塚本 昌則(フランス語フランス文学)

世の中には、迷いのない人というのがいる。私が所属するフランス文学研究室では、かつて同僚だった二名が、中学生の時すでに将来仏文学者になると決心していたと言った。私はといえば、まったくの偶然からこの世界に迷いこんだとしか言いようがない。迷いのない人には参考にならないだろうが、選べず、ため息をついている諸君に少しでも役に立ててもらえればと思い、仏文学に辿りついた私の個人的な道のりをここに述べてみようと思う。

自分の進路を具体的に決めていたわけではないが、何か漠然としたイメージは持っていた。今、思い返してみると決定的だったのは、駒場文Ⅲで、強烈な個性をもった仲間たちと出会ったことである。この時知り合った仲間たちの目標は、作家、詩人、作曲家、指揮者、画家、精神分析医になることだったが、学者になろうという者は一人もいなかった。みな好奇心にみちあふれ、毎日がお祭りのようだった。当時話題となっていた本を手当たり次第に読んで議論し、また会話に出てくる映画、芝居、美術展、演奏会に行くことに忙しく、とても前期課程の勉強をするどころではなかった。創作活動の輝きに触れつづけていたいという、言ってみれば魂のあり方がその時決まってしまい、それ以来この方向だけは変わらなかった。

問題は、魂が成し遂げたいと思うことと、ある専修課程を選ぶということが、どうしてもぴったりとつながらなかったということである。ドストエフスキー、フォークナー、カフカの小説、ニーチェの断章、デュルケームの自殺論など、好きなものを個別に挙げることはいくらでもできるが、それを自分の進む進路と結びつけることができなかった。それらの作品を個別に研究したいというより、そうした養分を吸収して自分なりの世界を創りたいというのが本音だったのだろう。しかし、自分で実際に一冊の本を書くために、どれほどの時間と労力がかかるのかまるでわからずにいるときに、わずかな時間で作品が創れる天才のような仲間たちと付き合っていると、自分に何の才能もないことを思い知った。自分の平凡さを短期間で悟ることができるところが、駒場のすばらしい所ではないかと思う。

結局仏文科に進んだが、どうしてそれまで熱心に学んでいたドイツ語ではなく、わずかしか勉強していなかったフランス語を学ぶ学科に進学したのか、自分でも不可解である。作曲家の卵だった友人(後に本物の作曲家になった)に、三善晃、セゼール、フォーレのヴァイオリン・ソナタやドビュッシーのピアノ作品を教えてもらい、それまで知らなかった文化のあり方に惹かれるようになったということはある。仏文学科では何をしてもいいという自由な雰囲気があると聞いていたことも動機のひとつだったかもしれない。要するに何か決定的な考えがあって決めたというより、何の考えもないまま迷いこんだと言ったほうが正確である。

しかし、それが自分にとっては、第二の誕生のようなものとなった。単純に言えば、フランス語で書かれたものを読み、自分でもフランス語で書くことがいつのまにか楽しくなっていた。そうなるまでに時間がかかったことは確かだが、仏文科で勉強しているうちに、魂が進もうとする方向と個別の作業がばらばらであるという異和感もなくなった。知らない言語を学ぶことは、単に文の構造を理解し、言葉の意味を日本語に置き換えるだけではすまない作業である。それは日本語だけで暮らしていた時には思いもよらなかった考え方に触れ、ある思考のスタイルを実践する作業である。誇張して言うと、異なった言語を介して、別の人間を演じるようなところがあるのだ。

フランス語には少し極端なところがあり、レポートひとつを取っても、一定の型にしたがって書かないとまったく評価されない。十分に使いこなせない言語をたどたどしく使いながら、外から強制された形式にしたがって書くという練習は、私にとってはむしろ快楽となった。内容から始めるのではなく、型から入ってゆくというのは、考えてみれば日本人にとってはなじみ深い身振りではないだろうか。自分の何もない内面から何かをひっぱりださなくても、形式にしたがうことによって何かができてゆくという感覚はとにかく新鮮だった。作業をすることで初めて姿をあらわす自我というものがあり、フランス語には言葉を介したそうした自我の現れをどんどん奨励するところがある。自分で論文を書くようになると、その形式的なスタイル(ディセルタシオン)を破壊する必要性を痛感したが、さまざまな素材を頭にたたきこんで、それらを組み合わせることで何かを生みだすという作業自体は結局その後ずっとつづけていくことになる。魂の方向を活かすために必要なのは、日々実践し、新しい発見を可能とする作業の仕方を覚えることだったのだと、今にして思う。

研究者の数が多く、高度な専門研究でしのぎを削っている分野では、そんな悠長なことを言っていられないかもしれない。その場合には、最初から専門研究に特化した訓練が求められるのだろう。しかし、仏文学では、初修外国語であるフランス語の習得に励むという共通項以外、何でもありである。そのままフランスで通用する専門研究だけでなく、ほとんど仏文という枠組みとは関係のない作家、映画監督、アカデミック・ジャーナリストの活躍も高く評価されている。その両者を許容する風通しの良さが自分には合っていた。

時代の流れもあった。一九八二年から二年ほどパリに私費留学したが、進学が数年早ければ、狭き門の奨学金試験に合格しない限り渡仏できなかったかもしれない。石油ショックの余波からなかなか回復しなかったヨーロッパと、バブルに向かう日本というコントラストのなかで、一九八〇年代初頭、フランスの通貨(当時はフラン)が劇的に安くなり、東京で下宿生活をするのと同じ生活費で留学できるようになった(一九八〇年には一フラン六〇円だったが、一九八二年には四〇円、一九八四年には三〇円を切っている)。今はまったく別の要因でヨーロッパに渡ることが難しくなっている。しかし、オンラインでの交流が急速に発達しているのだから、まったく新しい可能性が開けていることは確かだ。

進振りで迷っている学生には、新しい言葉を学ぶことで、それまで知らなかった自分と出会うことができるという大いなる楽しみがあることを改めて強調しておきたい。