村上春樹は1949年1月に京都市伏見区で生まれ、関西で育つ。1968年に東京の早稲田大学第一文学部に進学、在学中にジャズ喫茶「ピーター・キャット」を開業して、1975年「アメリカ映画における旅の思想」を題目とする卒業論文を提出し、早稲田大学演劇科を卒業した。1979年に『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞し、小説家としてデビュー。その後続々と作品を発表し、『ノルウェイの森』(1987年)はわずか一年で400万部近い売り上げを記録、「村上春樹現象」を引き起こした。小説のみならず、随筆・旅行記やノンフィクションなど幅広いジャンルを網羅し、2019年12月31日までに90点を超える作品が刊行されている。その他、翻訳活動も行っており、スコット・フィッツジェラルドの諸作品やレイモンド・カーヴァー全集のほか、多くの訳書がある。戦後日本文学を代表する作家であると同時に世界中で愛読されている国際的な作家となっている。

 1980年代末に日本で「村上春樹現象」が起きると、中国と韓国でも積極的に村上作品が紹介・翻訳され、それぞれの国で村上ブームが巻き起こった。現在では村上春樹のほとんどの作品が両国に翻訳されている。東アジアにおける村上文学の受容については、中国文学研究者の藤井省三の先駆的な研究『村上春樹のなかの中国』(2007)がある。藤井は、同書において台湾・香港・上海・北京の四都市における村上文学の流行を論じた後、村上チルドレンの登場や、経済発展や政治状況の変化による村上文学の読者層の形成について論じており、中国語翻訳における土着化(domestication、帰化)と外国化(foreignization、異化)問題にも言及し、中国語訳諸版の比較に着目している。この研究によって、東アジア各国における村上受容の状況が明らかになった。

 2020年現在、中国語圏と韓国における村上文学翻訳をめぐる状況はさらに複雑化している。例えば、この地域では村上作品の翻訳が始まった1980年代から90年代まで、版権取得の法制度や商慣習が確立していなかったため、一つの作品に対して多様な翻訳書が出版されていた。法制度確立後の現在も中国語版は中国大陸の簡体字版と台湾の繁体字版の二種が刊行されており、一方韓国では版権の転移により二つの種類の『ノルウェイの森』訳本が流通している。それに伴い、直訳か意訳か(または異化か帰化か)の翻訳の本質的な問題に関する議論が起き、この問題は特に中国語圏で熱く論じられている。これは単なる翻訳の問題にとどまらず、日本語作家村上春樹の感性や思想、文化をいかに自国に伝達するか、そして外国文化に直面した時に自国文化をいかに保全するか、あるいは変革するべきかという文化的問題でもある。村上文学翻訳をめぐるこれらの議論は、中国語圏と韓国を中心とする東アジア諸地域の思想・文化の多様性をまざまざと浮かび上がらせている。つまり、現在の東アジア文化界は村上文学という日本発のグローバリゼーションを迎え入れつつ、自国文化のありようを問い直すという、村上文学受容の成熟期に入ったと言えよう。

 

 本論では複雑化する東アジアの村上文学の翻訳と受容の状況について、先行研究を踏まえつつ、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』、代表作『ノルウェイの森』、2000年代中期の長編小説『アフターダーク』(2004)および短編小説集『女のいない男たち』(2014)を中心に、中国と韓国におけるこれらの作品の翻訳・受容状況について調査し、村上文学受容の時空構造を明らかにしたい。村上作品翻訳に関する研究はこれまで一言語をターゲットにして行われてきたが、本論は中韓二カ国語に跨って、村上作品の翻訳を比較検討するものであり、それによって両国語訳の独自性と共通性をより客観的に考察することが可能となった。本論は東アジアを対象とする翻訳比較版本研究の新領域を切り開くことを目指している。

 

 具体的な方法としてはまずアメリカの翻訳理論家ロレンス・ヴェヌティ(Lawrence Venuti、1953~)の「foreignization(異化)」および「domestication(帰化)」に関する翻訳理論(1995)を参照し、中国語訳・韓国語訳のテキストの一部を取り上げ、「直訳」、「書き換え」、「訳し漏れ」、「誤訳」に分類し、統計的な考察を通して「帰化」と「異化」との傾向性をより客観的に判断することを試みた。これによって村上文学の中国・韓国での翻訳の変遷および翻訳の特徴を分析し、両国の受容状況にこの異同をもたらした社会的、文化的背景を考察した。なお管見の限り、「帰化」・「異化」の傾向性を判断する方法は翻訳研究の世界においても未だ確立されておらず、その意味で本論はそれをより客観的に行うための一つの試みでもある。更に藤井省三が訳書『故郷/阿Q正伝』「あとがき」(2010)で解説している「魯迅化」理論を参考にして、村上春樹文学翻訳書における「村上化」を考察した。

 その上で中国の人気書き込みサイト「豆瓣網」と韓国の「ネイバー・ブック」を中心に、両国の読者における村上受容状況を調査し、その共通点・異同点について比較研究を行った。

 

 論文の構成は下記の通りである。

 まず第一章では村上文学が受容されはじめた1980年代末から2020年本論執筆時の中韓両国で起きた村上春樹現象について考察した。1980年代末から2000年、2001年から2008年、2009年から2020年現在という三つの受容期に分けて、中国で起きた五回の村上ブームと、韓国で約三十年間絶えることなく続いている村上ブームについて論じた。さらにそれぞれの受容期における両国の翻訳出版の特徴をまとめて比較したうえで、東アジア文化圏の村上文学受容の特徴をまとめた。

 第二章では、村上春樹文学受容初期の1990年代から近年までに『風の歌を聴け』の翻訳が中国と韓国でどのように変遷したかを考察した。中国では同作の訳書が二人の訳者、三つの出版社より出版されている一方、韓国では七人の訳者、八つの出版社より出版されており、2000年に至りようやく一つの版本に一本化された。そこで中韓両国のほぼ四半世紀にわたる翻訳の変化に注目し、さらに原作の第三章から第六章までの主人公「鼠」登場部分を精査し、村上文学のリズム感をどのように再現しているかに注目し、両国語訳の異化翻訳と帰化翻訳傾向を考察した。

 第三章では1989年から2019年の30年間中国と韓国における『ノルウェイの森』の版本変遷について考察し、比較を行った。その後中国語林少華訳本四種と韓国語訳本四種を取り上げ、原作第四章ヒロイン緑の登場場面から抜粋した79句、2152字に対する「直訳」、「書き換え」、「訳し漏れ」、「誤訳」四グループへの分類を試み、村上文学翻訳における「異化」と「帰化」との状況について考察し、「異化翻訳化の法則」を提起した。さらに同法則の社会・文化・経済的背景について考察した。

 第四章では中国的要素が多く登場した『アフターダーク』が中国と韓国でどのように翻訳され、読者の間ではどのように受容されたかを分析した。同作の中国語訳は2005年4月に上海訳文出版社より林少華訳で出版されたが、版権がきれた後、2012年新経典文化股份有限公司が施小煒訳で新版を刊行した。韓国も同様、2005年5月に文学思想社が任洪彬訳で出版し、版権の更新に伴い、2015年にビチェ社が新たに權英珠訳で新版を出版した。そのため、時代を跨いで、異なる翻訳者の訳本を比較することができ、読者の異なる反応を伺うことが可能となった。さらに「異化翻訳化の法則」の延長として、村上文学の「土着化」、つまり翻訳による「中国化」・「韓国化」及び、その外国化、つまり翻訳による「日本化」・「村上化」についても検討した。

 第五章では村上春樹の短編小説「ドライブ・マイ・カー」の中国大陸、台湾、韓国での出版事情を紹介し、三地の出版戦略などについてそれぞれ比較した。登場人物である「渡利みさき」、「高槻」に関する部分を取り上げ、翻訳各版の特徴についてまとめ、さらに中韓の書き込みサイトである「豆瓣網」と「ネイバーブック」および台湾のブログサイトである「PIXNET」を調査して、翻訳の差異が読者の読書体験に与えた影響を考察した。また異化翻訳傾向と帰化翻訳傾向とを読者が如何に受け入れたかを分析し、「異化翻訳化の法則」の妥当性について再考を試みた。

 終章「東アジアにおける村上春樹文学と訳本の「村上化」」では第五章までの考察に合わせて、村上文学が最初に中国・韓国に紹介された1980年代末から現在に至るまでの両国の翻訳状況・受容状況について総合的に比較し、「異化翻訳化の法則」、版本の「村上化」についてまとめた。また受容当初の土着化された帰化翻訳よりも現在では村上化された異化翻訳の人気度が高いという状況の文化的、社会的要因について整理した。このようにして、東アジアにおける村上文学の翻訳の問題を再考した上で、本研究の成果に対して総合的なまとめを行い、併せて今後の課題を考えた。