国際シンポジウム

国際シンポジウム「ヨーロッパ・地中海世界における諸宗教の相剋と融和」

主催:2009-2012年度科学研究費補助金・基盤研究(A)
「ヨーロッパ・地中海世界における異宗教・異宗派間の相剋と融和をめぐる比較史研究」
開催日時=2012年10月20日(土)・21日(日)09:00-18:30
開催場所=東京大学(駒場)18号館大ホール
〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1 京王井の頭線・駒場東大前駅すぐ
使用言語=英語(通訳なし)

プログラム

第1日(10月20日):「近世ヨーロッパにおけるカトリックとプロテスタント」
08:40-09:00 受付
09:00-09:20 開会の辞 深沢克己(東京大学)
09:20-10:20 ミリアム・エリアフ=フェルドン(テル=アヴィヴ大学)
「プロテスタントとカトリックの間―宗教改革期における宗教的寛容の起源」
同報告へのコメント 山本大丙(早稲田大学非常勤)
10:30-11:30 ベンジャミン・カプラン(ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ)
「近世ヨーロッパの境界地域における異宗教の出会い
―オランダ領リンブルフの村落ファールスの事例から」
同報告へのコメント 踊共二(武蔵大学)
11:40-12:40 ロバート・アームストロング(ダブリン大学トリニティ・カレッジ)
「和平調停と宗教問題
―1640年代内乱期におけるアイルランド・イングランド間の和平交渉」
同報告へのコメント 勝田俊輔(東京大学)
12:40-14:00 昼食休憩
14:00-15:00 西川杉子(東京大学)
「郷に入れば郷に従え
―17世紀~18世紀初頭ヨーロッパ大陸におけるイングランド国教徒の礼拝実践」
同報告へのコメント 那須敬(国際基督教大学)
15:10-16:10 グレアム・マードック(ダブリン大学トリニティ・カレッジ)
「隣人付き合いは垣根越しがいい?―近世サヴォイアにおける異端との共存」
同報告へのコメント 踊共二(武蔵大学)
16:20-17:20 坂野正則(武蔵大学)
「17世紀フランスの宗派間対話におけるポール=ロワヤル運動の触媒的役割」
同報告へのコメント 深沢克己(東京大学)
17:30-18:30 ピエール=イヴ・ボルペール(ニース大学/フランス大学研究院)
「学術的交友は宗派間の壁を超えて、エキュメニカルな対話を促進できるか?
―ブレッシャ司教・枢機卿クェリニとプロイセン在住フランス改革派教会牧師
との往復書簡(18世紀)」
同報告へのコメント 深沢克己(東京大学)
19:00-21:00 懇親会

第2日(10月21日):「地中海世界と西アジアにおける宗教的多元性」
09:00-10:00 加藤玄(日本女子大学)
「中世末期ナバラ王国におけるユダヤ人」
同報告へのコメント 宮武志郎(普連土学園)
10:10-11:10 千葉敏之(東京外国語大学)
「帰還という改宗
―フェラーラ=フィレンツェ公会議(1438-39年)における教会合同」
同報告へのコメント 藤崎衛(東京大学)
11:20-12:20 辻明日香(早稲田大学非常勤)
「マムルーク朝期エジプトにおけるキリスト教徒の再改宗
―青いターバンを再び着用することの意義」
同報告へのコメント 黒木英充(東京外国語大学)
12:20-13:30 昼食休憩
13:30-14:30 堀井優(同志社大学)
「オスマン帝国期カイロの宗教的少数派と外来者」
同報告へのコメント 宮武志郎(普連土学園)
14:40-15:40 齊藤寛海(信州大学)
「近世ヴェネツィアの宗教政策」
同報告へのコメント (未定)
15:50-16:50 イネッサ・マギリナ(ヴォルゴグラード在住)
「サファヴィー朝ペルシア王シャー・アッバース大帝の宗教的姿勢
―同時代ヨーロッパ人の証言による」
同報告へのコメント 宮野裕(岐阜聖徳学園大学)
17:00-18:00 レイ・ムアウワド(レバノン・アメリカ大学)
「レバノン山地のドルーズ派とキリスト教徒―宗教的共生の稀有な事例」
同報告へのコメント 黒木英充(東京外国語大学)
18:00-18:30 総括討論および結論

報告要旨

1. ミリアム・エリアフ=フェルドン(テル=アヴィヴ大学)「プロテスタントとカトリックの間―宗教改革期における宗教的寛容の源流」

16世紀と17世紀初期のもっとも優れた思想家の幾人か-エラスムスから、ジャン・ボダンやセバスティャン・カステリョンを経て、クリストフ・ビソルドやその他の多くの知識人にいたる-は、どうすればキリスト教徒内部での宗教的平和が回復できるのかという問題と取り組んだ。しかし、宗教的少数派に対する平和と寛容を唱道したこれらの人々は、一枚岩ではなかった。彼らもまた、〔それぞれの〕「信念(フェイス)に忠実であったがために分裂していた」のである。それは、彼らの「宗教信条(フェイス)」という意味ではなく、寛容の基準や目的に関する各人の信念(ビリーフ)という意味合いのものである。ある者たちは、フランス宗教戦争期のポリティーク派がそうであったが、寛容を、宗教戦争や宗教迫害による荒廃を終わらせるために採用する、その場限りの手段と見ていた。他の者たちは、〔各人の〕信条のアディアフォラ〔二義的問題〕に関する部分は妥協し許容し合うことによって、宗教的統一を回復することができると信じていた。そして一握りの人々―ディルク・コールンヘルトのような―が、良心の自由と信仰の自由を建設的な政策として捉えるという、たいへん急進的な見解を擁護した。それでも、ある一つの問題に関しては、これらの人々の全員が多かれ少なかれ一致していた。すなわち自分の目的に達する唯一の道は、学識に基づく詳細な論文、つまり君主や高位聖職者たちが耳を傾けるような論文を書くことで、支配権力を説得することにある、と。彼らの理想を実現する他の諸手段―世論を動員すること、あるいは現存の権力を転覆すること―は、近世初期の非革命的な知識人には思いも寄らなかったのである。それでも、〔次の〕二人の平和擁護者は、独創的で例外的な提案をした。

エメリク・クリュセの『新たなキネーアス』(1623年)〔キネーアスは、前3世紀のギリシアのエピルス王ピュロスの顧問で、王に征服戦争を止めるよう説いたとされる。クリュセは、自分をキネーアスになぞらえている〕は、最初の真の国際的、世界的な視野に立った平和計画であり、それぞれが複数存在する政治的実体、宗教、信条、慣習を従容として受け入れるものであるが、彼の強調点は商業にあった。彼にとって商業とは、壮大なる計画全体のための手段であり、またその目的でもあった。彼が意図したのは、世界全体を一つの共同市場とみなすことであった。クリュセの理想は、彼がおそらくは修道士であり、またカトリック同盟のもっとも好戦的な指導者の一人、ウダン・クリュセの息子でもあったので、いっそう驚くべきものである。しかし、彼の着想は独創的であったにもかかわらず、彼もまた―同時代人のすべてと同様―、自分の希望を君主たちの善意に委ねざるを得なかった。

他方、フランチェスコ・プッチの『あるカトリック共和国のかたち』(1581年)は、変化をもたらす要因についての考え方が真に例外的なものであった。プッチの構想の全体図においても支配者たちがまだ重要な役割を果たしてはいるが、その役割は〔それまでのものとは〕異なっていて、要因の一つにしか過ぎなくなっている。彼の描くキリスト教共和国は、一つの前衛、すなわち人民の中から選ばれた人々からなる集団が、秘密のネットワークによって組織化されて、偉大なる改革の準備をするというものである。この秘密結社の成員は、すべての国々のエリートの中にいる潜在的な同調者を仲間に引き込むという緩慢で、骨の折れる秘密の企てに、生涯をささげることになっていた。この高邁な共和国にひとたび十分な人数が揃うと、彼らは、支配者たちに聖なる評議会を招集するよう説得するが、この評議会は、神によって活力を吹き込まれて、悪しき高位聖職者の抵抗を打ち破ることのできるものであり、すべての論争に決着をつけて、本当にキリスト教信仰を改革し、すべての人間を一つの理性的で自然的な宗教において団結させるはずのものである。それ以後は、平和と協調が支配し続けるであろう。

プッチの経歴を追う近代の歴史家は、16世紀の最後の三分の一の時期に彼が行った、興味深いヨーロッパ旅行を知ることができる。このフィレンツェの元商人の哲学者は、すべての体制派から異端者とみなされた。宗教的調和を探求して、彼はバーゼル、イングランド、ネーデルランド、ポーランド、プラハ、トランスシルヴァニアを巡り歩き、そのどこにおいてもありとあらゆる宗派の人々と係わり合い、その指導者たちと論争して、最後には彼らのすべてと喧嘩してしまった。カトリックに戻ろうとして、ローマの異端審問所の一つの牢獄に入れられ、それから斬首された(1597年)。彼の足跡をたどることで、近代の歴史家は、宗教的和協派、非宗教的中間派、秘密結社および急進的宗教改革派の人々が構成するヨーロッパ世界を見て回ることができるのである。

2. ベンジャミン・カプラン(ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ)「近世ヨーロッパの境界地域における異宗教の出会い―オランダ領リンブルフの村落ファールスの事例から」

宗教改革時代のヨーロッパの教科書的イメージは、大多数の人々は異なった信仰をもつ他者と接触をもたない場所というものである。しかしこのイメージは崩れつつある。ますます多くの研究が示しているように、宗教的多様性を直接的に経験していたヨーロッパ人はかつて考えられていたよりも数百万人は多かったのである。それはとくに国家間の境界地帯の現象である。近世ヨーロッパには公認宗教の異なる国家間の政治的境界が何百も存在していた。そして異なる信仰をもつ人々がこれらの境界を越えて出会い、ある種の共存を実現していた。しかしながら宗教的寛容を論じる歴史家たちは、おおむねこの現象を無視してきた。

オランダ領リンブルフの村ファールスのケースは、境界地帯の共同体における宗教生活の特徴を如実に示している。ファールスはオランダ共和国(公式にはカルヴァン派)の境界線がスペイン・ハプスブルク領ネーデルラント(カトリック)および神聖ローマ帝国(とりわけ帝国都市アーヘン)の境界線と交わる場所にあった。ファールスはその中心部に10~12の世帯しかない小さな村であったが、そこには5つの異なるキリスト教のグループに属する教会があった。すなわちオランダ語話者・ドイツ語話者から成るカルヴァン派教会、フランス語話者(ワロン語話者)から成るカルヴァン派教会、ルター派教会、メノー派教会、カトリック教会の5つである。これほど多くの教会があった理由は、隣接するカトリック諸地域に住むプロテスタント非主流派に礼拝場所を提供するためである。彼らは定期的に越境して礼拝に出ていたのである。

皮肉なことにファールスの住民の大多数はカトリックであった。よく知られているようにオランダ共和国は公式にはカルヴァン派であったが、現実にはさまざまな宗教的マイノリティを寛容の対象にしていた。カトリック教徒が住民の多数を占める地域もあった。とくにファールスのあるオーファーマース地方を含む連邦直轄地がそうであった。したがってアーヘンやリンブルフその他の隣接領域では、カトリック支配のもとでプロテスタント少数派が暮らし、オランダ領オーファーマースではプロテスタント支配のもとでカトリック住民が暮らしていたのである。

境界の両側に宗教的非主流派が集中して住んだのは偶然の結果ではない。ファールスおよびその周辺におけるプロテスタントとカトリックの関係を探ることによって明らかになるのは、「支配者の宗教、その地に行われるcuius regio eius religio」の原則すなわち支配者は臣民に正統的宗教を強制できるという原則が現実には貫徹さていなかったことである。またとりわけ政治的境界の近さが宗教的非主流派に自由を与え、生存および礼拝を容易にしていたことである。

3. ロバート・アームストロング(ダブリン大学トリニティ・カレッジ)「和平調停と宗教問題―1640年代内乱期におけるアイルランド・イングランド間の和平交渉」

17世紀半ばのイングランド、スコットランド、アイルランドの3国は、十年以上の長さにおよぶ内戦をそれぞれ経験した。これら3王国はどれもチャールズ1世を君主とする同君連合だったため、それぞれの国における対立は隣国内の対立とも絡み合っていた。どの場合でも、対立は政治的であると同時に宗教的にも形作られていたのだが、実際のところ、宗教上の考えの違いを埋めることができなかったことこそが、対立の平和的な解決を妨げたのだ、とこれまで考えられてきた。イングランドは、内戦のほぼ1世紀前に独特の形で宗教改革を実現していたが、内戦は、宗教改革を再開し一層推進しようとする者たちが国王に戦いを挑んで起こったものだった。スコットランドはイングランドよりも徹底的な形で宗教改革を行った結果、ある種の国民共同体が成立し、国王が彼らの信仰をイングランド流のものに近づけようと試みた際には、これを拒絶することになったが、このことが宗教および国制上の革命の引き金を引くことになったのである。アイルランドでは、イングランド式の国家教会を国民教会としようとする試みは、人口の大半を占めるカトリック信徒によって拒絶され、彼らは1642年までには、国王への忠誠は言明しながらも、独自の政府を構成するに至っていた。

本論の出発点として、意外に思われるであろう二つの観点を提示しよう。第一は、歴史家たちは、内戦の開始と継続の理由にばかり注意を払い、この時期に和平実現に向けてなされていた努力にははるかに少ない関心しか向けてこなかった、ということである。第二には、ヨーロッパにおけるカトリックとプロテスタントの分断は先鋭で、時として暴力をはらむものでもあったにも関わらず、アイルランドでカトリックのアイルランド人とプロテスタント君主との間でなされた和平交渉は、イングランドでなされた、ともにプロテスタントで同一国民の間の和平交渉よりも、明らかに成功していたのである。なぜそうなったのかに答えようとすることによって、宗教戦争が各地で見られた時代における和平と宗教的和解についての一般的な形の問いを導くことになるだろう。

本論では、3王国それぞれでなされた和平交渉の細部、あるいは交渉当事者が取り組もうとした個別の問題には立ち入らずに、和平を可能とする条件のいくつかを検討する。というのも、対立していたグループのそれぞれ――王党派、アイルランドのカトリック同盟、イングランドの議会派、スコットランドの国民盟約派など――は、かれらの主張が生み出された経緯と、またその目的を説き明かすためのナラティヴを作り出していた。そうしたナラティヴは、それぞれ相異なる宗教的アイデンティティに根ざしていたのだが、永続的な和平を実現するためには、こうした異なるナラティヴが共存可能となるように互いに折り合いをつけさせつつ、また同時に和平交渉とその結末の全体について双方が共通理解を持てるようにするための方策を見いだす必要があったのである。

こうした和解はどのような場合でも、カトリックやアングリカン、あるいはピューリタンといった特定の信仰やその願望ではなく、許しや改悛あるいは正義といった、もっと基本的なキリスト教の観念に根ざしていることが必要となる。本論で見るように、例えば教会堂を相争う教派のうちどれが用いるべきか、あるいは司教・主教の権威をどう定めるかといった宗教的難題を乗り越えるために、こうした基本的な原理が登場し活用されたことは事実である。こうした原理は、国王の宗教には賛成しないものの彼に臣民として仕え続け、そうして逆に国王の保護も受けるという意味での「不同意的忠誠」を可能とすることになった。その一方で、信仰についての根本的な認識が、和平を阻害することもあった。神聖な義務として正義を推進しようとすることが、和平条項から寛大さを失わせる可能性があったし、また多くの者にとって、単一の信仰が国民に一体性をもたらし社会平和も維持する良きキリスト者の共同体という観念は、それよりも裾野は広いが寄せ集め的な、競合する教派の妥協よりも魅力的だったのである。

すなわち本論は、相争う集団が自己と相手方を解釈するために用いた基本的な宗教的観念について、またこうした観念が3王国における和平実現の試みに作用した正負の両側面について、検討するものである。

4. 西川杉子(東京大学)「郷に入れば郷に従え ―17世紀~18世紀初頭ヨーロッパ大陸におけるイングランド国教徒の礼拝実践」

本報告は、17世紀後半から18世紀初頭の時期における、海外滞在中のイングランド国教徒による礼拝実践を分析し、彼らが滞在地の体制教会をどのようにみていたのかについて解明を試みる。ローマ・カトリック諸邦においてはすでに17世紀初頭から、イングランド商人が「イングランドの祈祷書を用いる権利」、「ミサに参加しない権利」「路上で聖体を掲げた行進に出会っても跪かなくてもよい権利」を繰り返し要求していた。また、リスボンやポルト、さらに後にはリヴォルノにおいても、イングランド国教会のチャプレンを確保するためにイングランド居留民は18世紀初頭まで現地当局に対する運動を続けた。これに対してプロテスタント諸邦においては、大使公邸など一部の限られた場所以外ではイングランド国教会の礼拝ができなかったにもかかわらず、17世紀を通してチャプレンの不在は問題にならなかったようである。ただし若干の例外はあり、たとえば、イングランド内乱に際してジュネーヴにおけるイングランド亡命者の集団が、当局に英語による礼拝を求めている。

海外における大部分のイングランド国教徒は、プロテスタント諸邦に滞在している間は、滞在地の体制教会の礼拝にそのまま参加していた。彼らは、その土地の体制教会が「改革派の」伝統に則っている限り、その体制教会を信奉するという考えを受け入れていたように思われる。1680年にパリ郊外シャラントンのユグノー牧師は、ロンドン主教ヘンリ・コンプトンへの書簡のなかで、「体制教会(大文字のChurch)に分ち難く結びついていることは、貴方の王国[イングランド]における改革派信徒の義務である」と述べている。さらに、滞在先の異邦で礼拝に参加することは、プロテスタント諸派の融和に貢献するという考え方もあった。少なくとも、ヨーロッパ大陸においてイングランド国教会に則った礼拝の場を設立しようという試みは、名誉革命後まで現れてこない。

本報告は、ロッテルダム、アムステルダム、ジュネーヴの三都市において、イングランド国教会に則った教会堂建設の試みを検討する。この教会堂建設の推進者たちは、企画がプロテスタント利害強化に結びつくと主張し、実際に、三都市の地元民の支持を取り付けていた。しかし、母国においては、強い反対が起こっていのである。反対者たちは主にソールズベリ主教ギルバート・バーネットのような広教会派であり、教会堂建設は、異邦のプロテスタントにイングランド国教会を強要することに他ならないと主張した。結局、ロッテルダムとアムステルダムの教会堂は建設されたが、ジュネーヴでの計画は1714年ハノーヴァ朝成立前後に、唐突に破棄されることとなった。本報告ではこれらの教会堂建設計画を検証し、対象時期の宗教的政治的思潮の変化を考察する。

5. グレイム・マードック(ダブリン大学トリニティ・カレッジ)「近しき仲にも垣を結え近世サヴォワにおける異端者との共存」

近世ヨーロッパの大多数の人々は「異端者」と隣り合わせでも集団的暴力に訴えることなく暮らしていた。いかにして異端の隣人と平穏に共存していくのか、ヨーロッパ大陸の多くの地域で、社会的学習が表立つことなく積み重ねられていたのである。このような民衆の宗教的多元性に関する社会史の重要性を認識することは、寛容の展開に関する修正主義的研究史に貢献してきた。近年の研究は寛容思想の誕生神話を放棄し、より寛容な未来へと導く先達としてみなされてきた著名な知識人の意義を削減している。本報告は、異端の隣人に対する普通の人々の態度に焦点を絞るが、これによって寛容思想の歴史の新しい英雄を求めたり、近世社会における普通の人々の果たした役割を強調しようと試みるものではない。本報告が示唆するのは、民衆の宗教的多元性は聖職者に影響され国家の法の枠にはめられるが、同時に、社会・経済的文脈と環境によって形成されるという点である。とどのつまり、この時代、異端への不寛容は美徳とされたが、常に異端を排斥する余裕など民衆にはなかったのである。

本報告は、十七世紀のある農村共同体の日常生活のなかにいかに競合する宗教的帰属意識が埋め込まれたのかを分析することによって、上述の議論を押し進めたい。考察対象となるのはシュレという村落の宗教生活である。シュレの支配者は、サヴォワ、ベルン、サヴォワ、ジュネーヴそしてサヴォワと代わり、そのため近世の大半の時期において村民はカトリックとカルヴァン派に分裂していた。本報告では、この小さな共同体が、その宗教的多元性を許した特定の政治的・法的枠組みにいかに応じたのかを明らかにしよう。そして、諸教会の礼拝様式と出席傾向、洗礼、名づけ親および結婚相手の選択について残存する史料を分析してみよう。さらに村落内での改宗の例を検討し、職業的世界と社交関係の規範を再検討しよう。本報告が示すのは、競合する宗教的帰属意識はシュレにおいては切実なものであったが、同時に混みいった方法ながら抜け穴も存在した。なかでも際立つのは幾人かの女性だが、普通の人々でも宗派的境界域での暮らしから利点を見いだすことができたし、自分たちの宗教生活をある程度裁量することができた。概して異なる宗派の隣人との日常的交流はほとんど暴力とは無縁であったかもしれないが、シュレは宗教をめぐる社会的分裂と暴力から免れていたとは言いがたい。十六世紀から十八世紀まで、親密なしかし時おり紛争に悩まされたこの多元的共同体は、その社会的諸関係の性格を変えることなくシュレの地に存続した。宗派的統一の理想を押し進めようとする聖職者や国家の努力もまた継続し、結局、民衆の頑迷さよりもエリートの不満のほうが、シュレの宗教的多元性を保とうとする錯綜した試みにとって、最大の脅威となった。それゆえ、この農村共同体の宗教生活についての緻密な分析は、近世ヨーロッパ各地でみられた宗教的共存の様式の重要な特徴を反映し、かつ際立たせることになるだろう。

6. 坂野正則(武蔵大学)「17世紀フランスの宗派間対話におけるポール=ロワヤル運動の触媒的役割」

17世紀フランスにおけるポール=ロワヤル運動は、カトリック教会内部における党派的闘争の観点から研究されてきた。そこでの分析の重心は、恩寵論に関するイエズス会士との神学論争やローマ教皇・フランス国王に対する抵抗活動に置かれる。しかし、この運動の影響力は、カトリック教会内部に留まらず、より広範な社会的エリート層に及ぶ。特に、この運動と密接に関わった貴族女性の果たした役割は大きい。彼女達は、パリのポール=ロワヤル修道院の周辺に居住し、初期の運動指導者の一人であるサン=シランの霊的指導を受ける。その結果、彼女達を媒介として、ポール=ロワヤル運動はパリの貴族邸宅で開催されるサロンと密接に関わることとなる。さらに、こうしたサロンには、カルヴァン派信徒のフランス人や外国人プロテスタントも参加したため、国籍や宗派を越境する社交空間が生み出される。したがって、本報告では、ポール=ロワヤル運動が宗派間関係に果たした役割を、社交関係に着目することから分析する。

まず、ポール=ロワヤル運動に1640年代から60年代にかけて関わった貴族によるサロンの特徴を、参加者の具体的な分析を通じて把握する。これらのサークルは、教会組織や公的組織の外部に形成され、司教・官僚集団・貴族女性・海外からの知識人・外交使節をその内部に含み、文芸・宗教・外交・政治的話題を共有していた。

しかし、この社交空間は順調に継続された訳ではない。財務卿ニコラ・フケが1661年に逮捕され、彼が庇護してきたポール=ロワヤル運動の関係者がこの事件に連座したことにより、彼らの社交関係は一時的に停滞する。しかし、1660年代後半にルイ14世が恩赦を行った結果、彼らは王国政府内部に復帰する。この時期に復帰した中心人物の一人がシモン・アルノであり、彼は東地中海沿岸のフランス領事と協力して、東方キリスト教会に関する情報収集を実現する。そこで、この海外調査の政治的・外交的背景を検討する。実際、この調査の成果は、アントワヌ・アルノとピエール・ニコルによる共著『聖体の秘跡に関するカトリック教会の信仰の永続』の1669年改訂版に反映された。

パリにおけるサロンの活動と東方キリスト教会に関する調査研究が、宗派間的な知的交流空間の成立を促す。最後に、この文化的作用がカルヴァン派貴族のカトリシズムへの改宗に与えた影響を考察する。例えば、テュレンヌ子爵とポール・ペリソン=フォンタニエは、東方正教会の聖餐論についての知識を得ることで、カルヴァン派への信仰を放棄する思想的前提を構築する。他方、彼らの改宗過程に立ち会ったコマンジュ司教ジルベル・ド・ショワズルは、カトリック教会内部での党派抗争を緩和することに精力を傾けた人物でもある。ここで取り上げる二名のカルヴァン派貴族とショワズルとの出会いの場もまた、本報告で検討するサロンの一つであった。

それゆえ、本報告から、ポール=ロワヤル運動に関係する人々は必ずしも狭隘な恩寵論に立脚する厳格アウグスティヌス主義者ではなく、むしろ篤信家運動とも重複しつつ広汎で柔軟なカトリック改革運動の一翼を構成し、カトリシズム・プロテスタンティズム・東方正教会の間の対話と相互理解を促進する触媒としての役割を演じたことが明らかになる。

7. ピエール=イヴ・ボルペール(ニース大学/フランス大学研究院)「学術的交友は宗派間の壁を超えて、エキュメニカルな対話を促進できるか?―ブレッシャ司教・枢機卿クェリニとプロイセン在住フランス改革派教会牧師との往復書簡(18世紀)」

18世紀の特徴は、「文芸共和国」の内部に、競合と相互無理解とが生じたことにある。すなわち一方には、同時代の政治闘争に積極的に関与する啓蒙哲学者がおり、他方には学術的教養を重視し、なかには著名な啓蒙哲学者に対してあからさまな敵意をいだく人々がいたのである。後者の立場は、彼らがドイツ風のキリスト教的啓蒙の支持者であり、哲学的挑発に反対した事実から理解される。学術探究への関与を明言することにより、彼らはカトリックとプロテスタントの宗派的区分を超え、双方ともにヨーロッパ人文主義の伝統に従って議論を交わすことができた。彼らは啓蒙的キリスト教徒として、信仰に対する攻撃から等しく被害を受けたからである。プロイセン王国内のユグノ教会の牧師たち、とくにベルリン所在フランス学院教授で王立アカデミー終身書記でもあるジャン・アンリ・サミュエル・フォルメとその門弟たち、なかでも多数のフランス語定期刊行物の共編者となるカルヴァン派牧師ジャック・ペラールらは、ヨーロッパ全域と学術書簡を交わし、出版物市場の動向について情報を収集するとともに、進行中の論争にも参加した。学術情報の流通に関与することにより、彼らはユグノ離散共同体をはるかに超えて、とくにカトリック諸国の代表的学識者と交流をもつようになる。北イタリアのブレッシャ司教で著名な蒐集家、ヨーロッパ各地のアカデミー会員、そして何よりヴァティカン図書館長であるクェリニ枢機卿は、その顕著な一例である。牧師、ジャーナリスト、書物愛好家でアカデミー会員のジャック・ペラールは、18世紀中葉に枢機卿との交信を始め、まず文献に関する若干の質問を送った。二人のアカデミー会員は、すみやかに持続的な文通を交わす間柄となり、ローマ・カトリック教会の貴顕の士と、文芸共和国内部で認知を求めて苦闘するシュテティンの牧師とを分かつ社会的落差にもかかわらず、手紙の中で互いに相手を尊敬するだけでなく、生まれ出る友情の基盤を構築するようになる。

彼らに共通する学術的嗜好と書物への情熱とは宗派間の障壁を超越し、彼らはそれぞれに宗派的区分が知識の進歩と普及とを遅らせていると考えた。具体的に、彼らの往復書簡は宗派間対立を乗り越える方法を探求し、学術空間を中立化する必要があると主張した。キリスト教的学識者を自任する彼らは、相互に偏見なく意見を交換し、政治的哲学者の過激な主張とキリスト教の内部分裂との双方から、文芸共和国を保護する共通の目的を分有した。プロテスタント牧師とイタリア人枢機卿とは、こうしてエキュメニカルな学術的対話の基礎を築いたのである。牧師ペラールと牧師フォルメとは、ブレッシャ司教に対して複数のアカデミーに加入するよう提案し、彼と協力してオルミュッツ所在「オーストリア無名碩学協会」の振興に努めた。これはハプスブルク所領内で、カトリック学識者と並んでプロテスタント学者をも受けいれる唯一のアカデミーだった。彼らの築いた温かく強い絆に基づき、ユグノの書簡執筆者たちは、自分たちの亡命の苦難、亡命地への出発の試練、そして宗派間平和の促進への積極的関与について、カトリック高位聖職者に打ち明けるようになる。これらのユグノ牧師たちは、キリスト教的諸価値が保持され、エキュメニカルな対話精神が促進されるために、クェリニ枢機卿が教皇に選出されることを心から望むようになる。このような寛容精神が、彼らの同宗派信徒や同時代人により共有されていないことを知っている彼らは、往復書簡のなかで、この対話が自分たちの教区民によりどう感じられ、どう理解されるかを自問し、さらに教区民の心に、200年にわたり宗派的帰属意識を養ってきた先入見を放棄する備えがあるかどうかを問うている。彼らの往復書簡は、啓蒙の世紀におけるエキュメニカルな対話の論点だけでなく、より一般的に、他者(この場合には宗教的他者性)への関係、および自分自身の共同帰属性と共同意識への関係の論点をも問うているのである。

8. 加藤玄(日本女子大学)「中世末期ナバラ王国におけるユダヤ人」

北西ヨーロッパ諸国とは異なり、ナバラ王国のユダヤ人はアルハマ(自治組織)を形成していた。これらの共同体内部では、ユダヤ人はフエロ(法と慣習)に基づき、ペカ(貢納)と引き換えに市民権と保護を享受した。本報告は、14世紀末のナバラにおけるユダヤ人の政治的経済的役割と隣人であるキリスト教徒との日常的な接触を検討した上で、マジョリティであるキリスト教徒とマイノリティであるユダヤ人との共存の性格を明らかにすることを目的とする。なお、ナバラ王国ユダヤ人関連文書集Navarra Judaicaに収録されている実務文書(罰金記録、徴税記録、契約書)を主要史料として用いた。

13世紀から15世紀にかけて、ナバラ王国はアキテーヌ、ベアルン、カスティリャ、アラゴンの諸地域に囲まれていた。その高い戦略的位置のために、百年戦争中のイングランドとフランスはそれぞれナバラとの同盟を求めた。ナバラの君主の中で、シャルル2世(1349-1378年)は「悪王」と呼ばれ、フランスのヴァロワ朝国王に対する敵対行為およびイベリア半島とフランスにおいて政治的主導権を握ろうとする野心で知られていた。彼の治世下では、ユダヤ人は通訳や外交官として卓越した役割を果たした。さらに彼らは宮廷への物資の調達を担い、王家に融資を行ったほか、財務役人や徴税役人として活動し、王国の財務行政にとって不可欠な一部であった。

その見返りとして、ユダヤ人は職業選択の自由を享受し、土地所有を許可されていた。彼らは交易にも携わったが、主要な生業は金貸しであり、キリスト教徒の職人や農民から修道院長や大司教までが顧客であった。ユダヤ人は比較的自由な信仰生活をおくっていたが、キリスト教徒は彼らを改宗させようとしばしば試み、そのような強引な企てに対するユダヤ人の抵抗も記録されている。ユダヤ人がキリスト教徒の女性を愛人にしている例もあり、そのような姦通はキリスト教徒からの敵意を助長した。こうした敵意は小競り合いにはつながったが、ナバラでは大規模な衝突は発生しなかった。地域内外における潜在的な敵意にもかかわらず、14世紀末のナバラではユダヤ人は統治に巧みに取り込まれ、社会はユダヤ人とキリスト教徒の双方が日常的に共存することを許していたのである。

9. 千葉敏之(東京外国語大学)「帰還という改宗―フェラーラ=フィレンツェ公会議における教会合同」

中世ラテン=キリスト教世界が直面した宗教的対立は、3つの類型に大別しうる。まず第一にイスラーム教徒やユダヤ人などの異教徒との間の対立であり、その対処法はおもに力によるもの、すなわち武力衝突(十字軍など)あるいは社会外への追放や社会内での弾圧(ユダヤ人など)であった。第二の類型は、カタリ派やフス派など、異端や教会当局への反対者(被破門者など)に対するもので、この場合の対処法は、社会外への追放というかたちではなく、教会裁判制度を通じた処罰・矯正・回帰(司教裁判、異端審問制など)であった。そして第三の類型は、ローマ・カトリック教会とギリシア正教会との間の対立であり、この場合、両教会間での教義論争・教会外交を通じて和解の道が模索された点が特徴であったが、対立の根源に相互の破門宣告という事実があり、対立の原因と解決法の不一致から、長く和解にいたることはなかった。

本報告は、これらのうち、第三の類型、とくにフェラーラ=フィレンツェ普遍公会議と1439年のフィレンツェにおいて宣言された教会合同宣言を主題とする。1431年にバーゼルで始まった普遍公会議は、教皇派と公会議派との対立の過程で、教会改革を優先的に討議する、公会議派中心の後期バーゼル公会議と、教会合同問題に特化して討議する、教皇派・教会合同派中心のフェラーラ=フィレンツェ公会議とに分かれた(普遍公会議のシスマ)。オスマン朝の軍事的プレゼンスが高まるなかでの、ローマとコンスタンティノープルの協力的雰囲気を背景に、ビザンツ皇帝自身とコンスタンティノープル総主教を含む総勢700名以上のギリシア教会関係者が出席したフェラーラ=フィレンツェ公会議は、長い間、両教会の再合同を妨げてきた5つの主要な問題に絞って討議を重ねた。そしてついに、1439年7月6日、公会議に出席した教父のほぼ全員が署名した教会合同文書「ラエテントゥル・カエリ」(教皇勅書として発給)が、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で、枢機卿チェザリーニによってラテン語で、ニケーア主教ベッサリオンによってギリシア語で、読み上げられた。

この歴史的事件は通例、東西両教会間の教会政治上の事件として取り扱われてきたが、本報告では、長きにわたる異宗教共存、経済・文化的交流の実績をもつ中央=東地中海(ペロポネソス半島周域)地域に生じた文化現象と位置づけている。そのうえでまず、同地域の文化的土壌、政治・経済的立地の歴史を跡づけ、さらに当該時期(14・15世紀)の状況分析を行なった。第二に、この空間で活動した3つの人的集団、すなわち、ゲオルギオス・ゲミストス(自称プレトン、1452年没)を中心とするミストラ(ペロポネソス半島)のプレトン=サークル、ゲルンハウゼンのコンラート(1390年没)からジャン・ジェルソン、ニコラウス・クザーヌスに至る大学人サークル、マヌエル・クリソロラスの門下生を中心とするフィレンツェのクリソロラス=サークルに着目し、彼らの知的・人的交流、書籍の移動、公会議との関わりを分析した。第三に、対オスマン朝十字軍を呼びかけるためのビザンツ皇帝のヨーロッパ・ツアーの意義、ドミニコ会が組織する宣教修道士団(Societas Fratrum Peregrinantium)とそのコンスタンティノープル・ガラタ地区にある修道院の活動を取り上げた。

以上、3点の分析を通じ、フィレンツェの教会合同が、ペロポネソス半島周域の文化的土壌とオスマン危機という政治状況下で、東西でほぼ同時に現れた新プラトン主義的世界観と信仰融和の思想を共有する知識人集団の協働により、ギリシア教会のカトリックへの「回帰」というロジックのもと、普遍公会議という象徴的儀礼の挙行に最適の機会をとらえて実現された、稀有のプロジェクトである、との結論を得た。

10. 辻明日香「マムルーク朝期エジプトにおけるキリスト教徒の再改宗―青いターバンを再び着用することの意義」

本報告では、一度イスラームに改宗したものの、キリスト教へ復帰しようとした新ムスリム(元キリスト教徒)の体験を取り上げ、14世紀エジプトにおける改宗問題を考える。マムルーク朝下のエジプトでは、1301年以降、キリスト教徒は青色のターバンを着用することが義務づけられていた。(ムスリムのターバンは白色である。)したがって本報告のタイトルは、これら新ムスリムによる、再改宗という選択の帰結点を示している。すなわち、彼らはキリスト教徒として従属民の地位に戻ることを選び、背教罪による死刑を覚悟したわけであるが、同時にそれは、秘めていた内なる信仰を公にすることを可能にしたのである。

歴史的背景について簡潔に述べると、エジプトのキリスト教徒(その大半はコプト正教会信徒である)は14世紀、教会の封鎖や破壊、ターバンの色の指定や官職追放といった、様々な苦難にさらされた。このような措置がとられた理由について、当時の年代記からは明らかでない。ムスリムの人々がコプトの財務官僚について、彼らが不当な税を徴収し、その一部を教会に寄進しているという疑惑を抱いていたことは確かであるが、このような疑心はコプトを迫害する理由とは直接結びつかない。しかし1350年代から60年代にかけ、コプトに対する迫害は激化し、多くのコプトがイスラームへ改宗したのである。

14世紀後半には、このような新ムスリムが数多く存在し、彼らは信仰を秘匿した偽改宗者として、ウラマーから疑惑の目を向けられていた。先行研究は、これらの疑惑には根拠がなく、官職をめぐる勢力争いから生じた、誹謗中傷にすぎないと看做している。本報告では、これら新ムスリムが教会との関係を維持していた可能性という、先行研究とは逆の視点からこの告発を再検討する。

一般的に解釈するのであれば、このような人々はイスラームへ改宗した際、教会により糾弾されたはずであるし、イスラーム法において棄教は死罪であるため、再改宗は不可能であったはずである。だが、マムルーク朝においては必ずしもそのような事態は起きていない。ならば、ウラマーや教会の聖職者といった、これら新ムスリムをめぐる人々の態度を検討する必要が生じるであろう。

ムスリム側の史料に登場する、新ムスリムに関する記述を検討したのちに、14世紀後半に著されたコプト正教会の聖人伝、『ムルクス・アルアントゥーニー伝』における再改宗者の描写を分析することで、イスラームへの改宗者/キリスト教への再改宗者に対するコプト正教会の対応を明らかにする。ムスリムとキリスト教側双方の史料を取り上げることにより、二つの宗教に挟まれた人々を取り囲む当時の社会的状況を考察する。

11. 堀井優(同志社大学)「オスマン帝国期カイロの宗教的少数派と外来者」

一般にムスリム諸国家とその支配下のイスラーム社会は、宗教的他者の排除や同化よりはむしろ、宗教的共存を維持する傾向にあった。この傾向を規範として支えたイスラーム法は、ムスリム優位の下でのズィンミー(非ムスリム臣民)およびムスターミン(非ムスリム領域から来る非ムスリム外来者)の法的地位と、彼らの権利義務を規定する。とはいえ彼らの生存と活動の条件は、時代と地域によって変化する現実の状況に影響された。近世の東地中海の場合、オスマン帝国の広域的な支配下にあった少数派および外来者、すなわちユダヤ教徒、東方キリスト教徒、ヨーロッパ人外来者が研究の対象となる。ここではカイロ社会の事例に焦点をあてる。7世紀以降イスラーム圏の一部だったエジプトは、紅海と地中海をつなぐ要衝であり、16−18世紀にはオスマン領の一部でもあった。それゆえオスマン期カイロ社会は、イスラーム的規範、慣習と伝統、エジプトと周辺諸地域とをつなぐ交通、そしてオスマン支配の影響を受けていた。

カイロ社会における諸集団の法的地位は明確にされていた。ユダヤ教徒とキリスト教徒のズィンミーは人頭税を課され、ヨーロッパ人はムスターミンであるがゆえにそれを課されなかった。宗教的な違いは、都市の地理的構成に反映されていた。都市の中心部にユダヤ教徒地区、都市中心部の周辺にはいくつかのキリスト教徒地区があり、中心部の西側には16世紀末以降ヨーロッパ人地区が形成されはじめた。ただしいずれの地区も、特定の信徒のための排他的な空間ではなく、多少とも多様化されていた。ユダヤ教徒とキリスト教徒は、居住と活動の方法において、ある程度相違していた。ユダヤ教徒は、自分たちの地区に集住する傾向にあった。その富裕層はオスマン財政に深く関わり、あるいはヨーロッパ商人と現地商人との間の仲介人として活動し、あるいは地中海における独自のネットワークをつうじて貿易活動を営んでいた。その一方でコプト教徒やギリシア正教徒は、相対的に広く居住する傾向にあり、貴金属や織物などの手工業に主に就いていた。興味深い現象は、17世紀前半のヴェネツィア人集団のなかにギリシア人がおり、彼らがヴェネツィア領クレタからエジプトそのほか地中海の諸港にわたる貿易を営んでいたことである。カイロにおける少数派・外来者の諸集団の生活と活動の範囲は相互に重複し、部分的に広域的性格を有していた。それゆえオスマン期カイロの事例は、オスマン帝国の枠組の中のみならず、東地中海全域にわたる視野の下で理解されるべきだと思われる。

12. 齊藤寛海(信州大学)「近世初期ヴェネツィアの宗教政策」

近世初期のヴェネツィアは、周知のように、その宗教的寛容で名高かった。しかし、その宗教政策については、一つ一つの宗教ごとに別々に研究が行われて、必ずしも統一的な視点から考察されてはこなかった。この報告は、この視点から見た一つの展望を提示しようとするものである。

ヴェネツィアでは、ギリシア人亡命者たちは、政府によって温かく受け入れられ、また教皇からの支援も受けた。ヴェネツィアとローマは、フィレンツェ公会議で決定した教会合同を堅持した。ギリシア人は、両者にとって反オスマン朝闘争における貴重な同盟者であったので、広範な特権を与えられ、それによって伝統的なギリシア正教徒でとして暮らしていく可能性をもった。

多くの場合教会と民衆から嫌われていた、多様な経歴をもつユダヤ人たちもまた、ヴェネツィアを避難所とした。ヴェネツィアは、紆余曲折の後、特別税の負担者として、市営の公益質屋(モンテ・ディ・ピエタ)の代役として、そして〔危機に陥った〕ヴェネツィア商人の代わりを務めてくれる広範な商業的ネットワークをもつ商人として、彼らを経済的に役立てるために受け入れた。その結果この都市では、ユダヤ人は、広範な諸特権を手に入れて、自治権と公然とユダヤ教を信仰する権利をもつことになった。

多数のドイツ人(神聖ローマ帝国の臣民)が、ヴェネツィアと、有名な大学のあるその近隣都市(でヴェネツィアに従属する)パドヴァにいた。彼らの間には多数のプロテスタントがいたが、ヴェネツィア当局は、その彼らが公共の秩序に問題を引き起こさない限り、彼らの個人的な信仰に介入することがなかった。というのは、ドイツ人商館(フォンダコ・デイ・テデスキ)に滞在するドイツ人商人と、(ヴェネツィア市内に居住する)ドイツ人職人は、ヴェネツィアの経済と社会にとって重要であり、またドイツ人の学生も同様にヴェネツィア国家にとって重要であったからである。

数多くの普通の人々にとって、自分の宗教の選択は、彼らを取り囲んでいる社会的な条件によって左右される。そして、伝統的な世俗的なエリートたちによってしっかりと統制されている国家にとって、その宗教政策は、その生存のための力を強化するために決定される。ヴェネツィアは、以前の経済的な力を失いつつあったが、まだその政治的な独立を維持していた。そのことによって、ヴェネツィアの宗教政策は、当面する経済的、政治的な諸問題を克服するべく決定されたのである。その結果、ヴェネツィアの宗教政策は、寛容を選択したが、それは、地中海の国際的な貿易中心地としてのヴェネツィアにとって、伝統的に馴染み深いものでもあった。

13. イネッサ・マギリナ「サファヴィー朝ペルシア王シャー・アッバース大帝の宗教的姿勢―同時代ヨーロッパ人の証言による」

16世紀末以来、ヨーロッパ人はシャー・アッバース1世の宗教上の選好について情報を得ていた。これらの情報はヨーロッパの外交官、托鉢修道会の宣教師、商業代理人によってもたらされた。シャーリ兄弟やカルメル会士たちがもたらす詳細な情報により、われわれはシャー・アッバース1世の宗教上の好みや、キリスト教徒への彼の親しい態度について知ることができる。

ヨーロッパの伝統的歴史記述はあらゆるムスリム指導者を狂信者として描いたが、アッバースは、そうした狂信的な正統シーア派に属する者ではなかった。シャー・アッバースは1587年に王位を継承すると、あらゆる[シーア派]儀礼的・宗教的禁止をいとも簡単に破棄して、異宗教の信徒と接触した。シャーと対面して話したヨーロッパ人は、彼の宗教的な開放性に驚かされた。アンソニー・シャーリは、シャーが宗教上の議論を「大いに好んだ」と指摘する。キリストによる聖なる贖罪の犠牲についてニコラ・ダ・メロ神父と神学上の議論をしながら、アッバースは常に、キリストを処刑したユダヤ人への憎しみと、彼の国でユダヤ人が受けている迫害について力説した。実際のところ、事態はまるで異なっていたのだが、アッバースは、ユダヤ人の迫害に言及することにより、ニコラ・ダ・メロ神父に対して好意を示せると考えた。シャー・アッバースの宗教上の議論と法令とのおかげで、キリスト教徒はペルシアにおいて礼拝の自由(修道院や教会堂の建設を含む)を許可された。このようにして、[アッバースは]ヨーロッパの指導者たちを懐柔しようとした。アッバースが行ったキリスト教徒に関する措置は効果的だった。シャーの宮廷にいたヨーロッパ人は、シャー・アッバースはムスリムでありながら、いかなるキリスト教君主よりも「キリスト教の関心事」を支持していると報告した。それゆえヨーロッパ本国では、アッバースが自分自身と彼の国全体をキリスト教(カトリック宗教)に改宗させようとしていると推断したが、この推測は事実にならなかった。しかしこのことは、例えばロバート・シャーリや、イスファハン司教座の初代司教ジャン・タデ神父のように、長期にわたりペルシアに滞在した人でなければ、理解できなかっただろう。

ヨーロッパ人は、シャー・アッバースの真の宗派について無知だったので、ムスリム支配者をキリスト教に改宗させられると錯覚したのである。彼の政策や決意や宗教観の本質を理解するためには、スーフィー神智学と神秘主義とを理解する必要がある。16世紀初頭以降、ペルシアのシャーはヨーロッパにおいて「ソフィ」と呼ばれたが、この称号はアッバースの実質的権力と完全に適合した。彼はペルシアのシャーであったばかりか、サファヴィー・スーフィー教団のシェイク(シャイフ)でもあった。イスラーム神秘主義者スーフィーにとり、スンニ派とシーア派への帰属は相対的なものだった。アッバースの真の信仰は、霊的・神秘的な道にあった​​。真のスーフィーにとり、特定のタリーカまたは教団に所属することは重要でなかった。神への奉仕に表現される霊的探求においては、いかなる宗派的障壁も存在しないからである。アッバースの宗教的信条は、スーフィー神秘主義者アッタール[ファリード・アッタール]が書いた詩とも完全に一致する。「魔術師の神殿に座る汝はどの宗教に属し、どのように祈るのか。―我は善悪を超え、信仰と不信仰を超え、理論と実践を超える。これらの多くのものの彼方に、別の階梯があるからである」。

シーア派国家の指導者にして地上におけるイマームの代理人であるアッバースは、政治と宗教を峻別した。ヨーロッパ人は、彼らの合理的な立場からシャーを評価したが、アッバースは「玉座にいるスーフィー」であり、しかもスーフィー神秘主義者だった。必要ならば、特定の政治目的を達成するために、彼は宗教的レトリックを巧みに使用した。アッバースは、キリスト教と、古代異教を含む異宗教の双方に忠実だった​​と言ってよい。しかし宗教的レトリックを利用して彼の政治権力を侵害する者に対しては、彼は同宗派のスーフィーに対してさえ無慈悲だった。

14. レイ・ムアウワド(レバノン・アメリカ大学)「レバノン山地のドルーズ派とキリスト教徒―宗教的共生の稀有な事例」

レバノンの人々と歴史については、相反する二つの受け止め方があることが良く知られている。一つは、旅行者がしばしば記したように、多様な宗教・宗派や異なる集団の人々が村々・町々で共存してきたことであり、もう一つは1845年、1860年、そして1975-1990年といった暴力の時代を目撃した外国領事たちや旅行者たちが記したように、宗教的紛争が破壊と犠牲を伴ったという事実である。この二つの間のどこに真実があるのだろうか?

このことはレバノンの宗教文化の中では隠しおおされ、説明されることは稀である。18の宗教共同体があり、それらすべてが公式に議会制度の中で代表されているという、驚異的な現実を持つ国にしてそうなのである。レバノン人研究者自身は諸宗教共同体間の相互関係については敢えて真剣に取り組んでこなかった、と言わざるを得ないのだ!

東京大学で開催されたシンポジウム「ヨーロッパ・地中海世界における異宗教・異宗派間の相克と融和」ではまさにこの問題を分析することが試みられ、私の報告はドルーズ派とキリスト教徒の関係に焦点を当てたのであった。

一神教としてのドルーズ派の起源は、11世紀のファーティマ朝におけるシーア派ムスリムの中に求められる。エジプトのカイロから始まったその新たな宗教は、宣教が成功して、今日のレバノン南東部に当たるワーディー・アッタイム地方と、海港都市シドンとベイルートを見下ろすレバノン山地中央部のシューフ地方・メトゥン地方とに定着した。その後何世紀にもわたって、ドルーズ派は都市の外部にて比較的孤立した形で暮らしながら、封建的戦士社会を形成した。1516年からレバノンを支配したオスマン朝はドルーズ派の指導者たちにマムルーク朝時代よりも大きな自立性を与えたが、これを利用して彼らは自らの支配領域にキリスト教徒が移住・定着するよう奨励した。その動機は専ら経済的なものであった。ドルーズ派の指導者たちはキリスト教徒や修道士たちを有能な農民・勤勉な労働者と見なし、自らの領域を発展させるのに有益な存在であると考えた。一方、キリスト教徒は何世紀にもわたってレバノン山地北部に閉じ込められた形になっていたが、それはレバノンの沿岸海港都市にて十字軍の枠組みによる西洋キリスト教徒世界との関係を復活させないように関係を遮断されていたためであった。キリスト教徒らはトリポリ州を通じたオスマン朝支配と強いられた孤立を嫌い、レバノンの南部に移りたがっていたのである。

このように、ドルーズ派とキリスト教徒は何世紀にもわたって隣り合って生活してきたにもかかわらず、16世紀になって初めて互いを発見したのだと言える。

彼らはただちに社会的・宗教的レベルの双方において互いに適応し合うようになり、その関係はオスマン朝時代を通じてずっと続いた。ここではこの相互関係の2つの側面にのみ触れておくことにしたい。ドルーズ派はキリスト教の二人の聖人を好んだ。王女を助けるために竜を退治した聖ゲオルギオスと、唯一神を信じなかった異教徒を殺したことで知られる旧約聖書の預言者の聖エリヤーである。ドルーズ派とキリスト教徒が共存したすべての村においてドルーズ派の求めにより教会がこれら二人の聖人のうちの一人に捧げられたのはこのためである。その一方で、ドルーズ派と混ざり合って住むキリスト教徒の間では、従来のキリスト教信仰には見られなかった概念や言葉が用いられ始めた。その一つが「マカーム」である。これは「(特定の)場所・位置・位階」を表す(アラビア語の)言葉で、ドルーズ派の宗教的意味合いにおいては神聖なるものをよりよく理解するために開かれた特別の宗教的な人物や場所のことを指す。シューフ地方にある15世紀のドルーズ派の有名な人物の墓のことを「アブダッラー・タンヌーヒーのマカーム」と言うように、である。しばらくすると、ドルーズ派と共に暮らしているキリスト教徒の間で、いくつかの教会をこの語で呼ぶようになった。

双方の集団が互いに影響し合い、宗教的共生の中から独特な文化を創り出してきたという例はその気になればいくらでも挙げることができる。

では、なぜドルーズ派とキリスト教徒の間で虐殺が起こったのだろうか?このような共生を実現しながら、なぜ1845年と1860年に暴力が発生したのか?その回答は、当時のレバノン山地の文化的あるいは宗教的対立というよりも政治・社会的文脈の中に見出すことができる。共同体は、その敵対集団に対して宗教的スローガンを浴びせかけることは稀であった。もし宗教的な場所の破壊が行われたとしたら、その実行者たちの動機は宗教的なものではなく、むしろ歴史的に作り上げてきた優位性を失うことや、広い意味での集団全体の生存自体が脅かされることへの反応であったり、農民と領主の間の階級的闘争を避けることが目的だったりした。そして1845年と1860年の事例はまさにそのものだったのである。しかしながら、このようなエピソードを経験しつつも、そしてそれは先のレバノン内戦を含みつつであるが、レバノン人の間で共有されているこの文化は再度存続してきた。それはとりもなおさず上述した人々の、数世紀にわたる振舞いのパターンと宗教的共生の結果と言うべきものであり、容易に忘却に追いやることはできないものなのだ。

コメント要旨

1. 山本大丙(早稲田大学非常勤):エリアフ=フェルドン報告へのコメント

エリアフ=フェルドン氏は、エメリ・クルセ(1590-1648)とフランチェスコ・プッチ(1543-1597)という二人の興味深い人物を我々に示した。両者とも宗教改革後の時代に生き、宗教的寛容を唱えた。カトリック・プロテスタント間の激しい相剋にもかかわらず、ことによったらそれ故に、寛容という思想は非常に稀なものではなかった。だが、クルセやプッチは、いくつかの点で寛容を唱道した他の者とは異なるようである。

クルセは、宗教的多様性を受け入れ、地上に平和をもたらすために国際的な仲裁裁判所を設立する必要性を訴える。しかも、この裁判所はトルコのスルターンやペルシア王を含むあらゆる国家代表により形成される。私の知る限り、少なくとも当時において、クルセ以外には誰もこのような世界規模の平和維持計画を提案しなかったし、恐らく考えてすらいなかった。この点において、クルセはジャン・ボダンのような他の「寛容な」思想家とは異質である。

フランチェスコ・プッチも、宗教融和の実現に邁進した。彼が考えた最初の一歩は、ある種の秘密結社の創設である。この結社の構成員は、全ての論争を解決し全人類を一つの理性的かつ自然的な宗教へと統合する公会議を招集するように君主たちを説得する。こうした計画を頭の中に思い描いていた者は、当時恐らく彼以外にいなかったであろう。

しかし、プッチは孤立した例外的事例ではない。私見では、彼の思想はギョーム・ポステルのそれに似ている。プッチと同様、ポステルも人間の自然的善性を主張し、ユニヴァーサリズムへと傾いていた。また、全人類の再統合というプッチの最終的な目標は、「万物復元」というポステルの思想を強く連想させる。同様に興味深いのは、プッチがやはりポステルも関心を抱いていた「愛の家」と接触した可能性である。秘密のネットワークというプッチのアイデアも、ニコデモ主義を奉じるこの宗教グループに由来するらしい。さらに、「愛の家」の目的は、神との一体性を回復し堕落以前の純粋さを世界にもたらすことであり、これはプッチの計画に類似している。いくつかの点でプッチは、ポステルや「愛の家」信徒とは異なっているかもしれない。他の誰よりもプッチが人類全体を再統合する詳細なプログラムを提案した事実は、強調されなくてはなるまい。それでも、プッチは間違いなく同時代人から多かれ少なかれ影響を受けていた。彼の計画は、ポステルや「愛の家」信徒が抱いていた宗教和解という思想の到達点と見做すことも可能かもしれない。いずれにせよ、エリアフ・フェルドン氏の魅力ある研究は、宗教的な相剋の時代においてすら融和の希望が存在したことを我々に教えてくれる。

2. 踊共二(武蔵大学):カプラン報告へのコメント

「支配者の宗教、その地に行われる」の原則には限界があり、近世の宗教的・政治的境界はけっして閉ざされたものではなく、絶えざる争いや不信があったとしてもある種の宗教的寛容や宗教的自由が実現する可能性も開かれていた、というカプラン氏の所説に私は完全な賛意を表したい。カプラン氏によればカルヴァン派のオランダ共和国とカトリックの帝国都市アーヘンは「共生」の関係をつくりだしていた。それはアーヘンが経済的理由で寛容の対象とせざるをえないプロテスタント住民に(領外で)礼拝を行わせるためにオランダ共和国に依存する一方、オランダ共和国はオーファーマース地方にカルヴァン派の橋頭堡を築くためにアーヘンが送り出してくれるプロテスタント住民を必要としていたからである。「共生」の概念は厳密には二つのものが生存のために互いを必要としているときに使うため、敵対する宗教勢力には適用しにくい面がある。しかしファールスのような境界地帯ではそれが現実に起こっていた。もちろん境界地帯は近世ヨーロッパには無数にあったのであるから、「共生」の事例も随所で見つかるはずである。

カプラン報告は異宗派婚を行ったカップルに生まれた赤ん坊の扱い(宗派的帰属)を主要テーマのひとつにしているが、それは宗派的境界を越えた人間の結びつき(融和)の深さを示すと同時に、その「事件」を知った周囲の人々が引き起こす騒動(相剋)の大きさも示している。なお異宗派婚はドイツでもスイスでもしばしば問題化しており、男児は父親の、女児は母親の宗派に従って洗礼を施し、教育を行う方式が慣例的にとられる場合が多かった。このことは宗派問題の現実的な調停の可能性を示している。ファールスではどうであったかとの私の質問に対するカプラン氏の回答は、異宗派婚はファールスではそれまで前例がなかった点で大問題になったが、男子は男親、女子は女親の宗派に従って育てる慣例はオランダの他の地域には広くみられるというものであった。

いずれにしてもカプラン報告は、宗教を否定する近代思想が宗教問題を(外側から)解決してきたという歴史認識に再考を迫り、宗教的信念をもって生きるカトリックやプロテスタント自身が(内側から)宗教問題にとりくみ、調停や和解の努力を重ね、解決策をみいだしてきたことを明らかにする実証研究として注目に値する。

3. 勝田俊輔(東京大学):アームストロング報告へのコメント

本報告は刺激的で意欲的である。アイルランド近代史は通常、カトリック・プロテスタントの宗派間関係において失敗続きの歴史だったとされるが、アームストロング氏は、1640年代の内戦期にあってイングランドよりもアイルランドの方が宗派間対立の解消に近づいていたと論じる。またアームストロング氏は、宗教(キリスト教)が政治動向(和平)にどこまで作用するのかと言う困難だが重要な問題にも取り組んでいる。言い換えれば、歴史家は、宗教と政治をどのように区別して考えるべきなのか、ということになる。

この問題を論じるにあたって、アームストロング氏の提示する示唆的なモデルは、和平交渉に三つの次元を想定する。すなわち、交渉の様式、交渉上の論点、そして交渉の意味づけ、の三つである。国王チャールズとの交渉において、アイルランドのカトリック同盟はイングランドの議会派よりも大きな交渉の自由を交渉当事者に与えており、このことが一因となって、3年間の休戦の実現が成功した(交渉の様式)。イングランドの議会派もアイルランドの同盟も、交渉ではかなり似通った論点を提示したが(交渉上の論点)、その一方で同盟は、議会派とは異なり、国制上の地位をめぐって国王と争うことはなかった。彼らは、自らを国王に忠実な臣下として示すことで国王の恩恵を求めたのだが(交渉の意味づけ)、このことは逆に国王にとって、反逆に走ったが今は改悛した者として彼らを受け入れることを可能としたのである(交渉の意味づけ)。

ここで宗教の問題が正面から論じられる。国王は、アイルランドのカトリックを赦すことを、キリスト教の善である慈悲の行いとして正当化することができた。こうした慈悲や改悛、正義などの根本的な宗教原理は、交渉においては有効な道具となる。だが同時に、アームストロング氏が示すように、カトリック叛徒を赦すことは、もう一つのキリスト教の善である正義の名において批判されることもあり得たのである。このパラドックスは重要であり、アームストロング氏の議論は、宗教における個々の具体的な問題点と根本的な原理とをきちんと区別した上で、こうした根本的な宗教的原理が現実に当てはめられた際の可能性と限界を我々に示してくれるものでもある。

4. 那須敬(国際基督教大学):西川報告へのコメント

イングランド国教会のヨーロッパにおける宗教外交において、推進されたという「プロテスタントの一致」は、どの程度、イングランド国内における国教遵奉の強化や非国教徒の排除の問題と関係していたのだろうか。

西川発表から学んだことの一つは、在外イングランド人の礼拝のために国教会スタイルの教会をロッテルダムやアムステルダム、ジュネーヴなどに建てようとした18世紀の試みは、本国における国教遵奉の強制の是非をめぐる論争と連動していたということである。既にプロテスタント化した大陸の諸都市にあえてイングランド国教会を設置することに反対したのは、非国教徒に比較的寛容な広教派だったことも同様に興味深い。

在外イングランド人商人、外交官、旅行者あるいは難民の信仰生活についての議論や政策の分析を通して西川氏が強調するのは、ローマ・カトリック勢力に対抗するプロテスタントの「長い戦い」の存在である。しかし、こうした議論は同時に、国家の内のみならず外においても信徒に対する霊的統率力を高めようとした国教会の熱心さのあらわれかも知れないし、海外における存在感や権威を高めようとした世俗国家の意志の反映かも知れない。

さらに、国外に生活していたイングランド人の大多数が、共通祈祷書やイングランド人チャプレンによる国教会式礼拝を積極的に求めていたのか否かも、検討すべき問題であろう。安易な一般化には注意が必要だが、宗教的緊張の高い時代には、海外移住は信仰の画一化からの解放をも意味した。17世紀にニュー・イングランドに渡ったピューリタンはその一例となる。植民地で彼らが建てた会衆教会の多くは国教会とのつながりを維持した「非分離派」だったが、同時に彼らは本国では望めないカルヴァン主義色の強い礼拝を守ることが可能だった。海外移住は宗派アイデンティティを(強調するだけでなく)あいまいにさせることもある。ブリテン諸島の外に住むイングランド人の相当数が、自らを「アングリカン」と認識していなかった可能性はないだろうか。

5. 踊共二(武蔵大学):マードック報告へのコメント

マードック報告が扱っているサヴォア公国のシュレ(現在はスイス領)の異宗派間接触(つまり改宗や異宗派婚)の事例は、私が近世のドイツ語圏スイスについて調べたことと驚くほど似ており、まずそのことに大きな興味を覚えた。宗派国家が上から遂行したという「宗派化」政策は過大評価されてはならない。そもそも近世の宗派国家の境界は錯綜しており、人はしばしば境界を越えて経済活動を行い、また善隣関係を結んでいたからである。宗教改革時代以後のヨーロッパにおいては信仰の個人化の傾向も強まっており、宗派分裂状態のなかで起きた一般信徒の改宗や異宗派婚もそうした傾向と無縁ではない。個人の決断による宗派選択は知識人の専売特許ではない。また民衆はつねに現世的利益に従って行動していたと決めつけることはできない。「共同体宗教改革」の理論にも限界がある。共同体の決定に個人は従うという図式が通用しないケースは無数にあるからである。このような結論を私は『改宗と亡命の社会史』(2003年)という書物のなかに記したが、それらはマードック氏の出した結論とかなり重なっている。マードック氏は「民衆世界の宗教的プルーラリズム」というきわめて興味深い、また適切この上ない表現を使っている。この「プルーラリズム」は神学者と国家権力による上からの宗教的統一政策への「抵抗」と結びついているという見通しも正鵠を射ている。いくら「壁」(塀)をつくっても隣人たちはそれを越えて交わるのである。その目的は経済的・物質的利益の追求であることも多かっであろうが、「宗派の違い」を本質的な「宗教の違い」と見なさない「プルーラリズム」が前提にあったとすれば、それは宗教と両立する物質主義と定義できようか。

なお「プルーラリズム」を民衆世界だけの特性とすることはできないと考えられる。宗教改革と宗教戦争の時代に宗派の違いを相対化した知識人や聖職者の例は枚挙にいとまがないほどだからである。私が現在研究している再洗礼派の歴史的文書(17世紀半ば)のなかには、「救いへの道」は「複数」でありうると明言し、異なる道を行く異宗派に対する迫害を批判するものがある。その著者は複数の宗派の混在するオランダに生きたメノー派の牧師である。多宗派地帯は「プルーラリズム」の苗床であり、サヴォアとスイスの境界地帯にもそうした知識人がいたのではないだろうか。もちろんマードック報告の主眼は近世の民衆世界の宗教のあり方を明らかにすることであり、その成果には目を見張るものがある。それはまた近世のどの地域にも応用できる有益な研究視角を提供している。

6. 深沢克己(東京大学):坂野報告へのコメント

17世紀フランスの宗派間対話におけるポール=ロワヤル派の役割について、坂野氏の報告は新しい展望を開く。以下の3点について論評を加えよう。

第一に、研究対象を定義するにあたり、坂野氏は賢明にも「ジャンセニスト」に替えて「ポール=ロワヤル派」の名称を使用した。なぜならば「ジャンセニスト」とは論争上の用語であり、イエズス会士を筆頭とする敵対者によってのみ使用された名称だからである。それはあらゆる論敵に貼られたレッテルであるから、歴史家が正確で一貫性のある定義をそれに与えることはむずかしい。それと比べて、「ポール=ロワヤル派」の用語は、社会学的に定義可能であるという意味で、曖昧さは少ない。

第二に、坂野氏はパリで貴族女性の開いた知的サロンが、宗派間対話の空間を提供したことを解明した。フランスの首都で、ポール=ロワヤルの影響が貴族サロンに浸透したのは周知のことである。しかしこれらのサロンが、イエズス会士やジャンセニスト、さらにカルヴィニストまで含めて、対立する諸宗派の出会いと対話の場所になった事実は、あまり知られていない。オランダの歴史家ウィレム・フレイホフの概念を借用すれば、坂野氏は貴族的社交が、宗派間対話のために一種の「中立空間」を創出したことを示した。

第三に、坂野氏はポール=ロワヤル派の人々が、どのように彼らの親族や知人にあたる在外領事と大使の助力をえて、東方教会の実践する聖体祭儀について調査したかを分析した。17世紀前半にイングランドとジュネーヴのプロテスタントが、キリロス・ルカリス総主教裁治下の東方教会と接触したことは周知の事実である。しかし坂野氏は、ポール=ロワヤル派を含むカトリック神学者たちも、原始キリスト教会の祭儀を探究する過程で、東方教会に関心をもったことを解明した。

第四に、テュレンヌ元帥、および悪名高い「改宗金庫」の管理人として知られるポール・ペリソンの改宗事件は有名であるが、坂野氏は彼らの改宗が司教ジルベール・ド・ショワゼルなどのポール=ロワヤル派の影響下に達成されたことを論証しようと試みた。ルイ14世治世下においてさえ、改宗はつねに迫害の結果だったわけではない。

わたくしがさらに知りたいと思うのは、坂野氏が例示した多様な宗派的集団間の関係、たとえばポール=ロワヤル派と聖体協会との関係についてである。これら二つの集団は、カトリック宗教改革から派生した篤信運動として多くの共通点をもつにもかかわらず、聖体協会はポール=ロワヤル派を攻撃し、反ジャンセニスト活動を組織化した。彼らの対立の原因は何だったのか?対立の原因は根本的なものか副次的なものか、永続的なものか一時的なものか?またポール=ロワヤル派とプロテスタントとの関係については、正統カルヴァン主義者と厳格アウグスティヌス主義者との間に、一定の神学的親和性があるとしばしば指摘されてきた。事実これは、イエズス会士からジャンセニストに向けられた非難でもあった。それにもかかわらず、ポール=ロワヤル派の知識人たちは、プロテスタント神学を系統的に批判した。その場合、フランスのプロテスタントは、カトリック陣営における「ジャンセニスト論争」をどう見ていたのだろうか?彼らはそれに対してまったく無関心だったのか?それとも、迫害されたポール=ロワヤル派に対して共感を覚えたのだろうか?このように坂野氏の報告は、新たな問いかけに道を開くのである。

7. 深沢克己(東京大学):ボルペール報告へのコメント

ボルペール氏の刺激的な報告は、プロイセン在住のフランス人プロテスタントとイタリアのカトリック高位聖職者との間で交わされた書簡に依拠して、学術交流を基礎とするエキュメニカルな対話の出現を解明する。以下の3点につき論評を試みよう。

第一に、ボルペール氏は私的な性質の史料を有効に用いた。私的書簡や日記や親密な会話の記録などの史料を用いることにより、われわれは心の奥底から出る「真実の」声を聞くことができると、常にそうだとは言えないまでも、期待してよい。クェリニ枢機卿とユグノ牧師との知的往復書簡に関しては、彼らの思想が真正で奥深いものであることは、ほとんど疑う余地がない。報告中に引用された数々の証言は、それを雄弁に証明する。

第二に、ボルペール氏はこれらの史料に依拠して、宗派化された近世ヨーロッパの図式的解釈を超克した。カプラン氏の報告は、「支配者の宗教が所領の宗教」の原則の実施が不徹底に終わった理由は、政治的境界が穴だらけだった事実にあることを示した。同じくマードック氏の報告は、宗派的帰属が、多くの点で破れ目をもつことを示した。これらと同じ方向性のもとに、ボルペール報告は、宗派的障壁が霊的次元でも浸透可能だったことを論証した。なぜならば人文主義的学術研究に基づく「文芸共和国」の伝統は、多様な宗派に属する知識人により共有されたからである。高位聖職者たちの次元においてさえ、普遍的キリスト教のために宗派的境界を超えることは、不可能ではなかった。

第三に、ボルペール氏はエキュメニカルな対話が、急進啓蒙思想の唯物論哲学に対して共同戦線を張るキリスト教的啓蒙の支配的潮流により促進されたことを示した。こうして氏は、18世紀ヨーロッパに関して、科学と宗教、理性と狂信の闘争ばかりを強調する固定的イメージを修正している。換言すれば、キリスト教と啓蒙とは、伝統的歴史記述が主張してきたほどに両立不可能なものではなく、18世紀ヨーロッパ社会は、「アナール学派」のフランス歴史家の一部が論じたほどに「非キリスト教化」されたわけではない。

ボルペール氏の興味深い報告は、われわれにさらなる好奇心をかき立てる。わたくし自身は、キリスト教的啓蒙がどこまで均質的または非均質的な思想潮流だったかを知りたい。もしそれがむしろ非均質的な潮流だったとすれば、それはブリテン諸島やフランスからドイツとイタリアに至るまで、国々や文化圏によりどんな偏差があったのか、とくに各国の正統教会に対する態度はどのように異なったのだろうか?また同じくボルペール氏が指摘したドイツ・スカンディナヴィア諸国の「隠れカトリック」危機に関して、この危機がどこまで現実の過程に対応し、どこから空想上の強迫観念に結びついたのか、とりわけ正統ルター派の牧師について知ることができれば興味深い。というのもこの現象は、宗教的相互作用の結果であると同時に、それに対する恐怖の所産だったかもしれないからである。

8. 宮武志郎(普連土学園):加藤報告へのコメント

ナバラにおいてキリスト教徒とユダヤ教徒の関係が比較的良好であった理由は良く理解できた。まず彼らの間に存在した相互依存が第一の要因である。ここで私が研究の対象としてきたオスマン帝国のユダヤ教徒と比較してみたい。オスマン帝国ではユダヤ教徒がヨーロッパ諸国に関する数多くの情報をオスマン帝国にもたらしたために、ユダヤ教徒は受け入れられた。オスマン当局は彼らを外交などで大いに活用した。言い換えれば、オスマン当局はユダヤ教徒の価値と重要性を認識していたからこそ、受け入れたのである。相互依存と言うことはナバラでも当てはまるかどうかを教えていただきたい。

ナバラでキリスト教徒とユダヤ教徒が良好な関係を保つことのできた第二の理由は、両者間に常に接触があったことである。一方、オスマン帝国では、ユダヤ教徒はオスマン当局と強固な関係を持った強力な世俗的指導者がいて、ユダヤ教徒は強力なコミュニティーを形成することができた。それ故、イスタンブルのユダヤ教徒コミュニティーは世俗的指導者が解任された後、途方に暮れることになる。ナバラのユダヤ教徒コミュニティーの中にいた指導者の状況がどのようなものであったのか、お教えいただきたい。

9. 藤崎衛(東京大学):千葉報告へのコメント

千葉氏の報告は、ローマ・カトリック教会とギリシア正教会の間の教会合同問題を、聖職者や神学者の間で形成されていた複数の知的ネットワークを軸に論じたものであり、いくつものネットワークを腑分けしたうえで、それぞれについて検討することにより、教皇合同の思想的背景の複層性を明らかにした。以下に挙げる三点について考察を深めることで、このシンポジウムのテーマにおける千葉氏の報告の位置づけがよりはっきりするものと考える。

第一に、おそらく関係する神学者たちの思想的背景だけでなく、ラテン教会の聖職者やギリシアの政治家や正教会の聖職者の政治的、外交的、あるいは教会政治的な背景も考慮に入れる必要があるだろう。特に教皇エウゲニウス4世の経歴や思想的背景、そして当時の教皇庁内における派閥形成は枢機卿の任命政策などにも影響を与えたはずである。またコンスタンティノープルでは教会合同勅書の批准が拒否されたが、その経緯と理由はより明晰に説明されるべきであろう。

第二に、ラテン教会側が公会議主義派と教皇派に分かれたことは明確であるとしても、「相剋と融和」というテーマを考慮するならば、これらラテン教会内における二派の間の相剋と融和の問題も同時に考慮に入れる必要があるだろう。のみならず、教会合同を推し進めた教皇派内部においても意見の対立があり得たはずであるから、教皇派内部における教会合同に反対する者たちの立場にも目を配ることにより、「普遍公会議による解決の道」(via concilii)という考えの歴史的価値がより鮮明なものとなるだろう。

最後に第三点として、ドミニコ会の活動とそれが教会合同に与えた影響である。千葉氏はギリシア人のカトリックへの改宗を論じるにあたって東方におけるドミニコ会の修道院建設や説教活動に注目した。これは、当時の東西教会の融和の可能性を見極めるうえで非常に重要な考察対象であると言える。

10. 黒木英充(東京外国語大学):辻報告へのコメント

 

11. 宮武志郎(普連土学園):堀井報告へのコメント

オスマン帝国下のカイロにおけるズィンミーについて、非常にわかりやすく説明され、キリスト教徒とユダヤ教徒の活動範囲がお互いに一致していることがよくわかった。両者の間に諸問題と対立が起こったのも当然のことと思われる。ラビのレスポンサもこのことを示している。ユダヤ教徒間に問題が発生したときはラビの裁定が下され、ムスリムとユダヤ教徒間の場合は、シャリーアまたはカーヌーンが適用された。ヨーロッパ諸国、たとえばヴェネツィア領でキリスト教徒とユダヤ教徒の間に問題が起こったときは、ヴェネツィアの法律が適用されていたが、オスマン帝国下のカイロでの状況を教示してほしい。

12. ミリアム・エリアフ=フェルドン(テル=アヴィヴ大学):齊藤報告へのコメント:

ヴェネツィアは疑いもなく、近世初期のヨーロッパにあって、一つだけではなく多くの局面からみて、比類のない国家である。この国はまさに、たいへん繁栄する商業的中心であり、地中海世界をヨーロッパと結びつける人、物、知識の交差点であった。そしてその支配者層は、商業的、経済的な利益を至上のものとみなす、きわめて現実的な人々からなっていた。そうであったから、齊藤氏が描いたように、この国はギリシア正教徒、ユダヤ人、外国人プロテスタントがほとんど妨げられることなく住んで仕事を行うことができた、当時としては極めて少ない(公的にはカトリックである)場所の一つであった。齊藤氏は、この都市の国際的な性格と、その寛容政策の全体像を示した。それは、通例は少数者集団の一つにしか目を向けようとしない、他の研究には稀にしか見られない概観である。

ヴェネツィア人の寛容政策の基盤として齊藤氏があげた諸理由-商業的・海運業的利害、他の動機よりも優先される国家事由(レゾン・デタ)、パドヴァ大学の哲学的伝統-に加えて、わたしは、もう一つの局面を強調しておきたい。印刷出版業である。

印刷業者はヨーロッパ中で、平和主義者やニコデモ主義的〔信仰秘匿を許容する〕諸宗派が乗り出してきたときにはなおさらのこと、平和や寛容に心を寄せる傾向があった(アントウェルペンのクリストフ・プランタンがおそらくもっともよく知られている例であろう)。16世紀の間、ヴェネツィアは、ヨーロッパにおけるもっとも重要な印刷業の中心であり、その印刷機は、ラテン語や〔イタリア語などの〕俗語のみならず、多数のギリシア語、ヘブライ語、アラビア語の書物をも世に送り出した。アラビア語のクルアーンの最初の刊本は、ヴェネツィアで1538年に出版された。基本的なユダヤ教の書物はすべて、ヴェネツィアで印刷された(ほとんどがダニエル・ボンベルグによる)。またヴェネツィアの印刷業のおかげで、古典ギリシアの科学と哲学の多くがヨーロッパ文化に再び入ってきた。そのうえ印刷工房は、これらの異なる諸集団の知識人たちの出会いの場となったが、そこでは思想の交流が行われ、他者に対する敬意が培われた。

さらには禁書目録が持ち込まれ、印刷所の生産物に教会の検閲の手が入ったときにおいても、印刷所は、宗教的少数者との文化的な共存関係を根こそぎにすることはしなかった。ヘブライ語の書物の検閲の場合が実際にそうであって、これらの書物は存在し普及され続けることが許された、ということを最近の研究は示している。たとえ、反キリスト教的と解釈されうるような言い回しや段落が、削除されてしまったにせよ。

わたしは、教会による書物の検閲にみられるこの複雑な意味合いと、齊藤氏が紹介するゲットーとの間に、類似点があると見た。つまり〔ゲットーは〕一方では、隔離と迫害の象徴であるが、同時に、ユダヤ人の共同体に存続し機能することを許した、保護のための手段でもあったのである

最後に、ヴェネツィアの異端審問について一言。それは、非カトリック教徒に対して、比較的に寛大であったかも知れない。しかし、このことは、妥協せずに自分の信条を公言する人であることが容易にわかる場合に、限られていた(だから例えば、公然とユダヤ教に復帰した新キリスト教徒〔ポルトガルのユダヤ教禁止令以後、キリスト教に改宗した旧ユダヤ教徒〕に対しては、当局は見て見ぬふりをしたのである)。しかし、ヴェネツィアの宗教当局は、〔「異端」審問の対象としうる〕隠れたる敵に対しては、他所の権力とまったく同様、警戒の目を光らせていた。再洗礼派、各種のニコデモ主義的諸宗派、隠れユダヤ教徒、など。このように、ヴェネツィアにおいてさえ、対抗宗教改革時代には、その寛容には限界があったのである。

13. 宮野裕(岐阜聖徳学園大学):マギリナ報告へのコメント

マギリナ氏の論点は、シャーの態度を別の観点から、主に国内及び宗教的観点から説明することである。

まず、チュルク系部族のキジルバーシュが、サファヴィー朝国家の枢要な構成要素だった。この国では、キジルバーシュの指導者たちが地方行政官として任じられていた。それ故に王朝の創始者イスマーイールは、シーア派の一種であったキジルバーシュの宗教を軽視できなかった。しかし、注目すべきは、キジルバーシュの宗教が純粋なシーア派イスラームでなく、主に三要素(シーア派イスラーム、キリスト教、ジャーヒリヤ)からなる混交宗教だったことである。例えば、キジルバーシュは、神は三位一体の一位格を構成すると考えていた。従って、サファヴィー朝のシャーたちが三位一体に関心を持ったことは驚くに値しない。とはいえ、カリフのアリーがキジルバーシュの信仰においては父なる神の生まれ変わりだったので、シャー・イスマーイールは国教をスンニ派から十二イマーム派に変えることにした。

第二に、シャーたちの態度の理解にとって重要なことは、サファヴィー朝が多くの非ムスリム臣民(アルメニア人、グルジア人、ユダヤ人、ゾロアスター教徒)を有したことである。シャーたちは彼らの信仰に注意を払わざるを得ず、ましてや武力を持って彼らをシーア派に改宗させることは不可能だった。彼らの諸宗教の統合も無理だった。ただ、マギリナ氏が指摘したように、アッバースは、その臣下でない非ムスリムに対しては非常に厳しく対応した。

第三に、そもそも、スフラワルディー教団やその後継であるサファヴィー教団の基礎には、スーフィズムが横たわっていた。シャーは、ペルシアのシャーであるばかりか、スーフィー教団の指導者(シェイク/シャイフ)だった。マギリナ氏の指摘にあるように、アッバースの真の信仰は、霊的神秘主義的方法のなかにあったのであり、霊的探求のためにいかなる宗派的な障壁もなかったのである。

マギリナ氏の主張は興味深く、また魅力的である。というのも、彼女の研究は、我々近代人が慣れ親しんでしまっている類の、単純な政治的説明を含まないからである。同氏はシャーの親和的態度の宗教的内面的背景を注意深く検討しており、私も基本的には彼女に同意できる。

しかし、この報告を聞いていて、若干の疑問点が浮かんできた。まず、マギリナ氏は、教団の形成をもたらした「フトゥバト」の教理に言及した。この教理によると、世俗の職業は宗教儀式上の活動と結びついているという。しかしこの「フトゥバト」がサファヴィー教団の「寛容性」にどのように結びつくのか。或いはこの教理そのものは寛容性には結びつかないのか。内的な論理が知りたい。

第二に、マギリナ氏の述べるところ、サファヴィー教団は異宗教に対し寛容だった。概してそのことには同意できるものの、ただしその場合、イラン系のタリシ族は、なぜタキーヤ原理を使ったのか。彼らの信仰はホッラム教だったが、サファヴィー朝の臣民でもあったではないか。

最後に、この王朝において、十二イマーム派のウラマーたちは、シャーのエゾテリスムをどう考えたのか。彼らはシャーに不満を抱かなかったのだろうか。

14. 黒木英充(東京外国語大学):ムアウワド報告へのコメント

 

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