洋の東西の美術と思想にみられる死後の世界観 発表資料

ブッファルマッコによるピサの壁画中の死と救済のイメージ

エンリコ・カステルヌオーヴォ (ピサ高等師範学校教授)

1278年にピサで、建築家ジョヴァンニ・ディ・シモーネによって大聖堂と礼拝堂の周辺に、墓地カンポサントを造営する工事が着工される。カンポサントの長い大理石の壁はミラーコリ広場の驚嘆すべきモニュメントの占める空間を区切る形で、北に向け伸びている。4つのアーケードからなる巨大な回廊は芝地を囲むが、そこには十字軍に遠征したピサの大司教ウバルド・ランフランキによってパレスチナから運ばれてきた奇跡の土が入れられたと伝えられている。その土に埋葬されると、遺体は24時間内に白骨化すると信じられていた。

カンポサントの工事と装飾事業の大部分は、ピサの黄金時代の末期であったと言われる14世紀におこなわれた。その当時は、高い教養文化を有し、数多くの優れた説教師を輩出することによって、ピサの知識人社会に多大な影響をもたらしたドメニコ会サンタ・カテリーナ修道院が活躍した時代でもあった。14世紀の優れたフレスコ画家たちは、順次、アーケードの長い壁の壁画装飾を担当した。その筆頭には、恐らく、ピサ出身のフランチェスコ・トライーニが絵筆を執り、次いで、壁画の大半はフィレンツェ出身の画家たちによって手掛けられた。ボッカッチオやサッケッティの物語の登場人物にもなった伝説的人物、ブオナミーコ・ブッファルマッコをはじめとして、謎めいた人物ステーファノ、タッデーオ・ガッディ、アンドレア・ブオナユーティ、アントニオ・ヴェネツィアーノ、スピネッロ・アレティーノ、そして北側の壁を手掛けたのは、オルヴィエート出身のピエーロ・ディ・プッチオである。彼の描いた旧約聖書の壁画は、15世紀末にベノッツオ・ゴッツォーリによって引き継がれた。

カンポサントにおいて、東の側壁の一部および南の長い壁の装飾は、1334年頃に始められ、中断を挟みながらも1391頃まで続く。その60年間に及ぶ装飾事業には、10名ばかりの画家たちが携わった。

ピサの知識社会をリードしてきたドメニコ会サンタ・カテリーナ修道院の許で著された書物や説教集の中でも、とりわけ『教父伝Vitae Patrum』の著者であるドメニコ・カヴァルカとこの壁画との密接な関係は、既に指摘されているところである。

要するに、ピサのカンポサントの壁画は巨大な絵による説教である。それらは、信者の目と記憶に焼きつけるようにと、死、最後の審判、永劫の責め苦といった人類に迫りくる威嚇をはっきりと、分かりやすく表現する一方で、隠遁生活や砂漠の修道士の生き方、ヨブの示した忍耐心、そして地上の災難に一貫して耐えること、ひいては、教訓的な聖者や福者の生涯を模倣することによる救済を説いているのである。

まさにカンポサントの壁画に描かれた死、そして地獄落ちの恐ろしい場面は、教訓的かつ模範的な意義を有するばかりでなく、戦争や教会分裂、飢饉、ペストといった災難に絶えず脅かされた時代の中で、西洋の人々の意識に深く刻まれた恐怖感を映し出している。


恐るべきシンメトリー ダンテとブレイク

浦 一章 (東京大学助教授)

『神曲』の挿絵を描いたウィリアム・ブレイクはダンテに関するいくつかの見解を書き残している。それらの見解はことば数少なく表現されており、総数も多くはないが、イタリアおよびイギリスのふたりの詩人の間に存在した「恐るべきシンメトリー」(fearful symmetry)をはっきりと垣間見させてくれる。中世末のフィレンツェに生まれた預言者とロマン主義時代のロンドンに生まれた幻視家。両者の性格・個性は「恐るべきシンメトリー」、すなわち大きな相違を示しているが、その相違がどこにあるのかを明かすことがこの報告の目標である。分析は(1)「罪の赦し」(forgiveness of sins)と「復讐」(vengeance)、(2)遠い神と近い神、人間知性の限界と予定、のふたつに焦点を絞りながら展開してゆくことになろう。

「復讐」と「因果応報」(contrappasso)の原理によって支配されている、ダンテの彼岸の世界。そこにブレイクが見出したのは計量原理の投影であった。この計量原理はわれわれが生きている現世における正義の根本にあるものである(それゆえ、正義の女神の図像にはしばしば秤がシンボルとして賦与されている)。ブレイクはダンテが世俗的であまり霊的ではないと考えたが、正義の根幹にある原理とは実質的に物質世界の計量原理と同じものだからであろう。他方、ブレイクが「復讐」に対して主張する「罪の赦し」とは、数量化しうる世界とは完全に無縁なものである。無限と有限の間にはいかなる釣合い・割合もとれないように、「赦し」と「罪」の間には釣合い・割合のとりようがない(「罪」と「罰」、すなわち「罪」と「復讐」の間ならば、釣合い・割合のとりようもあるのだが)。

ダンテのあの世を司っている「復讐」の神は予定の神でもあり、その考え(摂理)は人間の知性からは大きな深淵によって隔てられている。この遠い神は徒らな「好奇心」(curiositas)を戒めるキリスト教道徳によっても守られているが、ブレイクはこのような神はほとんど怒りをこめて拒否する。そして、人間自身の中に神的なものを探し求めたブレイクは彼が「想像力」(imagination)の名で呼ぶところのものを見出した。ブレイクの「想像力」はきわめて特殊な概念であるが、超越的であると同時に内在的な原理、換言すれば、われわれ自身の内部に常にある近い神ということができよう。


日本における「地獄」イメージの流布 『往生要集』の影響

長島 弘明 (東京大学教授)

平安時代半ば、十世紀後半に源信によって書かれた『往生要集』は、念仏往生のための入門書である。この時期には、仏法が衰え社会が乱れるようになるという、いわゆる末法思想の高まりのもとに、阿弥陀仏のいる極楽浄土に往生することを願う、いわゆる浄土思想が広がっていくが、その浄土思想の重要な書物が、この『往生要集』であった。『往生要集』は、「厭離えんり穢土えど」「欣求ごんぐ浄土じょうど」「極楽の証拠」など、十門(十章)から成るが、その中でとりわけ精彩を放つのは、「厭離穢土」の部分である。「厭離穢土」は、「地獄」「餓鬼道」「畜生道」「阿修羅道」「人道にんどう」「天道」(以上、いわゆる六道)などから成るが、その中でもっとも詳細であり、またすぐれているのが「地獄」の描写である。「等活地獄」「黒縄こくじょう地獄」「衆合地獄」「叫喚地獄」「大叫喚地獄」「焦熱地獄」「大焦熱地獄」「無間むけん地獄(阿鼻地獄)」のいわゆる八大地獄のありさまが、微に入り細に入り描かれている。

仏典や説話集など、それまでも地獄について言及している日本の文献がないわけではないが、『往生要集』の描写は、格段に迫真力を持っている。それは一言でいえば、視覚的な鮮明さであり、正確さである。この圧倒的な迫力をもった地獄の描写は、その後の日本における地獄のイメージの中核を形作ることになる。鎌倉時代以降の説話集や軍記物語、謡曲などの一節に、『往生要集』の地獄からの影響がうかがえるものも少なくない。また、鎌倉時代以降の地獄絵には『往生要集』の描写によるものが少なくないし、さらに江戸時代には十種(細かく見れば数十種)を越える『往生要集』が出版されており、そのほとんどが絵入りの本であり、かつ地獄の箇所には挿し絵が多く入っている。このような『往生要集』の地獄が絵画化された事例が多くあるということは、それが文章による描写でありながら、きわめて視覚的にすぐれたものであったことを証拠立てている。『往生要集』によって形成された地獄のイメージは、絵に媒介されて、広く深く民衆の間に浸透していった。

『往生要集』の地獄のイメージの強い影響を、江戸時代の小説から二つほど挙げる。一つは、江戸時代の前期を代表する小説家、井原西鶴の『椀久わんきゅう二世にせの物語』(新小夜しんさよ嵐あらしともいう、1691年ころ刊行)であり、もう一つは、江戸時代後期を代表する小説家である山東京伝の『本朝酔ほんちょうすい菩提ぼだい全伝ぜんでん』(1810年刊行)である。

『椀久二世の物語』は、伝統的な地獄絵の題材を、男色家がおちいった地獄に見立てた、パロディの小説である。たとえば、その中の一話に、新しい少年俳優の愛人ができて、もともとなじみであった愛人の男に嘘をついた金持ちの男が、地獄で舌を抜かれるエピソードが記されている。その挿絵を見ると、裸の男が柱にくくりつけられ、振袖を着た鬼が鉗かなばしをもって男の舌を引き抜こうとしている。これは、『往生要集』で、嘘をついた人間が落とされる「大叫喚地獄」の「受無辺苦」という別処(附属的な地獄)の有様をパロディにした絵だが、この挿絵は、実はその数年前に出版された絵入りの『往生要集』の「大叫喚地獄」の挿絵に基づいているのである。また、『本朝酔菩提全伝』には、地獄太夫という位の高い遊女が登場する。その豪華できらびやかな着物の図柄は、なんとも恐ろしい地獄の絵である。その図柄の中にも、『往生要集』に描かれている様々な地獄の絵が、生かされている。

両作とも、まじめな宗教的小説ではなく、パロディ色が強い、純然たる娯楽小説である。その中にも、『往生要集』の地獄が下敷きとして使われていることから、『往生要集』の地獄のイメージの広範囲な流布と、その影響の強さを、はっきりとうかがうことができる。


明治維新期の地獄イメージの変容

木下 直之 (東京大学助教授)

1868年の明治維新をはさんで大きく変貌するふたつの時代を生きた画家河鍋暁齋は、狩野派に学びつつも、一方で、本来ならばまったく相容れない浮世絵派にも属するという多面性を備えていた。この性格は、明治政府が建築学の教師としてイギリスから雇い入れたJosiah Conderを弟子として受け入れるという開明性につながっている。画家としてのConderは暁齋から1文字をもらい、暁英を名乗った。

この報告は、ふたりが鎌倉の円応寺を訪れるところから始まる。1250年に創建された円応寺は、閻魔王をはじめとする地獄の王たち、すなわち十王や脱衣婆の彫刻で知られていた。暁齋はさっそく彫刻をスケッチする。暁齋が狩野派と浮世絵派の両方に属していたことは、多種多様な注文主を相手にしていたことを意味し、彼らの注文に応じて、彼は何でも描くことができた。地獄の王たちもそのレパートリーに入っていた。

1860年代から1870年代に、暁齋は盛んに地獄の様子を描いた。そこには伝統的で通俗的な地獄イメージもあるものの、彼の描く地獄の特色は、地獄の住人たちをからかい、笑い飛ばすというものであった。おそらく画家の意図は、地獄のイメージを借りて、現世を風刺することにある。なぜなら、この時代ほど、日本社会の価値がひっくり返ったことはないからだ。「地獄の沙汰も金次第」という諺がある。閻魔王が大金を持って地獄にやってきた死者に頭を下げ、おべっかをつかうという姿は(暁齋はそれも絵に描いた)、現実の世の中でいくらでも目にすることができた。

この時代の暁齋の地獄イメージを概観したあと、1869年から72年にかけて制作された「地獄極楽めぐり図」を紹介する。東京のある裕福な商人が若くして亡くなった娘を弔うために、暁齋に注文したものである。死んだ娘は阿弥陀如来の案内で地獄を見物したあとで極楽往生を果たすという話である。実は、この絵が描かれた時、それまでの地獄イメージを育て継承してきた仏教界が大きく揺れ動いていた。新しい政府が神道の国教化を計り、火葬を禁じて土葬をすすめるなど葬送のスタイルをも改めようとしたからだ。それは政治が死後の世界にまで介入することを意味する。そのような時代背景を考えると、暁齋の「地獄極楽めぐり図」は娘の極楽往生をしっかりと見届け、注文主をさぞかし安心させたに違いない。


ペスト、狩猟、そして死

カテリーナ・リメンターニ・ヴィルディス (パドヴァ大学教授)

本発表では、西洋において死と向かい合う際に取られた二つの解釈の系譜をとり扱ってみたい。

一つは、死という出来事のもつ不可避性や普遍性に着目し、その民衆主義的なまでに平等性を強調する立場の解釈、もう一つは、あくまでも個人的な反応が介入し、社会階層集団の姿勢をあらわにするような、死を前にして死から身をかばい、死にはむかう姿勢から生まれる解釈の系譜である。

これらの系譜は、死と向かい合う二つの異なった省察を象徴的に示す。一つは、死の与える肉体的な苦悩に焦点をあてた省察であり、もう一つは、 精神的な苦悩から教えられたものである。

この二つの思想は、時間的にも並存し、絡み合いながら、異なる図像を洗練させた。片方では、農民の伝統文化の世界に依拠した図像、もう一方 では、宮廷の文化現象に由来する図像が用いられる。その中でとりわけ、ペストと狩猟という二つのテーマは重要な役割を果たしている。


イメージにみる源信とダンテの地獄 比較美術史の試み

小佐野 重利 (東京大学教授)

1979年に国際美術史学会(C.I.H.A.)のボローニャ大会で、故ヤン・ビアオストツキ教授が「比較世界美術史はなしうるのか?」と題した発表を行った。各国美術史の研究が充実し、洋の東西美術も含めた世界的規模での美術史叢書が欧米語で刊行されるなか、「世界美術史」と総称しうる共同研究作業による諸国横断的な美術史研究領域の開拓を急務と感じ、比較文学や比較宗教学などの手法に倣った比較美術史の研究方法を提言した。しかし、それから20年が過ぎた現在でも、この比較美術史的な研究はほとんどない。

源信の『往生要集』とダンテの『神曲』という死後の世界を記述した日伊の名著については日本のイタリア研究者らが既に比較文学的な研究を手がけている。

10世紀末に源信の著した『往生要集』は仏典の説く因果応報により輪廻(sans.ra)転生する衆生が経巡る六道苦界や極楽浄土の様子を克明に記述し、穢れた六道を輪廻することを厭い、極楽浄土への阿弥陀念仏による念仏往生と観想および作善などによる諸行往生を遂げることを説き勧める。これに対し、ダンテの『神曲』は、1300年という聖年のとある聖木曜日から聖金曜日にかけ、詩人自身が生身の人間ながらも地獄、煉獄そして天国と最初ウェルギリウス、次いでベアトリーチェの道案内で経巡った特異な体験を一人称、過去形で綴った物語であり、ダンテ自身は「コンメディア(喜劇)」とよび、16世紀から形容詞「神聖なる」がついて現在の名称「神聖なる喜劇」となった。詩人の故郷トスカナの方言を駆使して古典古代の叙事詩と競い合おうとする野心的な詩文学であると同時に、「天国篇」を添えたヴェローナ領主カングランデ宛てのダンテの書簡にあるように、「人々を今陥っている悲惨な状態から遠ざけ、幸福な状態に導く」目的で、その実践のために書かれた。両著作は、それゆえ、善き生、善き死の実践、すなわち救済を説くという同じ目的を帯びている。比較文学の手法によれば、地獄とは地下の牢獄の謂いで、東西の地獄モティーフの多くが等価値用語(エキヴァレント)で表現されうる上、地獄の構造やそこでの「因果応報(contrapasso)」に応じた刑罰等の種類に多々類似が認められる。それゆえ、源信とダンテのテクストに基づく地獄の絵画イメージの比較は、その思想的な類比対照を際立たせる意味でも、殊のほか有益と思われる。

滋賀県の聖衆来迎寺に伝世する国宝「六道絵」15幅は、『往生要集』に依拠した絵画イメージとしてもっとも名高い。13 世紀のいずれかの時期に比叡山横川の霊山院周辺で制作され、伝世15幅のうち6幅だけで六道を完備した六道絵が成り立ち、残り9幅のうち3幅が等活地獄、黒縄地獄、阿鼻地獄という3つの地獄道を表し、3幅が人道不浄相、人道苦相(生老病死苦)、人道苦相(愛別離苦)の3つの人道を表す。

ここでは、『往生要集』が「厭離穢土」で最も詳細に記述する地獄道に基づく上記3地獄絵を中心に日本中世における地獄イメージを考える一方、『神曲』については、 ボッティチェッリによる『神曲』のための素描から地獄イメージを取り上げ、両者の比較を試みる。


14、15世紀のダンテの天国挿絵に関する基本的な観察

マリア・グラツィア・チャルディ・デュプレ・ダル・ポッジェット (フィレンツェ大学教授)

天国挿絵―挿絵という言葉によって造形的な形式で原典の再創作を図ろうとするテキスト解釈までも包摂する総合的な活動を意味するものとするならば―は、ほぼ半世紀に及んで研究者たちの関心を惹きつけなかった。数あるその理由の中で、疑いなく、ひとつがその主たるものであると見定められている。すなわち、この手の研究がこの上なく困難であることである。

私に許される発表時間を勘案すると、ここで取り組む主な議論は二つとなるだろう。すなわち、第一に、この挿絵の制作事業に取り組んだ偉大な芸術家たちがどのような選択を行なったかを究明することであり、第二に、天国挿絵群を同時代、すなわち、14および15世紀のイタリア彩飾写本と絵画にみられる天国および地上の楽園(エデンの園)の表現と比較することである。