中東の民主化と政治改革の展望

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 現在、国造りの途上にあるパレスチナの政党制度は未整備であるが、政党に関連する諸法がいくつか存在する。

 基本法第26条ではパレスチナ人の政治参加の権利について述べられており、第1項では法の定めるところに従って政党の結成および政党への加入の権利が保障されている。また、1995年制定の選挙法第48条は、選挙に参加を希望する党派組織(al-hay'at al-hizbiya パレスチナ中央選挙委員会の英語訳はpolitical entity)は内務省に事前登録が必要である旨を定めている。そして、登録された名前、ロゴマーク、シンボルマークで選挙に参加するとある。なお、パレスチナ中央選挙委員会(CEC)のウェブサイト上では、党派組織を「特定の名称とロゴマークの下で候補者を擁立し、選挙に参加するために、名称とロゴマークを内務省に登録した政党および投票者の集団」と定義している。しかし、2005年改正選挙法では党派組織の結成・登録に関する規定が削除され、比例代表区名簿の作成・提出について規定があるのみである。なお、CECは比例代表区名簿を「選挙法と選挙名簿登録手続きに従って諸要件を満たした後に、選挙参加を目的とした登録政党、政党連合、人々の集団からなるもの」と定義している。

 また、CECが2006年12月20現在で登録済みとしている党派組織はパレスチナ民主連合、パレスチナ解放民主戦線(DFLP)、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)、パレスチナ解放人民戦線総司令部(PFLP-GC)、パレスチナ・アラブ戦線、パレスチナ・ナショナル・イニシアティヴ、パレスチナ解放戦線(PLF)、パレスチナ人民闘争戦線(PSF)、ファタハ、ハマース、イスラーム救国党、パレスチナ人民党(PPP)、パレスチナ緑の運動党、イスラーム祖国連合の14組織が挙げられている。この他に、暫定自治の枠組みを否定し、独自の対イスラエル闘争を継続しているパレスチナ・イスラーム・ジハード運動(PIJ)が主要政治組織として挙げられよう。本稿では、パレスチナの主要政治組織について概観・整理したい。

1. ファタハ(正式名称:パレスチナ解放運動)

 世俗的なナショナリズムに基づく解放運動で最大の組織。第一次中東戦争(1948~49年)後にカイロ大学に留学していたヤースィル・アラファート(1929年生~2004年没)は、当時よりパレスチナ人学生組織化の中心人物として活躍していた。彼は第二次中東戦争(1956年)後にクウェートで技師として勤務していたが、1957年にハリール・ワズィール(アブー・ジハード)、サラーフ・ハラフ(アブー・イヤード)らとともにファタハを結成した。1965年にパレスチナ・ゲリラとして初めてのイスラエル攻撃を実施し、1968年の「カラーマの戦い」ではイスラエル軍の撃退に成功した。この勝利によりファタハの人気は高まり、最大のゲリラ組織に成長した。1969年には、アラファートがPLO(パレスチナ解放機構)議長に就任し、ファタハはPLOの主力をなすゲリラ組織、およびPLO内での最大組織として、武力行使を含む対イスラエル武装闘争を牽引した。

 しかし、1970年に「黒い九月事件」によりヨルダンから追放され、1982年にイスラエル軍のレバノン侵攻によりベイルートからチュニスへ本部を移した。この結果、武装闘争の根拠地を喪失した。これ以降はイスラエルとの二国共存路線を主導し、1988年のアルジェでの「独立宣言」を経て、1993年のオスロ合意に至った。アラファートは、翌年のパレスチナ自治政府(PA)発足とともにパレスチナ自治区へ帰還した。1996年の第1回パレスチナ立法評議会(PLC)選挙で大勝した。PLC与党として初代大統領アラファート(在任1996~2004年)、第二代大統領マフムード・アッバース(在任2004年~;ハマースは2009年1月で任期満了として早期の選挙実施を求めている)の両政権を支えてきた。しかし、2006年1月の立法評議会選挙ではハマースに破れ、PLC第一党の地位を失った。その一方で、ファタハの勢力は依然として強く、ハマースとの武力衝突が頻発した。ハマースとの間で祖国統一政権樹立などの対立解消に向けての試みが見られたが、2007年6月には大規模な武力衝突に至り、ハマースにガザを制圧される事態となった。 これまで、エジプトを仲介者として、ハマースとの間で、和解交渉が断続的に行われているが、いまだ合意には達していない。

 なお、ファタハが主導してきたオスロ合意以降の和平プロセスは、ヨルダン川西岸・ガザ地区にパレスチナ国家を樹立する「ミニ・パレスチナ国家」構想に基づくものであり、ハマースなどのパレスチナ全土解放構想とは異なる。組織内に「アル=アクサー旅団」などの軍事部門を擁する。

2. ハマース(正式名称:イスラーム抵抗運動)

 パレスチナ最大のイスラーム復興運動。「ハマース」とは、正式名称「イスラーム抵抗運動」のアラビア語頭文字からなる略称で、「熱情」を意味する。1987年に勃発した第一次インティファーダに際して、ムスリム同胞団(以下、「同胞団」と略す)の闘争部門として設立された。創設者・初代指導者はアフマド・ヤースィーン、第2代指導者はアブドゥルアズィーズ・ランティースィー、現在は集団指導体制をとっているとされる。

 1928年にエジプトで誕生した同胞団は、30年代以降、当時イギリス委任統治下にあったパレスチナへの関与を深め、パレスチナ各地に支部を設けた。第一次中東戦争(1948-49年)では、数千名のエジプト同胞団義勇兵がパレスチナに派兵され、実際の戦闘にも参加した。しかし、50年代以降、パレスチナの同胞団は武装闘争ではなく、主に社会活動に重点を置くようになった。同胞団の基本的な組織戦略である「段階主義」に従い、社会のイスラーム化が国家樹立(武力による祖国解放)に先行するという立場を取ったのである。そのため、PLOを中心とする世俗的なナショナリズム運動とは距離を置き、武力によるパレスチナ解放運動には消極的であった。73年にはヤースィーンを中心に「イスラーム総合センター」が設立され、草の根レベルの社会活動に基づく漸進的なイスラーム復興が目指された。

 しかし、1980年代にパレスチナ人の間に反イスラエル感情が高まるのを受け、第一次インティファーダ勃発を契機に同胞団は武装解放路線に転換し、ハマースが結成された。ハマースはPLO主導の「インティファーダ統一司令部」には属さず、独自の指揮系統・戦略によって闘争を行い、パレスチナ人の間で支持を拡大した。インティファーダを通じて、ハマースはファタハに次ぐ勢力を有する組織に成長した。また、94年には自爆攻撃による「殉教作戦」を開始した。軍事部門として、「イッズッディーン・カッサーム旅団」を擁する。なお、ハマースの活動においては、対イスラエル武装闘争だけではなく、同胞団から引き継いだ社会活動も重視されている。その内容は、モスク建設・運営、教育活動、相互扶助組織や医療クリニックの運営など多岐に及ぶ。

 1988年制定の『ハマース憲章』では、パレスチナ全土が「イスラームのワクフの地(寄進地)」とされ、パレスチナ全土解放とイスラーム国家樹立が主張されている。そのため、「ミニ・パレスチナ国家」とイスラエル承認を前提とするオスロ合意(93年)以降の和平プロセスには反対姿勢を堅持している。ただし、イスラエルが第三次中東戦争(67年)の占領地から撤退すれば、停戦は可能との立場を表明している。

 オスロ合意以降の和平プロセスに反対するハマースは「自治区」という枠組みを否定し、自治政府や立法評議会などの諸機関を認めない立場を取っていた。しかし、2004年地方議会選挙への参加など、この基本方針にも次第に変化が見られるようになった。その後、2006年1月に実施された立法評議会(PLC)選挙へ参加したハマースは、ファタハを抑えて第一党となった。同年3月、イスマーイール・ハニーヤを首相とするハマース政権が成立したが、アッバース議長率いるファタハとの対立、欧米諸国からの援助の停止、イスラエルによる関税差し押さえなどの困難に直面した。同年6月には、イスラエル軍侵攻により閣僚・PLC議員を含む多数のメンバーが拘束される事態となった。2007年3月、サウジアラビアのマッカでファタハと祖国統一政権樹立で合意し、ハニーヤを首相とする統一政権が成立した。しかし、ファタハとの対立は解消されず、同年6月には大規模な武力衝突の中で、ハマースはガザを支配下に置くこととなった。その後、アッバース大統領によって統一政権は解散され、サラーム・ファイヤード緊急内閣が成立したが、ハマースはこれを違法行為として非難している。

 2008年12月~2009年1月のイスラエルのガザ攻撃によって甚大な被害を受けたとされているが、社会活動を通じて構築した強固なネットワークを基盤に戦災者支援・復興事業などの活発な活動を行っている。現在、エジプトを仲介者にカイロにおいて、ファタハと祖国統一政権樹立に向けた交渉を行っている。なお、アッバース大統領の任期問題については2009年1月に満了したとして、PLC選挙とあわせて早期の選挙実施を主張している。

3. パレスチナ解放人民戦線(PFLP)

 1967年にジョルジュ・ハバシュを中心に結成されたPLO内反主流派の中心的組織で、マルクス・レーニン主義を掲げる左派の代表的組織である。1970年代のハイジャック作戦やイスラエルへの直接攻撃(ロッド空港襲撃事件など)に多く関与する急進は組織として知られた。しかし、1982年のイスラエル軍のレバノン侵攻による活動拠点の喪失や、ソ連・東欧の解体によって、往時の勢力を失ったとされる。しかし、2001年にゼヴィー・イスラエル観光相暗殺事件を起こしており、いまだ健在とも言われる。当初、ファタハ主導の和平プロセスに反対し選挙をボイコットしていたが、2006年PLC選挙には「殉教者アブー・アリー・ムスタファー」の名簿名で参加し、ハマース、ファタハに次ぐ3議席を獲得した。

4. パレスチナ民主解放戦線(DFLP)

 1968年にPFLPから分派した左派武装組織で、マルクス・レーニン主義を掲げている。階級闘争を通じて民族解放は達成できるとして活動を行った。PLO内の改革推進勢力として体制内や党の立場をとっていたが、ソ連・東欧の解体によって勢力は衰退した。2006年PLC選挙には、パレスチナ人民党、パレスチナ民主連合、無所属候補者と連合し、「オルタナティヴ」の名簿名で参加した。同名簿は全国比例区で2議席を獲得した。

5. パレスチナ解放人民戦線総司令部(PFLP-GC)

 1968年にPFLPから分派した左派小組織で、シリア政府の支援の下、ダマスカスを拠点にスイス航空機爆破事件(1970年)などの諸事件を起こしたとされる。レバノンにも活動拠点を有していたが、1982年のイスラエル軍のレバノン侵攻によって拠点を喪失し、またソ連・東欧の解体によって勢力は衰退したとされる。

6. パレスチナ人民党(PPP)

 1919年に結成されたパレスチナ共産党が、パレスチナの労働組合を活動基盤として、1982年にバシール・バルグーティーを中心に再結成された。1987年にPLOに加入した。1991年、ソ連・東欧解体を契機に党名を現在のパレスチナ人民党に改名した。2005年大統領選挙に参加し、同党のバッサーム・サールヒーが2.67%を獲得した。2006年PLC選挙には、DFLP、パレスチナ民主連合、無所属候補者と連合し、「オルタナティヴ」の名簿名で参加した。同名簿は全国比例区で2議席を獲得した。

7. パレスチナ民主連合(Fida)

 1990年、ヤースィル・アブドゥッラブフを中心にDFLPから分派した左派政治組織。和平プロセス支持派。2006年PLC選挙には、DFLP、パレスチナ人民党、無所属候補者と連合し、「オルタナティブ」の名簿名で参加した。

8. パレスチナ・イスラーム・ジハード運動(PIJ)

 パレスチナのイスラーム復興運動で、対イスラエル武装闘争(ジハード)を中心とする活動によってパレスチナ全土の解放を目標とする。1980年代初め、ガザ出身のファトヒー・シカーキーとアブドゥルアズィーズ・アウダによって創設された。1995年にシカーキーがマルタで暗殺された後、同じくガザ出身のアブドゥッラー・ラマダーン・シャッラフが後任に就任し、現在に至る。

 1970年代以前のパレスチナでは、ムスリム同胞団などのイスラーム復興運動は社会活動に重点を置き、対イスラエル武装闘争に慎重な姿勢を取っていた。一方、パレスチナ解放機構(PLO)を中心とする世俗主義的な武装解放闘争は、パレスチナ解放の目標を達成することが一向にできなかった。このようなムスリム同胞団およびPLOに対し、パレスチナでは学生など青年層の一部で不満の声が高まりつつあった。

 1979年のイラン・イスラーム革命に影響を受けたシカーキーは、『ホメイニー:イスラーム的かつ新しい解決策』を著し、イラン革命におけるイスラームと闘争の結合を称揚した。彼は、当時のパレスチナの諸運動について、PLOなど世俗主義的な解放運動はイスラームを欠き、ムスリム同胞団などイスラーム復興運動はパレスチナを欠いていると述べた。そして、イスラームと闘争の結合、すなわちイスラームに立脚するパレスチナ解放こそが重要であると主張したのである。なお、彼が称揚したのは親米シャー政権を打倒したイスラーム革命の精神であり、イラン革命によって確立された政治・社会モデルをそのままパレスチナに適用しようとしたのではない。また、PIJに対するムスリム同胞団の思想的影響も指摘され、ムスリム同胞団創設者ハサン・バンナーや著名なイデオローグのサイイド・クトゥブなどの名がしばしば挙げられる。特に、エジプト・ムスリム同胞団が第一次中東戦争(1948-49年)で行ったパレスチナへの義勇兵派遣は、ジハードの実例として高い評価を受けている。

 創設後のPIJは、エリート主義的な少数精鋭の組織として活動を展開している。組織内軍事部門「クドゥス旅団」が実際の対イスラエル武装闘争を行っているとされる。1986~87年に断続的なイスラエル兵・市民襲撃を実行したが、これに対するイスラエル軍の報復攻撃が契機となって、1987年12月の第一次インティファーダが勃発したともいわれる。それまで対イスラエル闘争に慎重であったムスリム同胞団がインティファーダに呼応してハマースを結成したことを考えれば、パレスチナ・イスラーム・ジハード運動による一連の闘争が、イスラーム的な武装解放闘争の新たなあり方を示したともいえよう。

 パレスチナ全土解放を目標として掲げるPIJは、「ミニ・パレスチナ国家」とイスラエルの承認を前提とするオスロ合意以降の和平プロセスには反対の立場を堅持している。そのため、「自治区」の枠組みから派生するPAやPLCを一切認めず、これまで全ての選挙をボイコットしている。オスロ合意以降も、1994年に自爆攻撃による「殉教作戦」を開始するなど、強硬な対イスラエル武装闘争を続けている。このため、イスラエルはPIJに対して厳しい報復行動をしばしば取っており、これまで多数のメンバーが暗殺・逮捕されている。PIJは、2006年3月にハマース政権が成立した後も「殉教作戦」を継続し、同年6月の「国民融和文書」にも同意しないなど、対イスラエル武装闘争路線を堅持している。2007年6月に始まったイスラエル軍のパレスチナ侵攻では多数のメンバーが拘束・殺害された。現在に至るまで、イスラエルに対する攻撃継続を組織の基本方針として堅持している。

参考文献

  • 臼杵陽『世界化するパレスチナ/イスラエル紛争』岩波書店、2004年。
  • 大塚和夫・小杉泰・小松久男・東長靖・羽田正・山内昌之『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2004年。
  • 小杉泰『イスラーム世界』 筑摩書房、1998年。
  • 日本国際問題研究所編『中東諸国における民主化と政党・政治組織の研究』日本国際問題研究所、1997年。
  • --- 編『中東和平の総合的研究』日本国際問題研究所、1998年。
  • 横田貴之『中東諸国におけるイスラームと民主主義-ハマース2006年立法評議会選挙綱領を中心に』日本国際問題研究所、2006年。
  • --- 『原理主義の潮流―ムスリム同胞団』山川出版社、2009年。
  • パレスチナ中央選挙委員会ウェブサイト(アラビア語http://www.elections.ps/ 、英語http://www.elections.ps/english.aspx