本論文は、ランシエールの美学・芸術思想が現在において有する独自性と意義とを、同時代あるいは先行する思想家や芸術家に対するランシエールの批判・再解釈に焦点を当てることで浮き彫りにするものである。その達成のための出発点として、ランシエールが身を置く同時代的状況としてフランス現代思想における崇高論の隆盛を取り上げ、そこに典型的に見られる超越や他者、根源、無限、絶対、外部といった概念を鍵概念とする形而上学的傾向に対抗する思想として、ランシエール美学を描き出すという枠組みを設定する。すなわち、崇高に代わってその対立概念としての美を擁護し、それとともに現実的で具体的なもの・卑俗なものをそれ自体として評価する思想としてのランシエール美学である。

 第1章では以降の論述の土台をなす作業として、ランシエールが『感性的なもののパルタージュ』等で展開する芸術史の読み直しを検討する。それを通じ、彼がどのような歴史認識・文脈のもとで、自身の思想を提示しているのかを明らかにする。ランシエールは2000年以降の著作において、現在芸術として呼ばれるものを規定する枠組みの変遷を「体制」の移行として捉えた上で、そうした歴史観のもとで現代の芸術に対する批評活動も行っている。18世紀後半から現代に至るまでの芸術認識を規定する「芸術の美的体制」においては、それ以前の「表象的体制」とは異なって、芸術は真実らしさやジャンルのヒエラルキー的区分といった規範から解放され、それ自体の「絶対特異性」によってのみ芸術が芸術であると規定されるようになる。ランシエールはこの体制において、ジャンル間や素材といった様々なレベルでの「混交」こそを根本的な事態とした上で、その「混交」を隠蔽するモダニズムの純粋主義やリオタール的ポストモダニズムを批判する。われわれは以上の歴史観を跡づけた後、ランシエールの現代芸術批評を取り上げる。そこにおいて彼が、「混交」がもたらす「宙吊り」の効果を、現代において政治的であろうとする芸術が真に政治的たるための条件と見ていることを示す。

 第2章ではランシエールが「美的体制」の範例的存在とするシラー『美的教育書簡』に対するランシエールの読解を取り上げる。『美的教育書簡』第15書簡においてシラーは《ルドヴィシのユーノー》像に言及し、それがあらゆる強制・束縛から自由な、「無為」と「無関心」を表現していると見る。ランシエールはユーノー像のこうしたあり方に、人間精神の諸能力の調和を解体する「美的宙吊り」の効果を見て取った上で、それが社会における支配・対立関係をも消去し、あらゆる人間が平等に感覚能力を有し、等しい「感性的存在」として自由に美的経験を享受しうるという「より根源的な革命の原理」としての美的経験であるとする。われわれはこうしたランシエールのシラー読解が既存の諸読解に対して有する差異を示した上で、崇高ではなく、崇高と(狭義の)美の対立を超えた上位概念としての高次の美に着目したところに、ランシエールの議論の現代的独自性が存することを明らかにする。

 第3章では前章の議論を踏まえ、美の対立物としての崇高概念の20世紀後半における「流行」の中心的人物の一人であるリオタールの崇高論に対する、ランシエールの批判を検討する。リオタールはカントの崇高論の再解釈を通じて、20世紀のアヴァンギャルド芸術の責務は「呈示不可能なものの呈示」によって〈他者〉への「負債の感情」を目覚めさせることだと主張している。われわれはまずランシエールがかかる立論に対し、カント・シラーによって美的経験に付与されていた政治的可能性を最終的に無化すると批判している次第を見る。その上で、むしろランシエールは崇高の美学が有するそうした隘路を回避しつつ、同時にリオタールとは反対にカント・シラーの美の美学に基づくことで、美的経験による人間の解放の可能性を再起動させようとしていることを示す。また他方で、リオタールとランシエールの議論はともに美的なもののもたらす精神の「宙吊り」の作用や、微小なものへの着目という点で共通する。だがランシエールがあくまで日常的な些細なもの、つまり現実的・非超越的なものをそれ自体として評価する美の美学を展開するのに対し、リオタールの着目する微小なものは把握不可能なものとして、超越的・否定神学的議論に回収されるものである。われわれはこの比較検討を通じて、超越性や否定神学性によって特徴づけられる同時代のフランス現代思想の潮流において、むしろ美の美学によって有限なもの・個別具体的なものを評価する道を開くランシエールの立場の独自性を明確化する。

 第4章では83年の著作『哲学者とその貧者たち』におけるランシエールのブルデュー批判の検討を通じ、美の美学の擁護の根底にあるものとしてランシエールが一貫して有する発想、すなわちあらゆる人間の美的能力の平等というテーゼを切り出す。ランシエールは、趣味を社会階級の異なりに応じて社会的に規定されたものである次第を実証的に検証するブルデュー『ディスタンクシオン』を、支配階級と非支配階級の不平等を現状追認的に肯定するものとして批判する。代わって彼は、ブルデューが反駁の対象としたカント『判断力批判』が表明する趣味の普遍妥当性に、エリート主義的ではないあらゆる身分の美的能力の平等という革命性を見て取る。ランシエールによる美の美学の擁護は、日常的なものや卑俗なものに目を向けることを促す。その根底に存するのは、彼に一貫するこうした平等主義的テーゼなのである。

 第5章では、卑俗なもの・日常的なもの・現実的なものを評価するランシエール美学の具体的批評活動における結実として、彼のマラルメ論を取り上げ分析する。ランシエールは『マラルメ』において、既存のマラルメ観と対照的に、超越的なものから離れ日常の些細なものへと目を向けた詩人としてマラルメを捉える。だがマラルメはバレエのような卑俗とされた芸術を評価しつつ、最終的には詩をあらゆる芸術の頂点に置く芸術観を示している。われわれはランシエールが『マラルメ』以降の著作で、マラルメを工業デザイナーやバレエダンサーと引き較べる論述を行っていることに着目する。それによって第一に、同時代にマラルメを特権的に論じていた思想家たちの形而上学的マラルメ解釈に対し、超越的無限よりむしろ日常的有限を評価するランシエールの発想が有する独自性を明らかにし、第二に、マラルメとダンサー・デザイナーと同列に論じるランシエールの挙措それ自体が、芸術諸ジャンルや芸術と非芸術の混交という美的体制に固有の政治の具体的実践であると主張する。

 第6章ではランシエールのフローベール論を扱う。ランシエールはフローベールのテクストを複数の政治性――彼自身の立場としての貴族主義、『聖アントワーヌの誘惑』が描く分子レベルでの存在論的平等、歴史的状況としての民主主義、美的体制におけるあらゆる主題の平等――が現出し対立する場として描いている。われわれは『哲学者とその貧者たち』、『無言のパロール』、「エンマ・ボヴァリーはなぜ殺されねばならなかったのか」の三つのテクストを中心にその複数性と対立とを跡づけた上で、ランシエールはそれらを統合的に解釈するのでなく、むしろそれらの対立それ自体に、「感性的なもののパルタージュ」の再編成としてのよりラディカルな政治性を見ていることを示す。またそこから、かかる対立を自らの批評において示すランシエールのテクストそれ自体もまた、パフォーマティヴなしかたでこの政治を実践していることを明らかにする。

 第7章ではドゥルーズに対するランシエールの複合的関係を、フローベールを補助線としつつ2点に分けて論じる。まずドゥルーズの『バートルビー』論に対するランシエールの解釈を取り上げ、そこでランシエールがドゥルーズの議論に、フローベール的形而上学(前個体的な分子的世界の存在論)と、個体化された次元での「独創人」を中心とした闘争による新たな民衆の創設という政治思想との二側面を見出しつつ、ドゥルーズはそれらを調停できなかったために有効な政治的視座を開けなかったと診断していることを見る。次に、フローベール、ドゥルーズ、ランシエール三者に共通する自由間接話法の使用を取り上げる。ランシエールはドゥルーズと同型の政治的有効性を自由間接話法に託してはいるものの、ドゥルーズが哲学の枠内で自由間接話法を用いている一方、ランシエールは自由間接話法に対し、哲学というジャンルや哲学者という身分を越境する効果を見出している点に、両者の差異が存する。ランシエールはこうした意図のもとで自由間接話法を使用することで、自らのテクストを哲学から物語、フィクション、つまりは芸術作品へと越境させ、また自らをも専門家の身分から一般人へと越境させることを試みている。それもまた、彼の言う「感性的なもののパルタージュ」の再編成としての政治の、行為遂行的な実践なのである。

 以上の論述を経て、われわれは理論面で崇高に対して美を擁護し、その具体的現れとして日常的なものや卑俗なもの、個別具体的なものを評価するランシエールの美学思想の内実と、それが他の思想に対して有する独自性とを明らかにする。またランシエールはそのテクストを通じ、パフォーマティヴに感性的なもののパルタージュの再編成を試みている。それによって彼のテクストは、それが読まれる現在に対し政治的意義を有するということができる。