出口 剛司(社会学)

今に至る自分の人生で、選択とか、決断とか、それを可能にする複数の選択肢や可能性などあったのだろうか、と振り返ると、答えは否です。もちろん、後から振り返ると、これ以外のさまざまな可能性も思い浮かびますが、人生それぞれの地点に立ち帰ると、やはり歩んできた道以外の選択はなったように思います。しかしだからこそ、自分の思いや夢や願望が形にならない挫折感や絶望に捕らわれることも、人一倍多かったように思います。そういう私の生き方をあえて言葉で表現すれば、「敵前を、大事なものを抱えてきわどくすり抜けていくやり方」と言えるかもしれません。こうした選択をしない巧みな逃げの生き方は、熟慮の上の選択、いさぎよい決断から見ると、多分に恥ずかしい、姑息な生き方かもしれません。しかし、目まぐるしく変化する世界で生き抜くためには、こうした、誇られはしないが役に立つ生き方が必要ではないのかとさえ思うのです。

父はいわゆる典型的な日本企業のサラリーマンで、物心ついたころから転勤のたびに引越しと転校を繰り返しました。転校二回、三つの小学校に通いました。転校のたびに、住居がかわり、通学路がかわり、先生と友人がかわり、SNSがない時代ですから、一度分かれた友人と二度と連絡を取ることはありませんでした。そうした中で、今でも私の中によみがえってくるのは、今体験している風景はすべて短期間のうちに姿を変えてしまう、たしかなものは自分の中にしかない、という強烈な感覚です。

地元の公立中学に通い、高校は家族とも別れ3年間の寮生活を送りました。この時期に私が求めていたのは、何か確実なもの、変化しないもの、永遠の相の下で世界を体験することでした。どこで買ったか記憶は定かではありませんが、ヘルマン・ヘッセの「郷愁」という小説を手に取り、むさぼるように読みました。話は非常に単純で、主人公のペーター・カーメンチントが自然豊かなアルプスの生まれ故郷を離れ、友情、恋愛、遍歴を繰り返し、最後は故郷に戻り、故郷のために生きる決意をする、というものです。地元を離れ寮で生活する私の境遇と、自然豊かな故郷を離れギムナジウム、大学へと進む主人公の姿と重なったのかもしれせん。しかし、この作品の題名こそ事柄の本質を表わしています。本来のドイツ語のタイトルは「ペーター・カーメンチント」であり、気の利いた「郷愁」(新潮文庫)「青春彷徨」(岩波文庫)は、日本語訳者がつけたものにすぎません。むろん、私はこの気の利いたタイトルに魅惑されたのですが。

大阪内出身の父母の下で、大阪のど真ん中で育った私には、そもそも自然豊かな故郷など存在しません。その意味では、主人公が経験する郷愁というものを私が真に体験できるはずはないのです。しかしどうでしょう。本物の故郷を知っている人は、故郷のいやな面もよく知っています。自然の過酷さ、農村に特有のしがらみ、人間関係、権威主義、狭い世間の圧力などです。その意味で、郷愁とは本当は故郷への思いなどではなく、理想化された「どこにもない場所=ユートピア(U-topia)」への憧れにすぎず、その場所なき場所を本来帰るべき故郷に見立てているにすぎないのです。しかしその一方で、この「郷愁」ならぬ「ペーター・カーメンチント」の世界が、私の内面の想念に明確な形を与え、広大な世界を作り上げたのは間違いありません。地元に帰ってこの物語世界を隈なく探求することが、いわば当時の私にとって必然の道であり、そこには他の選択など入り込む余地はなかったのです。

しかし結局、受験という現実の中で、そうした道にすすむことが、私にはできませんでした。これも選択の余地のないことです。結局、再び地元を離れて上京し、社会学の世界に進むことになりました。しかし、作品によって明確な形を与えられた私の中の「どこにもない場所」は、自分を取り囲む世界が変化しても、希望の道でなくとも、強く残り続けました。回りの風景が変われば変わるほど、引越と転校を繰り返したときのように、「大事なもの」はいっそうくっきりと心に浮かび上がってきたように思います。むしろ、自分の内面にこうした世界を植え付け、しかもその実現を阻害する「心の闇」と「社会の謎」を解明する必要=必然性が私の中に芽生えたようでした。こうして私は必然的に自分が学ぶことになる「社会学」という学問と正面から向き合うことになります。

しかし「正統な社会学」というのは、社会現象を表現する客観的なデータ、指標、資料を収集・分析することが任務です。外の世界はいずれ姿を変えてしまうという感覚をもっていた私は、それを本気で追求する気持ちにはなれませんでした。そうした中で出会ったのが、今の研究テーマであるドイツ批判理論です。もともと国家や国土という故郷をもたないドイツ系ユダヤ人たちが作り上げた理論、疎外された現実社会を乗り越え、その向こう側にある(はずの)ユートピアに希望を託し、それを実現しようとする理論です。作品を通して形成された「どこにもない場所」は、作品という具体的な形象を失い、けっして実在はしないがめざすべき理想、自由・平等・連帯が実現する社会となりました。現実(事実)と理想(規範)の中で社会の病理を解明し、あるべき社会を構想する。これが今の私がめざす、いわば「異端の社会学」です。

最近は、まるで主人公ペーター・カーメンチントのように、自分が生まれ育った戦後日本の社会学に立ち帰り、その業績を海外に紹介するという仕事にとりかかっています。彼らの著作を読み始めたときに、「敵前を、大事なものを抱えてきわどくすり抜けていくやり方」(栗原彬)という言葉と出会いました。選択は、必ず何かを捨てることです。取捨=選択を拒否した私の生き方は、目まぐるしく変化する状況の中で「敵前を、大事なものを抱えてきわどくすり抜けていくやり方」ではないかと思うのです。そしてこの「大事なもの」はその姿を変えながら、どんな成功した選択よりも人を強くしてくれるように思うのです。