]入。
*他の新入契員は,210両を納める。

3-1-3. 日誠社の設立と活動
#『契案 関王廟』「序」(庚子[1900]8月姜大炯敬書,李薬植薫沐拝首敬序)
・完州の人李弁が,郡治に来て廟の西廊に滞在していたとき,自分に聖(関羽)の訓・経を見せて,「関帝がおりていらっしゃったのは,後の者を治めるためである」といった。…私はこの訓を読み,経を奉じて…50名余りの人を集めて,ついに一社を起こし,「日誠」と名付けた。
*関王廟中心の崇神団体が「社」を称する例は,前述の『朝鮮の類似宗教』と一致。
*『龍城続誌』光武二年の記事との関連?(ただし,丁巳契でも,1890年代には毎年平均12名が新規加入)
・帯方(=南原)は聖帝(=関羽)が幾百年の間,霊を安んずる地である。州の人で,福を求める者は彼に祈り,後嗣を欲する者は彼に求め,春秋の秩祀の他に,日々の供え物や諸々の祭祀がはなはだ多いが,これは帝が州の人に望んでいることであろうか。いや,徒に聖の明らかなることを褻するのみである。もし人々に忠信孝悌等の事を行わせようとするのならば,ひとえに聖訓により,あい率いて化に参ずれば,すなわち玉帛や犠牲の儀が欠けたとしても,帝がこれを聞いて冥(遠く深いところ)に感じ,祈って応えられないこと,求めて得られないことがあろうか。

#『契案 関王廟』「約条」
1) わが同社の人は,貪欲で怒りやすい心を捨てて,法に帰依し,聖経を読み聖訓を奉じ,慎み遵って違えることなく,聖意を広めること。
2) 南原の全境内の人は,貴賤の区別なく,尊厳の何たるかをしらず,酌婦を連れて酒盛りをし,殿宇で騒いだり,ぼさぼさの髪や垢だらけの顔で好き勝手に殿閣に入ったり,庶民の婦女が簡単に殿に入って香を焚き,神籤をひき,して体に触るなど,褻慢の極みである。今より入社の後は,社長と掌議が特に守僕を戒めて,このような厳粛さのない習を一切禁じること。
*祈福的な民間信仰を排し,経訓を奉ずることを強調する点は,関聖教と類似。
3) 毎年元旦の朝,社長・掌議・有司,および諸社員は,一斉に斎所に会同し,順序に従って殿を拝すること。
4) 毎年正月15日と…[おそらく9]9日の二回,別に祭亨を設け,献官三名,大祝一名,…名,賛者一名を予め分担して定めること。
*後述の『聖廟事例冊』(1929年)を参照。
5) 今から,毎月1日と15日に,社長・掌議・有司は例によって焚香すること。
6) 契の本銭の取殖については,まず真実の与否をはかり,有司に散財を押さえさせること。別祭亨の時ごとに,五日前に本と利をともに推入し,一に,依り以て祭需の用に資し,一に,以て銭奠の剰余を明らかにし,更に分給するが,もし未収のものがあれば,諸掌議と有司が(責任を負って?)納めること。
7) 下有司は,会中の謹実である者を,公論に従って任命する。役に応ずる際には,労に酬いなくてはならないので,梅内面主人の一つの空席を以て兼任させる。条約は作庁においてこれによって範とすること。
 
3-1-4. 植民地期の活動
#『聖帝廟龍袍改服協議金補助文』(丙辰[1916]5月)
・改服に至り,時日急をなすがゆえに,衆議に謀らずして,期日にあわせ出財す。重陽行祀の時をもって改新の意ありて,我が社員の必要な額を定めて助力を協定す。
・発起人9名,補助人員96名。
*『龍城続誌』丁巳の記事と一致。
 
#『誕報廟新備契案』(癸亥[1923]秋):1941年までの新入者
 
#『関聖廟重修趣旨書』(丙寅[1926]5月)
・本郡守および警署□□募金の一事を協議し,特に更に許可す。
*当時,募金を集めるには,官の許可が必要であった。
 
#『聖廟事例冊』(己巳[1929]10月)
・所有備品:主として祭器。
・所有土地一覧:水田29斗落,賭米117斗。
・支出:年5回の祭祀と毎月一日の供物で,計418斗。内訳は,
―十二朔水刺進封,312
―驚蟄大祭,5
513日,5+1
624日誕辰,5
―霜降大祭,5
1019日忌辰,5
*513日ではなく614日を誕辰とするのは,『誕報廟誕忌日祭需重創契案』の趙在允の記事と一致。十二朔は日誠社約条で定められている(ただし,代表者による焚香)。
*以下は,おそらく追記
・所有土地追加分
・上下秩:上記の年5回の祭祀に加え,正朝,正望,秋夕,99日他に支出。計7140銭。内訳は,
―正朝,1
―正望,2
―芦席6立,240
―驚蟄大祭,12
513日,13
624日誕辰,12
―秋夕,1
99日,2
―霜降大祭,12
1019日忌辰,13
*丁巳契までに創設された年5回の祭祀(驚蟄,霜降;513日,1019日;624日)に,日誠社約条で定められた正月15日と[9?]9日の祭祀を加えれば年7回で,『龍城続誌』光武二年の記事と一致する。正朝殿拝は日誠社約条にある。残りの秋夕は新たに導入されたものか?
・殖本秩:借り手5名,合本金2710銭,利子84銭,毎年5月と10月に捧入。
*利率はおそらく年3割。513日と1019日の祭祀の前に捧入か?
 
3-2. 朝鮮末〜植民地期の廟契の人的構成

 表1. 南原関王廟契の居住地・姓別構成(付,老契所契員数)

契案     邑内居                                                                                                                            邑外    合計     老契所
        李    金     梁     朴     徐     姜     魯     鄭     張     崔     趙     他
================================================================================
 
丁巳案   54   38   29     13      13     11     15     13      7       5       5       35    30     268        72
(c. 1857- 1900)
 
日誠社   22   13       6       4        1      5        4      2      3       2       3       10      4       79        26
(1900- c. 1922)
 
癸亥案   34   26     14       9         8      9        3      6      6       5       6      18       8     152        59
(1923- 1941)

3-2-1. 丁巳案
#南原邑外居住者
a) 座目第二面冒頭に「安東士人」:甲午[1834]に銭10両とあることから,廟契重創以前の寄付者と思われる。
b) その後,1068ID番号)に「京居士人」が登場するまで,居住地記載なし。ここから「邑居」とそうでない者が区別され,各項目冒頭に記載される(ただし,「邑居」が連続する場合は,二人目以降は省略)。これが,1097まで続く。
 邑居でない者は10名でその内訳は,京居6名,他4名は全羅道の諸邑(全州1,谷城2,金溝1)。
c) その後は,非邑居のみ記載。計17名。内訳は,
1127:任実;1152:京居(趙在允)[加入1891]1153:金堤[1891]1158:山洞(求礼)[1891]1173:鎮安[1892]1194:全州[1894]1214:松京[1895]1217:中方[1895]1218:源川[1895]1219:寶玄[1895]1220:順天[18951896]1247:伊彦[1899]1248:萬徳新基[1899]1249:萬徳新基[1899]1250:萬徳新基[1899]1270:羅州郡?艮面松林里;1271:羅州郡金鞍洞
→京居,松京各1名以外は,いずれも全羅道内。計15名の全羅道居住者のうち,8名は旧南原府内で,邑名ではなく,面・坊名が記されている。大半が1890年代の加入と思われる。
*京居の急減は,王朝との関係の弱化を反映か?
 
#南原邑居住者
268名中238名,88.8%は南原邑(もしくは当初においては南原府か?)の居住者と見られる。そのうち203名(全体の75.7%)の姓は,老契所11姓のいずれかと一致している。また,実際に老契所契員である者,あるいは後に契員となった者は,72名(全体の26.9%)に及ぶ。内訳は,李24,金11,梁10,徐5,朴4,趙4,姜4,魯4,鄭2,張・柳・成・許各1名。老契所と同様に,李・金・梁姓の占める比率が高い。
*南原の吏族家系出身者が多数を占めていたと考えられる。
 
#職役の記載
1001:士人;1002:前別将;1008:閑良;1036:同知;1037:閑良;1044:司果;1068:士人;1070:同知;1072:同知;1090:同知;1094:出身;1138:同知;1150:出身
 
#加入年齢
年齢 22-30 31-40 41-50 51-60 61-70
人数 23      48       33      9        5
→加入年齢が判明した者118名に限れば,71名,60.2%40歳以下。
 
#契員の生年
生年 1803-10 1811-20 1821-30 1831-40 1841-50 1851-60 1861-70 1871-79 不明
人数 11          10          29          39          53          59          37         13          17
→ピークは1841-60年生まれ,その前後も多い。
 
3-2-2. 日誠社
#南原邑外居住者は4 名のみで比率減少。いずれも全羅道内居住(2049:全州;2063:光州;2078:白波;2083=1271:羅州郡老安面永安村[1271では羅州郡金鞍村])。
 
#南原邑内居住者の姓の構成は,老契所11姓が79名中65名,82.3%と急増。実際に老契所員となった者も26名,32.9%で増加(特に丁巳案との重複者で26名中12名と比率が高い)。
*邑外居住者と邑内非吏族の比率が低くなると同時に,関王廟契における南原吏族のプレゼンスが高まったと見ることができる。
 
#契員の生年(括弧内は丁巳案との重複)
生年 1830 1831-40 1841-50 1851-60 1861-70 1871-80 1881-90 不明
人数 1 (1)  8 (4)      12 (4)     20 (7)     21 (8)      9 (1)       3           5 (1)
→ピークは1851-70年生まれ,立案当時で50代以下の者が主軸をなしていたと思われる。おそらく,丁巳案よりも平均年齢は若干上がっていると思われる。丁巳案と比べても,生年の早い年齢層が減少し,生年の遅い年齢層が若干加わったことを除けば,年齢層の構成はあまり変わらない。よって,庚子案立案の時点で,丁巳案生存者のうち,中核をなす成員が,同年齢層の者を中心に新しい成員をリクルートしたのではないかと考えられる。重複は26名(姓は,李10,梁・魯・姜・趙各3,鄭2,成・張各1)。
 
#20701916年に数え69歳で加入したことを除けば,加入年齢は不明。
 
3-2-3. 癸亥案
#丁巳案,日誠社との重複
・日誠社のみと重複:16
・丁巳・日誠社両案と重複:9
・丁巳案のみと重複:9
→丁巳案のみと重複する者が存在することは,日誠社から丁巳契員の一部が排除されていたことを示す。その構成は以下の通り。
3006李秉河:京居,田二斗落葛峙坊釼岩坪(1068の下段と同じ)
3007趙在允(載明):京居,銭2000両(1152の下段一部と同じ)
3008趙善民:金堤,銭100両(1153下段と同じ)
3012金基洪
3025魯鼎洙
3040李彦教:羅州郡本艮面松林里,全州人
3044李原黙
3047金在益
3081鄭泳轍
→約半数が南原邑外居で,3人が道外の居住。
→癸亥案は,丁巳契と日誠社の両者を統合し,かつ新しい契員を補充したものと性格づけることができるのではないか。
 
#南原邑外居住者は8名。うち4名は丁巳案のみとの重複。1名は丁巳・日誠社両案との重複,1名は日誠社案のみとの重複,2名が新入。内訳は,
・張林(1857年生):時山
・趙榮泰(1858年生):金堤
*禅院寺契にも加入。趙善民(1837年生,金堤)の継子か?
 
#姓の構成は,152名中126名,82.9%が老契所11姓。この比率は日誠社案と大差ない。実際に老契所契員となった者は59名,38.8%で,日誠社案より若干増加。内訳は,李18,梁9,金6,徐5,趙・張・鄭・姜各4,魯3,朴・尹各11930年以降の加入者では30名中15名と特に比率が高い。
 
#契員の生年
生年 1835-37 1843-50 1851-60 1861-70 1871-80 1881-90 1891-92 不明
人数 2            5            22          31          24          22         5            41
→ピークは1861-70年生。日誠社案と同じ。ただし,日誠社案よりも生年の遅い者の比率が高い。
 
*加入年齢
年齢 43-50 51-60 61-70 71-76 不明
人数 8        6        4        2         132
→いずれも1930年以降の加入者。丁巳案と比較すると加入年齢は確実に上昇している。主流は40代後半から50代。ただし,老契所や禅院寺契に比べるとまだ低い方である。
 
3-3. 解放後の再編成
3-3-1. 日誠社契案の追記120名:193655年の間に老契所に加入した契員が,ほぼそのままの順番で書かれている。
 
3-3-2. 『己丑三月一日 関聖廟修繕捐助案』(1949年)
・韓国人55名に加え,南原戊戌[1958]契中中華人として,3店舗4名。
*南原在住の華僑も参与。中華人の関与については『龍城続誌』丁巳1917年の記事も参照。また,廟内には山東同郷会(山東省出身の華僑)が中華民国10[1921]年に奉納した「威霊顕赤+赤」と書かれた石製の額がある。植民地期の中華人の人口は,1930年南原郡93名(うち男77名),うち南原邑80名(うち男68名)。
*『南原誌 全』で解放後の復旧の功労者としてあげられている李火+玄純は,庚寅[1890]生で,本貫寧川,吏族家系の出身で父惇植も朝鮮末に吏房をつとめ,南官書堂に貢献。火+玄純の功績として,1921年南原券番設立,1925年奮衛亭重修,1931年春香祠堂創設,1936年錦水亭建立,1946年南原中学校設立,1957年関王廟復旧。
 
3-3-3. 『献誠録』(檀紀4289[1956]4月)
・序文:13年前の甲申[1944]にかの賊によって塑像が被燼し,廟宇・祭器その他の被害も論ずるのが難しい云々。今,地方有志の尽力で塑像が復旧し,廟が改修されたが,本廟の資産が薄弱であるので寄付をする云々。
5名の高額寄付者。
 
3-3-4. 4291年戊戌正月17日現在 関聖廟祭器物目記』(1958年):廟所有の鍮器・木器
*以上の三文書は,1957年重修関連のものと思われる。
 
3-3-5. 養老堂規約
1962415日南原養老堂規約には,「南原関王廟祭祀,春秋に五回挙行すること」とある。
1963年陰416日養老堂運営委員会規約第2条には,「本会は,南原養老堂の財産管理及び運営に対する傘下団体である関聖廟,遺愛廟,社稷壇,禅院寺,錦水亭,射亭等,一切の指導事業の推進と執行するようにする事を目的とする」とある。
*解放後,廟契は老契所の管轄下に入り,老契所契員がおそらく自動的に廟契に加入する形をとっている。
 
3-3-6. 1970年(庚戌)416日 南原関王廟契規約』
#規約
1章:総則
・本契は数百年の歴史と伝統を残した先人の遺志を受け継いで,関王廟の維持保存と関羽思想の昂揚に尽力し,郷土社会の綱紀確立に寄与することを目的とする。
・業務として,
a) 契員間親和敦睦のための事項
b) 社会気風を振作し,勧善懲悪のための事項
c) 春秋大祭亨祀に関する事項
d) 廟宇の維持管理に関する事項
*業務の一つとして,春秋大祭亨祀に関する事項。また,社会改良的事業への強い関心。
2章:契員
・入契資格として,「本契の目的と趣旨に賛同する者で,成年に達すれば,誰でも入契できる。但し,先代に本廟の契員であった直系後裔は,自動入契することができる」とあるが,後述するように,事実上,養老堂会員のみが入契。
3章:任員
・掌議1,有司1,監事1,運営委員若干名。
4章:業務
・本廟の春季大祭を驚蟄日に,秋季大祭を霜降日にする,とある。
*祭享は,驚蟄と霜降の年二回に。
#契員名簿:141名中のすべてが養老堂会員。最初は1968年養老堂入会者,最後の三人は1990年に養老堂に加入。養老堂入会者を入会順にほぼ全員記載。事実上,養老堂の下部組織・傘下団体になっていたと思われる。
#歴代任員:197090年の掌議・有司
*おそらくその後は耆老会に吸収された

4.南原関王廟の現状
#管理・行事
・管理主体は,南原耆老会と南原市(地方文化財指定を受けているので)
・廟に隣接する宅地に管理人が住み,日常的に廟を管理し,参拝者に対応。現在の管理人は約10年前に就任。吏族家系の出身ではない。別に店を持っているので,普段はそちらに住み,管理舎には息子夫婦が住んでいる。
・大祭は年一回(霜降)に減らされる(1990年代前半から。その当時耆老会会長をつとめていた梁氏によれば,奢侈的な視角から批判があったとのこと。また,キリスト教が入って,慕華思想も否認・批判されるようになった。先祖たちが管理してきたので,そのまま保管している。関王廟も南原独自の財産である)。祭需は,南原耆老会(1988年養老堂亭子焼失と再建を契機に,団体名を改称)が費用を拠出し,管理人が準備。祭官は耆老会会員が担当。南原市の代表(副市長など)が来れば,献官をつとめる。
 
#関羽信仰
・参拝者(よく来る男女が数名):関羽の霊験を蒙った者,占い師,仏教信者
・霊籤の道具:霊籤筒,霊籤(番号毎に束になっている),『聖籤考』(丙申[1956]323日,李圭柱[1897年生。養老堂会員]・金容海[1891年生。養老堂会員]敬書)『丙申[1956]初夏霊籤国文解』(ともに霊籤の解説書)
*耆老会幹部によれば,解放前には廟に周易を学んだ占い師(男性)がいて,廟の管理をしていたとのこと。正月によく占いをしていたらしい。自分のチバンにも占いを見た人がいるが,自分は見ないようにしていた。
 
#霜降大祭(19991024[霜降]
・前日に準備:祭服・冠の虫干し。祭器・匙箸の確認。祭需の準備。
・当日は,耆老会関係者18名(すべて男性),南原副市長(市長の代理),ソウルから来た女性2名が祭享に参加(老女と中年女性,老女は占いも行う。中年女性はソウルの東廟にも参拝をしており,南原には数ヶ月に一度訪れるとか)。他に,民俗研究家,南原文化院事務局長などが見学。
・午前10時過ぎに陳設を開始,祭祀は1030分頃始まり,30分余りで終了。祭享の形式は儒礼によるもの。節次は笏記に従う。笏記によれば,焚香・奠酌をする神位は7位で,実際に祭物と酒も7位に供えられていた。その内訳は,
1) 関羽の塑像と神位(位牌)
2), 3) 「西侍位」「東侍位」:関平と周倉の塑像
4) 「毛公神位」:明将毛承先の神位
5) 「蒋公神位」:明将蒋表の神位
6) 「周公神位」:関羽の愛馬である赤兎馬と馬の手綱を引く人物(周倉か?)の画像
7) 「李公神位」:明将李新芳の神位
・首献の前と侑食の後に四拝,他は再拝。
・祭官は,進行唱笏(耆老会元会長),執事(耆老会事務局長),贊唱(耆老会前会長),首献(耆老会現会長),亞献(南原副市長),終献(耆老会会員),分献(耆老会会員),大祝(耆老会前会長)各1名,他の参列者は,廟前庭に縦二列に茣蓙を敷いて,それに向かい合って座る。
・祝文は,「大韓民國全羅北道南原市民等」が,「顕霊昭徳武安関聖帝」に捧げる形式。
・祭享の終了後,女性2名が廟内に入って個人的に参拝。
 
考察
#中心―周縁の構図:明/朝鮮王朝,王/臣,王朝/地方官衙,守令/胥吏・軍校/地方民,在地士族・儒林/吏族/常民,植民地政府・地方官庁/地方有志,近代国家/地方行政体/地方民

#関羽崇拝・信仰実践の多元性

#南原の吏族による関羽崇拝への関与
1) 19世紀後半
・胥吏のみならず,武任をも輩出 ex. 徐萬靖,魯正民
・国家・地方行政と地域社会の媒介者としての位置(「仲裁エリート」)を反映
・誕辰と忌辰の祭享の創始→伝統の創造,社会的威信の資源の開発
・加入年齢の低さ→実働性,少契所との関係も?
2) 日誠社
・漢城関王廟における関羽崇拝との関連性
・祈福的信仰の排除/両班・儒林の消極性→意識の三層モデル(cf. Honda, 2001
・南原邑外居住者の減少→地縁的共同性,土着性の強化
3) 植民地期
・加入年齢の上昇→活動の成熟?停滞?
・廟の重修(1926年)
a) 古蹟保存運動との関連(1920年代後半〜1931年に広寒楼の重修)
 b) 吏族関連施設の重修,創設とのシンクロニシティー:1931年に春香祠堂創建,老契所亭子の重修。1936年錦水亭建立。
・旧邑治・邑内という社会・文化的に構築された空間・景観(landscape)をめぐる実践の一環→植民地支配あるいは邑内地区の都市化・近代化との相互作用,共同性の再生産,集団/個人的アイデンティティの再構築,身分階層的伝統の構築(cf. Honda, 2001
・丁酉倭乱での神助の強調と戦死者の顕彰→植民地支配の側から見れば,抵抗的文化。末期に弾圧。
・老契所,禅院寺契との比較→加入年齢は上昇したが,それでも老契所,禅院寺契と比べれば,年齢層の若い者が多い。禅院寺契と比較して,老契所契員の占める比率が低い→吏族集団の社会統合
4) 解放後
・廟と財産の復旧
・ナショナリズム,民族文化の構築という脈絡で,積極的な価値を持ちづらかった→同じ丁酉倭乱と関係する忠烈祠,萬人義塚のような古蹟とは異なり,国家からも,知識人からも,運動関係者からも注目を受けなかった;耆老会会員のなかでさえ,何故に中国人を祀るのかという疑問を持つ者もある。
・老契所の所有する文化伝統のレパートリーに加えられ,老契所の伝統(=地方有志の団体,地域社会への積極的な関与)を守るという見地からのみ祭享が維持されている。

 

参照文献

 
朝鮮王朝実録
『燃藜室記述』
『海東聖蹟誌』(光緒丙子[1876]孟秋鐫,檀國顕聖殿蔵板))
李能和. 『朝鮮道教史』
李能和. 『朝鮮巫俗考』
『龍城誌』(崇禎紀元後72[1699]年己卯冬始事越四年壬午[1702]春訖工)
『龍城続誌』(歳在辛酉[1921]秋始事越三年癸亥[1923]秋訖工)
『南原誌 全』(檀紀4293[1960]年庚子重九節)
南原吏任・武任先生案(南原耆老会所蔵)
南原耆老会関係文書(南原耆老会所蔵)
 
鍾路文化院編. 1997. 『東廟資料集』, 鍾路文化院.
本田洋. 1999. 「韓国の地方邑における「郷紳」集団と文化伝統―植民地期南原邑の都市化と在地勢力の動向―」, 『アジア・アフリカ言語文化研究』58, pp.119-202.
Honda, Hiroshi. 2001. Between elite and commoners: hyangri or rijok in Namwon, Korea, a paper presented at the Lectures in Historical Anthropology of Korea, Oriental Institute, University of Oxford.
李在崑. 1996. 辞随税民間信仰』, 白山出版社.
金龍國. 1997[1965]. 「関王廟建置考」, 鍾路文化院, 1997 [『郷土辞随25, 1965].
村山智順. 1935. 『朝鮮の類似宗教』, 朝鮮総督府.
南原郷校誌編纂委員会編. 1995. 『南原郷校誌』, 南原郷校誌編纂委員会.