下田正弘(インド哲学仏教学)

思い出す授業の一こまがある。駒場から本郷に進学した1979年、文学部では学生自治会がしばしば授業のストライキをおこなっていた。法文1、2号館の出入口には自治会のメンバー二、三人が立ち、学生と教師の出入りを妨げていた。はた目からみても教師への干渉は厳しいもので、進学したての私は「参加しえなかった前年度の大会決議など認めない」と主張し、押し問答のすえに建物に入ることができても、結局がらんとした教室で現れない先生を待ちぼうけする日がつづいた。

そんなおり、研究室で3年生に向けた演習授業が予定された日があった。ひさびさに数人の同級生が集まって大きな机を囲み、授業の成立を心配して待っていたら、その教授は監視の目をすり抜けられたらしく、飄としたようすで入ってこられた。まるでなにごともないかのように講義を始められたので、今日は大丈夫なのかと安心して授業に気持ちを向けなおした。と、そのとき、自治会の三人の学生がいきなり研究室の扉を押し開けて入ってきた。先頭にいた女子学生は「いまはストライキ中です。授業をやめてください」と教授を見すえて厳しい口調で言った。一瞬あっけに取られたが、(なに、よし、授業を妨害から守らねば)、単細胞の私は気持が戦闘モードに切り替わり、非礼な学生の乱入に上気した教授と、理論武装万端らしき学生との問答の間隙に、出撃のタイミングを待った。

「なんだ、きみたちは!」「学友会のものです」「どうして授業の妨害をするんだ!」「学生大会の決議で決まったことです」「なんで印哲のような、小さな、貧しい研究室の授業を妨害するんだ!」「そんなこと…関係ありません」学生は一瞬口ごもった。「妨害するんだったら■■学の■■■先生の授業に行きなさい!あの研究室は大きくてお金も力もある!」学生は返答に窮した。先生はそのまま席を立たれ、学生の武装した理論も私の出撃も日の目をみることなく終わった。あれから30年。学生と教師をめぐる環境は一変したけれども、気がつけば研究室の規模にはほとんど変化がない。(もっとも文学部では研究室のあいだに貧富の差などない。)

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全体を一つの質で見とおすことのできた高校生活から、とりとめもなく多様で膨大な専門の集合体である東大に迷い込んで、駒場時代にはつねに所在なさがつきまとっていた。索然としたおもいのままに本郷に進学するとき、巨大な大洋に浮かぶほんの「小さな」島のような研究室を選択したと考えていた。静かに学問に集中するには、対象はばくぜんとせず、小さく鮮明なほうがよいとおもっていた。

けれども時がたつにつれ、事態は予想とはかなり異なっていることがわかってきた。学問の幅とそれを支える研究者の広がりにおいて、ここは大きかった。それは西洋と東洋とが合流して一つに渦巻くような領域で、渦の動きを辿ってゆけば両方の世界が現われてくる。その規模の大きさは想像を超えていて、これがこの分野の一番の特徴らしいと理解されてきた。欧米やアジアから、なぜ研究者や留学生たちがたえず集ってくるのか、進学当初はいぶかしくおもわれたなぞも解けてきた。

ヨーロッパの祖先につながる古代インド世界、そこから現われた世界宗教である仏教の解明が、西洋キリスト教世界の人びとにとっていかに重要な課題でありつづけたか、その研究にはどんな知性が、どの程度に、どのように注ぎ込まれてきたのか、考えるすべさえなかった私は、この学問が西洋の知の光に照らされて生まれ育てられていたことを知ってしんそこ驚いた。その一方で、長大な東洋の伝統にもとづく知性によって表された仏教、そこに潜んだ中国やインドの思想、宗教の世界がある。一つの存在にまるで異なった分割線を引き、異なった世界を出現させる東西のことばと知が照らし合わされるとき、この地上に起きてきた事実は立体的に見えはじめる。思想とは何なのか、知識とは何なのか、この問いにかかわるいとなみが、なにゆえミレニアムに近い歴史をもつ「大学」のなかで継承されてきたのか、その意味が了解されてくる。

変動する時局の影響を直接に被ることのない、長期に持続する知の形態があり、その知によって明らかとなる存在がある。これを明かすのに、かならずしも大きな規模の研究室がふさわしいわけではない。一つの限られた問題を継承する努力と、それを変わらず受け入れつづける、むしろ適正な大きさの場こそがたいせつである。