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第20回例会は,ウズベキスタンから二人の研究者を招き,特別セッション「印章が照らし出す中央アジア近代史の一断面」と題して開催された。報告者のクルバーノフ氏は,印章学という一種特殊な研究分野の専門家であり,『18-20世紀初頭ブハラの印章』(G.
Kurbanov, Bukharskie pechati XVIII-nachala XX vekov, Tashkent, 1987)や,『中央アジア印章学に関する諸資料』(G. Kurbanov,
Materialy po sredneaziatskoi sfragistike. Bukhara. XIX-nachalo XX vv., Tashkent, 2006)といった専著がある。現在,ブハラ国立建築・芸術保護区博物館(アルク博物館と通称される)の貨幣学・碑銘学部門の主任を務めるとともに,ブハラ国立大学のウズベキスタン史講座や歴史学・史料学講座などで教鞭をとっている。また,討論者のバフティヤール・ババジャーノフ氏は,世界的に知られるイスラーム学者であり,とくに前近代から現代にかけての中央アジアにおけるスーフィズムの諸流派の動向や,同地域における再イスラーム化の諸相などをテーマとして,すぐれた業績を次々とあげている。現在,日本学術振興会外国人特別研究員として東京大学に在籍している(滞日期間は2009年11月〜2010年4月)。 クルバーノフ氏は,京都外国語大学の堀川徹教授が主宰する中央アジア古文書研究プロジェクトのメンバーでもあり,今回,同教授が研究代表者を務める科学研究費「文書史料による近代中央アジアのイスラーム社会史研究」の招聘事業の一環で来日した(2010年3月17日〜26日)。こうした事情から,本例会はこの科研費研究プロジェクトとの共催で実施された。なお,クルバーノフ氏による報告とババジャーノフ氏によるコメントはロシア語でおこなわれ,その日本語への翻訳は筆者が担当した。 クルバーノフ氏の報告は,(1)イントロダクション,(2)印章の分類,(3)支配者の印章,(4)役人の印章,(5)印章の捺された文書,(6)結語,の6部から構成された。 (1)では,印章学とは何か,という基本的な問題が論じられた。印章学は歴史研究を補助する一つの学問分野であるが,それは史料学や古文書学と共通する問題を扱うのみならず,独自の諸目的をも追究するものである。そこで重要となるのが,印章を独立した考察対象として徹底した分析にかけることである。そのさい,貨幣学の場合とおなじく,印章のタイプやバリエーションを図形化して復元し,さまざまなサンプルを比較対照するという方法が有効となる。しかし,アラビア文字が刻まれた印章,とりわけ中央アジアにおけるそれは,もっぱら古文書学的な立場から関心を払われ,取り扱われてきたというのが現状である。 ついで(2)では,印章の実物と文書上に残るその印影の個別データにもとづいて,印章をどのように分類するかという問題が論じられた。印章は印面の形状,また,印面に刻まれた銘文や装飾的な紋様によって分類される。印章に備わるそうした内容・形態上の諸要素は,「タイプtip」,「種目vid」,「カルトゥーシュkartush」,「バリエーションvariant」というヒエラルキー構造をなす分類基準をもとに類型化される。すなわち,印面(印影)の多様な幾何学的形状はタイプ,縁取りの装飾様式は種目,印面をいくつかの部分に区切る装飾紋様を伴う枠線はカルトゥーシュ,そして,印面に刻まれた銘文はバリエーションとして,それぞれ分類のための重要な指標となるのである。 (3)と(4)の範疇に含まれる多種多様な印章は,まさにこれらの基準によってある程度整然と分類することが可能となる。こうした分類を通じて,君主やウラマー(カーズィー,ムフティーなど),または世俗的・軍事的な職位に就いた役人の印章それぞれの特徴を抽出することができる。たとえば,マンギト朝君主の印章の銘文は時がたつにつれて標準化・簡素化するプロセスを経ており,これは印章のタイプの減少傾向とも関連していた。ウラマーの印章について言えば,銘文のバラエティーの豊かさや,印章のタイプとバリエーションとの相関性を指摘することができる。世俗的・軍事的な役職者の印章の銘文は叙述の簡潔さで際だっているが,それは所有者の社会的帰属や印章のタイプとはかならずしも関係しない。 (5)では,印章のタイプ,印章の属性,文書の類型という三者の相互関係から,一定の法則性を抽出できることが指摘された。文書上の捺印の位置は,もっぱら文書の類型によって規定されていた。18世紀後半におけるブハラとロシアの君主間の書簡のやりとりにおいて,印章の捺印の位置が両国の外交問題にまで発展したという興味深いエピソードも同時代史料から確認することができる。 (6)の結語においては,官僚機構における要職の継承問題やいくつかの名家の対抗関係など,政治・社会史上のさまざまな問題を解明するうえで印章が有効な史料となりうることが具体例とともに示されたほか,「印章彫りmuhrkan」と呼ばれる職人の集団がブハラ市内の一地区で印章の製造に勤しんでいたことや,役人が自身の印章をあつらえて保有するためには君主の認可を必要としたことなども指摘された。印章学の立場からおこなう印章(印影)の専門的な分類・分析が第一段階の作業であるとするなら,そこで得られたデータの歴史研究の諸分野への応用は第二段階の作業として位置づけられる。この第二段階の作業,とりわけ行政機構やさまざまな政治・社会制度の研究において,印章は大きな可能性をもつ史料であり,今後,印章・印影のサンプルの増加・蓄積とともに研究がいっそう進展していくことが期待される。 以上がクルバーノフ氏の報告の梗概である。これを受けて討論者のババジャーノフ氏は,君主,ウラマー,世俗的・軍事的役職者それぞれの印章の特徴づけに曖昧さが残る点を批判的に指摘したほか,印章の象徴的意味合いと,印章の銘文が含みもつ称号とについて重点的に質疑をおこなった。君主の印章のタイプないし形状が,彼の何らかの政治的主張を反映するということはなかったのか。印章の銘文中の称号から,当時の社会的,宗教的,政治的な要因の反響を読みとることはできないのか。こうした鋭い質問がぶつけられた。また,銘文の分析,とりわけ称号の分析への配慮が不十分であるという厳しい指摘もなされた。これに対してクルバーノフ氏はその場での確答は差し控え,ここで呈された疑義と批判は今後の課題として受け入れられるかたちとなった。 いずれにしてもババジャーノフ氏のコメントは,それ自体がいわば印章研究と政治史研究のあいだの架け橋となっており,クルバーノフ氏が言うところの「第二段階」の研究の一つの具体的な方向性を示唆しているように思われる。総じて,この特別セッションは,印章学というあまりなじみのない研究分野に身近にふれ,印章学を媒介とした歴史研究の新たな展開の可能性を確認するうえで絶好の機会となったことは疑いない。 なお,付言しておくと,このあと3月24日にクルバーノフ氏は京都外国語大学において,ワクフ文庫への寄進写本に捺された印章に焦点を当て,「ブハラのワクフの印章Vakfnye pechati Bukhary」と題する興味深い報告をおこなっている。 |