第2回国際ワークショップ

「ヨーロッパ・地中海世界における諸宗教の相剋と融和」第二回国際ワークショップ


主催:2009-2012年度科学研究費補助金・基盤研究(A)
「ヨーロッパ・地中海世界における異宗教・異宗派間の相剋と融和をめぐる比較史研究」
開催日時=10月29日(土)09:00-18:40
開催場所=東京大学(本郷)東洋文化研究所3階大会議室
使用言語=英語・フランス語(日本語通訳が付きます)

プログラム

09:00-09:10 開会の挨拶 深沢克己(東京大学)
09:10-10:40 ピラル・ヒメネス・サンチェス
(トゥルーズ大学、南フランス・スペイン研究所)
カタリ派の歴史的文脈 ――なぜ『善信者たち』は南フランスで支持されたのか?
(フランス語、通訳付き)
同報告へのコメント 印出忠夫(聖心女子大学)
10:40-10:50 休憩
10:50-12:20 アラン・タロン(パリ=ソルボンヌ大学)
16世紀の宗派間越境 ――イタリア異端審問にみるフランス人の事例
(フランス語、通訳付き)
同報告へのコメント 深沢克己
12:20-13:30 昼食休憩
13:30-15:00 エリク・シュイール(ボルドー第三大学)
17世紀フランス南西部の宗教書出版――宗派間対立の媒体か?
同報告へのコメント 勝田俊輔(岐阜大学)
15:00-15:10 休憩
15:10-16:40 山本大丙(早稲田大学非常勤講師)
16世紀低地地方における『愛の家』――人文主義者と『世界の修復』
同報告へのコメント 踊共二(武蔵大学)
16:40-16:50 休憩
16:50-18:20 黒木英充(東京外国語大学)
「西洋」でも「正教」でもなく――オスマン帝国内とそれを越えた領域における
ギリシア・カトリックのアイデンティティ形成

同報告へのコメント 宮野裕(岐阜聖徳学園大学)
18:20-18:40 総括討論と結論
19:30~ 懇親会(医学部教育研究棟13階カポ・ペリカーノ)
※懇親会への参加は招待者に限らせていただきます。

報告要旨

1.ピラル・ヒメネス・サンチェス(トゥルーズ大学、南フランス・スペイン研究所)
カタリ派の歴史的文脈――なぜ『善信者たち』は南フランスで支持されたのか?
 1160年代の南フランスに、ある分派の信者が出現した。そのメンバーは「善信者(善き人々)」と自称し、アルビ近郊のロンベルの騎士たちのようなカストルム(防備村落)の小貴族層によって保護された。善信者たちは、カトリック教会の指導者から異端として尋問され裁かれたが、カトリックの権威とそれによって授けられる秘蹟の有効性に異議を唱えた。つまり、彼らが疑義を呈したのは、カトリック教会のモデルだけでなく、「グレゴリウス改革」直後にローマ教会体制が押しつけようとしたキリスト教社会のモデルであった。対アルビジョワ派十字軍(1209年)の直前には、アルビ、トゥルーズ、カルカソンヌを含む領域で、村落と都市のエリートが善信者たちの説教を歓迎し、受容した。いかなる理由で貴族層は、この分離主義(カタリ派)を受け入れ、保護し、さらには帰依するに至ったのか、また、これらの善信者たちは、実際はいかなる者たちであったのであろうか。
 12世紀の他のあらゆる西欧キリスト教社会と同様に、南フランスにおける異端問題は宗教的領域を越える。この問題は政治的、社会的、経済的そして文化的諸要因全体を考慮することによってはじめて説明されうる。それらの要因は、当該地域における諸侯権力の確立と強化の追求に関与しているのである。

2.アラン・タロン(パリ=ソルボンヌ大学)
16世紀の宗派間越境――イタリア異端審問にみるフランス人の事例
 1542年にローマ教皇パウルス3世によって新たな形で設立されたローマの異端審問裁判所の裁判権はフランス王国の中で承認されなかったものの、フランス王国臣民やフランスに定着したイタリア人の中には、この裁判にかけられた人物がおり、出廷しない者もいる一方、裁判はほとんどの場合彼らがイタリア滞在中になされた。たとえ、その人数が大変少なく、何らかの統計的な分析を行うことは無駄に思われるとしても、その訴訟は多様性に富んでおり(被告人の中には、宮廷貴族から物乞いまでおり、聖職者・軍人・商人も含んでいた)、史料それ自身のもつ豊かさもフランスの歴史記述の中では全く知られていない。したがって、我々はそれら全ての訴訟を、改宗の方法やさらには宗派間越境を理解するための一つの構成体と考えることができる。
 ところで、これらの訴訟はいくつかの要因に焦点を絞ることができ、それがプロテスタンティズムへの改宗を説明する。まず聖職者に対する反抗心であるが、その役割を評価することは行き過ぎにはあたらない。なぜなら、聖職者への憎悪は多くの方法で遠慮なく示されるからである。次に古い宗教への非難に対して応答できなかったことであり、特に非難が嘲笑と嘲りの形で行われた時にそうであった。さらに、議論や説教で話される言葉の役割は、多分に文書に勝った。最後に、そして何より重要なのが、真にローマ・カトリック教会に代わるものが今や存在しているという事実であり、それが具体的に目に見える教会の形で活動していることである。ここで取り上げた改宗者の多くが、プロテスタンティズムが勝利を得た国々と接触し、あるいはそれらの国々を単に意識することを通じて、潜在的な宗派分離を形作った。
 被告人の自白の教義的な内容は、その全てが2つの宗派の間にある主要な相違点を含んでいたとしても非常に多様であった。特に顕著に確認できるのは、現在の歴史記述が一般に1つの宗派を選ぶことを拒む姿勢を強調する傾向にあるのとは対照的に、多くの被告人ははっきりと1つの教会と絶交し、もう1つの教会に入ることを意識していることである。すなわち、個人的信仰に基づく宗教としての和協的な「第3の道」であるニコデモ主義、あるいは様々な宗派の間を巡回する事例はほとんど存在せず、宗派的アイデンティティによる宗教意識は非常に強いように思われる。
 最後の問題点は、それを論じるには十分でないにしても、ここで検討してきた史料から生じる。すなわち、ローマ・カトリック教会と和解した被告人は、その後もカトリック信仰にとどまったようで、彼らがカトリックへの強制改宗の後に異端審問の強制力を逃れた時においてさえそうである。歴史家達は、単純化や時代錯誤に陥ることなくして、強制的になされた彼らの改宗がどのように持続したのか不思議に思うに違いない。1つの答えは次のようになるかもしれない、すなわち、強制改宗はそれを課された人々にとって受け入れられるものであった、なぜならそれは秩序を回復させるからであり、その秩序は確かに過酷であるが、同時にその圧迫それ自身の中に彼らを安心させる要素が含まれていたのである。

3.エリク・シュイール(ボルドー第三大学)
17世紀フランス南西部の宗教書出版――宗派間対立の媒体か?
 識字率の低い南西部フランスで印刷された宗教書は、宗派的帰属意識を伝播する役割をはたしたのだろうか?今日まで保存された刊行物は、寛容、無関心または相互の敵対心のなかで17世紀に共存した二つの宗教、さらには特殊な個性をもつ二つの文化を判別することを可能にするだろうか?この点にかかわる研究のために、われわれは主としてアキテーヌ地方に分布する20都市で出版された書物を研究した。宗教印刷物を定義するなら、それは「宗教に関連する刊行された文書」である。宗教書に分類された338点は、選択した諸都市の印刷業者=図書販売業者が製作または発注した書物総数635点の53%に相当する。
 われわれが参照した書物のなかに、遠大な意図をもつ文書はほとんどない。それらの影響範囲は局地的である。それらの宗派的帰属は、書名、内容、または著者が知られている場合には著者名から判定される。259点はローマ・カトリック教会に属し、53点が改革派教会に属している。配分は不均等であるが、人口比を考慮するとプロテスタント書の割合が高くなる。書物の形式的特徴は、よく類似しており大差はないが、カトリック書とプロテスタント書の境界は明瞭である。これを説明するのは著者の人物像であり、彼らは単なる信徒ではなく、主として教会の戦士たちなのである。
 出版数のグラフは、2つの明瞭に区別される波を示す。宗教書出版は世紀初頭に追い風に乗り、1620年代前半に最初のピークを迎えたのち、1660年まで徐々に下降線をたどる。この谷底を脱すると出版は活発な回復期にはいり、1666年から1680年までのあいだに全盛期に達する。1620年代にはカトリック書が支配的になり、ナント王令廃止の数年前には改革派の出版物を決定的に凌駕する。プロテスタントは不平等な闘争のなかで消耗していったようであり、そのことは彼らの論争上の努力にも示唆されている。ユグノの論争書は、南西部の諸都市で出版された論争書の約36%を占める。
 しかしカトリックの勝利が明白になるにつれて、和解の願望がこの史料体のなかに出現する。出版の第2の波は1661-1700年の時期に相当するが、そこで論争書は周縁的な地位を占めるにすぎない。すなわちそれはカトリック書の8%、プロテスタント書の20%を占めるだけである。双方の教会において、出版書は対立する教会から視野を転じて、それぞれの内部的課題、司牧活動に対して優先的関心を集中するようになる。戦争の護教論は神学に道を譲り、神学は説教、聖書註解、さらに教理問答の形態をとるようになる。

4.山本大丙(早稲田大学非常勤講師)
16世紀低地地方における『愛の家』――人文主義者と『世界の修復』
 「愛の家」は、1540年頃、ヘンドリク・ニクラースによって設立された宗教グループである。この秘密結社の教義は、恐らく16世紀において最も奇異な宗教思想のひとつであろう。革命的な再洗礼派グループの指導者と同じく、ニクラースは、地上における新エルサレム建設のために神が自分を遣わしたと考えていた。彼によれば、人間は神と一体化(神化)することができ、当然ながら彼は、自らは神との一体化を実現した者と信じていた。他方、ニクラースは世俗権威に逆らうことを許さなかったため、信徒たちはニコデモ主義のもと自らの宗教的信念を維持した。ニクラースのユニヴァーサリズム的傾向は、愛の家の教義の中で最も目立つ要素である。ニクラースは、ユダヤ人やムスリムを含む人類全員が愛の家の信徒となるべきだと主張し、自らに従う者は誰であれ救済されるとした。簡単にいえば、ニクラースの目的は、神との一体性を回復し、アダムの罪以降堕落したこの世に原初世界の純粋性を再び取り戻すことだった。
 愛の家は秘密結社ではあったが、数多くの人々を引きつけたようである。ユストゥス・リプシウス、フランキスクス・ラフェレンギウス、クリストフ・プランタン、そしてベニート・アリアス・モンターノといった人文主義者たちは、この結社と密接な関係を有していた。東洋学者、天文学者、カバリストそして非正統的カトリック思想家だったギョーム・ポステルも、この結社に関心を示したことが知られている。ポステルは、1566年以降その非正統的信条のためにパリで軟禁状態にあり、愛の家に加わることはできなかった。また、ポステルも、ニクラース同様、自らを神によって特別な指名を与えられた者と信じており、自分を天使教皇と考えていた。これらの事実に基づき、多くの研究者は、ポステルの愛の家という結社に対する関心は、一時的なものだったと考えている。
 しかし、何故ポステルは、そもそも愛の家に関心を持ったのだろうか。第一に考えられるのは、ポステルの思想とニクラースのそれの類似である。ポステルの思想には、やはりユニヴァーサリズム的傾向が含まれている。彼は、キリスト教は他の宗教と和解すべきだと、さらに全世界の住民が一つの統合された教会のもとひとつになるべきだと考えていた。真の教会が建設されれば、世界は原初的な純粋性へと回帰するであろうとポステルは主張し、その過程を「万物の復元」あるいは「世界の修復」と呼んだが、これはニクラース自身の終末論的ヴィジョンに似ている。第二に、彼は自らと接触した人々の中に自身の信念を拡散することに心を砕いていた。R. ベイントンによれば、彼はダヴィデ・ヨリスの信徒の中で自らの思想を広めることに、少なくともある程度成功している。ポステルの思想とニクラースのそれに見られる類似性を考えれば、愛の家以上に彼の思想の苗床となりうる宗教グループは恐らく存在しなかったであろう。これらを考慮すれば、ポステルのこの結社に対する関心は、少なくとも一時はかなり強かったと考えられる。ポステルは、愛の家の信徒ではなかった。しかし、彼の思想であった「世界の修復」は、他の「預言者」によって設立された秘密結社に対する共感をもたらしたのであった。

5.黒木英充(東京外国語大学)
「西洋」でも「正教」でもなく――オスマン帝国内とそれを越えた領域におけるギリシア・カトリックのアイデンティティ形成
 東地中海の「歴史的シリア」の地域は、ムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒の極めて多様な宗派を包摂している。イスラームの成立以来の14世紀間の長きにわたり、これら諸宗派は紛争を経験しながらも、概して平和的な共存を実現してきたと言ってよかろう。19世紀半ばにムスリム・キリスト教徒間で暴力的な紛争が発生するに至るが、それに先だって、同じキリスト教徒間で、目立たないながらも深刻な分極化、ユーニエットの運動が進行していた。本報告は、ギリシア・カトリックのギリシア正教会からの分離について、特に二人の聖職者、ゲルマノス・アーダム (1725-1809、アレッポ主教在位1777-1809) とその弟子マクシモス・マズルーム (1779-1855、アレッポ主教在位1810-1815, アンティオキア・エルサレム・アレクサンドリア・および全東方総主教在位1833-1855)の行動とその軌跡に焦点を当てて論じた。
 本報告で強調したのは、このアイデンティティ形成の過程において多くの「他者」への対抗が見られたこと、そして権力関係の網の目に戦略的に適応しようとする動きが見られたことである。いずれも歴史的に生成した多層構造を持つものであった。これは行動主体に対して極めて多面的な性格を与えることとなり、帝国内外の様々な権力を常に意識させるべく作用した。
 ゲルマノス・アーダムとマクシモス・マズルームにとって、大きく四つの対立の軸と言うべきものが存在した。第1は最も根本的な、反ギリシア正教会の軸である。これは「ファナリオット」というコンスタンティノープル(イスタンブル)の特権層であり、当時の正教会コンスタンティノープル総主教座に重ね合わせられていた。ギリシア・カトリックは自らをアンティオキア総主教座のもと、ビザンツ教会の伝統を引き継ぐアラブ・キリスト教徒と認識していた。
 第2の軸は、イエズス会を初めとするラテン・カトリックの諸伝道団に対するもので、伝道団はそもそもユーニエット運動の中心的な推進主体であったが、その現地キリスト教徒に対する介入的な姿勢は、多くの反発を引き起こした。アーダム主教はガリカニズムの影響を受けたが、それはマズルーム総主教にも受け継がれたに違いない。ガリカニズム自体はヨーロッパにおけるカトリックの自立化の動きを示すものであったが、その分権的な思想がオスマン帝国内においてギリシア・カトリックの自立を志向する者たちにとって、強い支柱となったことは想像に難くない。ギリシア・カトリックというユーニエット教会はあくまでも「東方」の教会であって、「フランク」ではなかったのである。
 第3の軸はアルメニア・カトリックに対抗するもので、それは1834年から1848年までの間の時期、オスマン帝国の「カトリック・ミッレト」として、ギリシア・カトリックはその管轄下に置かれていたからであった。
 第4の軸はムスリムに対するもので、1850年のアレッポ蜂起事件ではマズルーム総主教も襲撃された。彼の死後(1855年)、この軸に沿った暴力は1860年のレバノン山地とダマスクスにおいて劇的な噴出を見ることになるが、その収拾策の中でレバノンの宗派体制が創り出されてきたのだった。
 これらすべての対抗軸が、国際政治と地域的政治の激動の中で次から次へと現れ出てきたのである。そこではオスマン中央政府、ムハンマド・アリーのエジプト自立政権、ローマの布教聖省、フランスやオーストリア、イギリス、ロシア、プロシアといった国々の外交団などが中心的な役割を果たした。この動的な過程を通じて、ギリシア・カトリックの宗派は、ガリカニズムの思想をオスマン統治体制の中で援用して、多元的社会の中での法的地位を獲得するに至った。のみならず、ゲルマノス・アーダムもマクシモス・マズルームも、そのマルチなアイデンティティを戦略的に使い分けた。マズルームは四つの対抗軸の関係の中で様々な振る舞いを見せ、国籍もオスマンとフランスの二つを持っていた。かようにして、宗派主義というものは外から与えられる枠組ではなく、多元的社会における相互的関係の中で、ちょうど数多くの「他者」が現れては消える万華鏡のように創り出されるものなのである。

コメント要旨

1.印出忠夫(聖心女子大学)
ヒメネス・サンチェス報告へのコメント
 ヒメネス=サンチェス報告においてとくに注目すべきと思われる2点を挙げ、併せて評者の考えを示したい。  
 第一は、同時代以来、近年にいたるまで長い間信じられてきたような、カタリ派の淵源を古代マニ教に求める見解は今日否定されているという点である。付言すればこのようなイメージは、おもに同時代の教会人、とりわけローマ・カトリック教会の権威を受け入れようとしない信徒の存在に対して重大な脅威を感じていた知識人聖職者によって描かれたことに起源を発すると考えられる。なお、カタリ派の名称は12世紀半ば、修道院長エクベルトによりラインラント地方に散在していた諸教団に与えられた命名を嚆矢とするが、これらのグループが単一の名称にふさわしい共通した性格を有していたかどうかは今日確認されない。
 第二に、報告においてフランス南部地域(南仏)におけるカタリ派を理解するうえで重要と思われた次の3点に注目したい。
① カタリ派はグレゴリウス改革に対するひとつの反動として発生した。この改革以後、カトリック教会は厳密に位階化された聖職者の手を通して授けられる秘跡によって信徒の魂の救済を保証する唯一の機関としての自己規定を明確にしたが、とりわけ1140年代以後、このような権威を否定し、自らこそが使徒の伝承の継承者であると主張する集団が西欧各地に現れはじめた。「カタリ派」「アルビジョワ派」「良き人々(bons hommes)」は、南仏においてこうした主張をかかげた教団に与えられた名称である。因みに他の異端と異なりこれら教団が反カトリック色を鮮明にした要因を考えるについては、地中海沿岸地域の一環をなす南仏がローマから近く、戦略上の要地でもあり、グレゴリウス改革期以後の教皇座からの介入が他地域以上に甚だしかった点を留意する必要があるだろう。
② 第二に注目すべきは、南仏固有の政治状況ならびに封建慣行である。まずこの地を舞台に12世紀のほぼ全期をつうじて繰り広げられたトゥールーズ伯家とバルセロナ伯家との「大戦争」がある。この闘争は現地の中小領主勢力に政治的オポチュニズムに基づいて行動する余地を与え、その過程で離教者集団の保護(もしくは弾圧)が政治的カードのひとつとして利用された。加えてこの地域では領主層における長子相続制が未確立だったことも、権力の分立競合化を促した一因であろう。
③ またカタリ派教団の普及拡大はこの地の家族的結びつきに支えられていた。支持者はしばしば血族関係を通じて拡大した。教団の中で女性の果たした役割も無視できない。貴族の女性は「良き人々」に食物を供給したし、彼らの指導下に共同生活を送る女性たちも見られた。この家族的ネットワークは異端審問によって破壊されたものの、その後カトリック側がそれまでこの地域にほとんど存在しなかった女子修道院を創設するというかたちで次の時代に影響を残すことになったのである。

2.深沢克己(東京大学)
タロン報告へのコメント
 アラン・タロン氏の報告は、ローマとパリに保存された異端審問記録に依拠しながら、宗派間改宗の興味深い事例分析を提示した。具体的には、異端審問所で裁かれた6人のイタリア人またはフランス人が研究対象となる。
 たしかに多少とも一般的な結論を導くには、標本数が十分であるとはいえない。しかし信者の霊的変遷や改宗の内面的過程を解明するためには、情報の数量よりもその質のほうが重要であることは認めてよいだろう。また異端審問史料が、決して中立または客観的ではなく、不可避的に偏向し類型化された史料であるのも事実である。それにもかかわらず、被告の証言をとおして改宗過程を素描することが可能であると、タロン氏は考えた。
 まず問題とされたのは、カトリック信仰からプロテスタント信仰への改宗である。第一段階は「非儀礼化」または「非秘蹟化」であり、これは斎戒の違反から告解の拒否まで含み、最終的にはカトリック儀礼への全般的無関心に到達する。これにある種の反教権主義や聖職者集団への憎悪が加わり、伝統的信仰そのものに対する離脱や逡巡や疑念が発生する。確信的プロテスタントとの出会いや説教への出席が第二段階、すなわち組織化された教会の発見による改宗への移行をうながすが、この改宗は神学的というより情緒的であり、文献よりも図像表現に影響された結果であることが多い。
 しかし異端審問による断罪の脅威は、これら改宗者の一部にカトリック教会に復帰することを余儀なくさせる。これが第三段階、すなわち再改宗である。たしかにこのカトリック信仰への回帰はときに利害関心によるが、しかしそれは偽善的であるとはかぎらない。なぜならタロン氏のたくみな表現を借りれば、「強制改宗も、ついには内面化されることがありうる」からである。以上すべての分析は興味深く、思索のために多くの素材をあたえる。
 しかし宗派間の断絶に関して、以上の分析から導かれた結論に対しては、若干の留保をつけたい。タロン氏によれば、この断絶は全面的であり、両宗派のあいだに「中立」空間は残されていない。なぜなら被告たちは、カトリックでもプロテスタントでもない「非宗派的」キリスト者としてみずからを表現しようとは決して考えないからである。この点についてタロン氏は意図的にティエリ・ヴァネグフランの学位論文『ローマにもジュネーヴにもあらず』を批判する。ヴァネグフランは宗派教会の孤立した要塞のあいだに、宗教的感性の広大な「田園部」が存在することを論証しようとしたからである。
 論評者の個人的見解としては、この批判は全面的に正しいとはいえない。なぜなら分析の次元が完全に同一ではないからである。一方は意識的で決断された選択の領域にかかわるのに対して、他方はむしろ無意識的な混然とした感性の領域に属する。一方は異端審問史料に依拠するのに対して、他方はより多く個人的文書、たとえば回想録や書簡や日記や家計雑記帳、つまり今日流行の「自己文書」ego-documentsを踏査している。おそらく指摘すべき点は、同一の人物が、異端審問所の法廷に立つときと、友人や親族など近しい人々と一緒にいるときとでは、かならずしも同じ発言をしないことである。異端審問官に向かい合うときは、自分の立場を選ばなければならず、どちらの宗派でもないと宣言するのはむずかしい。なぜならそれは、最悪の異端とみなされる危険性があるからである。しかし親密な人々との会話なら、カトリック信仰にもカルヴァン派信仰にも完全に満足していない場合には、好んで流動的で不決断な態度をとることもできる。言いかえれば、個人の内面においては、対立する二宗派は両立可能であり、和解可能でさえあるといってよい。さらに論評者の意見では、もしも強制改宗が良心の危機を招くことなく、ついには内面化されえたとすれば、それは共通する不可視の地下基盤により、ひとつの信仰から他の信仰への移行が、全面的な断絶なしに可能になったと考えるべきではないか。論評者は、ヴァネグフランがその分析を位置づけようとしたのは、まさにこの次元だったと考えている。

3.勝田俊輔(岐阜大学)
シュイール報告へのコメント
 シュイール博士の報告は、17世紀のフランス南西部における宗教書の出版のパターンをテーマとしている。報告は、詳細かつ慎重な史料分析にもとづくものであり、示唆的な事実がいくつも明らかにされている。コメントとして、特に以下の3点を取り上げたい。
 第一に、南西部における宗教書の出版パターンは全国パターンと一致したとされているが、なぜ一致したのかを問いたい。フランス南西部は、ナント王令以後のユグノー勢力の最大の根拠地となった地域であり、1620年代にはユグノーの反乱が数回起こっている。つまりこの地域はいわば特殊地域だったと考えられる。なぜ、この地での宗教書の出版のパターンが全国パターンと一致したのであろうか。
 第二に、出版された宗教書は、主にカトリック、プロテスタント両派の聖職者によって著され、教義や信仰そのものを主題としていたとされている。そうすると、これらの書物は、マンドルーによって明らかにされた17-18世紀のフランスにおける民衆本(いわゆる青本)とは別の世界に属していたことになる。「青本」は、しばしば印刷業者によって著され、宗教が主題となる場合には聖人伝の形を取ることが多く、大半がカトリック向けの書籍だったが、こうした青本文化は、本報告ではどこに位置づけられるのであろうか。
 第三に、このワークショップにもっとも直接的に関わる問題だが、17世紀半ばに、南西部における宗教書のトーンに変化が見られたという事実に注目したい。これらの宗教書は、当初はカトリック、プロテスタントが互いに相手を攻撃していたが、のちに自派の平信徒に向かって「正しい信仰」を説くものへと内容が変化していったとされている。この変化は、なぜおこったのだろうか。
 最後に一つ付け加えるならば、本報告と17世紀イングランドの宗教書出版の研究(Kari Konkola, ‘“People of the Book”: the production of theological texts in early modern England’, Proceedings of the Bibliographical Society of America, 94:1(2000))を比較すると、当時のイングランドは極めて大量の宗教書が出版された社会であったと推測される。しかしこの点については、さらに個別の事例の検討を重ねることが必要であろう。
 私のコメントに対して、ワークショップ当日、シュイール博士より、青本は南西部ではあまり流布していなかった、また17世紀半ばに信仰の私事化が起こっていたと推測される、との回答を頂いた。

4.踊共二(武蔵大学)
山本報告へのコメント
 山本氏の徹底的な分析によれば、「愛の家族」は当時の多様な宗教思想が出会うクロスポイントであり、とりわけギョーム・ポステルがカバラーの影響を受けた「世界の修復」「諸宗教の和解」の思想を広める「苗床」として機能したという。ポステルのユニヴァサリズムは、当時の平均的なキリスト教徒にとっては奇異に映ったかもしれない。しかしそれは例外的な思想ではない。キリスト教的カバラーに基づいた「世界の修復」という観念は、ドイツの再洗礼派その他の急進派、たとえばアウグスティン・バーダーなども抱いており、そのユニヴァーサリスト的な主張によれば神の国はキリスト教徒だけでなくユダヤ人にもトルコ人のムスリムにも異教徒たちにも開かれている。なおバーダーはユダヤ教の知識人たちと交わっていた。トーマス・ミュンツァーも同様の思想の持ち主である。彼はいくつかの書簡のなかで、ユダヤ人やトルコ人も救いの選びの対象となると述べている。主流派の宗教改革者の間にも類似の思想が見られる。ツヴィングリがその典型例である。彼は、複数の著作および説教のなかで、聖霊の「無制限」の働きによって改宗や洗礼を伴わなくとも非キリスト教徒の選びと救いは生じうると論じている。またシュトラースブルクの宗教改革者カピトは、ユダヤ人の間にも、「神の祝福の種子」がその内面に植え込まれている場合には、神の国に入るべく選ばれた者が存在しうると論じている。
 愛の家の指導者ニクラースの、またポステルとその仲間たちのユニヴァーサリズムは、近世ヨーロッパにおいて孤立した現象であったわけではないと考えられる。いずれにしてもわれわれは、「境界」を越える宗教現象に、そして対立する諸宗教、諸宗派の共存の新秩序を模索する近世人の営みに従来以上に目を向ける必要がある。山本氏の研究は、われわれに優れた模範を提供している。

5.宮野裕(岐阜聖徳学園大学)
黒木報告へのコメント
 黒木報告は、18世紀以降にギリシア・カトリックがアイデンティティを確立するに際し、その聖職者がギリシア正教会およびローマ・カトリックの間をうまく立ち回り、目的を達成していく過程を論じながら、相克と融和の問題がいかに主体的に構築されていくのか、また国際的なものも含めた環境がいかにこれに影響を及ぼしているのかについて考えさせるものであった。異宗教間では必ずしも対立が生じるわけではなく、対立は「諸合力」の結果であることが強調された。そのなかでも、本報告では、とりわけアイデンティティの問題に起因する相克と融和の問題が中心的に考察されていたように思われる。但し、報告中にやや不明な点が若干あり、それについてコメントした。
 第1に、ギリシア・カトリックが次第に増加してくる歴史過程における、彼らと旧来のギリシア正教徒との関係、とりわけ居住のあり方に関してである。彼らは時に隣人のような形で、互いに身近な存在だったのか。或いは居住区は宗派で分かれていたのか。もし分かれていたとするならば、宗教以外に、両者を分かつような経済的格差なども存在したのではないか。とりわけ、流血の衝突に至る原因を探るためにも、この衝突以前の状況を考慮せねばならないだろう。
 第2に、ギリシア・カトリックの聖職者と信徒との関係についてである。ギリシア・カトリックは1724年にダマスカスに総主教座を設置したものの、彼らはすぐに町を去り、町から離れた修道院にそのセンターを置かざるを得なかった。その場合、町の信徒たちはいかにして聖餐など日常の秘蹟を得ることができたのか。原則的にはそれなしでギリシア・カトリックのコミュニティは成り立たなかったはずであり、これについて疑問が生じた。この疑問はまた、ある宗派が、別の宗派がそれまで支配的だった地域に入っていく過程における衝突や融和の問題とも関わってくる。
 第3に、報告では、イスタンブルから送られてくるギリシア語話者のギリシア正教会高位聖職者に対する反発が、アラブ語話者であるシリア地域の信徒から生じたとされた。しかし、正教会においては、地元出身の聖職者がその地の高位聖職者になることはしばしば生じる。イスタンブルの正教総主教座は、シリア地域出身のアラブ語話者ではなく、中央からギリシア語話者をシリアに送り続けたのだろうか。その頻度はどの程度だったのか。現地の反発を尻目に、総主教座はギリシア語話者の叙任を続けたのだろうか。報告におけるアイデンティティをめぐる衝突の主原因の一つとされるこの問題についてコメンテーターは質問をおこなった。

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