東アジアにおいて殷賑を極めた海上交流によって、中国の神仙思想も各地域に伝えられた。女仙は本来超俗的な存在であり、かつ人々の崇拝と信仰を受ける神聖な存在だったはずだが、実際には、近世東アジアで信仰の対象となった女仙はそう多くはない。日本では、女仙はまず、文学作品を通じて貴族や知識人の想像の世界に入り込んだ。女仙を題材とした文学作品が数多く生まれたことは、多くの先行研究によってすでに指摘されている。その上で筆者が指摘したいのは、女仙は文学の他にも文化・民俗・信仰などの面において受容されたことである。特に江戸時代において、女仙にまつわる思想文化は明らかに様々な形で浸透している。

 「女仙」という言葉は、現代日本ではあまり知られていない。日本でよく知られている女神・仙女・天女などと女仙は性質的には重なる部分があるが、その「人を救い、修道に励む」などといった道教的な本質は、日本で一般的に認知されている女神などとは根本的に違うものと考えられる。例えば、宋元時代の道教経典『先天玄妙玉女太上聖母資伝仙道』の聖母元君の教えによれば、「道は術によって人を救い、人は修練によって道を会得し、それから変化は無窮となる」。この記述は女仙の特質を説明し、俗世の人々の女仙に対する認識と期待を浮き彫りにしている。中国における女仙は、引導と修道という独特な道教的意味を帯びていた。しかし他の地域に伝わった際にその認識が変わり、信仰的な理解は大幅に薄れたものと思われる。

 本論文は本文の九章と一つの付録によって構成され、最後に引用資料および参考文献を載せる。本文は第一章の序論と第九章の結論の二章を除けば二部に分けられ、前半は女仙思想の源流について、即ち女仙伝記集の展開及び書物成立などについて考察した。この部分が題目の「起源」にあたる。後半は東アジアにおける女仙信仰文化の受容について、とくに女仙と関係深い五岳真形図(以下、五岳図とも記す)の受容について論述した。即ち、題目の「展開、伝播」にあたる部分だ。各章の要約を以下に記す。

 第二章「女仙伝記集の源流」は、女仙伝記集を女仙理解のために最も相応しい文献として考察した。女仙伝は神仙集伝の流れを汲んで発展したため、女仙伝を備える神仙伝記集も取り上げた。また、三部のみ存在する女仙伝記集には、前後の継承関係があることを明らかにした。即ち、唐代末期の道士杜光庭による『墉城集仙録』、元代の道士趙道一が撰録した『歴世真仙體道通鑑後集』、明代において、浄明道を信仰し出版業に従事する文人楊爾曽が編纂した『新鐫仙媛紀事』(以下、『仙媛紀事』とも記す)の三部である。これらが全て王朝の末期に成立していることにも着目した。また、趙道一という人物の没年や『歴世真仙体道通鑑』と題された三十六巻の特殊な版本も取り上げた。 

 第三章「『新鐫仙媛紀事』の編纂者楊爾曽」では、『仙媛紀事』は女仙伝の集大成であり、最も大部の女仙伝記集として知られるが、最初の挿絵入りの伝記集である点、更に初めて文人が執筆したものという点においても意義深いことを論じた。また、楊爾曽の人物像と彼の浄明道信仰の背景について、散逸したか版本が雑然としている出版物が用いる題目や字号を考証した。これによって、彼の出版活動は自身の道教信奉過程の具体的反映であったことを示した。また、『仙媛紀事』の中に見られる曇陽子・劉香姑・苟仙姑らは、実際は皆当時の中央の朝廷官僚または地方の親王などといった支配階層が信奉していた女仙、女道士であった。さらに、このような社会風潮の中で、世俗と異なる思想を持ち、仙道を修める女性が存在するという社会認識があったことが推測される。本章では、仙道を奉じる女性たちに模範を提供することが『仙媛紀事』の編纂動機であったことを提示し、『仙媛紀事』には道教思想への傾斜があることを明らかにした。

 第四章「『仙媛紀事』の版本問題と内容の形成過程について」は、日本、台湾、中国など各地がそれぞれ所蔵する『仙媛紀事』の版本を検討し、最古の版本である草玄堂善本が現存することを指摘した。また、書目の分類などについても論じた。

 第五章「中国明代の白話小説における女仙イメージと道教思想文化―『水滸伝』からの考察―」は、東アジアで広く読まれる白話小説『水滸伝』を取り上げ、第四十二回・第八十八回などに見られる「九天玄女が天書を授ける」場面が道教の伝統に由来していること、それが『秘蔵通玄変化六陰洞微遁甲真経』『霊宝六丁秘法』など遁甲経典の叙述と共通することを指摘した。たとえば、『遁甲真経』には「遁甲術は九天玄女の法である」と明確に述べられている。また、趙普の進書の深い資料的意義も示した。

 第六章「五岳真形図と日本における女仙信仰文化」では、各地から集めてきた五岳図を紹介し、日本における五岳図の受容と独自性を取り上げた。日本では、ほぼ西王母の言葉を用いて理解され、女仙信仰の一環として認識されていることが多い。それに対して中国では、五岳図が女仙と同じルーツを持つことはあまりない。また、五岳図の様式は地図式と唐鏡式の二つに大別され、夙に平安時代には地図式五岳図が日本に伝わっていた。しかし、本格的に流行するのは江戸時代であり、唐鏡式の方が広く伝播した。また、日本における五岳図関係文献は、どの時代のものも西王母に繰り返し触れている。

 江戸時代に五岳図が流布した背景には修験道や江戸の旅行文化があったと考えられる。例として、八隅盧菴『旅行用心図』、筆者がフランス国家図書館で発見した「東海道 中山道里程表」などがある。他にも幅広く利用され、調度品など、特に源内焼に多く確認される。さらに、徳川光圀が五岳図を自らの花押として用いていたことを指摘した。また、韓国の南画の画家による五岳図もある。

 第七章「江戸時代の女仙文化の受容の一例(一):東臯心越の詩文に見える天妃信仰と五岳真形図について」では、明末清初の遺民僧侶東臯心越の東渡経歴を検証することで、女仙を信仰する文化の日本伝来の一端を明らかにした。天妃の研究はすでに非常に多いが、天妃信仰を東日本にもたらしたと言われる心越の研究は多くない。とくに彼の詩文を手掛かりとしての考察は少ない。心越は日本篆刻と江戸古琴の開祖とされることもあり、徳川光圀と親しく交流した。彼は曹洞宗の僧侶の身分だが、仏教の神ではない媽祖の信仰を広めたのである。

 第八章「江戸時代の女仙文化の受容の一例(二):平田篤胤と道教五岳真形図について」においては、平田篤胤の諸々の著作及び平田家の書簡、日記などを考察した。平田篤胤は二十~三十種類の五岳図を収集したのみならず、中国の説と日本思想を掛け合わせ、五岳図を多岐的かつ複層的に意味づけ、「大小五岳図説」を提示した。五岳に関する彼の考えは『五岳真形図説』『天柱五岳余論』『赤県太古伝』などの著書に見える。平田篤胤の思想において一貫しているのは『漢武帝内伝』の西王母の言葉を以て五岳図の唯一「正しい」歴史的源流とし、五岳をめぐる神聖地理学の核心としたことである。さらに、西王母と彼女の統治する崑崙を中心に、その位置と地景を日本の地理と結合し、五岳を非常に斬新に解釈した。この説は東アジアにおける道教の展開を考える上で重要な例と考えられる。なお、平田篤胤は彼の著した『黄帝伝説』で、九天玄女にも新しい解釈を加えている。

 また、平田篤胤は知識的な学習のみではなく、実践も行っており、気吹舎の束修制度を伝える「道統礼式」からは五岳図伝授の特殊性が窺われる。また『赤県太古伝』には孫の延胤に籤を引かせ、五岳の神霊の意志を尋ねたという記録がある。さらに、新整理の平田家史料(詳しくは付録「平田家資料における五岳図と三皇文に関わる書簡、日記等」を参照)から伝授の様相を明らかにできた。伊吹舎における伝授法は鄭隠・葛洪の伝承法と近いように思われる。篤胤自身の思想は異端だが、様々な書状、日記などを見ると、決して彼が唯一の信奉者、使用者ではないことがわかった。

 第九章「結論と余論」では、まず女仙伝記をめぐる問題と価値の所在を述べた。次に、女仙の思想文化の日本受容について、近世東アジア地域間交流における位置づけなどを議論した。

 総じて言えば、女仙は様々な分野で多彩な研究が多いが、まず、女仙の原初的な思想、たとえば、道教由来のイメージなどに関する具体的な考察はほぼ見られない。本論文ではこの問題への回答を試み、例えば、第五章で『水滸伝』中の九天玄女のイメージと道教遁甲説との関係を取り上げた。また、『仙媛紀事』は女仙思想を理解する上で最も重要な文献であるにも拘わらず、これまで専門的な考察がなかったため、注力して論じた。

 さらに、日に日に盛んになる東アジア研究において、道教に関する研究は依然として豊富とは言えず、まして女仙研究の乏しさは言うまでもない。本論では、後半の考察により、当時の女仙をめぐる実際の状況を多少なりとも明らかにすることを試みた。

 本論は挑戦的な調査・考察を多分に含み、今後研究を進めていく上での端緒にすぎない。しかし、これによって、他の様々な思想文化へ無意識下のうちに浸透している女仙思想の重要さが見直され、江戸時代には大した道教思想は存在しなかったと言う通説に一石を投じることができれば、とささやかながら期待する次第である。

 本論文は全体として、あくまでも基礎的な研究として位置づけられる。そして、これまでほぼ議論されて来なかった資料を中心とし、新しい視点を提供することや、今後議論されるべき課題を提示することが筆者の目指したところである。