|
|
|
|
パミール山岳地域の歴史と文化は、古くからタジキスタン内外の研究者の注目を集めてきた。例えば、歴史学、人類学、考古学、言語学、宗教学、鉱物学、自然科学などの様々な専門分野の研究者たちが、この地域について意義深い研究を行い、多くの文献を書き残してきた。イスラーム時代のパミールの歴史を詳細に検討する前に、まず簡単にイスラーム化以前のこの地域の歴史に目を向けてみたい。 パミール山岳地域は、歴史学者たちの研究により、アーリア民族の文明の揺籃の地であったことが明らかにされている。イスカンダロフは、自身の著書において以下のように述べている。「パミール山岳地域に居住したアーリア系の最初の民族は、サカである。サカ民族がパミール山岳地域に住むようになったのは、紀元前2世紀から紀元前1世紀の頃にあたる。紀元前6世紀から紀元前5世紀頃までサカたちは、南北インドの国境付近に居住していた。北イランの民の祖先と彼らの親戚たち、すなわちサカたちは、紀元前7世紀から紀元前6世紀まで、パミールから南北インドの国境までの諸地域を占めていた」と。(イスカンダロフ1996: 22) ヒンドゥークシュとパミール地域において、サカたちは、三つの集団に分かれていた。第一の集団は、ヘルマンド川流域に居住し、後に「サカたちの国」、すなわち、サキスターンSakistan、あるいはスィースターンSistanを形成した。第二の集団はカシミールに移住した。そして、第三のサカたちの集団が、パミールに残った。サカたちがパミールに到来したことは、タジキスタン科学アカデミー歴史学研究所の研究員であるバーバーエフが1960年代にパミールで行った発掘が証明している。考古学者であるバーバーエフは、西パミール地域と東パミール地域において、何十ものサカの遺構を発見した。それらは紀元前5世紀から3世紀に属するものである。(『パミール研究』2号:65) 紀元前2世紀の終わりに、パミールを含む中央アジアと北トルキスタンの移住民の集団が、現在の中央アジア、アフガニスタン、パキスタン、北インドに跨がる地域に帝国を建設した。この帝国は後にクシャーン朝の名で知られるようになった。クシャーン朝の支配期は、紀元前250年から紀元前105年であり、その創建者はクジューラ・カドフィセスであった。パミールとヒンドゥークシュの国境地帯も、この国家の領土に組み込まれた。歴史学者であるカランダロフは、以下のように述べている。すなわち、「紀元前3世紀から紀元前2世紀に、バダフシャンのシュグナーンShughnanはグレコ・バクトリア帝国に服従していたが、紀元前1世紀には、クシャーン朝に服従することになったと証明することができる。これに関する重要な証拠は、ハールグKharughの町でクシャーン朝時代のコインが発掘されたことである」と。(カランダロフ:34) パミール地域においては、今日に至るまで、古代の砦などの建築物が残されている。それらは、ラーシュト・カルアRashtqal'a地方のチャリクCharikという砦、ジャウシャンガーズJavshangaz村のデルージュDerujという砦、グンドGhund渓谷のスーチャーンSuchan村とシジュドSijd村のいくつかの砦、同じくグンド渓谷のヴァン・カルアVanqal'a村にあるイマーム・ハーナImamkhanaという砦などである。歴史学者にとって、このような砦のうちもっとも興味深いのは、グンド渓谷のバーゲフBaghev村にあるカーフィル・カルアKafirqal'a(異教徒の砦)であろう。著名な研究者の一人、ベルンシュタムは、「バダフシャンのシュグナーン地方のすべての砦は、クシャーン朝時代に建設された。また、これらは防衛の用途で建設された」という結論を出している。また、考古学者のブブノワは、「シュグナーン地方の砦の他に、ユージュバークYujbakやカスヴィールKasvirの墓地もまた、クシャーン朝時代のものである」との見解を示している。(『パミール研究』2号:66) クシャーン朝の後、エフタルが中央アジアに現れた。歴史学者たちは、エフタルは長期に渡ってパミールに居住したとの見解を示している。バダフシャン地方の多くの地域が、ハイタリ(エフタル)という名前に関連を持っている。例えば、今日のアフガニスタン領バダフシャンの中心地であるファイズアーバード州のある渓谷は、1万2000人の人口を有しており、その住民たちは、ヤフタルあるいはハイタルと自称している。タジキスタン領バダフシャンのイシュカシムIshkashim地方のヤムチュンYamchun村の住民も、自らをハイタリと呼んでいる。ここにあるヤムチュンの砦と、同じくイシュカシム地方のナマドグトNamadgut村にあるカフカハの砦は、エフタル時代の重要な遺構と見なされている。 もう一つ指摘すべきは、イスラーム化以前の時代まで、パミール山岳地域においては、多くの住民がゾロアスター教徒であり、一部は仏教徒であったことである。イスカンダロフは以下のように述べている。「西パミールの住民のすべては、イスラーム教が広まる以前は、ゾロアスター教徒であり、このため、彼らをイスラームに帰依させようとしたアラブ人たちに対して、敵対的な姿勢で臨んだと言える」と。(イスカンダロフ1983:29)また、イスカンダロフは、別の著作『パミールの歴史』において、8世紀の中国の旅行者、慧超(西暦729年)に触れ、慧超が8世紀にワハン地方について「ワハンには仏教の僧侶と寺院が存在する」と述べていることを指摘している。(イスカンダロフ1996:71) 仏教遺跡のうち、イシュカシム地方のワハン渓谷のヴラング村に仏教寺院が今日に至るまで残されている。歴史学者たちは、これを「仏教徒たちの洞窟」とも呼んでいる。 7世紀から8世紀におけるイスラームの出現以降、アラブ人のムスリムの支配者たちは、アフガニスタンの諸地域を征服し、パミール山岳地域に侵攻してきた。しかし、イスラームの初期の段階では、アラブ人たちは、パミールの全域を征服し、住民をイスラームに改宗させることはできなかったと考えられている。その理由として、この地域の山の道が非常に険しかったことが挙げられる。歴史史料によると、アラブ人たちは、10世紀以降にワハン渓谷にイスラームの教えを広めることができたと考えられるものの、パミールの他の地域では13世紀に至るまではゾロアスター教が支配的であった。アラブ人たちのパミールへの到来以前は、この地域においては地元の統治者たちが力を持っていた。例えば、9世紀において、シュグナーン地方ではフマール・ベクKhumar bekが支配していた。ローシャーンRo'shanの支配者もまたデフカーンdehqanと呼ばれた地元のアミールであった。その当時はワハンVahanにも地元の統治者が存在した。伝承によると、アラブ人たちがワハンを攻撃する以前は、この地域ではカフカハQahqahaという名の支配者が支配していた。ワハン渓谷の砦は彼に従っていた。この地域の住民は、彼らが黒い衣服を着ていたことから、「スィヤーフプーシャーンSiyahpushan(黒い衣を着る者たち)」あるいは「カーフィラーンKafiran(不信仰者たち)」と呼ばれた。この時代にはカフカハの砦はムバーシルMubashirという人物が治めていた。彼はカフカハの支配者にとても忠実であった。アラブ人たちが10世紀に初めてこの砦を攻撃した際、カフカハの軍隊に敗北した。アラブ人たちは数ヶ月の後に再度カフカハの砦を攻撃し、これを攻略した。スィヤーフプーシャーンたちは、敗北の後、アフガニスタンのヌーリスターンに移住し、後にこの地域はカーフィリスターン(不信仰者たちの地)の名で知られるようになった。カフカハの崩壊は、バダフシャンの伝説においては、イスラームの出現の最初の時代、すなわち7世紀から8世紀に関連すると伝えられているが、歴史家たちは、この事件を11世紀から12世紀のことと見なしている。 11世紀から13世紀に至るまで、イスラームの教えは、完全にはパミール地域全域に広まってはいなかった。13世紀にベネチアの旅行家マルコ・ポーロがパミールの山岳地帯を旅行した時代に、「ワハン渓谷の住民たちは、イスーマーイール派のシーア派であるが、バダフシャンの他の地域の住民はまだイスラームの教えを受け入れていない」と書き残している。(イスカンダロフ1996:72;イスカンダロフ1983:35) 歴史史料は、イスラームの初期の時代において、イスラームの教えはアラブ・ムスリムの支配者たちの尽力によってパミールの山岳地帯に広まったが、その後の時代においては、イラン、アフガニスタン、ブハラとその他の諸地域にイスラーム王朝が出現し、それらの司令官たちの努力によって、中央アジアの国々においてイスラームの教えが広がっていったと証明している。例えば、9世紀にバダフシャンの一部分はターヒル朝とサッファール朝に、10世紀にはサーマーン朝に服従していた。12世紀には、バダフシャンはグール朝の支配下に入った。(ガフーロフ:534)13世紀から14世紀には、中央アジアにおいてモンゴルの襲来があったが、パミール史研究者の多くが、チンギス・ハーンは、パミールの山岳地帯のいかなる地域も占領することはなかったと証明している。 様々な時代に外部のムスリムの征服者たちがパミールを占領したが、この地域においては15世紀に至るまで地元の独立した支配者が統治を行っており、バダフシャンは半植民地状態にあった。歴史研究者によると、バダフシャンの独立した王たちは3000年に渡ってパミールにおいて代々統治を行ってきた。バルトリドは『イスラム百科事典』の「バダフシャン」の項目を執筆し、ムハンマド・ハイダルの『ターリーヒ・ラシーディー』から以下のように引用している。「ハイダルは、バダフシャンの最後の支配者の娘は、自らの王朝の支配を、3000年続くものと見なしていると書いている」と。(バルトリド:345)文学研究者のアビボフも、15世紀の信憑性の高い史料に依拠し、バダフシャンの王朝について以下のように述べている。「15世紀の高名な学者であり文人であるアリーシェール・ナヴァーイーは『マッジャーリス・アンナフィースMajalis al-nafis』において、歴史家であるアブドゥルカーディル・バダーウーニーは『ムンタハブ・アッタワーリーフMuntakhab al-tawarikh』において、15世紀のバダフシャンの王、シャー・クリShah quliの息子でラァリーLa'liのタハッルスで詩を詠んだミールザー・ラァルベクMirza La'l bekについて、以下のように述べている。『ラァリーは、バダフシャンの古い王家の出身である。何千年もの間、支配権は彼らの一族の手中にあったが、最終的に、スルターン・アブー・サーイードが、彼らの一族を根絶した』と。なお、ダウラトシャーヒ・サマルカンディーの『タズキラト・アッシュアラー』によると、その本名はスルターン・ムハンマドであるという」と。(アビーボフ:13)マルコ・ポーロや、他のムスリムの歴史家もまた、バダフシャンの王たちは自分達の国を代々守り続け、自らの系譜を、マケドニアのアレクサンドロスとシャー・ダーラーの娘に遡らせていると伝えている。後に、ワハン、ダルヴァーズ、カラテギン、およびチャトラルの住民たちもまた、自らをマケドニアのアレクサンドロスの子孫であると見なした。しかし、15世紀から16世紀の歴史史料には、バダフシャンの王だけがマケドニアのアレクサンドロスの子孫であると述べられている。(イスカンダロフ1983:36) 15世紀にティムール朝が半植民地状態のパミール地域を攻撃したが、パミールの人々は、バダフシャンの王たちのもと激しく抵抗し、ティムール朝の軍隊は敗走した。この時代にバダフシャンの王の一人、バハーゥッディーンは、アミール・ティムールの孫、シャールフ(1409-1447)の時代に、自国をティムール朝の支配から解放しようとしたが、成功しなかった。バダフシャンの最後の支配者、スルターン・ムハンマドと彼の息子のイブン・ラァリーが殺されたこと、および彼らの王朝が滅亡したことについて、中世の歴史家たちの作品の中には多くの情報がある。例えば、文学研究者のアビーボフは、この事件について以下のように述べている。「とりわけ、最後のバダフシャン王、スルターン・ムハンマドと同時代人であり、彼自身を個人的に見て、彼と面会したダウラトシャーヒ・サマルカンディーは、自身の詩人伝において、彼と、彼らの王朝の滅亡について、大変詳しく述べている。スルターン・アブー・サーイードは、15世紀後半に、バダフシャンに大軍を送った。バダフシャンの王(ラァリー)はアブー・サーイードの軍隊に抵抗することができず、ヘラートに逃亡する。ラァリーの息子は、カシュガル方面に逃れる。アブー・サーイードはバダフシャンを占領し、自分の息子でバダフシャンの王家出身の母親を持つ、アブー・バクルを、そこに支配のために任命する。しかし、ラァリーの息子はしばらくしてから戻ってきて、アブー・バクルを倒し、自らがバダフシャン王になる。当時ホラーサーン、マアー・ワラー・アンナフル、ホラズムのほとんどを支配下におさめていたアブー・サーイードとその息子は、この事態に耐えられず、再び、新たにイブン・ラァリーに対して行軍する。アブー・サーイードは非常な苦労をして、スルターン・ムハンマド(ラァリー)とその息子、イブン・ラァリーを殺害し、自分の息子、アブー・バクルを再びそこで支配に任命する。ダウラトシャーヒ・サマルカンディーはスルターン・ムハンマド(ラァリー)とその息子、イブン・ラァリーの殺害年を1466年と述べている。」と。(アビーボフ:14) この事件の後、アブー・バクルはハトラーン地方に攻撃を加え、自分の兄弟スルターン・ムハンマド・ミールザーの軍隊を破り、バダフシャンとハトラーンとヒサールを併合する。この後、スルターン・ムハンマド・ミールザーは再びアブー・バクルを破り、アブー・バクルはヘラートのスルターン・フサインのもとに逃亡する。 16-17世紀に、イランとマー・ワラー・アンナフルにおいて新たな王朝、サファヴィー朝とシャイバーン朝が出現し、彼らもまた、中央アジアの諸地域において、自らの支配を確立するために力を注いだ。その結果、16世紀から18世紀に至るまで、ティムール朝、サファヴィー朝、シャイバーン朝、アシュタルハン朝が、中央アジアの諸地域を占領するために激しい争いを起こした。この争いの結果、バダフシャンにおいては、厳しい政治的、経済的、文化的危機が、この地域の人々の生活を非常に困難なものにした。バダフシャン地域は、その時々で、ティムール朝、サファヴィー朝、シャイバーン朝、アシュタルハン朝が領有した。1507年にスルターン・ヴァーイズ・ミールザーは、バーブル・ミールザーの同意のもと、バダフシャンに行き、その地域の支配者と宣言し、彼は人々に圧政を行った。バダフシャンの人々は、このヴァーイズ・ミールザーの暴虐に耐えきれず、ズバイリ・ラーギーを長として反乱を起こした。しかし、後にこの反乱は広まり、ズバイルは捕らえられ、殺される。ズバイルの殺害後、山岳地帯のイスマーイール派の長であるシャー・リザー・アッディーンがバダフシャンに到来し、バダフシャンの一部を自らの占領下においた。しかし、1509年に、ヴァーイズ・ミールザーはシャー・リザー・アッディーンを殺した。 ファズルアリーベク・スルハフサルの『ターリーヒ・バダフシャン』によると、1657-58年に、サマルカンドのアミール・ヤール・ベク・ハーンを、バダフシャンの支配者に選ぶ。(ファズルアリーベク・スルハフサル:2a-2b) アミール・ヤール・ベク・ハーンは、はじめは、アシュタルハン朝の征服者たちをバダフシャンの地から追い出すよう、自らに義務を課す。この目的のため、彼はアフガニスタンのジュズジャーンに砦を建設し、アシュタルハン朝の軍をバダフシャンから追い出す。しかし、後にマフムーディ・アタリクが、ヤール・ベク・ハーンをバダフシャンから追い出し、彼はインドに行く。アシュタルハン朝が衰退した後、バダフシャンの人々は、また、アミール・ヤール・ベク・ハーンをバダフシャンに連れてくる。彼はこの地域で50年間支配を行い、1706-1707年に死亡した。アミール・ヤール・ベク・ハーン・サマルカンディーの子孫たちは、1884年までバダフシャンで力を持っていた。 1880年代、アフガニスタンの支配者であるアミール・アブド・アッラフマーン・ハーンは、サマルカンドから戻り、バダフシャンの一部を占領し、シュグナーン地域をも自らの国に併合しようと企んだ。この時代、シュグナーンは地元の支配者が統治していた。 歴史研究者のエルチベコフは、シュグナーンの支配者たちの歴史を、この地域で見つかった文献史料や石碑などに依拠し、この王朝について、1698年からシュグナーンではムザッファル・ベクの息子のミール・アブド・ムハンマドが支配していたと述べている。彼の後、1744年に彼の息子、ムハンマド・フサイン・シャーが王座に座った。ムハンマド・フサイン・シャーの後は、アミール・ベクがシュグナーンの支配者になった。石碑によると、シャー・アミール・ベクは自らの統治期にシュグナーンにおいて、パルシネフParshinev村に水を引く水路を掘った。ファズルアリーベク・スルハフサルの『ターリーヒ・バダフシャン』およびアンドレーエフの『フフ渓谷のタジク人たち』には、アミール・ベクも、ムザッファル・ベクの息子であったと書かれている。もしこれが正しければ、すなわち、アミール・ベクはアブド・ムハンマドの兄弟であったということになる。アミール・ベクの統治年については史料には述べられていないが、1768年までシュグナーンの支配者は、シャー・ヴァンジーの息子、アミール・ベク2世であったことが知られている。一方、シャー・ヴァンジーは、おおよそ1758-1765年に統治した。1779年にシャー・ヴァンジーの息子のアミール・ベク2世が、シュグナーンに別の水路を掘った。この建造物については、ハールグ市内で見つかった石碑の書き物が証明している。アミール・ベクの後、1789年に彼の息子のシャー・ヴァンジー2世がシュグナーンの支配者となった。彼の後、1792-1793年は、シャー・ヴァンジーの息子のスルターン・ジャラール・アッディーンがシュグナーンの支配者でした。(エルチベコフ:55-57)ファズルアリーベク・スルハフサルは、シャー・ヴァンジー2世の統治期間を、1821-1822年と述べている。(ファズルアリーベク・スルハフサル:84b)ジャラール・アッディーンの後は、彼の兄弟のクバード・ハーン(1844年)、クバード・ハーンの後は、彼の息子のアブド・アルアズィーズ・ハーン、アブドゥラフマーン・ハーン(1845-1869年)が、その後は、彼の息子たち、ムフッバト・ハーン(1871年まで)と、ユースフ・アリー・ハーン(1883年まで)が、シュグナーンで支配を行った。 アミール・アブドゥッラフマーン・ハーンは、ユースフ・アリー・ハーンが、彼に従う気がないことを理解し、内密にロシアとやりとりをしようとした。このため、アフガンのアミールが、サルダール・ハーンを長として1882年にシュグナーンを攻撃し、ユースフ・アリー・ハーンを捉え、彼をカーブルに送り、監禁した。バダフシャン占領後、アフガン人たちは、この地域の人々がイスマーイール派であるために、彼らに対し非情な圧制を行った。彼らの家や耕作地を燃やし、家畜を殺し、何千人ものこの地域の罪のない住民を殺戮した。女性や少年少女たちを奴隷として売ったり、女性や少女たちを、自分達の兵士たちに贈り物として贈ったりした。何百人ものパミールの人々がこの圧制と暴虐に耐えられず、ムルガーブや中国のヤルカンドやサリコルに逃れた。アフガン人のバダフシャンでの暴挙は1895年まで続いた。この時、人々はアフガンの暴虐から逃れるために、バダフシャンのイスマーイール派の指導者であるピール・サイイド・ファッルフ・シャーを長として、ロシアの皇帝のフェルガナの軍総督に書簡を送り、バダフシャンをロシアに併合し、人々をアフガンと地元の王の暴虐から救って欲しいと申し入れた。このため、1895年3月2日にイギリスとロシアの間で、バダフシャンの領域を分割することについての和解書が調印され、パンジ河の左岸がアフガニスタンに、右岸の一部がロシアに併合された。そして、ローシャーン、シュグナーン、イシュカシムおよびワハンを一時的にブハラ・アミール国に移譲した。ブハラ・アミール国も西パミールの人々に対して、非常な圧制を行い、人々は、バダフシャンのイスマーイール派の最も影響力のある指導者の一人でピール・サイイド・ファッルフ・シャーの息子の大ピール、サイイド・ユースフ・アリー・シャーを長として、ブハラ・アミール国の圧制から解放されるべくロシア皇帝の代理人に書簡を送った。ブハラ・アミール国はピール・サイイド・ユースフ・アリー・シャーの目的に気付き、彼を何度もパミールから追放した。1920年の社会主義革命の成功の後、パミールはソ連に組み込まれることになった。 パミールの文化史パミールの山岳地帯の人々は、アーリア人の古い文化を保持している。この地域の住人たちは、古いイラン系の言語(シュグナーン語、ローシャーン語、ワハン語、リーン語、ヤズグラーム語、サリコル語、他の諸方言)を話しており、言語学者たちは、これらの言語をパミール諸語と名付け、インド・ヨーロッパ語族のイラン語派に分類している。パミール諸語の他、多くの人々が、タジク・ペルシア語、クルグズ語も用いる。ダルヴァーズ、ヴァンジ、ムルガーブの一部の人々はスンナ派であり、シュグナーン、ラーシュトカルア、ローシャーン、イシュカシムの人々は、イスマーイール派に属している。それぞれの民族は、古代からの習慣を保持しており、彼らは、風俗習慣と信仰に従って、今日に至るまで貴重な文化作品を残している。パミールの文化史の発展については、イスラーム王朝の時代、中世から長期間にわたって、この地域を占領するために起こった争いの結果、パミールの文化は消滅に向かった。12世紀から18世紀に、バダフシャンでは、文学の分野以外の他の文化は、政治的混乱ゆえに発展しなかった。そして、バダフシャンの人々のなかからは学者や芸術家は生まれなかった。バダフシャンの学問と文化は、ロシアが19世紀から20世紀初頭にパミールの人々をイスラームの支配者の圧制から解放した時代から発展したと言える。これについては、歴史家のサイイド・ハイダル・シャーが、『シュグナーン王国の歴史』において、以下のように述べている。すなわち、「時のスルターン、偉大なる皇帝、ロシア皇帝が、シュグナーン国の半分に影を落とし、アムダリヤのこちら側(すなわち右岸)の人々は、スルターンの慈悲のもとで安らぎを得ています。このため、河のこちら側は大変平穏です。河のあちら側からアフガンが暴虐を行うことはできません。人々は日夜慈悲深き神から、時のスルターンの権勢が日々いや増すことを祈っています。そして小生もまた、その祈りを捧げる一人です」と。(ムバーラクシャーザーダ・サーイード・ハイダルシャー:13) ロシア皇帝の統治は、キリスト教国のそれであったので、バダフシャンのイスマーイール派とは対立しなかった。むしろ、ロシアの東洋学者たち、例えばザルービン、アンドレーエフ、セミョーノフ、イヴァノフや、他の何十人もの研究者たちをパミールに送り、彼らがこの地域の風俗習慣や宗派、言語、歴史、人類学や自然を学んで、貴重な文献を残した。このような多くの援助を得て、バダフシャンにおいても、学問文化の学校が現れ、優秀な学者や芸術家たちが誕生した。この時代にパミールにおいては、以下のような学問、芸術が発展した。史料編纂学 19世紀から20世紀の初頭、バダフシャンでも歴史学が発展した。バダフシャンの歴史家たちの努力によって、いくつもの貴重な文献が編纂された。1880-81年、ユースフ・アリー・ハーンの統治期に、ピール・サイイド・ファッルフ・シャーにより、マスナヴィー作品『シュグナーンの王たちの歴史』が編纂された。この先述した学者を、初めの歴史家、歴史学の創始者と呼ぶことが出来よう。ピール・サイイド・ファッルフ・シャーは作品を韻文で詠み、シュグナーンの8人の王、アブドゥッラヒーム・ハーン、シャー・フダーダード、シャー・ダウラト、シャー・アミール・ベク、シャー・ヴァンジー、クバード・ハーン、アブドゥッラヒーム・ハーン、ユースフ・アリー・ハーンについて述べている。 他の学者たち、クルバーン・ムハンマドザーダ(アーフン・スライマーン)とムハッバト・シャーザーダ(サイイド・シャー・フトゥール)によって、より完全で価値の高い作品が、『ターリーヒ・バダフシャン』という書名で編纂された。この作品は4巻から成り、1巻目は、11世紀から19世紀の出来事、すなわち、シャー・ハームーシュからアブドゥラフマーン・ハーンまで、2巻目は、シュグナーンの王たちの歴史をアブドゥラヒーム・ハーンの時代からユースフ・アリー・ハーンの時代まで、3巻目は、アフガン人たちのバダフシャンへの侵入を含み、4巻目は、バダフシャンがロシアに併合される時代が扱われている。 この時代の歴史の他の価値ある作品としては、サング・ムハンマド・バダフシーと、ファズルアリーベク・スルハフサルによる『ターリーヒ・バダフシャン』が挙げられる。この作品においては、ダルヴァーズ、シュグナーン、カタガン、チャトラルの17世紀から19世紀の歴史が明らかにされている。 同様に、この時代には、サイイド・ハイダルシャー・ムバーラクシャーザーダによる『シュグナーン王国の歴史』という小作品が編纂された。この作品は現代の歴史学において、シュグナーンにおける中国のハーンたちの支配の歴史、シュグナーンのゾロアスター教徒たちの歴史、シュグナーンの王たちの歴史、パミールがロシアに併合される歴史を明らかにする点で、貴重なものである。 ミニアチュール 18世紀の終わりから19世紀の初めにおいて、熟練した画家や書道家たち、シャー・ニヤーズ・イブン・シャー・パルターヴィー、シャー・イスマーイール・イブン・シャー・ホージャ、サーイード・スフラーブ・イブン・マルハマト、サイイド・シャーザーダ・イブン・サイイド・ハームーシュたちの努力によって、バダフシャンでは絵画が発展した。バダフシャンの絵画はテーマや方法の点で、東洋の国々の絵画の他の流派とは異なっている。
参考文献
日本語訳:河原弥生(イスラーム地域研究東京大学拠点・特任研究員) |