AA研共同研究プロジェクト 『中華』に関する意識と実践の人類学的研究 第1回研究会(1997/6/28) 発表原稿

「儒教規範の実践とその評価:韓国南西部南原地域における郷校表彰の事例から」

                    発表者:本田洋(所員)hhonda@aa.tufs.ac.jp


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目次

1.はじめに

2.南原郷校の孝烈表彰

2-1.郷校孝烈表彰の概略

2-2.候補者選考資料の分析

2-2-1.「孝」と「烈」の構成要件

2-2-2.選考の過程

2-3.郷校表彰の性格

3.郷校の教化活動の変遷と孝烈表彰の意義

4.おわりに

参照文献


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付録:郷校の釈奠儀礼(画像)


1.はじめに

 今回の発表の目的は、急激な変化の過程にある韓国の農村社会において、儒教的規範の実践やその評価が、現在どのようにおこなわれ、かつそれがどのような社会的脈絡に位置付けられるかを、地方での儒教による教化の拠点である郷校の孝烈表彰の事例を通じて、考察することにある。

 1970年代に全羅南道珍島郡の農村でフィールドワークを行った伊藤亜人は、村人の行動規範、人間関係、洞長制度、儒教の教化機関、儒教儀礼、儒教整合的な世界観、社会成層と階級意識、父系親族組織の観察から、韓国の農村社会を評して、「東アジアのなかでも儒教の伝統が今なおもっとも根強く、儒教社会の名にもっともふさわしい」としている(伊藤1993: 56)*。その後、国家の高度経済成長と都市化の過程で、韓国の農村は急激な過疎化と老齢化にみまわれ、儒教の伝統を支えていた「小農社会」(宮嶋1994)*は、現在、大きな転機を迎えつつあるが、一方で、儒教の伝統がいまだ根強く維持されているのも事実である。発表者が1989年より調査を続けている全羅北道南原郡の旧班村(朝鮮時代後期に在地士族[両班]の定着した村落[世居地]で、現在でもその末裔が集団居住している農村)においても、村人の行動規範や村内の人間関係、家族・親族儀礼を見る限り、儒教的伝統がいまなお生きられている現実であるのは確かであり、加えて、主に都市部に流出した兄弟・子女や近親とのあいだにさえも、「孝」の実践を媒介としたネットワークが強く維持されているのを読みとることができる。この点に関しては、近年流行している墳墓の整備作業(拙稿1993)、世帯の構成と家族・近親関係、祖先祭祀(拙稿1994)、ならびに農村の諸行事(拙稿1997)の事例研究を通じて、すでに何度かにわたって考察を加えてきた。

 今回の発表もこのような考察の延長線上に位置づけることができるが、検討の対象は、儒教的規範の実践を媒介とする社会組織や社会関係から、そのような実践の正統性を保証するメカニズム、ならびに、正統性の再生産の過程に移っている。具体的には、地域社会での儒教による教化の主たる担い手である儒林と、その拠点の一つである郷校の教化活動の一例を通じて、部分的にではあるが、このような問題について考察を加えようとするものである。

 ここで「儒林」とは、儒教の素養を備えた在野の知識人で、儒教の徳目を理想として生活のなかでそれを実践している者を指している。しかも、南原地域において儒林という場合は、旧班村に居住する、あるいは旧班村で生まれ育って都市部に転居した、在地士族の子孫であることが暗黙の前提となっているように思える。彼らは農村社会においては道徳的指導者であり、門中活動においても中心的な役割(例えば門長や顧問的役割など)を担い、自らも祖先祭祀や父祖の記念・顕彰事業を熱心に行っていることが多い*。近年の過疎化と老齢化という状況のなかで、このような儒林の大半は老齢の男性となっている。彼らの活動の場である南原は、朝鮮時代の一時期には都護府がおかれたように、全羅道管内でも有数の規模を誇る邑(旧郡県)であった。王朝の指導と財政的支援によって邑毎に設置された官設の教育・教化機関である郷校も、全州、羅州、光州の郷校とともに、全羅道管内で四本指に入る規模と格を誇っていた。現在でも、農村部をめぐると孝子や烈女を記念する旌閭・碑閣が数多く見られ、丁酉倭乱(慶長の役)の際に南原城を守って殉死した一万余名を祀った万人義塚や二十四忠臣の位牌を奉安した忠烈祠も有名で、忠、孝、烈の卓越した郷として、「南方鄒魯之郷」とも称されている。植民地統治期に南原券番の芸妓(妓生)がパンソリ台本の主人公の祭祀として開始し、のちにそれが地域的な祝祭に発展した「春香祭」が、守令の強引な誘いにも屈せず、離ればなれになった恋人に対する節義を守り通した烈婦春香を讃える行事として、近年では全国的な知名度を得てもいる。

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2.南原郷校の孝烈表彰

 韓国における儒教は、朝鮮時代後期にはほとんど朱子学一辺倒という趨勢を見せ、特に、地方の在野の儒林のあいだでは、もっぱら人倫・道徳を重視する礼教・修養学派の様相を呈していた(伊藤1993: 57)。彼らの教化活動においても、三綱五倫の実践が重視されていた。

 このうち、三綱とは、臣下の王に対する忠、子の親に対する孝、妻の夫に対する烈を意味する。朝鮮王朝時代には、その教化のために『三綱行実図』、『続三綱行実図』、『東国新続三綱行実図』などの、忠孝烈の事例を集めた教化のテキストが、全時代を通じて編纂され、これが諺文にも翻訳されて広く流布していた。同時に、朝鮮王朝は、このような三綱を実践した者に対して、礼曹の管轄のもとに表彰をおこない、程度に応じて旌門(村や家の入り口に門閭をたてる)、復戸(戸の徭役を免除する)、賞職(官職を給する)、賞物(米などを下賜する)といった褒賞を与えていた(これを総称して「旌表」という)。選考過程について、17世紀には、各邑の守令が「一郷公論」を採取して表彰すべき人物を道に報告し、道から礼曹、礼曹から議政府におくられ、最終的に国王の裁可を得て表彰するのが法例となっていた。山内民博によれば、「一郷公論」の採取に関しては、邑、道や朝廷に対して候補者を推薦する旌表請願が、16世紀後半から17世紀にかけて、郷会を基盤とした在地士族の組織的な活動として展開されるようになり、このような動きが19世紀に入って、書院(私設の教育機関)・郷校のネットワークを背景に、邑を越えて広範囲に士族を結集する大規模なものになっていったという(山内1995)。

 山内の論考で取り上げられている19世紀前半の南原の事例(南原の士人李 が孝子として推薦された事例)では、全羅道各邑の郷校から南原郷校に宛てた通文が参照されている。その内容は、「南原の士人李 の孝行を仄聞したので、南原の士林たちが褒揚之公議をおこし、李 を官に推薦するよう求める」ものとなっており、事前の南原からの依頼に答えて作成され、南原郷校ではそれを官に対する推薦の材料としたのであろうと推測されている(山内1995: 93-94)。このような通文のやりとりは、実は現在でもおこなわれていて、発表者は南原郷校で、全羅南北道各地の郷校(扶安、興徳、潭陽、淳昌、茂長、羅州、霊光)から送られてきた、管内の孝子・烈女などの推薦を求める通文を見たことがある(1993年8月31日)。そのとき話をうかがった郷校事務局長(当時)金某氏によれば、全羅南北道では、孝子や烈女を顕彰する碑をたてる際に、管轄郷校を通じて、道内の四掌管(前述の全州、南原、光州、羅州郷校)に通文をおくり、それに対する返事(答通文)をもとに成均館に褒揚の申請をする。そして成均館から許可がおりて初めて碑を立てることができるのだという。近年では、このような手続きを得ずに勝手に孝子・烈女碑を立てる者もいるが、そのような碑には価値がないとのことであった。

 今回取り上げる郷校の孝烈表彰は、上に述べたような旌表請願や褒揚申請に比べれば、比較的新しい活動である。しかし、近年の南原郷校の事業のなかでは、青少年や婦女子を対象とした教育活動(日曜学校、明倫学堂)とともに、儒教宣揚活動の柱の一つとして位置付けられており、さらには1994年に「頽廃した社会の紀綱の建て直しと伝統文化の継承」を目的として結成された綱倫会の主要な事業にもなっている(郷校の活動としては、他に、文廟祭祀も重要である)。発表者は、1993年8月、南原地域での調査の際に、南原郷校の孝烈表彰に関する資料を見る機会を得て、その一部を写真撮影させていただいた。ここで用いる資料は、その際に撮影した『善行者表彰関係書類綴』(以下、『書類綴』と略記)の一部と、1995年に発刊された『南原郷校誌』(以下、『校誌』と略記)の関連記事である。まず、『書類綴』に収められていた「甲辰八月 日 美行者表彰名簿」(以下、<美行>と略記)と、『校誌』に収録されている「孝烈、表彰実績」(南原郷校誌編纂委員会1995: 522-526;以下、<孝烈>と略記)に依拠して、南原郷校による孝烈表彰の概略を整理しておきたいと思う。

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2-1.郷校孝烈表彰の概略

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 <美行>には1964年2月から1990年8月までの68名の表彰者が、<孝烈>には1964年2月から1994年8月までの78名の表彰者が、それぞれ記載されている。前者に記載されている者のうち、感謝状を授与された2名と表彰状を授与された1名を除く65名は、すべて後者にも記載が見られる。各表彰者に関する記載内容も、後者に多少の補足がある点を除けば、ほぼ一致している。また、後者には明らかに誤記と思われる者が1名見られる。これを除けば、後者には記載されているが前者には記載されていない者は12名にのぼるが、いずれも1991年2月以降の表彰に関するものであり、発表者の撮影時点(1993年8月)では記載不能か、あるいは未記載であったと思われるものである。その点を考慮に入れれば、<孝烈>は『校誌』編纂の際に<美行>をもとに作成されたものであると推測できる。よって、以下では原則として<孝烈>にのっとって資料を整理してゆくことにする。

 南原郷校による孝烈表彰は、南原郷校管内(詳細は後述)の住民のなかから孝子、孝婦、烈女を発掘して、毎年春秋の文廟(大成殿)釈奠*(写真)の際に表彰するものである。『校誌』によれば、この表彰は1964年2月に開始され、1966年2月まで実施されたが、その後一時期中断し、1981年8月に復活して現在に至っている。<孝烈>に収録されている表彰者の数は、1994年8月までで、計77名にのぼっている。性別内訳は、男13名(孝子)、女63名(孝婦、孝烈婦、烈婦、賢婦、篤行)、不明1名(善行)である。圧倒的に女性が多い。種別内訳を見ると、孝子(男)12名、孝婦(既婚女性)42名、孝烈婦(既婚女性)16名、烈婦(既婚女性)4名、賢婦(既婚女性)1名、善行1名、篤行1名となっている。「孝」に関わる表彰が70件にのぼり、うち、既婚女性(孝婦・孝烈婦)が58件を占めているのにまず目を引かれる。次に、「烈」に関わる表彰(孝烈婦・烈婦)が20件となっている。朝鮮時代の忠孝烈をおさめた『龍城誌』(「龍城」とは南原の旧称)と『龍城続誌』の忠孝烈条の記載を見ると、孝子が6割前後と圧倒的に多く、忠臣・節義が約1割で、残りの大半が烈婦であり、孝婦は少数に留まっている(表2-5表2-6参照)。郷校表彰で忠臣が対象とされていないのは、国家がその役割を排他的に担っているためであると考えられるが、邑誌の記載と比較して、孝子が極端に少なく、孝婦が極端に多くなっているのはは興味深い。この点については、項をあらためて検討したい。

 表彰件数を時期別に整理すると(表2-1)、まずT期(1964〜66年)では、春秋の釈奠のたびに表彰がおこなわれ、一回の表彰者数ははじめは1ないし3名であったが、後半では6〜8名と相当な人数になっている。次にU期(1981〜85年)では、1982年の春、1984年の春秋には表彰がおこなわれておらず、一回の表彰人数は、4名以下となっている。V期(1986〜90年)では、1986年の春、1987年の春、1990年の春には表彰がおこなわれておらず、一回の表彰人数は、1986年8月に6名であったのを除けば1〜3名程度である。最後に、W期(1991〜94年)では、1992年8月を除けば、毎年春と秋に2名程度を表彰している。開始してからかなりのあいだは、表彰者数は明確には決められていなかったようで、大体、1987年頃から、毎年春と秋に二名程度選んで表彰するという現行の方式が定まったものと思われる。

 さらに、時期毎の種別内訳も見ておこう(表2-2)。まず孝子であるが、T〜V期までは四名程度ずついるが、W期には全く見られない。一方、孝婦・孝烈婦という、既婚女性の「孝」に関わるものは、全期にわたって約三分の二以上を占めている。特にW期では、大半がこれである。そして、孝烈婦・烈婦という既婚女性の「烈」に関わるものは、7→6→5→2と時期を下るに従って漸減している。「烈」の減少に関しては、朝鮮戦争のように、既婚男性が大量に早死にする機会が1950年代中盤以降少なくなっていること、また烈を構成する要件の一つである守節、すなわち夫に早く死なれても再婚しないという条件が、次第にみたされにくくなっていることを理由に挙げうるかもしれない。

 受賞時の年齢は、平均64.3歳(数え年。ただし、年齢を特定することができなかった21名を除いた56名に関してのみ)で、男59.5歳(12名)、女65.6歳(43名)、不明86歳(1名)である。女性の方が六歳程度高い。また、受賞者の出生年については(表2-3)、ほとんどが光復(1945年8月15日)以前の生まれで、そうでない者はわずかに一名あるだけである。さらに大半は1920年代までに生まれている。

 受賞者の住所の分布は、現南原郡のうちで南原郷校の管轄区域となっている旧南原郡(朝鮮時代の南原郡)の12面、ならびに南原市9洞のほぼすべてにわたっている(表2-4参照)*。加えて、任実郡三渓面、同郡屯南面、淳昌郡東渓面(以上、全羅北道)、谷城郡古達面(全羅南道)など、朝鮮時代末に実施された地方行政区画の改編以前、すなわち朝鮮時代末期まで旧南原郡に属していた地域からも受賞者が出ている。これは、これらの地域の儒林の一部が、行政区画の改編後も南原郷校の活動に続けて参与していることによるものと考えられる。また、南原市郡のなかで、市区域の受賞者数が極端に少ない。当該者12名のうち、T期2名、U期2名、V期4名、W期4名と徐々に増えてはいるが、それでも90年当時ですでに市部人口が旧南原郡12面の人口を大幅に上回っていたことを考えれば、この少なさは特異であろう(表2-7参照)。これはひとえに、儒林の活動基盤が、農村地域、さらにいえば旧班村にあることを反映するものと考えられる。反面、市部は人口の流動性が高いうえに、もともと在地士族が居住していなかったため、儒林のネットワークを広げてゆくこと自体が難しいのであろう。

 面別の受賞者数をみると、受賞者が5名を越えているのは、巳梅面(9名)、徳果面(8名)、宝節面(8名)の北部三面と、大山面(7名)、山東面(5名)、二白面(5名)である。これらの面に旧班村が集中しているわけでは決してない。むしろ、旧郡内で風水上の立地が最もよいとされる三村(すなわち班村としての格が高い)のうち、二村は周生面にある。北部三面に関しては、長らく南原の儒林の指導的な位置にいた人物(後述の湖南敬老会の創始者でもある)の出身地が宝節面であることが多少作用しているかもしれないが、確言はできない。

 最後に、資料の記載方式について補足しておきたい。男性についてはすべての時期で一貫して姓名が記されている。ただし、本貫まで記載されている者は5名のみである。一方、女性については、T期においてはほとんどが本貫+姓(例えば順興安氏)という形で記載されており、名が記されている例は一切ない。加えて、夫の姓名が例外なく付記されている。これは族譜の記載方式と同様である。反面、U期以降は女性についても姓名が記されている。夫の姓名はU期までは例外なく記載されているが、V期以降は当該者の本貫の記載がこれにかわるようになる。ただし、1993年8月以降は再び夫の姓名も記される例が多くなっている。

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2-2.候補者選考資料の分析

 本項では、『書類綴』に収められていた孝烈表彰の関係書類をたよりに、表彰事由と候補者の選考過程について、考察を加えたい。

 『書類綴』所収の書類のうち、表彰に関わる資料は、表彰状の草稿、推薦状、功績調書とその添付資料の三種類に分けられる(資料2-3参照)。発表者は、このうち、1987年3月から1993年8月までの六年分、計25名の候補者に関わる資料を写真撮影することができた。それ以前の資料については、体裁が整っていないとの理由で撮影することができなかった。

 25名の候補者のうちで、<孝烈>に記載のある者は20名である。記載のない5名のうち、1名については表彰状の草稿が含まれていないので、選考の対象となったが、表彰はされなかった可能性が高いと思われる。一方、残りの4名については、いずれも南原郷校典校名義の表彰状(あるいは褒賞状)の草稿も含まれている。日付をみると、1987年3月が2件(孝子1名、孝婦1名)、1991年2月が1件(孝婦)、1991年8月が1件(孝婦)である。<孝烈>、<美行>によれば、1987年3月には受賞者はなく、1991年2月には受賞者が1名、同年8月には受賞者が1名となっており(表2-1参照)、前者を合わせると毎回二名程度という1987年以降の傾向に一致する。おそらく、<美行>の単なる記載漏れか、あるいは表彰が決まった後に何らかの理由でそれが取りやめになったかの、いずれかの理由で、<孝烈>、ならびにその基礎資料であると考えられる<美行>には記載されていないと思われる(ただし、この点に関して当事者の確認はとっていない)。以下では、この4名を含めた計24名分の資料に基づいて検討してゆくことにする。ちなみに、その種別内訳は、孝子4名、孝婦16名、孝烈婦3名、善行1名で、烈婦は見られない。

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   2-2-1.「孝」と「烈」の構成要件

 まず、表彰状の内容をもとに、種別毎の表彰事由を検討してみよう(表彰状の草稿が収められていない場合には、推薦状、功績調書を参照した)。

@孝子(資料2-1

 次の孝婦や孝烈婦とも共通するが、父母の奉養が「孝」の主たる要件となっており、特に中風を患って寝たきりになった、あるいは失明した母に奉養をつくしたという記述に見られるように、健康状態のよい父母の世話よりも、重い病気に罹った父母の世話のほうが高く評価される傾向がある。その場合、奉養の内容も、大小便の処理、侍湯、四方手を尽くして薬石を求める、名医を探して治療を受けさせるなど、かなり具体的に記されている。ただし、一例に関しては、父母が重病に罹ったという記述はないが、そのかわり、老父母の奉養のために早くに職を辞して、父が死ぬと三年の服喪期間中、散髪もせずに一人霊室で寝起きし、朝夕の墓参りを欠かさず、一方老母に対しては好みの食べ物を求めて食べさせたり、済州島に旅行に連れていったなど、人並みならぬ奉養の様子が記されている(資料2-1参照)。また、他の一例に関しては、教育者として敬老孝親教育を実践し、また、随時老人の慰問をおこなっていたことも記載されている。

 病に伏した老父母の奉養や、亡くなった父母の服喪・守墓といった要件は、朝鮮時代の孝子旌表の事例にも極めて頻繁に見られる。また、敬老孝親教育に関しても、「書院を設立して生徒を訓誨」という要件が見られる(平木1987: 331)。その点、朝鮮時代の旌表と比べて、孝子の構成要件に大きな違いはない。また前項で、邑誌忠孝烈条と比較した場合孝子の比率が極端に低くなっている点を指摘したが、その理由の一つは、上記のように人並みはずれた奉養を尽くすのが、時間的にも経済的にも難しくなっていることにあるのではないかと思われる。特に、父母の奉養のために職を辞するというのは、いくら孝行に対して大きな価値がおかれているからといっても、なかなかできないことであろう。

A孝婦(資料2-2

 まず、事例の全体に共通していえることであるが、「婦」とあるように、この範疇に属する女性はいずれも既婚者である。かつ、奉養の対象は、生家の父母や祖父母ではなく、嫁ぎ先の、すなわち夫の父母(女+思父母)、あるいは祖父母(女+思祖父母)となっている(ちなみに『龍城誌』忠孝烈条では、未婚女性による生家の父母への奉養を「孝女」という範疇に分類している)。加えて、出身、ならびに嫁ぎ先の家門への言及が見られる例も多い。

 嫁ぎ先の貧しさを強調する記述も目立つ。「家勢貧寒」「困窮」「寸土の遺産も分財を受けられず小作農として僅々に生活を維持」「貧困な家庭生活」「困難な家庭環境」「家勢貧困」「公務員の薄給」「夫君の事業失敗」などであるが、そのような状況にもめげずに、「昼鋤夜織、勤倹治家により、僅々生計を維持」「昼鋤夜織勤倹治産」「団欒な家庭を築く」「日雇い仕事と機織りで夫君を助ける」「家勢を繁昌させる」「(夫の)薄給にも関わらず堅実に貯金をして、借家を転々とした後、(・・・)家を一軒買った」など、婚家の生計への多大なる貢献が示される。

 また、孝子の場合と同様に、中風、老衰、精神異常、眼盲などの病に冒されて日常生活に困難を来した婚家の父母・祖父母の身の回りの世話(大小便処理、侍湯、衣服をかえる、食事の世話をするなど)に力を尽くした点が高く評価されている。加えて、肉体労働をして夫の弟妹に高等教育を受けさせた、貧しい四代宗孫に嫁いで夫の弟妹の結婚と分家させた、忌祭祀の奉事・名節の訪問客接待・門中の哀慶事に力を尽くした、隣人・一家親戚・行商などに自分が飢えても食べ物を与えた、あるいは親戚の和睦を図ったなど、長男の嫁、宗婦としての親族的役割を十二分に果たしたことに言及している例もある。なかには、不遇な近隣の老人を手厚くもてなしたという記述のある例もある。

 このように、婚家の貧しさや婚家の父母の病気という悪条件にもめげず、夫の父母に奉養を尽くし、嫁としての役割を全うすることが、孝婦を構成する主要な要件になっている。

B孝烈婦(資料2-3

 これは孝婦と烈婦の構成要件をともにみたしている者に対して適用される範疇である。「孝」の構成要件は前項(孝婦)の繰り返しとなるのでここでは触れず、もっぱら「烈」に関わる記述を見てゆきたいと思う。

 三つのの事例のすべてに共通して見られる特徴は、「突然夫君と死別、婦人その時、年二十五歳で膝下に女息一人を養育し、女+思父母奉養に至誠を尽くし...」、「二十三歳の時、夫君が一線で戦死したという悲報に接し...」、「反共青年運動にたずさわるようになって五年たった1950年12月27日、水旨面犬頭山地区での共匪討伐作戦で(夫は)戦死し、婦人は結婚六年にして二十三歳で青山寡婦となり...」とあるように、戦乱などによって、若くして夫と死別したことである。そして夫の死後も(節義を守って)再婚せずに、残された子供の養育や夫の父母の奉養に尽くしている。

 「烈」の構成要件は既婚女性が夫に対して守節をつくす、すなわち節義を守ることにある。朝鮮時代の旌表の事例を見ると、「倭賊に陵辱されるのを死をもって抵抗する」、「夫の死後、祭祀・廬墓・守節・舅姑に奉養をつくす」、「夫の危機を救出する」、「夫が倭賊に捕虜になったあと守節をつくす」、「子供がないために棄てられたあとも守節をつくす」、「舅・姑の危機を救う」、「夫の捨てられても再婚せずに守節をつくす」、「夫の死に殉死する」などが具体的な内容となっており(平木1987: 332)、特に壬辰・丁酉倭乱(秀吉の朝鮮侵攻)のあと、旌表件数が極端に多くなっている(cf. 朴珠1990)。郷校表彰の事例でも、上記のように朝鮮戦争の際に夫が戦死した例が見られる。また、「烈」とは妻が夫に対して節義を守るという一方向的なもので、夫が妻に対して同様の節義を守ることは全く期待されていない。

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   2-2-2.選考の過程

 次に、推薦書、功績調書、ならびに添付資料から、表彰候補者の選考がおこなわれるプロセスについて整理しておきたい。

 ここで論考の対象としている24件のうち、17件について、推薦書が添付されている。推薦者は、郷校掌議、候補者が居住する面の儒林代表*、儒道会支部面支会長、その他の儒林有志、居住面洞長のいずれかとなっている。特に、郷校掌議か居住面洞長が入っている場合が多い。居住里班長・セマウル指導者が推薦者に加わっている例もある。このことから、郷校掌議や儒林代表をはじめとする儒林や面洞事務所が、郷校の依頼を受けて、近隣、あるいは所轄管内で候補者を発掘し、それを郷校に推薦するというのが基本的な手続きとなっているのがわかる。その際、推薦状には、候補者の行状についての推薦事由も記され、それが後の表彰状の記述の基礎となっている。

 また、面洞の発行した功績調書が添付されているものも12件ある。これは郷校から照会を受けた候補者に関して、面洞当局が功績事項等の調査をおこなったうえで、その結果に面長の推薦を添えて郷校に発行した公文書である。郷校関係者の話では、候補者の行状や推薦事由を確認する手続きとして位置づけられているようであった。

 候補者が過去に別の機関から表彰を受けている場合、その事実が推薦状や功績調書に記載されていることもある。また、近年では表彰状のコピーが添付されている例も見られる。郷校関係者によれば、このような受賞歴も選考の過程で考慮されるということであった。授賞者・授賞機関を列挙すると、保険社会部、南原郡守(父母の日表彰、南原郡民の章)、南原市長(父母の日表彰、南原市民の章)、面長(面民の日表彰)等の中央政府・地方行政体、大韓老人会南原郡支会、国民学校単位老人会、面老人会、部落敬老会等の老人団体、韓国戦没軍警遺族会、救国女性奉仕団南原支会等の社会団体、湖南敬老会という儒林の親睦団体、門中・宗親会等の親族団体と多岐にわたっている。それぞれの機関で大きな行事をおこなう際に、このような敬老孝親や孝行、善行に対する表彰も一緒に行われていると考えられる(資料2-4-c参照)。ただし、このような各種機関による表彰は、必ずしも孝烈のみを対象とするわけではない。例えば、「南原郡民の章」の場合、文化体育章、セマウル章、産業勤労章、公益章、愛郷章、孝烈善行章の六種類が設けられている(1993年7月29日改正の条例1249-28による)。その点、郷校の表彰は、孝烈という儒教的徳目の実践者のみをほぼ唯一の対象としている点に特徴がある。

 郷校関係者の言によれば、このように厳格な手続きを経て決定されるうえに、過去の受賞歴が参照されるゆえ、郷校から表彰されるのは容易なことではなく、受賞者が定員をみたさないことも多いとのことであった。

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2-3.郷校表彰の性格

 ここで、南原郷校による孝烈表彰の性格を整理しておこう。まず、孝烈の構成要件の考察で明らかになったように、郷校表彰では、朝鮮時代の旌表や邑誌の忠孝烈条に見られるような旧来の孝烈概念にのっとって、候補者の選考とその行状の評価がなされている。表彰状の様式や、授与式の形式自体は、他の団体の表彰と同様に、近代化の過程で確立されたものと推測される(おそらくは植民地統治期に導入された)が、選考・評価の基準や行状の類型化・記述のされ方を見る限り、旌表の伝統に忠実であるといえよう。

 次に、その目的は、孝烈の実践者を讃えるとともに、その実践内容を他の者に対し範(亀鑑)として示すことにあると思われる。これは他団体の表彰と同様であるが、郷校表彰の場合、それが地域の儒林の閉じたネットワークのなかで行なわれている点に特徴がある。受賞者の住所の分布や推薦者の属性の考察からわかるように、表彰者の発掘は、推薦者である儒林のメンバーが、対面状況のなかで、その人柄や行状を知りえる範囲内に留まっている。確かに、面洞事務所が発掘推薦するケースも見られたが、受賞者の片寄った分布を見る限り、決して儒林の生活圏からはずれた事例ではないと考えられる。加えて、表彰状の授与式は、春秋の釈奠儀礼の終了後に開かれる儒林総会の式次第の一つになっており、そこに参加するのは、原則として儒林のみである。(写真)南原地域の住民に対して広く範となることが期待されているにしても、それが実効性をもつのは、儒林の影響力の及ぶ範囲内にほぼ限られるであろう。

 また、種別内訳を見た際に、孝子や烈婦と比べて、孝婦(含む孝烈婦)の表彰件数が圧倒的に多い点を指摘しておいた。さらに、構成要件の検討から、孝婦の表彰においては、女性の婚家における役割の遂行が主たる評価の対象となっている点を示した。しかも、授賞の対象となった者のほとんどは、1920年代以前に生まれた高齢者である。ここに、孝烈表彰を通じた儒林の教化活動の重点を見いだすことができるかもしれない。女性の権利意識が強まるなかで、既婚女性に対して、極端ないいかたをすれば、婚家への隷属ともとれるような「孝」の実践を強いることは次第に難しくなっている。反面、伝統的な家族・親族システム(父系出自、夫方居住、世代原理と孝規範、財産の男子不均等相続、祭祀の長男継承、女性による家事・家政=アンイルの遂行)を維持してゆくためには、嫁、特に長男・長孫の嫁に過重な負担がかからざるをえない。すなわち、婚入してきた女性が、家族・親族システム、ひいては儒教的実践を揺るがす危険性がもっとも高い要因になりつつあるのである。孝婦の表彰件数が飛び抜けて多くなっていることの背景には、既婚女性の婚家での役割に対して正当な評価を与えるとともに、その望ましき姿を範として示すことによって、既存の家族・親族システムを維持・再強化してゆこうという意図がひそんでいるのかもしれない。

 先に述べたように、南原郷校の孝烈表彰は1964年にはじめられたが、開始後三年で中断している。それが再開されるのは、15年後の1981年である。なぜこのような時期に、かなりの熱意をもって、孝烈表彰が行なわれるようになったのか。さらには、郷校の教化活動において、なぜ孝烈表彰に重点がおかれるようになっているのか。次章では、郷校の教化活動の変遷のなかにこの孝烈表彰を位置づけることによって、本論の締めくくりとしたい。

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3.郷校の教化活動の変遷と孝烈表彰の意義

 朝鮮時代には、儒生の教育と文廟祭祀にあたり、邑における儒教の教化・教育の拠点として大きな役割を担っていた郷校であるが、開化期・旧韓末に身分制度が撤廃され、科挙制度が廃止されて以降、近代的教育制度が導入される過程で、その教育機関としての役割を失っていった。特に植民地統治下では、中央の成均館自体が廃止されて、かわりに経学院(のちに、明倫専門学院、明倫錬成所に改組)が設置されるなど、儒林の抵抗勢力を厳しく弾圧する政策がとられた。郷校も、文廟での享祀が許されるのみで、教育は各級学校がもっぱら担うようになり、書堂を通じて経典教育の命脈は保たれていたが、これも公認された資格を得ることはなかった。解放とともに明倫錬成所を母体として財団法人成均館大学が設立されたが、明倫専門学院以降は、国家機関ではなく財団法人の形態をとる儒林の私設団体に留まっており、儒教精神が国家理念や国家政策と直接的な関係をもつことはなくなっていた(琴章泰1987: 283)。

成均館を頂点とする儒教の教化・教育機構が、国家的教育機構のなかで周縁的な地位に押しやられ、儒教自体が国家統治の理念的支柱の地位から凋落してゆく過程で、各郷校の財政的基盤も次第に弱まっていった。これに対し、各地域の儒林は、そのネットワークを活用して教化活動を維持してゆこうとする動きを見せた。南原の儒林は、植民地統治期と解放直後の二度にわたって、郷校の教化事業費の不足を補うために、大規模な契を組織している。まず、1919年に組織された尊聖契を見てみよう。1909年、大韓帝国政府によって「郷校財産管理規程」が制定さたことにより、郷校財産の管理権は郡守に委任され、そこからあがる収益はすべて普通学校の運営費に回されるようになった。郷校は釈奠の費用にも事欠くようになり、1919年秋、南原の儒林2078名が出捐金計8000両を持ち寄って尊聖契を結成した。この出捐金をもとに水田3691坪を購入し、この財産の運用からあがる収益で、郷校の享祀費ならびに教化事業費の不足分を補ってゆくことにした。次に1953年に組織された衛聖契を見ておこう。1949年に施行された農地改革法により、南原郷校の学田14万2000坪が小作人に分配され、そのうえ償還金は道郷校財団に納められた。そこで1953年秋、衛聖契が設立され、郡内各家庭から計500石の米が集められた。この資金で郷校の殿堂を補修し、約60斗落(水田で約12000坪)の祭田が準備された。財産管理のため、1961年にはこの衛聖契を社団法人化して衛聖組合を設立した。この衛聖組合には、1994年10月現在、組合員5056名が所属し、その資産は、水田20514坪、宅地283坪とビル(忠孝館)ひとつである。一方、郷校財産は社寺地4212坪、宅地9692坪、畑6049坪、水田1796坪、林野56773坪、他道路・堤防・溜池・河川など8635坪と組合財産よりも多いように見えるかもしれないが、儒林の大半を占める農民の感覚からすれば、もっとも安定した収入源である水田はごくわずかである。しかも郷校財産法の規定により、この財産は全羅北道郷校財団に帰属するものとなっている(南原郷校誌編纂委員会1995: 287-291; 571-572; 698-766)。

 一方、国家の側では、中央政府、道、市郡、洞面の各レベルで孝烈善行表彰をおこなうなど、儒教的な伝統を国民統合のひとつのよりどころとして活用する政策も進めているが、成均館・郷校という旧来の儒教の教化・教育機構に対しては、「郷校財産法」の制定・施行にみられるように、一定の枠をはめて、その活動を制御・抑圧する施策をとっている。その一方で、成均館釈奠や地方郷校の大成殿他の建物を文化財に指定し、その維持・補修に限って財政的支援をおこなっている。南原郷校大成殿も1971年に地方有形文化財に指定されてのち、文化財としての施設整備に関してのみ、国・道・市費等からの支援を受けている。

 このように、朝鮮時代と比べれば、国家行政における儒教自体の地位が低下し、郷校の財政基盤も弱まってはいるが、地域の儒林の自助努力によって、郷校の教化の拠点としての機能は弱まりつつも維持されている。また、中央の成均館との関係も細々と保たれており、伊藤が「儒教共同体」と表現しているものの根幹をなす、教化機関の中央集権的な関係網が、韓国においては一応の体裁を保っていることがうかがえる。

 郷校の孝烈表彰は、このような状況のもとで新たにはじめられた。また、1981年の再開以降、これをはじめとする教化活動の再活性化が顕著となる。1983年からは、全羅北道儒道会の管轄で日曜学校が開始され、青少年を日曜日に郷校に集めて、漢文・礼節・書芸教育を施すようになった。1991年には、郷校、養士斎、衛聖組合の資産6億ウォンを投じて、市街地に地下一階地上五階の忠孝館を建設し、翌年にはここに明倫学堂を設立した。1993年には、郷校掌議歴任者を中心に綱倫会を組織し、教化活動の強化を図ろうとしている。1994年には第二次南原郷校誌も刊行された。綱倫会の創立趣旨文(資料3-1)には、「頽廃した社会の紀綱を建て直し、我々本来の伝統文化を継承することは、ひとえに我々中枢儒林の時代的に迫られた召命である。それゆえに、我々は平素に学び習った儒道精神を発揮し、先導的役割をつくし、社会と国家発展に寄与し、我々儒林同士の親睦を図る」と、設立の目的がうたわれている。

 このような教化活動の再活性化の背景には、倫理道徳や礼節に乱れに対する、儒林の危機意識があると思われる。それは、郷校関係の文書のなかには、「挽近西欧風潮である惟利是進の拝金思想が渤湃し、倫理綱常はあたかも泡沫風燈のようになっている」(『校誌』、「発刊辞」)、「八一五光復以後、西欧文明が急進的に流入し、物質万能の風潮が社会を揺るがしている。それゆえに、倫理道徳と我々の美風良俗は地に落ち、各階各層の不和と葛藤によって無秩序が乱舞しているのが現実である」(「綱倫会創立趣旨文」)と表現されている。このような危機意識は、南原の儒林に限られるものではないようで、例えば、伊藤の調査した珍島の農村の洞長(村の道徳的指導者)は、「若者たちが昔のように礼節を守らないと嘆き、頽廃的な風潮と村の秩序の乱れに危機感を抱いていた」という(伊藤1993: 59-60)。それとともに、近年に至って、特に教化活動の再活性化が図られるようになった理由には、儒林の社会基盤自体の変容が極めて深刻なものになりつつある点があげられると思う。

 郷校の財政的基盤が弱まっても尊聖契や衛聖契を組織して資金調達をすることが可能であったように、旧班村に根を下ろして儒教規範を実践してきた儒林たちの、郷校を拠点とする地域的なネットワーク自体は、政治・経済的資源へのアクセスを喪失しながらも、近年にいたるまで維持されてきた。また、現在も活動を続けている老齢の儒林は、幼い頃に書堂で漢文・経典教育を受け、家庭では男女有別、長幼の序や儒礼の祖先祭祀になじみ、旧班村を拠点とする門中活動への積極的な参加を通じて、儒礼の親族儀礼にも親しんできた。しかし、農村で過疎化・老齢化が進むなかで、その後継者の確保自体が危うくなっている。彼らの息子たちのほとんどは、新式の教育を受けて、早くから都市部に移住し、そこで職を得て所帯を構えている。せいぜいが、名節や祖先祭祀の時に帰郷するくらいである。今活動している儒林が死んでしまえば、あとを継ぐ者が確保できない。村に残っている若者にしても、村の人間関係や諸行事を通じて儒教の実践に慣れ親しんではいるが、漢文・経典の素養をそなえ、儀礼のやり方に精通している者は皆無に近い。解放後しばらくは農村に残っていた書堂も、普通教育が普及するにつれて、1970年代までにはほとんど消滅してしまった。発表者が以前論じたことのある墳墓の整備作業においても、近年それが盛況を見せている背景には、村に残る子孫、特に中高年者の間で、自らが死ねば祖先の「記憶」が失われてしまうのではないか、祖先祭祀が途絶えてしまうのではないかという危機感が強く抱かれていたのを見てとることができた。一方、彼らの息子の世代の間には「オルン(年長者)がなさることなので、仕方なく従っている」という意見もあった(本田1993: 161)。極言すれば、このままでは次の世代に正統的な実践の様式を伝えることが不可能な状況になりつつあるのである。

 このような状況のなか、教化活動の再活性化をすすめるうえで南原郷校の取りえた途は、儒林のネットワークの再構築(綱倫会の結成)、後継者の育成(日曜学校、明倫学堂)、そして釈奠・焚香儀礼を執り行い、旌表の伝統にのっとって孝烈の表彰をおこなうことを通じて、儒教の教化機関としての正統性を主張しつづけることであった。このような方向性は、例えば、1980年代に一東洋学者によって提唱された民本儒教のような、西欧民主主義的な価値観を儒教の経典から導き出すばかりでなく、その段階をふまえて民主主義の超克をも目指すラディカルな主張(琴章泰1985: 34-57)と比べると、あまりに保守的かつ退行的に見えるが、活用しうる資源やネットワークの限界からすれば、他にすべのないことであったのかもしれない。

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4.おわりに

 孝烈表彰自体は、他の地域の郷校でも行なわれているようで(cf.伊藤1993)、そこに中央からの何らかの指示があった可能性は否定できない(この点については、今後確認が必要)。しかし、仮にそうであったとしても、孝烈表彰を教化活動の柱として位置づけ、かつ、候補者選考のためのシステムを整備するという動き自体は、南原郷校独自のものであろう。加えて、儒教の伝統の根強さにおいても、南原地域は卓越していると考えられる。

 南原郷校の孝烈表彰に見られる教化活動の再活性化の方向性は、多分に伝統重視の傾向が見えていた。ただし、解放後の韓国で、近代的な社会状況に適合する形で儒教の伝統を読みかえようとする動きがなかったわけではない。本研究会の趣旨との関連で、最後にこの点について簡単に触れておきたい。

 成均館儒道会総本部では、1973年に「倫理宣言文」を発表し、忠と孝を恭敬と愛というより普遍的な倫理におきかえたうえで、それを「五千年の伝統」をもつ韓民族の「オル」(精神)の倫理であると位置付けている。そこから、儒教的倫理の普遍化、民族主義的な視角からの再定義、そして韓民族の文化が人類共栄の哲学となるという一種の選民思想を見てとることもできる。この倫理宣言文は、韓国で経済発展と国民化政策が盛んに推進され、民族主義が鼓舞された朴政権期に発表されたものである点には留意せねばならないが、儒教の伝統を、韓国のナショナルな文化伝統として定義しなおそうという動きはかなり顕著に見られるようである。例えば、南原郷校では、大成殿に奉安されていた中国の賢人の位牌の一部を撤去した。元来、郷校大成殿には、五聖(孔子、顔子、曽子、子思、孟子)、孔門十哲、ならびに宋朝六賢の計21位の位牌が奉安されていた。一方、朝鮮の名儒である東方十八賢の位牌は、大成殿前方の東廡・西廡に分けられて奉安されていた。ところが1953年、東方十八賢の位牌もすべて大成殿に移された。さらに、1994年には、儒林総会の決議に従って、孔門十哲と宋朝二賢(邵 、張載)の位牌が大成殿から撤去されてその脇に埋安された。釈奠・焚香の簡素化をはかった措置と考えられるが、その際に、孔門十哲、宋朝二賢の中国の賢人よりも、東方十八賢という朝鮮・韓国の賢人が優先されたことから、韓国儒教の国民文化化傾向を読みとることも、あながち的外れではないであろう。

 儒教を韓国、あるいは朝鮮民族の文化伝統として再定義するような動きが、国家の境界を強調する方向性をもつものなのか、あるいは韓国を儒教共同体の新たな中心の位置に押し上げようとするものであるのか、この問題が、国家の枠組と中華の理想的伝統モデルの関わりを考えるうえで、一つの手がかりになるかもしれない。その際に、本論であつかったような、中華の理想的伝統モデルの正統性を保証するシステムの比較研究も、必要とされるのではないであろうか。

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   参照文献

画像ファイル

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