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9月3日11:00-12:00 オープニング・セッション
9月4日9:00-13:00 第2セッション「史料学上の諸問題:方法論上の諸問題、古文書学、写本」
9月5日10:00-12:00 ウズベキスタン科学アカデミー東洋学研究所視察 |
中央アジアの歴史と文化をテーマとするこの国際会議は、2009年9月3日から5日までの3日間にわたって、ウズベキスタン共和国の首都、タシュケントにおいて開催された。筆者はこの会議に研究報告者の一人として参加すると同時に、その組織・運営に事務局の一員として携わった。ここでは会議の梗概をそうした経験もふまえながら記すことにしたい。 会議の日程は、最終的には上掲のプログラムのとおりに消化された。事前に告知・公開された英語表記による会議の概要、および英語・ロシア語表記によるプログラムについては下記URLから参照できるが、上掲の最終プログラムと照合すればわかるとおり、事前に告知されたプログラムには大小の変更が生じているので、その点には注意されたい。
さて、会議の大枠は、最初の2日間のシンポジウムと3日目の東洋学研究所の視察とから構成された。シンポジウムの会場はタシュケントの中心部に位置するパーイタフト・ホテルであった(同ホテルは新たな都市計画の実施にともない2009年末に取り壊され、すでにその跡形はない)。そのすぐ隣の公園(通称スクヴェール)の中央には独立ウズベキスタンのシンボルともいえるアミール・ティムールの騎乗像が雄々しく屹立している。9月1日の独立記念日を前にそのティムール像の背後に忽然と姿を現していた巨大な国際会議場の威容は、外国からの訪問者のみならず現地住民の目を奪うにも十分であった。その落成はものものしい警備のなか、大統領立ち会いのもとで厳かに祝われたようであるが、本会議はこのように、折しも共和国独立18周年の盛大な式典を終えたばかりの首都中心部において、独特の雰囲気をたたえながら開会を迎えることとなった。 たんに国際会議というだけでなく、ウズベキスタンの学術研究を司る科学アカデミーが協賛し、その総裁と副総裁も列席するという事情もあってか、会議初日は国営放送をはじめとするメディアの活発な取材攻勢で幕を開けた。会場には研究者と学生、またその他の学界関係者など多数の聴衆が詰めかけた(来場者数は2日間の総計で100名を優に超えた)。以下、会議の内容をかいつまんで紹介することにしたい。 開会式にあたるオープニング・セッションでは、ウズベキスタン科学アカデミー総裁をはじめ、各共催機関の代表が式辞を述べた。日本側からは、森田嘉一氏が近年継続的に実施されてきた京都外国語大学と東洋学研究所をはじめとするウズベキスタンの諸機関との研究協力の重要性を指摘したほか、最後に登壇した小松久男氏が、長年の日本における中央アジア史研究の成果を概括的に紹介するとともに、今現在も若い世代を取り込みながら着実な進展をとげている日本とウズベキスタンの共同研究にふれ、これらと現地や欧米における幅広く重厚な研究蓄積との連関・呼応のうえにこそ、この会議開催の必要性と意義があることを指摘した。会議の趣意はここに表れている。 「9-20世紀初頭の中央アジアにおける国家と法」と題された第1セッションでは、突厥やカラハン朝の時代からいわゆる三ハン国の時代までのさまざまなテーマについて論じられた。R. セラ氏はこれまであまり知られてこなかった『ティムールの書』と呼ばれる伝記作品を取り上げ、18世紀に現れた同作品がそれ以降この地域においていかに受容され、その受容のあり方の変遷にいかなる時代性の反映をみてとれるか、という問題を論じた。これはウズベキスタンにおける英雄ティムールの歴史的役割を通時的かつ相対的な視点から考えるうえでもきわめて意義深いテーマといえる。この報告に、とりわけウズベキスタン人研究者が興味津々に聞き入っていたのは印象的であった。筆者は、18世紀中葉にペルシア語で著された『ハンへの贈物』というブハラの年代記を取り上げ、数世紀来、チンギス・カンの血統に連なることが君主(ハン)の絶対条件であった中央アジアにおいて、非チンギス裔がハンとして即位するという衝撃的な事件(1756年)がいかなる政治的背景のもとで起こり、この年代記のなかでそれがいかに正当化されているかを、この作品に関する史料学上の問題とあわせて論じた。セッション後のことであるが、この年代記を用いて王権論の専論を著してもいるセラ氏から鋭いコメントを頂戴できたことは有益であった。B. ババジャーノフ氏が提起し再考を試みた、20世紀初頭の歴史家がコーカンドの過去をいかに認識していたか、という問題もそうであるが、ある時代の歴史家や人々の認識、あるいは社会通念などを史料から読みとり、それと当時の政治変動や社会状況を結びつけながら新たな歴史像を構築していくことは、概して今後の研究に共通する重要な課題であるように思われた。 第2セッションは「史料学上の諸問題:方法論上の諸問題、古文書学、写本」という題目にも示されるとおり、史料学に特化した構成となった。このセッションには、日本とウズベキスタンの研究者の参加のもと年来進められてきた「中央アジア古文書研究プロジェクト」の5人のメンバーが報告者として名を連ねた。その主宰者である堀川徹氏は、K. フダーイベルガノフ氏と共同報告をおこない、当該プロジェクトがウズベキスタン各地で収集・整理に取り組んでいるイスラーム法廷文書の史料的意義とその研究状況について、文書のサンプル画像をまじえながら詳述した。フロアからは、プロジェクトのさらなる進展に期待を寄せる声も聞かれた。ついで、やはり同プロジェクトのメンバーである磯貝健一氏が、20世紀初頭のサマルカンドを例に、リヴァーヤト(ファトワー)と呼ばれる文書の緻密な分析にもとづいて、中央アジアのシャリーア法廷における訴訟手続きの仕組みを明示した。これにより、プロジェクトの研究成果の一端がきわめて明快に紹介されたといえる。おなじくプロジェクトのメンバーであるG. クルバーノフ氏とS. グラーモフ氏も、古文書学に関連する専門的な個別テーマのもと報告をおこなったが、これら一連の報告は総体として、当該プロジェクトの奥行きのほどを十分に示したといえる。クルバーノフ氏の取り組む印章研究は、一見地味であるが、文書本体の情報分析に役立つだけでなく、文書行政システムや人事、個々人の履歴など、さまざまな問題に光を照射しうる点でも、なおいっそう注目されてよく、その意味でも今回の報告は貴重であった。グラーモフ氏は、写本と文書という二つの異なる史料類型が交錯するインシャー文献(文書典範集)のあり方に注意を喚起し、その史料としての分類と扱いの適正化の必要性を、東洋学研究所収蔵コレクションを題材に力説した。このほかにもインシャー文献については、H. ホルツヴァルト氏が19世紀のブハラで編纂された作品をもとに、行政制度や政治史の研究におけるその史料的価値と可能性について吟味する手堅い報告をおこなった。なお、ドイツのゲルダ・ヘンケル財団の助成を得て実施中の東洋学研究所における写本のデジタル化事業について報告する予定だったJ. ダグイェリ氏は、都合により会議に出席できなかったため、グラーモフ氏が報告を代行した。 第3セッションは「歴史的眺望のなかの社会と文化:社会生活と改革主義思想」と題されているが、とくにスーフィズムに関連する研究報告が目立った。矢島洋一氏は、中央アジア発祥のスーフィズムの道統(タリーカ)であるクブラヴィーヤが領域的に拡大していく過程を再考し、その系譜(スィルスィラ)と教義(思想と、修行法などにみるその実践形態)の継承・発展のあり方が必ずしも一致しないという興味深い事実を実証的に論じた。ちなみに、矢島氏はかつてクブラヴィーヤに関する専論のなかで、しばしば「教団」と訳されるタリーカが実態としては教団の語が与えるイメージにそぐわないものであったことを指摘している。本セッションにおいてD. デウィース氏が18-19世紀の中央アジアに隆盛したナクシュバンディーヤ・ムジャッディディーヤというタリーカを取り上げ、その実態や構造をより適切に理解するには「脱教団化」しながらこれを分析する必要があると説いたことは、奇しくも、上記の矢島氏の指摘と通底している。両氏がそれぞれの報告で用いてみせた鋭利な分析視角と手堅い方法論的アプローチは、この会議が中央アジア史研究における方法論・研究手法の洗練・彫啄を一つの目標としているという意味でも、とくにこうした方面での研究を志す若手研究者にきわめて模範的な実例を示したといえる。このセッションでは、河原弥生氏がやはりナクシュバンディーヤ・ムジャッディディーヤを取り上げ、スーフィーの導師から弟子に伝授されるイルシャード・ナーマ(教導の書)と呼ばれる免許状を主要史料として用いながら、個々に取りもたれた師弟関係の分析からコーカンド・ハン国におけるこのタリーカの発展のありようを論じた。「教団」にしばられない河原氏のこのアプローチもまた、矢島氏やデウィース氏のテーゼと一脈相通じている。S. デュドワニョン氏は年来取り組んできたタジキスタンにおけるフィールドワークの成果に依拠しつつ、ソ連時代にイスラームがいかに実践されていたか、その担い手がいかなる学歴や背景をもつかといった問題を、聞き取りによって得られた当事者の生の声をもとに論じた。氏はスーフィーとウラマーといった単純な二分法の適用や、その他の安易な類型論的理解を批判するとともに、多様な人々のあいだで織りなされる融通無碍の相互関係やネットワークのなかで、イスラームがソ連時代を通じてその命脈を保ったことを指摘したが、この報告は、とくに現代史研究にとって、文献調査とフィールドワークの相補的な実施がいかに重要であるかを説得的に示すものであったといえる。 会議全体を通観して筆者なりに興味を覚えた点を指摘するならば、各セッションに分散するかたちとはなったが、A. サルセンバエフ氏、堀川氏と磯貝氏、A. ムーミノフ氏のそれぞれが法学書ないしは法廷文書、ファトワーというイスラーム法に直接的にかかわる史料に着目し、中央アジアにおけるイスラーム法の施行と運用のあり方について、もしくは、その理論的基盤が形づくられ、地域社会におけるイスラーム信仰の存続形態に作用していく歴史的プロセスについて史料に即して論じたのは、ある意味で、近年さかんにおこなわれているイスラームの歴史的役割や歴史的動態を対象とした研究が、イスラーム法という切り口からさらなる深化を遂げつつあることの証左であるように思われた。 閉会の辞においてB. アブドゥハリーモフ氏と小松氏が総括したとおり、おしなべて水準の高い実証的な研究報告が得られたことで、この会議は今後の中央アジア史研究の課題と方向性を確認し合い、研究成果と研究関心をひろく共有するうえでまたとない機会となった。しいていえば、各研究報告に与えられた20〜25分という時間は意を尽くすには必ずしも十分ではなく、また、質疑応答のさいに議論を尽くせないまま時間切れとなる場面もみられたことは心残りであるが、それは日程上、ある程度致し方のないことであった。この点で、最も遠来の報告者の一人から聞かれた、「ここに一堂に会し、たがいに面識を深めたことにこそ意義がある」という言葉に、限られた報告時間しか提供できなかった会議運営者側としてはおおいに励まされた。閉会の辞でも確認されたことであるが、まさにこの会議を通じて構築された人的ネットワークは、これからの研究の発展や国際的な学術交流の進展にとってかけがえのない遺産となるにちがいない。日本とウズベキスタンのあいだで中央アジア史研究に特化した専門的な国際研究集会がこうして共同開催されたのは史上初のことであり、それが中央アジア現地で実現したという点でも、この会議は新たな時代の幕開けを告げるものであるといえよう。 2日間にわたったシンポジウムの概要は以上のとおりである。3日目には東洋学研究所の招待のもと、会議の報告者や外国人参加者による同研究所の視察がおこなわれた。訪問者一行は研究所2階の会議ホールに通され、そこに特別展示された稀覯写本や研究関連図書についての詳しい解説をうけ、東洋学研究所に収蔵される写本コレクションとその研究状況に身近に接する機会をえた。そのあと、来場者全員にアシュ(中央アジア風の炊き込みご飯)がふるまわれ、歓談のうちに会議は全日程を終了した。 この会議の成功が各方面のじつにさまざまな人々の理解と協力のうえにあることはあらためていうまでもない。とくに運営者側としてありがたかったのは、日本とウズベキスタンの多くの若手研究者が裏方として労を惜しまず会議を支えてくれたことであった。そこで発揮されたチームワーク、そして醸成された信頼関係は、両国間の研究協力の将来性を十分に保証すると確信するのはひとり筆者だけではあるまい。その意味でも、たしかな手応えを感じさせる実り多い会議であったといえる。タシュケント会議における各研究報告は論文集のかたちでまとめられ、来年度中に出版される予定である。 なお、この会議については、ロシア語と英語で刊行されているウズベキスタンの全国紙、『ウズベキスタン・トゥデー』にも写真入りの記事が掲載された。その記事は下記URLからも閲覧することができる。
近い将来、タシュケント会議後の研究の展開とその成果を確認しあえるような機会がいずれかの地で設けられることを、ささやかに期待するしだいである。 |