賴住 光子(倫理学)

「私の選択」というテーマで、研究の道に入ったきっかけなどを書くようにとの依頼をいただいた。普段まったく思い出しもしないことだが、せっかくの機会なので、記憶の糸をたぐってみることにする。

その前に、まず「私の選択」という言葉であるが、私にとっては、どうもおさまりが悪い。選択したのだろうと言われれば、確かにその通りなのだけれど、その実感がない。日本倫理思想史という学問分野を研究することになったきっかけは、道元の『正法眼蔵』を読んだことなのだから、道元を読んで選択したのだろうと言われれば、違うとは言えないが、自分の意志で選んだというよりも、道元となぜか出会ってしまったからという方が事態を正しく言い表しているように思う。

大学3年生の頃だったと思う。当時、漠然と日本の思想や文化について勉強したいと思っていたが、何を研究するのかは特に絞っておらず、あれこれと読み散らす状態が続いていた。読んでいてだんだんと分かってきたことは、自分には儒教研究は向いていないということであった。日本倫理思想史研究の主軸の一つは、昔も今も近世儒教であるが、これがどうにも合わない。今でこそ、儒教の多様性に目が開かれ少しは面白く読めるようにもなってきたが、当時は、儒教が前提としている強固な秩序感覚がどうにも生理的に受け付けなかったのだ。

このようにして、自分に合わないものは少しずつ増えていったが、合うものの方はよく分からなかった。そのようなある日、指導教官から、『正法眼蔵』の読書会を始めると聞かされた。道元の主著である『正法眼蔵』については、自分でもぱらぱらとページをめくってみて、なんだか面白そうだと思っていたが、とても、一人では歯が立たなかった。「読書会」というものにも興味があったし、自分の手には負えない『正法眼蔵』について正しい読みを示してもらえるのではという期待もあって、指導教官の主催する『正法眼蔵』の読書会に参加させていただくことにした。

最初に読んだのは、『正法眼蔵』「空華」巻だった。最初の読書会の日のことは鮮やかに覚えている。読書会の会場は指導教官の個人研究室で、そこに入ると、大きな机の上に、さまざまな辞書類や索引類、そして出典を調べるための各種の語録・経典類が、所狭しと積み重ねられていた。その机を指導教官と学生数人が囲み、まず、辞書や索引の使い方を教えてもらった。禅学関係の辞書や索引の中には、言葉が通常の五十音順には並べられていないものもあり、特別な注意が必要だった。そして、『正法眼蔵』を読むときには、索引を使って、言葉の意味を確定しながら読んでいくことが大切なのだと教えられた。また、辞書や解説書に書いてあることは鵜呑みにしないで、必ず、用例などを参考にしながら自分で考えなさいと強く言われた。

この言葉を聞いて私は驚いてしまった。これまで自分が何かを読んでいてわからない時は辞書を引いたり、解説書を読んだりして解決していた。しかし、それが必ずしも役に立たないというのだ。そして、指導教官は、「空華」巻の冒頭の数行を指して、これが今日の範囲だと厳かに宣言した。その少なさに驚いたが、その理由はすぐに分かった。とにかく、分からないのだ。辞書も解説書も必ずしも役には立たないというのもよく分かった。確かにその通りだった。

皆は無言で、その数行と格闘した。索引を使って用例を集め、引用語録を使って出典を調べた。何かのヒントにならないかと、各種の辞書を引き、何種類かの現代語訳にも目を通した。そしてその上で、何か筋の通った読み方ができないかと悪戦苦闘した。

二時間ほどたった時、指導教官の指示で検討がはじまった。皆で、自分の解釈を言い合い討論するのだが、どの解釈もしっくりこない。先生が学生に正しい解釈を示してくれるのではという私の当初の期待は全く肩すかしに終わった。指導教官は、自分の解釈を打ち出しつつも、まだ検討の余地があると匂わせた。ここでも私は驚いてしまった。正しい答えを知っている先生が、学生を教えるという、それまで私が漠然と抱いていた構図が崩れた。

よく分からなかったけれど、道元の言葉は魅力的であった。よく分からないなりに、もし真理というものがこの世にあるとするならば、道元の言葉は、私がそれまでの人生で触れたものの中で一番真理に近い何物かであろうと感じられた。気が付いたら、私は道元と出会っていた。意図的に出会おうとしたわけではないが、私は道元の言葉にすっかり魅了されていた。道元の言葉が分かるようになりたいと心の底から思った。

今、改めて考えてみると、出会ったのは確かに偶然だが、それは必然とも言えなくはない。というは、私が道元の言葉に魅了されたのは、私自身、かねてより、現実の中で流通する言葉ではなくて、現実を超えていく言葉に興味を持っていたからだ。つまり、言葉が現実の社会関係の中で水平方向に働くのではなくて、言葉が垂直に切り立つ瞬間を私は求めていたのだ。高校生のころから詩を読むことが好きだったが、私が詩に求めていたものは、道元の中で純粋に結晶していたのだ。

以上が私の「選択」である。このような個人的な体験が、どの程度お役に立てるのか心もとないが、言葉が垂直に切り立つ瞬間に魅かれる学生がもしいたら、その人へのささやかなエールになれば幸いである。