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国際シンポジウム「ロシアと中東の間のコーカサスとその住人たち―宗教と国家にむけた行動と考慮」報告
塩谷哲史(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程)

 概要

  • 日時:2008年1月26日(木)
  • 会場:東京大学本郷キャンパス医学部教育研究棟 新棟13階 第6セミナー室(1304A)
[オープニング・セッション] 9:50〜11:00
  • 趣旨説明:前田弘毅(北海道大学 スラブ研究センター)
  • 報告者:ロナルド・グリゴル・スーニー(ミシガン大学)「文明としてのコーカサス」
  • 討論者:塩川伸明(東京大学)
[セッションA]コーカサス空間へのロシアの進出 11:10〜12:30
  • 報告者:
    • ショーン・ポラック(コロンビア大学)「エカチェリーナ二世期におけるロシアのコーカサス征服」
    • 前田弘毅(北海道大学 スラブ研究センター)「通訳になったマムルーク,マムルークになった通訳−19世紀におけるマムルーク・システムの遺産」
  • 討論者:北川誠一(東北大学)
  • 司会:松里公孝(北海道大学 スラブ研究センター)
[セッションB]コーカサスのイスラームと帝国権力の遺産 13:30〜15:30
  • 報告者:
    • ウラジーミル・ボブロヴニコフ(モスクワ東洋学研究所)「帝国国境における正統イスラーム法学者の創出:帝政末期とソ連期におけるダゲスタンとロシア領外コーカサスの比較」
    • ミヒャエル・ケンペル(アムステルダム大学)「帝政末期とソ連初期におけるスーフィズムとイスラーム教育:継続と変容に関する研究上の諸問題」
    • 宮澤栄司(上智大学)「トルコのチェルケス人における地域知識の変容:郷里との再遭遇の衝撃」
  • 討論者:アンケ・フォン・キューゲルゲン(ベルン大学)
  • 司会:小松久男(東京大学)
[セッションC]コーカサス空間の構築:想像された「民族国家」15:40〜17:40
  • 報告者:
    • 吉村貴之(東京大学)「祖国の創出:第一次大戦後の近代アルメニア・ナショナリティ」
    • マイケル・レイノルズ(プリンストン大学)「仲介者か兄弟か:第一次世界大戦期における青年トルコの軍事政策と汎チュルク主義神話」
    • トルニケ・ゴルダゼ(バクー・フランス研究所)「ソ連体制下のグルジア民族主義:アクター,新潮流,覇権主義的取引」
  • 討論者:
    • 池田嘉郎(新潟国際情報大学)
    • 藤波伸嘉(東京大学大学院)
  • 司会:秋葉淳(千葉大学)

 報告

去る2008年1月26日、東京大学本郷キャンパス医学部教育研究棟新棟13階第6セミナー室にて、北海道大学スラブ研究センター21世紀COEとNIHUプログラム・イスラーム地域研究東大拠点の共催により、国際シンポジウム「ロシアと中東の間のコーカサスとその住人たち―宗教と国家にむけた行動と考慮」が開催された。これは、日本では初めてのコーカサス研究の総合的シンポジウムであり、4つのセッションからなっていた。


オープニング・セッションでは、オーガナイザーである前田弘毅氏による趣旨説明があり、その後ロナルド・グリゴル・スーニー氏が「文明としてのコーカサス」と題する報告を行った。氏はコーカサスを「価値観、思考、慣習を共有する一つの文化的な場=一つの文明」としてとらえることを提起した。


セッションA「コーカサス空間へのロシアの進出」では、おもにロシアのコーカサス進出と支配が確立される18−19世紀における現地の人々の動態を明らかにする2つの報告が行われた。

ショーン・ポラック報告「友人か敵対者か:エカチェリーナ二世期コーカサスにおける宗教と従属」は、エカチェリーナ二世期に初めて組織的に試みられたコーカサスにおける帝国建設の過程において、宗教的寛容政策がどの程度まで行われたのか、という問いを、カバルダ人の事例に即して論じた。政府は、カバルダ人に正教化を強いることはなかったが、帝国への反抗がイスラームに反するとする論理を貫徹することも出来ず、臣従よりも保護を求めたカバルダ人ムスリム・エリートたちの要望に無理解であり、彼らを帝国の構造に取り込むことに失敗した、と指摘した。

前田弘毅報告「通訳になったマムルーク、マムルークになった通訳−19世紀におけるマムルーク・システムの遺産」は、ソヴィエト民族主義に根ざす議論、ヨーロッパの中東観(オリエンタリズム)双方から看過されてきたコーカサス出身者たちの生涯を取り上げた。前近代において、彼らは中東世界の「奴隷軍人」として活躍する一方、重層的アイデンティティを持ち、ときには通訳という職業を通して諸社会間の仲介者としての役割を果たしてきたが、近代における民族意識の発達と社会の変化の中で、彼らの立場が変化していく様相が具体例をもって明らかにされた。


セッションB「コーカサスのイスラームと帝国権力の遺産」では、イスラームというファクターに注目して、ロシア帝国、オスマン朝(およびトルコ共和国)の支配とコーカサスの現地共同体との関係を解明する3つの報告が行われた。

ウラジーミル・ボブロヴニコフ報告「帝国国境における正統イスラーム法学者の創出:帝国末期とソ連期におけるダゲスタンとロシア領外コーカサスの比較」は、ロシア帝国、ソ連それぞれが、コーカサスにおいてイスラーム「聖職者」を創出しようとした試みを比較した。そこでは両者の共通性はもとより、使用言語の相違、宗務局の編制の相違が明らかにされた。ソ連期における宗教実践が私的かつ非合法の分野にとどまったにも関わらず、反ソ連的性格はなく、むしろ現地ソヴィエト、共産党エリートが積極的に参加していたという指摘は興味深い。

ミヒャエル・ケンペル報告「帝政末期とソ連初期におけるスーフィズムとイスラーム教育:継続と変容に関する研究上の諸問題」は、これまでのロシア語史料のみに依拠した北コーカサスのイスラーム研究を批判し、おもにアラビア語史料に基づいて、シャーミルらのロシア帝国に対する大ジハード期に重要な役割を果たしたのは、スーフィズムではなく、17世紀末から当地に根づいていたイスラーム法学の議論であった、と述べた。また、ロシア革命期の北コーカサスにおける国家建設とジハードの実態、イスラーム法学者の役割や現地民のジャディード運動との関係解明、さらに現代の「原理主義者」の活動に対する見方の再考、といった今後の課題が提起された。

宮澤栄司報告「トルコのチェルケス人における地域知識の変容:郷里との再遭遇の衝撃」は、トルコのアナトリア中部、ウズン・ヤイラ高原のチェルケス人コミュニティにおける報告者の2年近くにわたる文化人類学調査の成果が示された。ソ連崩壊により、北コーカサスが自らの共同体の故地として浮上する過程で、一部の階層(長老層)による知識の独占が崩れ、これまで沈黙を強いられてきた階層(とくに奴隷出身者や若者、女性)が、故地との直接、間接のつながりによって得られた成功を背景に、批判的な意見を述べられるようになったこと、そして同時に新たな沈黙が生み出されている実態が明らかにされた。


セッションC「コーカサス空間の構築:想像された「民族国家」」では、アルメニア、アゼルバイジャン、グルジアという三つの民族国家形成過程について、内的、外的要因の検討を通して新たな視座を提示しようとする3つの報告がなされた。

吉村貴之報告「祖国の創出:第一次大戦後の近代アルメニア・ナショナリティ」は、民族主義政党ダシュナク党主導の第一アルメニア共和国(1918−1920年)と、1920年代のソヴィエト体制確立期との連続性に焦点を当てながら、現在のアルメニアの境域が世界のアルメニア人に「祖国」とみなされていく過程が明らかにされた。ソヴィエト・アルメニアでは、経済再建によって威信を拡大させた共産党が主導権を握り、ダシュナク党は排除された。以後在外のダシュナク党右翼は「祖国」の解放を目指すようになり、彼らは対立しつつも、現在のアルメニア共和国の領域を祖国と見なす点では一致していた、との指摘がなされた。

マイケル・レイノルズ報告「仲介者か兄弟か:第一次世界大戦期における青年トルコの軍事政策と汎テュルク主義神話」は、従来、汎テュルク主義、汎イスラーム主義のイデオロギーに導かれて政策決定を行ったとされる青年トルコ革命後のオスマン帝国による1917−1918年のコーカサス進出を取り上げた。この作戦は、汎テュルク主義によるものではなく、ロシア革命後の混乱にあえぐロシア人が国家を再建する前に、より多くの緩衝国をコーカサスに築こうとする地政学的な意図に基づいた政策のもとに行われた、との指摘がなされた。

トルニケ・ゴルダゼ報告「ソ連体制下のグルジア民族主義:アクター、新潮流、覇権主義的取引」は、グルジアのナショナリズムが強固かつ持続的な社会現象であることを指摘し、それがソ連体制下で形作られたものであると述べた。その上で、ソ連体制下におけるグルジア人行政エリート、知識人が、武力によって当局への抵抗を行った少数の「反乱者」に比べ、より広く持続的な社会的影響力を保っていたことが明らかにされた。


最後にいくつかの印象を述べさせていただきたい。今回はコーカサス研究の最前線を行く報告者たちの発表もさることながら、中央アジア史、トルコ史、イラン史、ロシア史を専門とする討論者たちによるコメントや提言にも注目させられるものがあり、他地域の研究が抱える課題との共有点がいくつか提起されたことは非常に有益であった。今後、他地域に対して提言を発することのできる、より一層のコーカサス研究の蓄積が、日本においてなされていくことが期待されているといえよう。

実際には、進展し続ける欧米における研究をキャッチアップし(とくに今回の報告者ミヒャエル・ケンペル氏の著書も含まれている、ドイツにおける Kaukasienstudien−Caucasian Studies シリーズの出版は注目される)、現地における豊かな研究蓄積を消化し、独自の研究を展開していくことは難しい課題であるが、今回のシンポジウムでは欧米や現地の最前線の研究者との交流、意見交換を通してこうした課題を克服していく方向性が見えたのではないだろうか。

またコーカサス地域研究の泰斗であり、昨年2007年にはケンブリッジ・ロシア史の編者の一人ともなったロナルド・グリゴル・スーニー氏を迎えられたことは、非常な驚きと感動を呼ぶものであった。氏の招聘に尽力されたオーガナイザーの前田氏に敬意を表したい。
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