福井 玲(韓国朝鮮文化研究)

私は1976年に理Iに入学しましたが、進学振り分けで文学部言語学科を選びました。まず、それまでの経緯を書いてみます。私は岐阜県飛騨地方の小さな町で生まれ育ち、高校は高山市にある県立斐太高校に通いました。毎朝、6時半に家を出て、駅まで自転車をぶっとばして汽車に乗り、ちょうど1時間鈍行にゆられて、高山駅でまた自転車置屋に預けてある自転車に乗って通学するという生活を3年間続けました。冬はどんな雪道でも自転車でかき分け、吐く息は髪の両側で白く凍り付くこともありました。自分の人生の中でも最も勤勉な時期でした。理Iを受けた理由は、高校時代に物理学の啓蒙書を読んで憧れたり、また担任の数学の先生に教育熱心な方がいたかもしれません。しかし、その当時でも数学はそれなりに勉強したわりにはあまりできず、むしろ英語や国語のほうが得意だったような気がします。そのことは後に文学部に進学したことと関係があるかもしれません。

さて、東大入試で理Iを受けたわけですが、案の定、二次試験の数学の成績が惨憺たるものだったので、絶対落ちたと思ったのに、不思議にも受かっていて、東京に来ることになりました。しかし、教養課程の授業を受け始めると、理系の科目はどれも敷居が高く、田舎から一人で出てきて友達もいないし、どう勉強したらいいのかも分からない私は途方にくれていました。ただ、語学はそれなりに好きで、第2外国語のドイツ語以外に、フランス語やロシア語を勉強してみたり、ある年の夏はふと思い立ってラテン語を独習してみたり、また、文学にも関心があって、あるときは1か月間部屋に閉じこもってドストエフスキーを次から次へと読みふけったりしていました。そうやって進学振り分けを迎えましたが、その頃には文学部進学は自分の中では自然な選択となっていました。そして文学部のどこにするかについては、言語学科と英文科の2つを候補に考えたことを覚えています。そのうちで言語学科を選んだのは、英語以外にいろいろな言語に関心があったこと、そして自分自身の方言についても関心があったことが理由だろうと思います。

次に、私の言語への関心について述べます。言語への関心で第一に思い浮かぶことは、自分自身の方言(飛騨方言)のことです。それほど全国的には知られていませんが、特徴としては、東京式のアクセント、さまざまな文法的特徴は関西と共通するものが多い、名古屋に近いが名古屋弁とは少し異なる、といった点です。後から勉強したことですが、それらの特徴の多くは室町時代ごろの京都などの中央方言に存在したものが、西と東に分かれて同心円状に残存している場合が多く、飛騨方言はその東の端にあたるということです。例えば、「話いた(話した)、落といた(落とした)」などの所謂サ行イ音便、進行を表わす「~しよる」と結果状態を表わす「~しとる」の区別、敬語の中では尊敬の本動詞・補助動詞として「ござる」を使うこと、などです。高校時代まではどっぷりとそういう言葉の中で暮らしていたので、東京の言葉は40年以上たった今でも苦手です。

さて、言語学科に進学して、それなりに勉強を始めましたが、言語学の中でも関心の持てる分野と持てない分野がありました。音声学、歴史言語学、比較言語学には関心がもてましたが、なぜか当時流行の生成文法にはあまり関心が持てませんでした。それから、自分自身の方言への関心からなのか、日本語の歴史や起源といった問題にも関心がありました。ちょうどその頃、服部四郎先生が大修館発行の『月刊言語』という雑誌に「日本祖語について」という長大な連載論文を発表されていて、その間接的な影響もあったかもしれません。しかし、勉強のしかたと、関心の持ちかたに一貫性がなくて、この時期もいろんな意味でさまよっていました。ある程度自分のやりたいことが定まってきたのは大学院に入ってからです。修士のときに上野善道先生が赴任してこられたの機に、修士論文は日本語のアクセントに関して方言間の比較を行う研究をテーマにしました。その中で、従来の日本語アクセントの歴史的研究では2拍名詞が中心になっているのに対し、3拍名詞は東京・京都・鹿児島などを除くと各地の方言についてデータ自体がほとんどないことを知って、約3か月間、日本全国を旅して調査をしました。その資料は今となっては貴重なものなので、なんらかの形で公表したいと思っていますが、資料収集にあまりに時間がかかり、それを用いた論文としての考察はまったく不十分なものでした。

博士課程に進んでからは、視野を広げるために、日本の周辺の諸言語、アイヌ語、琉球語、韓国語(朝鮮語)の勉強を始めました。その中で特に韓国語の方言の中には、日本語と似た声の高さによるアクセントが存在すること知り、とても関心をひかれました。そうこうするうちに、韓国政府の奨学金がもらえることになって1984~1986年の間、ソウル大学に留学することになりました。そこで、韓国語の歴史的研究でもっとも著名で、欧米でもその名が広く知られていた李基文先生が指導教授になってくださり、その他にも非常に優れた先生方に習うことができました。もっとも私はたくさん授業をとるよりは、毎日のように図書館や古本屋に行って、韓国語の歴史的研究のための古い時代の資料を見たり、その影印本を集めたりする方に時間を費やしていました。ソウルの中心部にある仁寺洞という、今はすっかり観光地になっているところにあった一軒の古本屋のご主人と親しくなり、その埃っぽい小さな店の奥にしまってある15世紀の貴重な文献を見せてもらって、しばらくそれを筆写しに通ったりもしました。ともあれ、そうやって韓国語の歴史的研究が自分の中心的な研究分野となりました。韓国語は、歴史的な資料は日本語のように古いものはあまり多くないのですが、言語体系自体が、きちんとした形態音韻論的考察を行わなければ文字化もしにくい(だからこそ、ハングルという文字体系は15世紀にやっとできたともいえます)特徴をもっており、逆にそこから、言語学でいう内的再建という方法で古い時代のことを知ることもできて、歴史的研究をやるうえでは非常に興味深い言語です。

最近、定年が近づいてきて、もう一度日本語についての研究ももう一度やりたいと思っていますが、ともかく、不器用ながらも自分のやりたい研究ができたことはよかったと思っています。