第1回国際ワークショップ

「ヨーロッパ・地中海世界における諸宗教の相剋と融和」第一回国際ワークショップ

日時=2010年11月23日(火)09:00-18:30

場所=東京大学(本郷)山上会館201-202会議室

I. 報告要旨:

1. フィービ・アルマニオス(ミドルベリ大学、アメリカ合衆国ヴァーモント州)「宗教とアイデンティティの交渉―オスマン朝エジプトにおけるコプト教徒とムスリムの互換的関係」

 イェルサレムへの巡礼は、オスマン朝期中東におけるキリスト教徒の儀礼のうち、最も重要かつ公的なものであった。18世紀初頭のエジプトにおける、コプト教徒によるこの儀礼は、金銭的負担が多く、ときとして共同体の立場を不安定にさせる原因ともなった。しかし同時に、巡礼は在家信徒の有力者が、教会の聖職者やムスリムの政治的・宗教的有力者と交渉してはじめて実現するものであり、このような事象はそのような交渉が可能であった18世紀初頭の時代性を象徴している。アルホンと呼ばれる在家信徒の有力者と、エジプトの在地権力者との緊密な関係は17・18世紀を通じて育まれた。この関係が、イスラーム法上では規制されている、コプト教会の宗教的儀礼を維持する助けとなったのである。
 本報告では、コプトがカイロからイェルサレムへ毎年巡礼するにあたり生じた、当局などとの交渉過程や協力体制、そして時折の不和を取り上げた。18世紀前半にこのような儀礼が行われていたわけであるが、この時期はコプト教会の文化的復興期であった。この儀礼は、キリスト教教会の古き伝統とのつながりを示しながらも、毎年行われるムスリムのメッカ巡礼との共通性も顕わにしている。コプト・ムスリム双方の史料を分析した結果、コプト教会の在家信徒と聖職者は、互いに、そしてムスリム当局と協力しあうことにより、巡礼というコプト教会の儀礼を維持し、共同体意識を鼓舞、さらにはイェルサレムにおけるコプト教会の存在を促進しようとしていたことがわかる。
 またイェルサレムにおいて、他の東方キリスト教諸教会と共同の儀式に参加することは、オスマン朝世界のキリスト教徒の中でコプト教会の存在感を高めることとなった。イースターの前夜に、ギリシア・アルメニア・シリア・コプトの各正教会信徒はキリスト教徒の間で最も崇敬されている聖墳墓教会へ集い、「聖なる火」の奇跡の証人となる。ここにおいてイースターの祭礼は最高潮に達するが、イェルサレムへ巡礼することにより、コプト教会の聖職者たちは彼らの権威を誇示そして高めるための、これらの儀式に参加が可能となったのである。アルホンは、彼らの政治的ネットワークを利用して巡礼の財政を司り、また推進役となった。この重要な儀礼は巡礼者に神の恩寵をもたらし、信仰心を満たし、オスマン朝社会における彼らの宗教的アイデンティティを新たにしたのである。

2. ベンジャミン・アルベル(テル・アヴィヴ大学、イスラエル)「近代初期のヴェネツィア海外植民地におけるローマ・カトリックとギリシア正教」

 ヴェネツィアの海外領土に居住していたのは、主要な民族的/文化的グループだけに限っても、ギリシア人、スラヴ人、アルバニア人であり、彼らは、別々の言語を使用し、ヴェネツィア人とは違って、ローマ・カトリック教徒ではなかった。その結果、ヴェネツィア国家のこの部分では、宗教関係の諸問題が、一方の側の支配権力、その現地の代理人、カトリックの臣民と、他方の側の現地住民の大部分との間の関係において、中心的な要素となった。このわたしの報告は、ビザンツ帝国の最終的な終焉(1453)から、オスマン朝のクレタ征服に終わるオスマン帝国との長期にわたる戦争(1645-69)の開始にいたる時代における、この関係について検討する。
 クレタ、キプロス、イオニア諸島、今日のギリシアに位置するそのほかの諸領土のような、ヴェネツィアの海外領土の大部分において、ギリシア正教徒は、人口の圧倒的な部分を占めていた。しかし、ヴェネツィアはローマ・カトリック[の都市]であり、ヴェネツィア人の[海外領土への]移民もそうだった。人数は少ないが、常に重要だった第三のグループは、ギリシア帰一教徒、すなわちフィレンツェ公会議(1439)での東西両教会の合同後、教皇の地位をキリスト教会の最高権威として承認したギリシア正教徒である。他方、ダルマティアやアルバニアのヴェネツィア領土においては、とりわけ都市の場合には、カトリック教徒が多数派であったが、正教徒はギリシア人ではなく、スラヴ人だった。
 ヴェネツィアの諸領土における宗教集団の編成は、均質的な規範があるわけではなく、それぞれの領土がヴェネツィア帝国に併合された際の状況によって規定された。例えば、キプロス、ケファリニア、ザキントス(ザンテ)、キティラのような幾つかの領土では、ローマ・カトリックの司教の統制下にギリシア正教の主教がその役割を果たした一方で、クレタ、ケルキラ(コルフ)、ダルマティアおよびアルバニアのヴェネツィア支配地のような他の領土では、ローマ・カトリックの司教および大司教しかいなかったのである。これら後者の植民地では、正教の聖職者(ギリシア人であれスラヴ人であれ)は、自分の叙階について他の領土にいる主教に依存した。前者では、正教の高位聖職者は、ローマ・カトリックの司教の優越性と教皇の権威を承認しなければならなかった。
 1439年以来、宗教の領域におけるこの植民地的な関係は、フィレンツェ公会議で宣言されたローマ教会と正教会の合同の実践として、思想的な見地においても擁護された。この宣言は、近代歴史学ではしばしば失敗したとみなされるが、多数の正教徒人口を支配するカトリック国家としてのヴェネツィアにとっては、都合のよい協定だったことが明らかになった。またそれは、支配の当局者からより好意的な姿勢を引き出す見返りとして、教皇の優越性を進んで承認する正教の信徒や高位聖職者にとっても、都合のよいものだった。
 カトリック諸国家の支配領土で生活する非カトリック教徒に関しては、このような関係のなかで位置づけられたローマ教会の地位が、たいへん重要だったのである。この点に関していえば、トレント(トリエント)公会議以前の時代には、教皇の姿勢は寛容なものであり、次の段階になると反宗教改革と歩調を合わせて、その姿勢が次第に非寛容なものになったといえるだろう。レオ10世、クレメンス7世、パウルス3世のようなルネサンス教皇は、ヴェネツィアの諸領土におけるギリシア正教会の自律性を承認し、奨励しさえする教書を発布したが、16世紀中葉以降、カトリック世界で非カトリック典礼が存在すること自体を違法とみなすような政策を採用するなど、教皇の姿勢は急激に変化した。
 一方、16世紀後半においても、トレント公会議や教皇の決定のなかに、ときおり現実主義が顔を出すことがあった。例えば、トレント公会議で婚姻に関する規範を定式化する際に、ヴェネツィアの利害を考慮に入れるという協定。あるいは、グレゴリウス暦の採用後も、ヴェネツィア海外領土のカトリック教徒は、正教徒と一緒に旧暦に従って宗教行列を挙行するのを、教皇が許可したこと。しかし、17世紀初期になると、ヴェネツィア諸領土における非カトリック典礼の自律性の問題は、幾つかの他の問題とともに、ヴェネツィアと教皇とを公然たる対立に追い込んだ。ヴェネツィアがこの対立を乗り切るのに成功したことは、その海外領土における信仰間の関係の安定性を確固たるものにしたのみならず、ギリシア人が人口の大多数をしめるこれらの領土におけるギリシア化(Hellenization)の過程を一層容易なものにもした。
 ヴェネツィアの世俗権力は、宗教的な緊張関係がその海外領土の政治的、社会的安定を脅かすことのないよう、継続的な努力を積み重ねた。この政策は、カトリックの高位聖職者がヴェネツィア海外領土の教区にトレント公会議の決定を押しつけようと試みた16世紀中葉以降、一層はっきりしたものになった。このような政策を遂行することで、ヴェネツィアは、反宗教改革の時代にイタリアのカトリック国家が実践しえた宗教的寛容の最高の実例を提供したのである。(齊藤寛海 訳)

3. マリア・ガザリ(ニース大学、フランス)「モリスコ―17世紀初頭スペインから追放されたマイノリティの運命と悲劇」

 モリスコは16世紀初頭にキリスト教に改宗したスペインのムスリムのことを言う。1609年~1614年の間に30万人のモリスコがフェリペ3世によって追放されたが、その数はスペインの全人口の4パーセントにあたる。そしてこの追放は数回にわたって実行された。およそ22万人のモリスコが船を利用してスペインの港から北アフリカやフランスあるいはイタリアに送られ、残りはピレネー山脈を越えフランスへと向かった。しかしその彼らもアンリ4世の暗殺後、再び追放される運命にあった。追放されたモリスコのうち8万人はテュニスに、12万人がアルジェリアにそして7万人がモロッコに定住した。そこでモリスコの一部はバルバリア私掠船団に参加したが、ほとんどの人々は以前からの仕事である農業や手工業に従事し続けた。
 しかし、1609年のモリスコの悲劇は実は百年以上前に始まっていたのであった。1492年にイベリア半島最後のイスラーム王国であったナスル朝の都グラナダをカトリック両王(イザベラとフェルディナンド)が征服してレコンキスタが終了した。カトリック両王は約15万人のムスリム住民が自らの信仰を守り、司法・教育制度を維持し、そして自分たちの生活習慣を持ち続ける権利を彼らに保証した協定を尊重すると誓った。しかし、これらの約束は短命のうちに終わった。1499年には多くのムスリムが強制的にキリスト教に改宗させられ、モスクは教会に姿を変え、コーランや多くの貴重な写本が焼き捨てられた。これらの暴力的な措置は、最初のグラナダでの反乱(1500年~1501年)が起き、それが鎮圧されたのがきっかけとなった。カトリック両王は彼ら新しい臣民(ムデハル)が自分たちの神聖なる支配者に対して反乱を犯したとして、この機会を利用して協定を無効にした。1501年にはグラナダで改宗は強制的となり、その改宗は1502年にはカスティリアのムデハルにまで広まった。
 旧アラゴン王領ではカトリック両王はFors[スペイン語のフエロスFuerosに相当するカタルーニャ=バレンシア語](都市や裁判所に与えられ、王権を制約する特権)のゆえに、また貴族たちが自らの領内に居住するムスリムを邦臣とみなしたので、改宗を強制することができなかった。しかしながら、1520年から1522年にバレンシア王領で兄弟団(ヘルマニアス)の反乱の間に、多くのムデハルが強制的に改宗させられた。神聖ローマ帝国皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)は1526年に旧アラゴン王領のムデハルすべてにこの措置を拡大して適用し、イスラーム信仰、アラビア語使用、そして他の習慣を禁止する王令を布告した。一方、モリスコは自らの新しい宗教に順応するために40年の猶予が与えられていた。
 1526年以降は公式にはスペインにはもはやムスリムは存在しないことになっていたが、実際には多くのムスリムが密かに信仰を守っていた。そのため、その後40年間にわたりキリスト教への改宗が進められながら、スペインの異端審問がモリスコを標的として実施された。1566年にはフェリペ2世が1526年の勅令を更新したため、グラナダで新たなモリスコの反乱(1568年~1570年)が勃発した。この反乱は(神聖ローマ帝国の軍人でフェリペ2世の異母弟にあたる)ドン・ファン・デ・アウストリアが鎮圧した。およそ8万人のモリスコが内陸地方に強制移送された。これらの事件は大きな波紋を投ずることになった。モリスコとキリスト教徒の間の社会・経済的格差がより大きくなり、キリスト教徒はモリスコが蜂起する準備をし、そしてスペインの敵(オスマン帝国とユグノ)と共謀しているとして非難したために、モリスコは自分たちが差別され、さらに憎まれていると感じるようになった。
 強制改宗が行われた100年後、モリスコのキリスト教への改宗と同化は失敗に終わった。一方でキリスト教徒はコンベルソに対して行ったと同じようにモリスコを拒否した。血の純潔規約は特に16世紀後半にスペインで大きく広まったのである。他方でモリスコのほとんどはキリスト教徒になることを拒絶した。
 追放は1580年代にフェリペ2世によって決定されたが、政治的、宗教的理由からフェリペ3世の治世になってようやく実施された。16世紀の間、キリスト教徒諸国家はオスマン帝国とプロテスタントの両方と戦わねばならなかった。17世紀初頭、フェリペ3世は自らのイメージを改善する必要に迫られていた。というのも、スペインはヨーロッパでの優勢を失っておりそして国内の諸問題に直面していたからであった。1609年、フェリペ3世はモリスコを追放するために12年の休戦を利用した。公式にはモリスコはスペインの脅威にあたるとされたが、実際にはキリスト教の法律に従うことを拒否したため、そして自分たちの父祖の信仰への忠誠のために罰せられたのである。とのくらいのモリスコがイスラームを守り続けようとしたのか、そしてどのくらいのモリスコが同化したのか、われわれには知る由もない。しかしながら、彼らはすべてモリスコという人種に属すとされ、それ故キリスト教徒の敵と見なされたのであった。1609年の立場は1492年と同じであった。すなわち、追放された人々は西ゴート王国のキリスト教スペインを侵略した子孫であった。レコンキスタ(キリスト教徒から「奪われた」土地の再征服)は17世紀の初めにようやく幕を閉じたのである。

4. マルティヌ・アセラ(ナント大学、フランス)「ナント王令廃止前後のフランス海軍におけるプロテスタントの存在―政治的・社会的諸側面」

 本報告で問題として取り上げる船乗りという職業集団がもつ独自の性格をまず初めに強調しなければならない。ルイ14世治世期フランスの人口は農村部に集中し、その比率は地方に居住する1800万人ないし2000万人の王国臣民の90%を占める。これに対して、本報告の検討素材にあたる「海民」(Gens de mer )は、7万人を数えるわずかな少数派である。しかしこの集団では、地域や時期に応じた差異はあるものの、改革派信徒の割合が比較的高い。歴史家の共通認識では、1628年にはおよそ110万人のプロテスタントがフランスに存在し、ルイ14世治世の初頭にはその数は80万人まで減少するが、その約3分の1、すなわち25万人が沿岸部に居住する。彼らの分布は地方により不均衡であり、たとえば近年の歴史研究が示すように、オニス・サントンジュ地方のように宗教改革運動から最も強い影響を受けた地方では、プロテスタントの船乗りは船員登録された乗組員の50~70%に達する。他方、アキテーヌ地方のボルドーや、ブルターニュ地方のル・クロワジクのような他の沿岸地方では、限られた数のプロテスタント共同体しか存在しない。合計すると、改革派信徒の船乗りは慎重に見積もって1万8000人から2万人くらいだろうと推定できる。
 海洋的環境は、プロテスタンティスムの影響を受け入れやすい素地を提供するが、それはプロテスタント諸国との恒常的な接触による。これは、フランスの商人や漁民が、これらの国々との伝統的な協力関係をもっていたからである。さらに、狭い船上空間、長期間の航海、数多くの危険が、少数の乗組員や船長の実践する新宗教を支えるのに貢献した。常に死を恐れ、精神的な拠り所もない無力な船乗りたちは、プロテスタントの礼拝に心を向けた。最後に付言すれば、「海民」集団の中には、注目すべき高度な専門技術者が存在し、彼らはすぐに若きルイ14世の関心を呼びさました。経済的・社会的・軍事的な役割において、船乗りは国民全体の繁栄に計り知れないほど貢献した。それゆえ、プロテスタント船乗りに対するルイ14世の現実的政策は、船乗りは少数者でありながら優秀な職能的技術をもつという特異な文脈と密接不可分の関係にある。
 船上生活は研究する価値のある主題であり、そこでは商船と王国海軍とを区別すべきである。まず前者について、激論や乱闘や侮辱など多少の緊張関係はあるものの、カトリック・改革派の二宗派は、遠隔地への商業航海のあいだ、総じて平和共存を維持した。両宗派は同じ船上で、一方は船首で、他方は船尾で礼拝をおこない、ある種の相互的寛容を特徴とする。ルイ14世治世期に、プロテスタント信仰を制限する多くの企てが1681年の王令を生みだし、これによりカトリック信仰が公的に強制される。それでもプロテスタント信仰は消滅しないが、しかしその活動は一層控え目になった。
 海軍では、船長についても乗組員についても職業的能力が絶対要件である。信仰する宗教は、人選の基準にはならない。それゆえ乗組員と従業員は、それぞれの艦船と海軍工廠の条件に応じて「自然に」混成集団となる。それゆえ船長が、宗教的基準により乗組員を選別する役割を演じたかどうかは、判定不可能であるといってよい。
 1661年以降、「ひとつの信仰、ひとつの法、ひとりの王」という格言は、絶対王権と王国の宗教的統一に関する王の決意の証言となる。船乗りに対する制約は、時として彼らの職業に特有なものとなる。早くも1669年から、そしてとりわけ1682年に、彼らは王国を離れることを禁じられ、違反者にはガレー船漕役刑が科された。実際には、ナント王令廃止に先立つ強制的立法は、少なくとも一時的に執行猶予をともなった。戦争と海軍への需要が最優先されたからである。したがって、将校、水兵、船員、船大工は自分たちの宗教を放棄しなかったとしても、各自の職務を保持した(たとえばデュケヌの事例がそうである)。
 しかしやがて困難な時代が訪れる。軍艦の船首で公然と行われていたプロテスタントの自由な礼拝は、ますます控え目にさせられたのち、完全に禁止される。同時に、国王はカトリック信仰の支配を船上に確立するために、1683年に軍艦付司祭団を創設した。1689年の有名な王令は、乗組員に対する司祭の役割を正式に決定した。
 ナント王令廃止の前夜、改革派信徒の王国外流出を回避しつつ、彼らにカトリックへの改宗を強いる方法は二種類あった。温和な方法は、説得するか経済的便宜を提供することにつきる。手荒な方法は、監視、龍騎兵宿営、強制改宗、刑罰から構成される。とくに新カトリック信徒に対しては、若干の特恵待遇も維持され、改革派信徒の棄教を促そうとした。しかしとくに地元指導者層が手段を選ばず改宗させようという熱意を抱く場合には、侮辱と暴力が隆盛となる。また抵抗の続く局地では軍事的介入がますます増加し、とくにシャラント地方沿岸部では周知の結果をもたらした。すなわち人々は改宗したり、国外移住したり、回避の策略を用いたりしたのである。この時およそ3000人から5000人の船乗りがフランス王国を脱出したと考えられ、こうしてフランス海軍にかなりの損失を与えた。その後に続く寛容な対応は、1686年以降の国王の政策について多くを証言する。国家は目をつぶることを選択し、王国立法はしばしば弛緩した。
 他の労働者たちがその職能の経済的価値により保護されたように、改革派信徒の船乗りもまた特恵待遇を享受した。その理由は、高度な知識をもつ人々が王国から流出するのを恐れたからにほかならない。船上での宗教実践に関しては、平和共存が支配的だった。苛酷な職務により固く結びついた船乗りたちは、集団としての有用性を自覚し、相互に尊重し合った。職能社会集団の凝集力が、宗教的差異を超克したのである。

5. 勝田俊輔(岐阜大学)「19世紀初頭アイルランドにおける宗教的和解の可能性」

 本報告は、19世紀始めのアイルランドにおける宗派関係の改善の可能性について、アイルランド島にとどまらぬブリテン諸島の枠組みで考察する。1801年にグレートブリテンとアイルランドは連合王国を形成するが、その際に、両国の国制上の関係だけでなく、ブリテン諸島の諸宗派集団の間の関係も変更・改善されることが期待されていたのである。
 なぜ、連合王国発足に際して宗派関係の改善が図られたのか。最大の要因は1798年のアイルランド反乱である。この反乱が独立共和国の建国を目的としていたため、連合王国を形成することで両国の関係を強化する必要が生じた。加えて、大規模な反乱の生じたアイルランド社会の根本的な改革も必要となった。改革には大きく二つの方向性があった。第一が、新国家・新国民のアイデンティティを形成しようとする動きであり、これは1707年にイングランドとスコットランドが合同した結果ブリテン人の国民意識が生まれた先例に倣ったものだったが、そのためにはブリテン諸島に宗派の分断線があってはならなかった。宗派関係の改善の必要はここに生じたのである。なお、改革の第二の方向性として、ブリテンと比べ発展の度合いが遅れているとされたアイルランド、特にそのカトリック人民を「文明化」・「ブリテン化」させようとする構想もあったが、こちらは第一の方向性と比べると傍流であり、本格的に表舞台に登場するのは連合王国形成後に第一の方向性が挫折した後のことである。なおどちらの構想も、政府だけでなく民間人にも見られたものであった。
 1800年の段階のアイルランド社会における宗派関係を見ると、日常生活の次元ではカトリックとプロテスタントは隣人として共存する慣行を確立していた。だが、この国に宗派の分断が存在することも否定できない事実であった。カトリックは人口の80%を占めたが、土地および国家(公職)のほぼ全てがプロテスタント(特にアングリカン)の手中にあり、また法的にも、カトリック差別の法が存在したため、カトリックとプロテスタントは同一の立場にはなかった。こうしたプロテスタント支配の体制は17世紀に形成され始め、紆余曲折を経て名誉革命によって確立された。ブリテン諸島の枠組みで見ると名誉革命はプロテスタント革命だったのであり、アイルランドでカトリックの支援を受けたジェイムズ軍をウィリアムのプロテスタント連合軍が破ることで最終的な決着を見たのである。
 1800年のアイルランドにおける宗派関係を改善するためには、理論上は三つの措置があり得た。第一は、カトリックを改宗させることでアイルランドを完全なプロテスタント国にすることであり、第二は、土地と公職ポストを人口比に即した形で再分配することで、カトリックとプロテスタントのバランスを改善することであった。これら二つは当時の政府には実現不可能な大事業だったが、第三の措置は現実的であった。すなわち、カトリック差別法を撤廃し、プロテスタントと同一の法的立場に置くことである。この第三の措置は、新生連合王国の共通国民アイデンティティ形成の前提であり、ブリテンおよびアイルランドの政治家・知識人サークルの間で幅広い支持があった。実際、政府は連合王国の発足直後にこの措置を実現する予定だったのだが、アイルランドにおける宗派の分断は17世紀および18世紀初めに政治の力学によって作り出されことからすると、政治力学の方向性は18世紀の間に180度方向転換していたことになる。だが。結局のところはこの措置は実現しなかった。土壇場になって国王ジョージ3世が反対したためである。
 このため、アイルランドの改革に関する構想の第一は失われ、第二の文明化の構想が前面に出ることとなった。この構想は、宗教面においては改宗によるアイルランドのプロテスタント化を意味し、ある意味でアイルランドの宗教問題の最終解決とも呼べるものだったが、前述のように政府には不可能な措置であった。たが、福音主義者がこれを試みた。福音主義運動はアイルランドでは19世紀初めに始まる。これは本質的には民間人の運動だったが、カトリックに対して改宗を迫ったことで、日常生活の次元で存在していた宗派間のデリケートな均衡を崩してしまった。その結果、1820年前後よりアイルランドでは、政府のさまざまな対抗策にもかかわらず以前よりも宗派関係は悪化していったのである。
 アイルランドの事例は、宗教問題に関しての政治の力と、その限界を示すものなのだろうか。

II. 報告へのコメント

1. アルマニオス報告へのコメント(辻明日香、東京大学)

 コプト教徒の巡礼に関するアルマニオス報告はわれわれに様々な議題を提供してくれたが、そのうち二点に関してコメントしたい。
 第一は、マイノリティーによる働きかけ、あるいはマイノリティーの主体性である。報告の中で最も驚いたことは、コプト教会の在家有力者がイェルサレムへの巡礼のために必要な許可証を入手する方法である。政治的有力者の家に書記として雇われていた彼らは、しかるべき筋に働きかけ、許可証を入手していた。すなわち彼らは、影響力があり、かつコプト教徒に同情的なムスリムと懇意にしていたのである。
 コプト教徒はイスラーム支配に対して受動的であったわけではない。ムスリムを刺激しないよう注意を払いながらも、カイロ市内における巡礼出発の儀式を通じて、エジプトにおけるコプト教徒の地位を再強化していたのである。これはときにムスリム民衆の反感を買ったが、同時に、ムスリムのメッカ巡礼時の儀式との共通性ゆえに、この儀式はムスリムからも受け入れられ、また尊敬されていたと看做してよいであろう。
 われわれは宗教間の融和を、社会的に優位な立場にある者が、劣勢な立場にある者に対して働きかけるものとして捉えがちである。すなわち、支配者や社会的エリートや寛容を示すものと考える。しかし、アルマニオス報告は、社会的弱者も彼ら自身の働きかけにより、一定の成果を挙げることができることを示していた。
 第二は、宗教間あるいは宗派間における相互影響関係である。コプト教会は決して孤立した存在ではなく、巡礼の儀式は教会特有の文化的遺産ではなかった。また、イェルサレムにおけるイースターの行事には、ギリシア正教会、アルメニア正教会、コプト正教会の巡礼者が集っていた。このような宗派間の交流はイェルサレム特有のものかもしれないが、興味深い事例である。

2. アルベル報告へのコメント(齊藤寛海、信州大学/堀井優、同志社大学)

 アルベル報告は、以下のような内容であった。考察の対象時期は、15世紀中葉(ビザンツ帝国の崩壊)から17世紀中葉(クレタの喪失)まで。対象地域は、カトリックのヴェネツィアが支配者で主要な臣民がギリシア正教徒である、ヴェネツィアの海外領土。この領土を維持するため、ヴェネツィアは、この臣民に対して現実的で寛容な政策をとり、反宗教改革の非寛容な精神の教皇たちでさえ、この伝統的な政策を止めさせることができなかった。これを広いヨーロッパ的な視野で展望すると、ヴェネツィアは、近代初期における宗教的に最も寛容な例だったといえる。教授の見解では、この寛容政策は臣民の不満を避けるためであり、ヴェネツィアは、宗教的な問題を政治的な視点から処置した、ということになる。この見解は説得的である。
 それでもわたしは、質問を一つしたい。この寛容政策の形成には、ヴェネツィアが非カトリック教徒(ギリシア正教徒)や非キリスト教徒(ムスリムやモンゴル人)との間にもった、長期にわたる商業関係も影響したのではないか。ヴェネツィア人は、いずれもその海外領土の外側にあったビザンツ帝国、イスラーム諸国、モンゴルの諸ハン国から受け入れられ、取引をおこなった。これら諸国の人々は、自分たちとは違う宗教を信仰する商人に対しても、一般に寛容だった。このような国際的、大陸間的商業をおこなうには、異教徒が非寛容ないし狂信的でない限り、彼らに対して寛容であることを必要とした。この長い経験から生まれたヴェネツィア人の基本的な心性が、その海外領土における寛容政策の形成において、一つの要素となったのではないか。(齊藤寛海)

 アルベル報告は、カトリック世界と正教世界が重複する”Stato da Mar”すなわちヴェネツィア海外領を扱っており、多宗派間関係に関する重要な事例研究を提示している。ヴェネツィア当局とカトリック聖職者は、海外領の正教会の聖職者を管理し、その自治権を制限していた。とはいえ16世紀中葉までの教皇は、ギリシア正教会聖職者および信徒たちに、固有の権利を認める態度をとっていた。しかし同世紀後半の対抗宗教改革の教皇は、正教徒に対して不寛容な政策を採るようになった。これに対してヴェネツィアは、安定的統治の維持のため、正教徒のすでに確立された諸権利を擁護する立場に立った。このヴェネツィア海外領における実用的で相対的に高い寛容性は、宗教的な対立と迫害を経験した西欧諸国とは対照的だった。
 このヴェネツィア海外領の事例研究は、多宗教共存によって特徴づけられるイスラーム圏の観点からも、有益と思われる。むろんそれぞれの共存の枠組は、基本的に相違していた。オスマン帝国では、イスラーム時代初期に確立されたズィンミー制度の下で、ムスリム、ユダヤ教徒、キリスト教徒が共存した。その一方でヴェネツィア領におけるカトリックと正教徒との共存は、フィレンツェ公会議における合意と、支配のための実用的理由にもとづいていた。とはいえいずれの側においても、宗教的共存の維持は、社会秩序の安定と密接に関連していた。さらに近世のヴェネツィアが外部からユダヤ教徒、正教徒、ムスリムなどを受容し、またその海外領が東方商業の拠点だったことを考えれば、ヴェネツィアがオスマン社会と無関係だったとは思われない。それゆえこのヴェネツィア海外領の事例研究は、東地中海地域の多宗教間関係の観点からも検討に値すると思われる。(堀井優)

3. ガザリ報告へのコメント(宮武志郎、普連土学園)

 私自身がオスマン帝国のユダヤ教徒、特にナスィ一族の研究を行っている関係でモリスコとユダヤ教徒を比較してみたい。イベリア半島ではモリスコとユダヤ教徒は次の三つの方法で自らの生活を維持していた。
 1)完全にキリスト教に改宗するケース。このために、マラーノの一部は異端判決宣告式に賛成する者さえいた。
 2)すぐにはキリスト教に改宗しないが、自らの信仰を維持できないことが明白になった段階で、渋々キリスト教に改宗するケース。
 3)タキーヤのケース。表面的にキリスト教に改宗することを意味する。
 ムスリムとユダヤ教徒は自らの富や土地、そして特に信仰を守るためにこの三つの方法を利用したのである。
 ユダヤ教徒とモリスコが追放された理由は異なっていた。ユダヤ教徒は一旦キリスト教に改宗したマラーノに悪影響を与えると考えられていたために追放された。つまりユダヤ教徒はマラーノの本当の改宗の妨げになると考えられていたのである。ほとんどのマラーノは隠れユダヤ教徒と疑われていた。
 一方、モリスコは本当のキリスト教徒とは考えられていなかった。そのため30万人のモリスコが1609年に追放された。
 追放後、ユダヤ教徒はハプスブルク領ネーデルランドやイスラーム世界に移り住んだ。そこではユダヤ教徒コミュニティーに温かく迎えられる者もいた反面、そうでない者もいた。特に、マラーノのなかにはオスマン帝国のユダヤ教徒コミュニティーから非常に嫌われていた者もいた。それはマラーノたちが自らの生活や財産、そしてビジネスチャンスを守るために信仰を捨てたと考えられていたからである。
 モリスコもまたイスラーム世界で歓迎されていた訳ではなかった。彼らが本当のムスリムなのか、彼らがアラビア語を話すことができないのではないか、また彼らがイベリア半島で守っていた生活様式を維持できるのかということなどが疑われていたのである。それ故、モリスコの中にはイスラーム教のアフリカの生活に溶け込むことのできないものもいた。特に、現在のチュニジアにあるテュネズ、ビゼルタ、ハウマト・アル・アンダルース(アンダルシア地方)に移住したモリスコにそのケースが見られた。
 モリスコとユダヤ教徒との違いについて、ガザリ先生にお伺いしたい点がある。ガザリ先生がおっしゃるように、モリスコは政治、経済、宗教的理由から16世紀のイベリア半島に留まることができた。モリスコは人口の面でユダヤ教徒よりもはるかに多かったことは明らかである。それ故、モリスコはユダヤ教徒よりより強大な経済的・政治的権力を有していた。僅かな数ではあるがユダヤ教徒の中にも豊かな商人や政治家、宮廷侍医などがいたことが知られている。しかしその数はモリスコと比べればはるかに少ない数であった。イベリア半島では、モリスコは主にどのような職業に就くものが多かったかをお聞きしたい。

4. アセラ報告へのコメント(深沢克己、東京大学)

 アセラ報告は、フランス海軍におけるプロテスタントの存在を論じ、彼らに関わる厳格な立法とその温和な適用、原則的追放と実質的黙認、つまりは表向きの不寛容と暗黙の寛容との間で、王権が二面的態度に終始した事実を明らかにした。ルイ14世の政府がこのような曖昧な姿勢を取らざるをえなかった理由は、海軍増強のために船乗り、水夫、将校を確保する必要があり、したがって彼らが逃亡してオランダやイギリスなどの敵国へと移住するのを防ぐ必要があったからである。この結果ルイ14世は、ナント王令廃止によりユグノを根絶するのに失敗した。これが報告から学んだ第一の点である。
 第二の点は、アセラ氏が海軍と商船とを注意深く区別しながら、海運従事者の集団を分析したことである。国王海軍の乗組員は、彼らを徴募する現地の宗教事情に応じて、カトリックとプロテスタント双方を含む混成集団になったので、国王政府は常に妥協を強いられた。これに対して商船においては、多くの場合に商人と船主が主導的な役割を演じ、ユグノの船乗りを雇用しつづけたので、王権による制限や禁止に反して船上でのプロテスタント礼拝を保護したのである。ここでは商人社会が国王政府の政策に対して、自律的とは言えないまでも、無関心な態度を取っていたと認識してよいかもしれない。
 注目した第三の点は、船上における船乗りの日常生活に関わり、まれに緊張や紛争はあったとしても、両宗派は総じて平和共存を維持したように見えることである。カトリックのミサは船尾で執行され、プロテスタントの礼拝は船首で実行されて、互いに妨害することはなかった。アセラ氏は、同じ航海の危険に直面し、死の恐怖と霊的欲求とを共有する船乗りたちの自然な連帯感情により、この現象を説明する。つまり彼らの職業的連帯感情は、宗派的区別よりも強かったのである。
 アセラ報告はそれゆえ政治的、社会的、心理的または宗教的な三つの次元に整理要約される。そしてこの最後の次元、すなわち固有の意味で宗教的または霊的な次元については、引用された他にも多くの史料を探索し、宗派分裂の時代における異宗派間関係の生きた現実を研究する必要があるだろう。

5. 勝田報告へのコメント(那須敬、国際基督教大学)

 近代アイルランド史は、「宗教融和」を考察する上でもっとも歴史家が困難を覚えるフィールドの一つかも知れない。それは単にアイルランドにおけるカトリック住民とプロテスタント住民の間の長い対立の歴史のためだけではない。対立にせよ融和にせよ、何を根拠にそれが「宗教的」であると言えるのかという問いを、歴史家につきつけるからである。近代アイルランドでは「カトリック」「プロテスタント」といった語は、キリスト教における信仰の違いではなく、長期にわたって確立された政治的・経済的な不平等を説明するカテゴリーとして、確立していたように思われる。そうであれば、「宗教分裂」「宗教対立」といった言葉を用いて当時のアイルランド問題を説明することには、限界があるだろう。人々の信仰が二つに分かれたためにアイルランドは分裂しているのか、逆に、アイルランドの分裂が、二つの宗教を生み出しているのか。もし後者なのであれば、アイルランドとイギリス連合王国との合同に際して、これを推進した者たちにとって「宗教融和」とは実際のところ何を意味し、またどれほどの重要性を持ったのだろうか。アイルランドにおける宗派関係は連合王国との合同の後で悪化した、という勝田報告の指摘はたいへん興味深い。宗派の違いを対立の原因と捉えるだけでなく、統一化の動きが生み出す結果と捉える視点も、必要であろう。

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