私の運命の転々々々機の記

水島 司(東洋史学)

人生の転機をもたらす運命にもいたずらがあるらしいが、インド研究に携わることになったのも、いたずらが幾つも働いたからである。

入学した1981年の夏休みに、団体旅行でインドに行った。特にインドに行きたかったわけではない。ロシア語クラスの同級生と、夏休みにとにかく海外に行こう、と、新聞にあった3週間のユーゴ旅行の広告を切り抜いた。ところが同級生がドタキャンを宣言してしまい、それで広告の下段にあった同期間・同料金のインドツアーに申し込むこととあいなった。ちなみに、御本人は、卒業後商社に入り、ユーゴに5-6年間駐在した。同級生というのは、ろくなものではない。

さて、インドに向かったが、その年は、東パキスタン(現バングラデシュ)の独立闘争の真最中。カルカッタのダムダム空港から町へ向かう途中、道路の両側は東パキスタンからの難民テントで埋められていた。80年代の初めの東京大学は、紛争から時間が経過していたが、しかし、学費値上げ反対闘争があり、駒場のキャンパスが封鎖され、かなりの期間授業がなかった。また、大学紛争は冷めてしまっていたものの、内ゲバの激しい時期であり、私の知っている運動家も殺害されてしまった。かなり陰惨な時期であった。しかし、それと、数十万人の人々が戦火を逃れてテント生活を送るのとは、レベルが格段に違う。

インドのツアーも、それはそれで、18才の身にとっては衝撃の体験の連続であった。ベッドのある部屋に行く着くまで幾つもドアを開けなければいけない、とんでもない格式のホテルがあるかと思えば、行く先々で、暗い駅のホームを埋め尽くす布にくるまる人々。とにかく、日本の常識が全く通用しない社会があることを、このツアーは教えてくれた。

こうして、ツアーの選択と独立闘争という二つのいたずらで、インド研究をやってみようかということになったのだが、さらにいたずらが重なる。本郷の東洋史に進学しようとしたところ、辛島昇先生が東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)から東洋史に転任されることになったのである。実は、先生の奥様は、私の10才上の姉と高校の同級生で、私が幼稚園の頃に、私の実家に頻繁に出入りされていた関係であった(らしい)。私がインド史をやりたいということで、姉から紹介を受け、先年亡くなられるまで、公私ともに恩師として指導を受けることになったのである。

インド研究に進むようになった転機は、このようであったが、研究内容に関しては、さらに偶然が重なる。AA研で助手の職に就いたその年に、同研究所の原忠彦教授がリーダーとなり、「南アジア大河流域の研究」プロジェクトが開始されたのである。それまで文献史料によりインド経済史研究を進めてきた私が、文化人類学、地理学、経済学の専門家と一緒に、南インドで村落調査を行うことになったのである。インドの村での生活は、これもまた全てが新鮮でおもしろく、それまでの文書館での史料研究から、現地調査と文書史料を組み合わせた研究に進む転機となった。その後、インドのニールギリ茶園、マレーシアのブルーバリー茶園やカンポン(村落)で調査を行うことになったのも、現地調査のおもしろさと重要性を知ったからである。

さて、マレーシアでの現地調査に触れたが、このマレーシアを調査地に選ぶことになったのも、これも全くの運命のいたずらであった。1980年代の初めのインドは、60年代後半から開始された緑の革命の評価をめぐって大きな論争が展開しており、米作中心の南インドでの村落調査を経験していた私は、小麦を中心とした北インドのパンジャーブ調査を目指し、研究ビザを申請した。ところが、申請して1年を経ても、全く音沙汰がない。丁度その頃、パンジャーブの独立を目指すカリスタン運動が胎動した時期であり、インド政府が、治安を理由にして、外国人の同地域での滞在に深い警戒心をもっていたためである。しかし、調査のための資金を得ていた手前、期限までに出国しないわけにはいかない。やむを得ず、渡航対象国の一つにしていたイギリスで文書館調査に従事したが、いつまで経ってもインド渡航の許可が降りない。スリランカとマレーシアも渡航対象にしていたのだが、スリランカではシンハラ・タミル間の民族紛争が激しく、調査どころではない。結局、向かったのが、何の予備知識もなかったマレーシアであった。

到着後、マラヤ大学に出向いて伝手を得、そこで紹介されたのが南インドからの移民労働者が働く上述のブルーバリー茶園であった。1ヶ月あまり移民調査を行っている間に、ようやくインド政府から、南インドに限っての調査許可が出された。やっと、インドに向かうことができた。なお、マレーシアには、その後しばしば長期の調査に出かけ、イスラム社会についてもそれなりの理解ができるようになったが、そのきっかけは、このような思いがけないいたずらによったのである。

歴史研究と現地調査という組み合わせに、さらにGIS(地理情報システム)を加えることになったのも、偶然の産物であった。それまでの現地調査では、製図ペンと糊付きパターン紙の切り貼りで何枚も地図を作っていた。カッターで、何度指先を切ったことか。そうした時に登場したのが、イスラムの研究プロジェクトであった。その一つの班で、岡部篤行教授をリーダーとする都市工学科のスタッフと組み、GISを応用した地域研究をすることになったのである。毎週、私の研究室で研究会を開いて頂き、GISの歴史研究における有効性を学ぶことになったが、そのことは、その後、科研(S)「インド農村の長期変動に関する研究」や先導的人文・社会科学研究推進事業「アジア歴史空間情報システムによるグローバル・ヒストリーの新研究」へとつながった。ちなみに、その後グローバル・ヒストリーに向かったのも、いたずらによるのだが、この件について書く余白はもうない。

まあ、とにかく、何度人生に転機が訪れるのかは、振り返ってもわからない。今在る所で、何とか生きていく、というのが結論である。