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第67回IIST・中央ユーラシア調査会報告録
ティムール・ダダバエフ「現代中央アジアの変容と人々の記憶」

 概要

  • 日時:2006年10月23日
  • 会場:財団法人貿易研修センター
  • 報告者:ティムール・ダダバエフ(筑波大学大学院人文社会科学研究科助教授)
  • タイトル:現代中央アジアの変容と人々の記憶

 報告

はじめに:中央アジア地域との学術交流の活発化

私が筑波大学に移ってからまだ2カ月だが、筑波大学では最近、中央アジア研究を重視する傾向が見られる。これまでに中央アジアの10の大学に加え、タジキスタンの科学アカデミーとも協定を結んでおり、その主な活動は、教員や学生の交流だ。9月29日には筑波大学がタシュケントの東洋学大学に、筑波大学国際連携センターを設置した。このセンターは日本の研究者が利用でき、筑波大学の研究者でなくてもよい。目的は中央アジア研究に関心がある日本の研究者、そして中央アジアもしくは日本に関心がある中央アジアの研究者のたまり場をつくるということだった。センターには2つの部屋があり、パソコンやプロジェクターなどの機器も設置されている。先生方もウズベキスタンにいらしたときは、ぜひ遠慮なく使っていただきたい。

さらに筑波大学では、毎年6人の中央アジアの学生を受け入れる態勢ができた。その主な支援は文部科学省からの奨学金であり、学生らは最長6年まで筑波大学にいられる。他にもいくつかのプログラムがあり、例えば毎年、新たに10人程度の中央アジアからの学生を受け入れたいと思っている、それをベースに中央アジア研究会というものをつくり、可能であれば、先生方と中央アジアからの学生の交流の場もつくりたい。

1. 記憶を整理することの重要性

本日のテーマは「現代中央アジアの変容と人々の記憶」ということで、非常に抽象度が高い。このテーマに至った経緯について話すと、私自身は最初、中央アジアにおける地域統合、そしてもう少しローカルなユニットとしてマハッラの研究に従事してきた。その後、最近になって「ソ連期中央アジアの記憶」という課題にも関心を持つようになった。中央アジア地域全体の発展過程を見ていると、次々と新たな状況が現れ、人々は日々新たな経験をしている。しかし、人々は自分たちの過去や現在、将来を整理して考えるには至っていないのが現状だ。

昨年、人間文化研究機構プログラムによる「イスラーム地域研究」が発足し、東京大学大学院人文社会系研究科にもその1拠点が置かれた。ここでは同大教授の小松久男氏が拠点リーダーになっている。私は約2カ月前に東京大学から筑波大学へ移ったが、この拠点の客員助教授として今後5年間、このプロジェクトの運営に関わることになっている。このプロジェクトの1課題として、「ソ連期中央アジアの記憶」に関する研究がある。

中央アジアは、19世紀後半に帝政ロシアの植民地とされた後、1917年のロシア革命を契機として政治、社会、文化のあらゆる領域で社会主義化を経験した。そして、およそ70年にわたるソ連時代には、現代世界でも他に類をみないほどの大規模な変革が進行したのだった。そして、1991年のソ連解体後、中央アジア諸国は新しい独立国家として国際社会に参入した。各国は、政治と経済の大転換をめざすとともに、国家と社会の安定をはかる努力を続けている。その過程で、中央アジアの人々も大きな変容を相次いで経験してきたが、彼らは自分たちが生きてきた様々な時代を分析し整理する機会を十分にもたなかったのではないだろうか。

独立を果たしたウズベキスタンは、多くの国々と国家間関係を発展させ、国際社会と積極的に関わり始めた。社会主義経済から市場経済への転換も始まり、政府は限定的ではあるものの、改革を実行しはじめた。その過程で、ウズベキスタン社会には統一感よりも経済的格差による社会分裂が生じている。変化の波に乗り遅れてしまった人の多くは現状に満足できず、ソ連時代という過去を美化した目でみつめている。多くの場合、この人たちはソ連時代が現在よりも良かったと考え、彼らの間にはノスタルジーが広がっている。そのような傾向は、特にかつてのエリートやもっとも弱い社会層にみられる。彼らは現在でも過去にしばられ、起きていること全てをソ連時代というフィルターを通して理解しようとする。しかし、過去の重要性はそこから教訓を得ることで現れるはずである。また、当然のことながら、現在中央アジアで起きていることの多くは過去と関連しており、ソ連時代のメンタリティや、その時代の物事に対する姿勢から影響を受けている。
以上をふまえ、今回は、現代中央アジアの変容を人々の記憶という観点から検討する研究について報告を行いたい。

2. 現地調査の目的と狙い

ウズベキスタンの人々が、中央アジアの変容、そしてソ連時代をどのように記憶しているか、というのがわれわれの出発点になっている。これらについて調査を行ったうえで、人々の記憶とさまざまな歴史的事象の関連性を指摘し、個人的な歴史観の多様性を明らかにすることが1つの目的だ。さらに、人々がソ連時代のどの部分についてはよかったと考え、どの部分について悪かったと考えているのかも明らかにしたい。それらを基に、ウズベキスタンの人々がソ連解体とウズベキスタンの独立を望んでいたのかどうかについても探り、彼らが望んでいたとすれば、自分たちの社会や生活のどの部分を変えるために独立を望んでいたのかを分析する。独立を達成してから15年が経った今、彼らはソ連という国と時代をどのようにみつめ、ウズベキスタンはどのように発展してほしいと考えているのだろうか。これらがわれわれの主な関心事だ。

先にも述べたように、この研究は「イスラーム地域研究」プロジェクトの中で、東京大学を拠点に行われている。私自身もウズベキスタン人であるが、11年間にわたって日本に住んでおり、外部者であることに変わりない。外部者のみでこのような研究を行うのは非常に困難であるため、タシュケントにある世界経済外交大学がわれわれのパートナーになっている。

このプロジェクトのポイントの1つはまず、人々の記憶に残った日常生活のエピソードや生活のさまざまな記録を集めることだ。そしてもう1つは、社会主義時代の出来事について、人々の生の声をインタビュー形式で記録することだ。歴史上の出来事と人々の日常生活、そして当時、彼らが経験したことをすり合わせ、政治以外のところで人々の生活がどのようなものだったのかを検討したい。皆さんもご存知のとおり、政治的な出来事と人々の生活はやはり同じものではないというのが、われわれの見解だ。人々の生活は政治とは別のところにあるため、当時の人々がどのような生活を送っていたのか、そして一般の人々の生活と政治はどのような関係にあったのか、という点についても考えていく。さらにソ連崩壊に至った70年間の歴史を、人々の生活を通して分析し、ソ連崩壊を引き起こした原因は何だったのかを分析したい。この点については、ソ連崩壊は避けられない出来事だったというのが、一般的な見解になっている。しかし、それは本当に避けられないことだったのだろうか。もしも一般国民から見て避けられないことであったとすれば、人々はどの部分に不満を持ち、どの部分に満足していたのかを明確にしていきたい。最後にソ連時代とその後の時期におけるさまざまなステレオ・タイプを打破し、時代の複雑さを指摘したい、というのがわれわれの考えだ。

これらの国々が独立してから15年以上が経過するものの、残念ながらこのような点に関しては、未だに単純化された議論がよく見られる。具体的な事例が挙げられることは非常に少なく、可能であればそのような事例を取り上げていきたい。さらにソ連時代を経験した人々は、現在70から80歳代の人々が多くなっており、彼らの証言や考え方は今のうちに記録しておかなければならない。彼らが亡くなると、これらの話は推測に過ぎないものとなり、政治的に操作されやすいものになってしまう懸念もある。

3. 現地調査の手法と人々の声

われわれのプロジェクトは主に、2段階から成り立っている。第1段階は、50人のインタビューを基に彼らの日常生活をさまざまな時代ごとに分析することだ。第2段階では15人程度に長めのインタビューを行い、中でもとくに興味深い人生を送った人たちのライフ・ストーリーをつくる。これらのインタビューはすでに終わっており、今は内容の整理に入っている。

まずはウズベキスタンをパイロット・プロジェクトとして始めたが、今後さらに調査を拡大していく予定だ。調査対象になるグループは、50歳から70歳代の人々だ。またこのような研究において最も難しいのは、どのようにインタビューを行うかだ。本音を語ってもらうことが重要だが、中央アジア地域ではそれがなかなか難しい。その理由は必ずしも政治的プレッシャーではなく、より重要なものとして、メンタリティの特徴が挙げられる。つまり自分たちにとって恥になるようなことは、外部には出さない、という考え方があり、結果として過去や自分たちの人生を美化してしまうことになるのである。

われわれには最初、標準的なインタビューを行うという考えもあったが、その後方針を変え、家庭内の会話をそのまま記録していこう、ということになった。具体的に言えば、例えばわれわれのパートナーである大学の学生50人を選び、とくにその中で地方出身者や、おじいさん、おばあさんがいるような人たちに話をしてもらう。あくまでも、家庭内の話し合いというような形で、おじいさんやおばあさんに話を聞いてもらう。孫に対する話なので、嘘をついたり美化したりするようなことは、外部者に対してよりは避けられるかと思う。今後もプロジェクトが拡大すれば、同様のアプローチを活用していきたい。このようなアプローチは、日本で使っている先生方も多いと思うが、海外でも最近非常に人気がある。しかし、これらの調査の成果は残念ながら、まだ発表されていない。課題ももちろん多いが、1つの興味深い試みではないかと思う。

インタビューは、例えば学生が結婚式で故郷に帰ったときにおじいさん、おばあさんと話した内容をそのまま記録する、というような方法で行ってきた。またタジキスタンで調査を行った際には、人々が集まるカフェなどに、共産党の旗やレーニンのポートレートなどが飾られているのが見られた。こうした掲示はソ連時代には強制されて行っていたのかもしれないが、現在はそうではない。これらをデザインの一環として使っている可能性はあるが、ソ連時代へのノスタルジーからそれらが掲示されているとも考えられる。またスターリンの写真や昔の通貨なども各所に見られる。

例えばソ連時代の通貨、1ルーブルは、1961年以降に発行されたものが多いが、1947年のものをかなり新しい状態で持っている人がいた。なぜこのように新しい形で残っていたのかと言うと、初めてもらった給料の記念として市民が保管していたためだ。インタビューをする中で、「これを持っていけ」と言われた。これらはあくまでも一例だが、写真や本など、人々が大事にしてきたものがたくさんある。これらは数年経てば、ゴミとして捨てられたり、忘れられたりするかもしれず、可能であれば今の段階で保存しておきたい。

インタビューを進める中で明らかになったのは、人々は何を大事に思うのか、人々はどのような価値観を持っているのか、ということだ。例えばイデオロギーに影響された、2つの歴史が現れている。どういうことかというと、革命前には、人々は自分たちの伝統を大事にしていた。しかしソ連時代になると「昔は悪く、ソ連時代がよい」という考え方が、プロパガンダとして人々の間に広まった。ソ連時代の中にもいくつかの時代があり、指導者が変わると同時に前の指導者を悪く言うのが一般的なメンタリティとなった。さらに独立が達成されると、ソ連は全て誤りであり、独立こそが人々を解放したのだ、というのが一般的な歴史観、政府関係者の言い分になった。このような構造の中で、政治家の解釈に基づいた歴史ではなく、出来事そのものを重視した歴史を構築しうるかというと、非常に難しい。なぜならそれらは政治的に非常に操作しやすいものとなり、最終的にはわれわれが50代、60代になったときに、今の時代、前の時代が何であったのかわからなくなることも懸念されるからだ。

もう1つの大きなテーマは台所の秘密話であり、これらは非常に重要なテーマだ。ソ連時代には、政治的にセンシティブな話は「台所話」と呼ばれた。その理由として、政治は料理であり、台所の話をしないと中身(つまり政治)が分からないという見方があった。実際、そのような話は台所で行われていた。なぜ台所が安全なのかは私にもよくわからないが、そのような傾向は今の中央アジア、例えばウズベキスタンにも引き継がれている。つまり、時代が変わっても人々の政治観や意識は変わらないというのが現状だ。従って人々は、何かあるときには台所の秘密話にしてしまう。

もう1つは日常生活の出来事で、時代を記録することであるが、政治的な出来事と人々の姿勢というのは必ずしも一致しない。例えばスターリン時代をどのように覚えているかと言うと、1つの例は、「物がだんだん安くなっていった時期」だった。物の価格は、10月と4月に必ず安くなっていった。今はこれとは正反対で、10月と4月に物が高くなるような状態だ。インタビューでは、「当時は物を買わずに10月まで待った」、「4月まで待った」という人たちが多かった。

またスターリンが死んだときの出来事については、「皆が泣いていた」という。ある人はまだ子どもだったが、「なぜ皆が泣いているのかわからず、とにかく皆が泣いているから自分も泣いた」と語っている。また子どもたちにとってのスターリンは、亡くなる前にも「写真」に過ぎなかった。「スターリンが死んだ」と伝えられたとき、子どもたちは写真がどのように死ぬのかわからなかったのだという。壁にはいつもスターリンとレーニンの写真が貼られていたために、毎日のようにそれを見ていた子どもたちはその写真がスターリンだと理解していたという。フルシチョフ時代に関しては、人々は例えば「パンがなくなった」と語っている。共産党執行部におけるフルシチョフの最大のミスは、国民に食料が行き渡らず、国民の不満が高まったことだと言われており、人々の証言にも「パンや食料品が一気になくなった」というものが見られる。

独立に至った背景とその理由についてだが、これも非常に面白い。今日では、「中央アジアの場合、ソ連からの独立は望まれていなかった」と言われることも多いが、私はそうは思わない。それよりも、まだ準備ができていなかったのだと思う。つまり独立を望んでいないというよりも、望むことができるかわからないといった状況だった。では、そもそもソ連政権下で、人々がそこまで困っていたのかと尋ねると、ソ連政権をほめる人々が圧倒的に多い。ソ連政権に関しては、まずその多民族共存の政策を支持する人が多い。また国民に対して政府が責任を持っていたことが、未だに支持されている。一方、独立が可能だと考えていた人は圧倒的に少なく、あくまでもとりあえず不満を言っておこう、という状態だった。これはペレストロイカ時代の話であり、逆に不満を言わない方が非常識だという雰囲気があった。従って、人々が会えば、互いに不満を言い合い、共産党を批判した。そのような雰囲気が利用されたのではないか、という見方をする人たちも少なくない。

またエリートの間では、ソ連時代の宗教政策や民族政策を批判する人たちが多く、非常に複雑な構造が見られる。その一方で、多民族共存の政策、つまり色々な民族の人たちが同じところに共存するという政策を支持する人たちが多く、自分たちだけの国を望んでいるという人たちはいなかった。しかしソ連の中で最も不満だったことを聞けば、必ず3つの答えが返ってくる。それらは宗教の自由が制限されたこと、民族の伝統の自由が制限されたこと、そして政治的参加の自由がなかったことだ。またウズベキスタンにおいては、「綿花生産が国を悪くした」、「自分たちの生活にも影響した」といった声も聞かれた。

最後は人々の自己認識についてだが、面白いエピソードがあった。あるお年寄りの話だが、彼のおじいさんはコルホーズができた時代に警備員の仕事をしていたが、宗教に非常に愛着を持っており、毎日必ず5回、お祈りをしていた。コルホーズにレーニンの像が建てられたとき、そのおじいさんはレーニンが誰なのかはよくわからなかったが、大理石でつくられたそのきれいな像の下でお祈りを始めた。それを見た警察官が「何をしているのか」と尋ねると、おじいさんは「お祈りは最もきれいなところでしたいので、ここですることにした」と言ったという。

またコミュニティについてだが、マハッラのような近隣コミュニティは一体何だったのかと言うと、多くの人たちは、それをコミュニティと呼ぶのは誤りだという。各地域にあった地域社会はあくまでも拡大家族のような仕組みで、それが現代になってコミュニティになったのだという。ソ連時代を通して、拡大家族という認識から次第に離れていき、それが現在のコミュニティになってしまったというのが彼らの論理だ。

4.現地調査における課題

本音を聞きだすための挑戦には、重要な課題も多い。「概念的な挑戦」としてまず挙げられるのが、「記憶」は本当に記憶なのかということだ。つまり人々が、他の話から得た情報に基づいて、記憶として自分の頭の中に記録してしまう事態も十分考えられる。それに対して、われわれが出来ることは限られており、このような弱点があることは認識している。次に、個人的な体験で時代を語ってしまう人たちも少なくない。しかし、これについては、われわれとしては弱点というよりもむしろ利点ではないかと思っている。つまり、人々が個人的にその時代をどう見たのかを知ることが、われわれの目的でもあるからだ。

さらに、「時代から影響を受けた『記憶』」ということがある。独立した現在の段階で、当時は「スターリンが悪かったのだ」とか「スターリンがこういうことをした」というような細かい話を聞き、それらに基づいて、自分たちの考えをつくってしまう。また現在の立場によっても「記憶」は異なる。つまり、現在は非常によい生活を送っている人たちの「記憶」と、貧しい生活を送っている人たちの「記憶」は全く異なる。なぜなら現在が、彼らの「記憶」に最も影響を与えるファクターの1つであるからだ。つまりソ連時代がよかったのかどうかは、自分たちの現在がよいかどうかによって判断する人たちが多く、ソ連自体が崩壊すべきだったのか、それに対して今でも未練があるのか、というのも立場によって異なる。

次に、各国の政権の性格によって、このような研究は非常に行いにくいことがある。それはウズベキスタンを含む全ての中央アジア諸国に言えるが、どちらかと言えば、ダジキスタン、キルギスタンではまだ行いやすい。だからこそ、われわれには現地のパートナーがおり、得られた情報すべてを彼らと共有し、彼らもそれを利用でき、われわれもそれを利用できるという態勢ができた。

またインタビューでは、他者の介入というのが非常に困ったことである。例えば孫によるおじいさんへのインタビューで、その息子、つまりインタビューをしている人のお父さんが脇にいる。従って、おじいさんの答えは、横でお父さんが言っていることの影響を受けてしまいがちである。しかし同時に、このような年齢の人にインタビューする際には、まず質問の内容がよく理解されていないということも生じる。横に頼りになる誰かがいるということは、わかりやすくその質問を説明してくれることでもあり、プラスマイナスの両方の側面があると考えられる。このように、近親者のインタビューへの参加や質問の解釈を制限するとインタビューそのものが成り立たず、制限しなければインタビューされる人の回答が近親者の解釈などに左右されてしまうことがある。この点を今後どのように修正すべきか考えていきたい。

インタビューの内容全てを可能な限り、記録しようとしてきたが、やはりできない部分もある。またインタビューに応じてくれない人たちも、私自身が想像していた以上に多かった。1つの教訓になったが、例えば政府から具体的に何か言われて拒否した、というのではない。これもソ連的なメンタリティであるのだが、「念のため、拒否しておく」というのが基本的な考え方になっているようだ。とりあえず、「インタビューに応じなければ問題はないが、応じれば何か生じる可能性がある」といった見方だろう。

最後になるが、意外な回答の例を2つ挙げてみる。1つは、ソ連時代に関するものだ。ロシア系住民には、「ソ連時代はまあまあよかった」といった控えめな回答が多い。それに対して、ウズベク人や中央アジア系の住民には、「非常によかった」といった回答が目立つ。つまり本来であれば、独立後はやはり現地の人々が優位な立場に立っていると思うのだが、それはやはりステレオ・タイプだ。実際にはそうではなく、現地の人々とロシア人のメンタリティ、立場の違い、考え方の違い、そのすべてが現れているのではないだろうか。可能であれば、この点をもっと分析していきたい。

最も面白かったのは、現在の、例えばウズベキスタンが陥った状況の責任は、ソ連幹部やロシア人ではなく、彼らの言いなりになって命令を実行した「われわれ」、つまりウズベク人にある、と言う人がいたことだ。これは非常に珍しいパターンだと思う。これまでこのような質問をすると、あくまでも「ロシア人やソ連の幹部の責任だ」とする回答が多かった。これはある程度、人々の考え方が変化してきたことを物語っているのではないだろうか。

可能であれば、もっと多くの具体的な例を挙げていきたいところだが、きょうはここまでとしておきたい。(以上)

*本報告録はIIST・中央ユーラシア調査会において報告されたものである。
参考:財団法人貿易研修センター(IIST)アジア部
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