中東の民主化と政治改革の展望

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(1)選挙制度の変遷にみる民主化の動き

オマーンの場合は政党も労働組合も禁止されているので、選挙結果ではなく、諮問評議会の選挙権・被選挙権の拡大をもってしか民主化を語れない。まずは現諮問評議会の前身となる国家諮問評議会の成立を素描し、民主化の歩みの一環として、諮問評議会の設立された1991年以降の議員選出プロセスの変遷をみてみたい。

カーブースが近代国家作りを推し進めるなか、1981年、国家諮問評議会が創設された。スルターンの任命に基づくこの評議会は、政府部門と国民(非政府)部門から成り、当初は議員44人、議長1人が任命された(のちに定員増加)。これはイラン・イスラーム革命(1979年)とイラン・イラク戦争(1980-1988年)という外的要因に促されたものであった。つまり、イラン革命の勃発や、イラン・イラク戦争におけるGCC諸国のイラク支援がオマーン国内のシーア派住民を刺激し、イバード派政権への不満を募らせる懸念があった。国家諮問評議会の議員構成にも、こうした宗教的マイノリティへの配慮の跡がはっきりと看取できる。この時期は、宗教的マイノリティのほか、開発の遅れがちだった地方住民への配慮も必要になりつつあった。そのためか、飛び地のムサンダム、南部ズファール地方、東アフリカ出身者(1970年以降大量帰還)からも一定数の議員が選出されている。とはいえ、評議会に立法権はなく、スルターンへの勧告しか認められていなかった。しかもスルターンはその勧告に対して拒否権をもつこともあって、評議会の創設が民意の政策への反映につながることはなかった。

こうしたなか、1991年オマーンは政治制度改革として国家諮問評議会に代わる、選挙制による諮問評議会を創設した。諮問評議会選挙は地方選挙で、61の州から代表者を選出する。2007年選挙(第6期)に伴い、ブライミー行政区(ムハーファザ)が新設され、既存のブライミー州、マフダ州に加え、新たなスィナイナ州の3つで構成されることになったほか、ズファール地方にもマズユーナ州がつくられた。その結果、前回までは全国59州だったのが、2007年選挙から61州に増えた。1991年は各州から1人、1994年以降は人口3万人以下の州から1人、3万以上の州から2人の指名候補者を選出することができるようになり、その結果、定員も59人から80人に増加した。後の人口増加および行政区や州の新設に伴い、現在は定員84人である(人口3万人以下が38州、3万以上が23州)。

被選挙権に関しては、1997年までは立候補は認められず、「有権者」たる有識者からの推薦が必要であった。こうした指名候補者に関して、1991年は男性のみであったが、1994年から首都圏の6州に限り、女性も加えられることが許可され、GCCで初めての女性議員も2人誕生している。そして、1997年にようやく一般国民に被選挙権が付与された。2000年に発布された選挙法(内務省令2000年52号法)によれば、一定の教養レベルおよび職歴をもつ30歳以上のオマーン国民と定められている。それ以降の被選挙権の拡大はない。議員の任期は当初3年だったが、2003年10月のスルターン勅令により4年となった。連続2期まで務めることができる。議長はスルターンによる任命、副議長は議員間の無記名投票によって選出される。2007年選挙前の9月、新議長が任命されている。  

民主化の観点からみた被選挙権に関する問題点は、公安当局による立候補者の事前適性審査(プレ=スクリーニング)の存在である。一定期間、国民は立候補者に対して異議を唱えることができるとされており、これを受けた公安当局が立候補者を調査する。しかし実際は、公安当局が国家にとってふさわしくない人物の立候補を取り消すため手段として機能している。その結果、立候補者数の減少を招いていると考えられている。

諮問評議会の変遷 

  1991年 1994年 1997年 2000年 2003年  2007 2011年 
選挙権 シャイフと人望家から成る「選考会」 シャイフや人望家のほか知識人や大商人、最低100人以上から成る「選考会」 ワーリー選出の有識者51,000人(うち女性は約10%) ワーリー選出の有識者175,000人(21歳以上人口の約25%、うち女性は約30%: 52,500人)。登録者14万人、投票者114,567人 21歳以上の全国民(軍・公安関係者を除く)。
有権者80万人のうち登録者262,000人(うち女性10万人)、投票者194,000人(投票率74.0%) 有権者82万人のうち登録者388,683人、投票者243,000人(投票率62.7%) 有権者90万人のうち登録者518,000人(うち女性は45%)、投票者397,000人(投票率76.6%)
最終決定 「選考会」からの指名候補者3人からスルターンが決定 「選考会」からの指名候補者(定員の数)からスルターンが選出 獲得票数上位の数人からスルターンが選出 最高票数を獲得した立候補者がそのまま当選(スルターンによるスクリーニング廃止)
被選挙権   女性も指名候補の対象に(マスカット行政区6州限定) オマーン国籍、30歳以上。一定の教養レベルおよび職歴をもつ者。州内での地位・名声のある者
立候補者数(うち女性)     736 (27) 540 (21) 506 (15)

 632*(21)

1133(77) 
議員数(うち女性) 59 80 (2) 82 (2) 82 (2) 83 (2)

 84(0)

 84(1)
特記事項   人口比に合わせた議席数に。女性議員誕生 女性参政権の拡大 選挙権拡大。初の直接選挙 成年男女による初の普通選挙 女性候補者全員落選。選挙運動大幅解禁 議会に立法権が付与された後の初めての選挙

*このうち選挙2日前にリワ州の立候補者が1人急死した。

一方、大きく変遷してきた選挙権はオマーンの民主化の歩みを具現している。1991年と1994年の選挙はともに、有識者が協議あるいは秘密投票で選考した数人の指名候補者名簿のなかから、最終的にスルターンが各州の議員を指名した。少数の有識者から成る「選考会」に関しては、1991年ではシャイフ(部族の長老、有力者)や名望家に限られていたのが、1994年には知識人や有力商人、女性も加わり、最低でも100人の「選考会」で州の指名候補者を選ぶかたちになった。有識者には州知事たるワーリー(内務省直属で政府任命)から公式の招待状が届き、選考会に参加することが求められた。また指名候補者も、1991年は3人だったのが、1994年には人口3万以下の州は2人、人口3万人以上の州は4人になった。これは選出過程における政府関与の減少を意味する。つまり、それまで3人の指名候補者から政府が1人選んでいたものを、2人のなかから1人(あるいは4人のなかから2人)選ぶことになった分、限定されてはいるが有権者の意志が反映されていることになる。1997年の時点で、有権者はきわめて限定されていた(女性1割を含む有識者51,000人、国民35人に1人の割合)。各州の選挙権の配分がワーリーに委ねられていたこともあり、ワーリーと親しい個人、ひいては部族に有利に働くこともあった。1997年の選挙では、限定的ではあるが、国民が代表者を投票できるようになったものの、獲得票数上位の数人のなかから最終的にスルターンが決定していた。2000年の選挙では、このスルターンによるスクリーニングも廃止され、2003年についに21歳以上の全国民による直接選挙が実現した。これにより、トップ当選した立候補者はスルターンの審査なく、ポストに就くことができるようになった。

このように選出プロセスの変化をみていくと、選挙においてワーリーが重要な役割を果たしていたことがわかる。とくに2000年までは、有権者の選定はワーリーの手に委ねられていたといっても過言ではない。政府任命のワーリーが関与していることは、政府の意向が直接反映されることを意味する。しかし、スルターンによる指名制をとっていた当初に比べ、女性の参政権が認められ(1994年)、制限つきではあるものの国民が代表者を選ぶという段階(1997年)、スルターンによる最終的なスクリーニングの廃止(2000年)を経て、完全な普通選挙の実施(2003年)に至った。GCC内でみれば、選挙制度の導入自体は比較的スムーズにおこなわれたといえよう。とくに女性にも参政権を与え、女性議員が早い段階で誕生している点は内外から評価されている。 

普通選挙実現という制度上の改革は、イラク戦争(2003年)とタイミングは重なったものの、アメリカからの民主化圧力だけの影響によるものではなかったと思われる。2003年の選挙で全国民に投票権が付与されることは、選挙前年(2002年)には発表されていたし、準備はその前から進められていたはずである。また国内においても、民主化、とくに「ひらかれた」選挙を要求する声は、第3期選挙以降高まっていた。第4期(2000年)にスルターンによる選挙後のスクリーニングが廃止されたのも、こうした世論を受けてのことであった。

(2)選挙制度以外での民主化の動き

選挙制度以外にも民主化の動きはある。

2000年、政府は集会の自由を一部認めた。10月のパレスチナ人支持のデモ行進を受けて、こうした示威運動を容認したのである。2003年にもイラク戦争の際に、小規模ではあるが反米デモが起こっている。現在でもデモ行為は届け出制であるものの、表現の自由を一部認められたといえる。

2010年末にはじまった中東全土にひろがる民衆運動の影響は、オマーンにも及んだ。2011年1月中旬の首都マスカットにおけるデモを皮切りに、2月18日の金曜礼拝後、商業地区ルイや官庁街にて300人のオマーン人が賃上げや政治改革を求めるデモをおこなったが、逮捕者もなく平和裏に終わった。ところが2月27日、北部の町スハールにて数千人規模のデモが発生、警察や治安部隊との衝突により死者(1名から6名と、報道にばらつきがみられる)を出した。その後も内陸部のイブリ、ダンク、ヤンクル、さらにはオマーン第二の都市、南部のサラーラでも民衆デモが起こり、数百名が拘束、4月になってスルターンの恩赦によって234名が釈放された。その後も、抗議デモは縮小しつつも続いていたが、政府は5月12日に各地のでも参加者の一斉逮捕に踏み切った。これを境にして、抗議デモは沈静化していく。

デモ参加者は、インフレ下での生活苦や就職難に対する不満を訴え、そうした経済状況を招く経済閣僚の辞職を求めた。彼らの目的はスルターン・カーブースの批判や政権交代ではない。むしろカーブースに対する国民の信頼度は高く、40年にわたる彼の政治手腕は高く評価されているため、抗議デモと並行してスルターン支持のデモも数多くおこなわれた。 こうした動きを受けて2月16日、政府は企業に働くオマーン人労働者の最低賃金を3月1日より月額140リアルから200リアルに引き上げる決定を発表、スハールのデモ翌日には5万人分の雇用創出のほか、求職者に対しては雇用されるまでの期間、月額150リアルの求職者手当を支給する方針を表明するなど、素早い対応を見せた。デモ参加者の要求に応えるために、政府は4月に10億リアルの拠出を決定したが、GCCはオマーンに対し今後10年間で100億米ドルの支援提供を決定したため、オマーン政府にとって経済的にそれほど難しい問題ではなかったと思われる。

こうした経済政策のみならず、スルターンによる政治改革のなかで民主化の観点から注目される点がいくつかある。第一に、国家評議会と諮問評議会から成るオマーン議会に立法権を付与した点である。議会の権限不在は国民の政治に対する無関心の最大要因となっていただけに大きな進展といえよう。スルターンは2011年3月に、オマーン議会に立法権と行政監査権を付与することを発表、10月にはスルターン勅令(99/2011号)を発布した。これによって諮問評議会はそれまでスルターンが指名していた議長、副議長をみずから選出できるようになり、閣僚の尋問権も付与された。

第二に、大規模な内閣改造である。スルターンは2月下旬から3月上旬にかけてたてつづけに内閣改造を実施し、閣僚29名中20名(延べ数)を入れ替え、公約通りそのうち5名を現職の諮問評議員から入閣させた。汚職問題で国民からの批判が大きかった経済閣僚2名(国民経済相・商工相)のほか、国王事務所相、宮内相、警察長官といったスルターン即位以来の側近の解任は、より民意が反映されたものとして国民から評価されている。こうした一連の経済・政治改革は、最初の抗議デモ後すみやかに決定・表明され、1年以内にその多くが実行に移された。検察機関の独立、年金などの社会保障手当の増額、域内初のイスラーム銀行の設立や国内2つめの国立大学の設立などもその一環である。スルターンによる迅速かつ的確な対応によって、事態の沈静化まで時間がかからなかった。なお、政府はその後も2012年2月に内閣改造を実施し、6名の大臣を入れ替えた。

1999年あたりから、効率化のための省庁再編・統合が繰り返され、閣僚へのテクノクラート登用が目立つようになっていた。2003年に初の女性閣僚級高官が、翌2004年には初の女性大臣が誕生した。2012年5月現在、閣僚29名のうち女性は2名、博士号取得者は7名(うち女性は2名)を数え、国家評議会には15人の女性議員がいる。こうした女性の社会進出を民主化の指標として、政府はアピールしている。これまでスルターンは閣僚内における部族、宗派、エスニシティ、出身地のバランスを考慮していたが、2011年の大規模な内閣改造では、従来のバランスがそれほど重視されていない。更迭された経済閣僚2名はいずれもシーア派だったにもかかわらず、後任には非シーア派が登用されているのである。

こうした一見民主的と思える政策の一方で、公安当局による取り締まりは厳しくおこなわれている。たとえば、1994年に政府転覆計画の容疑で、政府高官を含む数百人が逮捕された(のちに恩赦で全員釈放)。逮捕者の部族名から判断して(オマーン政府は公表していないが、海外の人権擁護団体が公表)、スンナ派やシーア派の逮捕者も含まれていることから、とくにイバード派急進派による運動ということはできないし、彼らが民主化を要求していたのかも判然としない。むしろ、当時中東全般で起こっていたサラフィー主義による影響だと考えられている。事件の内容は不明だが、こうした結社や表現の自由に対する取り締まりが緩和される気配はない。国境なき記者団によって2002年以来毎年発表されている世界報道自由ランキング (Worldwide press freedom index) によれば、2011年のオマーンにおける報道の自由は179カ国中117位だった。

また、2005年1月にも政府転覆計画の容疑で多数の逮捕者がでた。事件当初、政府は「国家の安全を危険にさらすことを目的とした集団の形成をもくろみた数人」を逮捕したことは認めていたものの、逮捕者の情報、処遇について口を閉ざしていた。海外メディアは早い段階から、逮捕者は数百人におよび、国立大学教員3人と元判事が含まれていることを報道していた。オマーン政府はこれを否定していたが、4月中旬になって、逮捕者は秘密組織を形成し、武器を保有していたこと、イマーム制復活をもくろんでいたことなどを公表した(同年6月、スルターンの恩赦により、有罪判決を受けた31名全員が釈放)。

参照文献

  • Allen, C. Jr. & W. L. Rigsbee, II Oman under Qaboos: From Coup to Constitution, 1970-1996. London: Frank Cass, 2000.
  • Al-Haj, Abdullah Juma "The Politics of Participation in the Gulf Cooperation Council States: The Omani Consultative Council" Middle East Journal. vol. 50, no. 4, pp. 559-571, 1996.
  • Peterson, John. E. “Oman Faces the Twenty-First Century” in Tetreault, M. A., G. Okruhlik & A. Kapiszewski (eds.) Political Change in the Arab Gulf States: Stuck in Transition. 2011, Boulder & London: Lynne Rienner Publishers, pp. 99-118.
  • Rabi, Uzi "Majlis al-Shura and Majlis al-Dawla: Weaving Old Practices and New Realities in the Process of State Formation in Oman" Middle Eastern Studies. vol. 38, no. 4, pp. 41-50, 2002.
  • Valeri, Marc Oman: Politics and Society in the Qaboos State. 2009, London: Hurst & Company.
  • 大川真由子 「オマーンの民主化の展開――諮問評議会・イバード派・部族」 日本国際問題研究所(編)『湾岸アラブと民主主義――イラク戦争後の眺望』 日本評論社、2005年、pp. 185-205。
  • 福田安志 「スルターン専制の海洋国家は民主化を用意できるか」板垣雄三(編)『中東アナリシス――湾岸戦争後の中東諸国事情』第三書館、1991年、pp. 303-334。
  • 福田安志 「サウジ・GCC諸国間でのアラブ激動の行方――抗議活動を生むメカニズムと各国の対応」(政策提言研究)、アジア経済研究所、2011年、http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Seisaku/pdf/1109_fukuda.pdf
  • 村上拓哉 「2011年オマーンにおける抗議活動の展開と収束――紛争のデスカレーションの事例として」『中東研究』2012年、513号、pp. 94-103