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研究会「アリー・シール・ナヴァーイーとチャガタイ文学発展への影響」報告 
近藤信彰(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)

 概要

  • 日時:2011年3月21日(月・祝) 16:00−18:00
  • 会場:東京外国語大学本郷サテライト 7F会議室
  • 講演者:Dr. Aftandil Erkinov (Tashkent State Institute of Oriental Studies)
  • 講演題目:"Alisher Navai and his Influence on Development of Chaghatay Literature (15th - beginning of the 20th Century)"
  • 主催:中東イスラーム研究拠点/基幹研究「中東イスラーム圏」・イスラーム地域研究東京大学拠点

 報告

アリー・シール・ナヴァーイー(1441−1501)は中央アジアにおけるテュルク語文学―いわゆるチャガタイ文学−の確立者として名高い。しかし、民族を代表する文学者ゆえに、彼に関する研究はナショナリズム的色彩を強く帯びる場合が多い。エルキノフ氏の議論は可能な限りこうしたバイアスを避けて、ナヴァーイーの作品の意義を15世紀から20世紀という長いタイムスパンで論じたものであった。

ナヴァーイーの作品の特徴をエルキノフ氏は、「マキシマリズム」(極端主義)と捉える。彼は、当時盛んであったペルシア語文学に並ぶようなテュルク語文学を確立するために、あらゆる手段を採った。話し言葉とは異なったある意味人工的な言葉を、アラビア語やペルシア語の言葉を大量に取り込むことで、生み出した。作品の分量も膨大であり、用いられている語の数も、世界の文豪と比較しても上回るとされているくらいである。いわば、強引な手段によって生み出された彼の作品は、後代の人々には極めて難解なものであり、理解のための辞書が必要なほどであった。

一度はほぼ死語のようになっていたチャガタイ文学が復興してくるのは19世紀に入ってからである。特に、コーカンド・ハーン国のウマル・ハーン(位1810−27)は自らの政権の正統性を担保すべく、いくつかの手段を講じた。一つは「金のゆりかご」(Altun Bishik)説話であり、自らの先祖をティムール朝の王子でムガル朝の祖であるバーブル(1483−1530)の落胤であるとした。また、ナヴァーイーの活躍したティムール朝のヘラート宮廷を模倣し、自らもナヴァーイーを模倣してチャガタイ語の韻文作品を著し、さらに80名の宮廷詩人に自分を模倣させて、これらの作品を収めた『詩人集成』を作らせた。

一方、ヒヴァ・ハーン国では、ロシアの保護国となったのち、ムハンマド・ラヒーム・ハーン2世(雅号フェールーズ、1864−1910)がチャガタイ文学の復興に力を注いだ。やはりティムール朝のヘラート宮廷を模した彼の宮廷には、35人から40人のチャガタイ詩人がおり、3つの詩選集が編纂され、一部は石版で出版された。ロシア支配下で政治的活動が制限されている中で、ムハンマド・ラヒーム・ハーン2世は文化活動に価値を見いだし、尽力したが、そのときモデルとなったのはナヴァーイーと彼が活躍したティムール朝ヘラート宮廷だったのである。

チャガタイ文学はナヴァーイー以降、直線的に発展したものではなく、さまざまな政治状況に応じる形で復興を遂げたのである。文学は政治と切り離すことはできず、当時の政治的・社会的状況を考慮しながら、分析する必要がある。
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