本論文は、近世後期朝廷の変容を、朝廷の復興理念の特質と、当時の朝幕関係の展開という二つの問題を軸に検討したものである。

 近世後期朝廷・朝幕関係の研究では、幕末維新史を見据えた上で、既に18世紀後半から朝廷で「復古派勢力」が台頭したこと、そして当時の光格天皇が強烈な君主意識をもって朝廷の復古を推し進めたことが注目されてきた。しかし、従来の研究では、1)光格天皇の個性が過度に強調され、朝廷で他の諸主体が果たした役割の検討は遅れていた。2)当該期の朝廷における復古とは、どの時代の、どのような歴史的遺産の復古をめざしたものかが明瞭に説明されていない。3)かかる朝廷の変容に幕府・武家社会が示した姿勢の検討も十分ではなかった。

 こうした研究史上の課題を踏まえ、本論文は、天皇・関白・公家など朝廷の諸主体の思考・意志と役割に注目して朝廷運営の変容過程を把握し、かつ、朝廷問題に関わる幕府・武家社会側の人々が持った朝廷観についても多角的な理解を図った。更に、光格天皇に関わる研究と幕末以降の研究を「接続」させる必要があるという状況に鑑み、光格天皇の譲位以降、つまり文政年間(1818~1830)からペリー来航(嘉永6・1853)以前までを研究の対象時期とした。なお、当時の朝廷がめざしたものは、中国の文献を参照した(天皇家で前例のない)天皇の諱の欠画令にみられるように、古の再興・復古に限られるものではない。この点を踏まえ、本論文では、朝廷とその構成員の持つ、朝廷権威の強化・荘厳化への志向を、全体として復興理念と呼ぶことにした。

 

 本論文の第一部、第一章~第三章においては、19世紀前半の朝廷における復興理念の特質を、光格天皇(上皇)以外の諸主体の思考と動向に留意して分析した。

 第一章では、仁孝天皇の禁裏御所で行われた和漢書物の学習である御会読・御講釈を素材に、そのテキストに採択された書物の性格など学習内容の特徴、参加者の構成、御会読・御講釈にみられる仁孝天皇の意志などから、御会読・御講釈が当時の朝廷運営に持つ意義を考察した。

 仁孝天皇には学習への熱意があり、漢籍の読解力など、その熱意を支える学識があったことが明らかにされた。仁孝天皇本人の主体性に加え、東坊城聡長・勘解由小路資善・三条実万など、仁孝天皇のもとで学問の資質を持つ公家に活躍の機会が与えられ、朝廷運営の主力へと成長できたことも重要である。なお、国書を読む和御会において、神代巻を除いた『日本書紀』と六国史、『令義解』『延喜式』『儀式』(貞観儀式)といった、律令制下の官撰の史書・法令などが重点的に読まれたことは、第二章以下で分析していく志向性とも繋がる特徴と評価できる。

 第二章では、将軍徳川家斉の太政大臣昇進(文政10・1827年)を許可した朝廷が、その見返りとして朝廷構成員に対する支援拡充を幕府に求めるなかで、その支援の方法として、主に関白鷹司政通により具体化された律令封禄の再興構想の内容と、それに関連する政通の言説を検討した。

 従来、政通の行跡は幕末期を中心に知られており、関白在職期の政通が朝廷の意思決定に発揮した影響力と、それが朝廷運営・朝幕関係に持つ意味を正面から考察する試みは極めて少なかった。本章では、この案件との関係で政通が残した資料調査・考証書と備忘などを利用することで、関白在職期における政通の歴史観や武家政権に対する認識に関連して、日記・書簡など他の史料には現れない思考の様相を精密に分析できた。朝廷運営の模範とされてきた摂関期以降の「聖代」より遡り、大化の改新を始めとする、律令制の形成・確立期の歴史的遺産がその視野に入ってきたことは注目に値する現象である。

 第三章では、天保11年(1840)光格上皇崩御後の天皇号・漢風諡号再興を、漢風諡号の選定過程に焦点をあてて検討し、そこから垣間見られる朝廷運営過程の特徴、そして朝廷の理念的変容における朝廷外部との関係を考察した。政通が、所司代との内々の交渉でこの再興を実現させた主役であること、また政通は、再興自体の実現に止まらず、諡号の選定についても彼自身の好みを貫徹させることに意欲を持って取り掛かったことが分かった。光格天皇・仁孝天皇号はともに、仁斎学を受け継ぐ古義堂の伊藤東峯・東岸が政通に提出した案が、おそらく政通の意向により東坊城聡長など菅原氏の案として勅問に出され、採択されたものである。なお、この再興の推進にあたり、政通に具申された東峯の意見は、中井竹山「草茅危言」に大いに共鳴する内容であった。また古義堂伊藤家は、諡号宣下詔書案の相談など様々な場面で、政通のブレインのような役割を果たしている。こうした本件の処理過程は、天皇権威の荘厳化のため、儒学の理念や中国の君主像が参照された側面を如実に表す事例でもある。

 本件の処理過程で政通が演出しようとした朝廷像は、勅問で廷臣一般の意見を聞いて意思決定がなされ、かつ、菅原氏など学問の家の役割が重視される形のものであった。しかし、実際の意思決定は、政通にほとんど掌握されたようなものであった。こうした政通のやり方を他の朝廷構成員たちがどのように受け止めていたかは、幕末史に繋がる論題でもある。

 

 本論文の第二部、第四章~第六章は朝幕関係の問題を軸に構成し、朝幕間の交渉過程の実態、朝幕関係の変容をめぐる当時の朝廷・幕府関係者の認識、そして武家社会の朝廷観を考察した。第二部は全体として、将軍徳川家斉の太政大臣昇進に関連する事柄を分析対象とした。朝幕関係の融和が大々的に演出されるなか、朝幕の関係者らがその情勢をどのように受け止め、相手との交渉にどのような姿勢で臨み、そして相手に対する認識がどのように変化していたかを考えた。

 第四章では、太政大臣昇進に対する幕府御礼使の朝廷派遣を素材として、朝廷から御礼使の派遣が求められた経緯、御礼使の選定と待遇をめぐる朝幕間の駆け引きの実態、そして老中首座青山忠裕の御礼使派遣に際して現われた朝幕の関係者たちの現状認識を検討した。本章では、幕府の表坊主竹尾次春(竹尾善筑)がこの昇進に関連する情報を収めた編纂物「松栄色」などを通じて、この御礼使派遣を機に、大臣補任者の在京問題、諸大名と天皇・朝廷の由緒、徳川一門大名と朝廷の結びつきの可能性など、朝幕・公武関係の構造的問題をめぐってあぶり出された関係者らの認識を明らかにすることができた。

 第五章では、朝廷構成員への支援拡充をめぐる朝幕の交渉過程を検討した。第二章でみたとおり、朝廷は律令封禄の再興の形による支援策を構想してその財源を幕府に求めたが、本章では、関白鷹司政通が所司代に示した要望書や、武家伝奏と禁裏付の談話などを材料に、朝廷が本構想に込められた復古の趣旨を幕府にどのように説明し、幕府関係者らは朝廷のその論理をどのように受け止めていたかに焦点をあてた。幕府は復古をめざす朝廷の動きを決して歓迎したわけではなかったようだが、それを積極的に阻止することもなかった。朝廷復古の理念としての正当性は、近世後期の朝幕関係において、建前の論理を規定するアプリオリな認識になっていたようにもみえる。

 第六章は、家斉の太政大臣昇進儀礼の装束調進をめぐって起こった幕臣屋代弘賢と有職故実家松岡辰方の論争を手がかりとした。特に、辰方の息子松岡行義が、この論争を契機に有職故実のあり方を新しく模索するなかで、天皇・朝廷の歴史と現在をどのように論じたかに注目した。彼らは、理想的な「上古」の歴史を規準として「中古」以来の朝廷を批判する視点を持っていた。もっとも、朝廷内部で現れた復興理念のなかにも「中古」より遡る時代が視野に入ってくる傾向があることを先にみたが(第二章)、本章で検討した行義らの言説において、かかる論理は、当時の現実の朝廷と公家社会のあり方に対する肯定よりは、否定・批判の根拠になっている。こうした検討を通じて、朝廷の歴史と現在に対する朝廷外部からの関心は、必ずしも現実の朝廷権威への傾斜に収斂する現象ではなかった点を指摘した。

 

 終章では、まず本論で究明したことをまとめた。本論文では19世紀前半の朝廷運営と朝幕関係について、1)仁孝天皇・菅原氏など朝廷の諸主体の役割、2)関白鷹司政通の思考と行動、3)朝廷の復興理念でみられる、律令制形成~確立期の歴史と中国・儒学の君主像への関心という特質、4)朝幕関係の変容をめぐる当時の朝廷・幕府関係者らの認識、5)朝廷の理念的変容と朝廷外部との関わりについて、様々な史料と事例を発掘しつつ理解を深めることができた。

 更に、今後の研究に向け、1)当時の各摂家、特に鷹司家の家政のあり方、2)諸思想の動向と統治権力との関係を踏まえたうえでの朝廷復興理念の位置づけ、3)朝廷に関連する情報の流通、および朝廷に対する幕府役人の行動様式という視角から、天皇・朝廷と朝幕関係が持つ意味について何がいえるかをめぐって、いくつかの課題と現段階の展望を示した。

 

 本論文では、武家伝奏御用日記など従来の研究で多く用いられた史料群に加え、関白鷹司政通の考証・備忘録、幕府儀礼開催の関連情報を収めた幕府役人の編纂物、そして古義堂伊藤家の史料など、これまで朝廷・朝幕関係の研究で関心が薄かった史料群の価値に着目した。これらを新しい角度から再検討したことで、研究史に寄与できる様々な事実関係と論点が発掘できたことが、研究の全体にかけての特徴的な成果といえる。