本論文は、『正法眼蔵』「古鏡」巻の注解を通じて、修行者間において修行・悟りが相互相依的に成立している構造を考察するものである。そして、そうした相互相依的な修行・悟りの実現に際しては、単に一人の修行者と全時空とが直接的・無媒介的にかかわるのではなく、むしろ師弟関係をはじめとする修行者同士の一対一関係こそが中核的な契機となっていることを示し、さらに、修行には祖師たちの道得(真理の言語的表現)も含まれ、したがって道得同士が相互相依的にぶつかり合う「古鏡」巻というテクストそのものにおいて、前述の修行・悟りの相互相依性が実現していることを明らかにしていく。

 序章では、まず、従来の『眼蔵』研究において、「差別・無差別」図式および「個人対真理」というモデルが解釈の前提とされ、師弟関係をはじめとする修行者同士の相互性が見過ごされがちであったことを確認する(第一節)。次に、経典および禅仏教における「鏡」観について、「古鏡」巻を読解していくにあたり必要となる範囲で瞥見する。伝統的な「鏡」イメージ、特に「古鏡」のそれは、相対的な差別相を超えた絶対的な無差別の根源といった意味で用いられることが多く、「差別・無差別」図式で捉えやすい一面を持つため、「古鏡」巻もこうした前提のもとに読まれることが多いが、本稿はテクストを注解的に読むことで、そうした図式では捉えきれない道元の思考を明らかにすることを目指す。(第二節)

 

 第一章では、他の存在から独立した実体的な「鏡」イメージが否定され、師弟関係において修行・悟りが相互相依的に成立する運動それ自体が「鏡」であるとして、道元が公案を読み替え、解釈していくさまを確認する。

 まず、「古鏡」冒頭について、解釈に際して無造作に「差別・無差別」図式を当てはめて、「古鏡」の同一性を強調しすぎる従来の読みを揺さぶり、むしろこの箇所で使用される「同」という辞には、同一性というより、自他の修行・悟りが互いに互いの成立条件になっているという意味での同時性こそが表現されている可能性があることを論じる。また、この冒頭の一段について道元が念頭に置いているのは、さしあたり一と多とが無媒介に相即するような事柄ではなく、師弟関係に代表される修行者同士の一対一関係にかかわる事態であると読みうる余地が十分にあり、したがって続く「古鏡」巻全体もまた、「差別・無差別」図式のみでは解釈しきれない可能性があることを提示する。(第一節)。

 次に、伽耶舎多の因縁について検討する。伽耶舎多の誕生と同時にやって来た円鑑の正体は、一切の仏祖たちの修行・悟りが相互相依的に成立させ合っている運動そのもの(修行連関)であり、一切の分節化を超越している。だが、伽耶舎多の円鑑は村落共同体の分節様式によって半ば実体化されているため、そこからは修行連関を部分的に垣間見ることしかできない。このような不完全な状態は、僧伽難提と出会い、「有何所表」という問を突き付けられたことを機に一変する。この問は「円鑑」の正体を問うものであり、伽耶舎多は「諸仏大円鑑」で始まる偈によって答えた。それは「円鑑」の正体が自らの修行・悟りをも含む修行連関であることを表現し、さらにその修行連関を、僧伽難提との相互的な問答それ自体のうちに実現するものであった。こうして「諸仏大円鑑」としての修行連関が明らかとなった結果、「円鑑」という不十分な形態は消失することになる(第二節)。

 続いて、六祖慧能の明鏡偈を引く箇所について考察する。通常、単独での修行・悟りの力に優れた存在として捉えられがちな六祖慧能を、道元は、他の存在の修行・道得を引き出し、自他ともに修行・悟りを目指していく人物としていることを、先行資料との比較を通じつつ明らかにする。そして、このことと並行的に、六祖の偈の「明鏡」も、単独の悟りを象徴するものから、他の修行・悟りと相互相依的に修証する非実体的な働きそのものとして読み替えられていることを示す(第三節)。

 そして、南嶽懐譲の「如鏡鋳像」の公案、およびそれに対する道元のコメントについて検討していく。南嶽懐譲とある僧の問答において、万物を生み出す根源であるような「心」の象徴としての「鏡」が批判される。それは、内容においてスタティックかつ単独の悟りを前提とするモデルであると同時に、そうした内容を表現する言説としても、他の言説から独立してそれ単独で成り立つものとなってしまっている。しかし、そのような固定化を個々の修行が絶えず否定し、相互に固定化・実体化から解放し合うことによって、自他の間で修行・悟りが成り立つのであり、こうした複数の修行が相互相依的に互いを成り立たせ合う運動としての「鏡」が、まさに南嶽と僧との問答というダイナミズムにおいて実現されているのだと道元は考える。ここでは、「鋳(いつぶす)」という語に象徴される修行・悟りの相互否定的関係が強調される。(第四節)。

 

 第二章では、雪峰と玄沙による「古鏡」「明鏡」の問答を見ていく。従来、「胡来胡現、漢来漢現」は一般的な事物事象のありのままの存在や認識にかかわるものとされてきたが、実際には師弟の出会いを表す語であることを論じ、また、道元が、世俗的に規定された胡漢と、師と出会うことで修行者となった胡漢とを区別していることを示した上で、「胡来胡現、漢来漢現」は、世俗的規定を受けた存在が師との出会いを通じて修行者として成立するという事態を表していることを明らかにする(第一節)。

 次に、世俗世界の「鏡」について言及されている箇所について考察する。これまで、この箇所の「鏡」も真理を表すものの一つとして、仏法の「古鏡」と同一水準で捉えられてきた。だが、本文を精査し、これはあくまで、ある世俗世界をそれとして成り立たせる分節様式であり、そのような分節化を逸脱している仏法の「古鏡」とは水準が異なるものであることを論じる。この、ある世俗世界の分節様式は、その世界の内部で暮らすものにとっての思考や行動の可能性の条件となるものであるから、原理的にその分節様式そのものの外部に触れることは困難とならざるをえない(第二節)。

 続いて、雪峰と玄沙の問答に対する道元のコメントを検討し、この問答の「古鏡」の水準を見極めていく。世俗世界の分節様式である「古鏡」の内部に生きる者にとって、その外部を知ることが本質的に困難であったのと類比的に、修行世界における修行・悟りの先行条件である「古鏡」およびそれを体現している師の正体を見極め、それを体得し、師の法を嗣ぐことは難しい。雪峰の言う「古鏡」の狙いは、いまだ師の力に依存してしまっている弟子たちに対し、修行・悟りの条件であるところの「古鏡」の次元に気づかせていくことにある。そして、そのような雪峰の働きかけの水準を受け止めた弟子が玄沙であった。彼は「明鏡」の問によって、隠れていた「古鏡」の正体を明らかにする。それは、全時空の修行・悟りが相互に互いの成立条件となり、修行・悟りを可能にさせ合っているという運動にほかならず、それはまさに雪峰と玄沙との問答の中において実現されている。「古鏡」と「明鏡」は互いに実体化を克服し合うことで同時に道得(真理の言語表現)として成り立っているのである(第三節)。

 さらに、雪峰と玄沙との問答は進んでいき、玄沙による「百雑粋」の道得にいたる。「百雑粋」とは粉々に打ち砕くことで相手を実体化から解放する働きだが、それは対象を一方的に打ち砕いて、打ち砕く主体が実体的に存続するということではない。「百雑粋」は、雪峰と玄沙、あるいは「古鏡」と「明鏡」といった修行・道得同士が相互に「百雑粋」することではじめて真実の修行として成立するのである。二人の公案においてはまさにこうした修行・道得の相互否定的な運動が実現していたが、それは雪峰と玄沙の二人のみに限った関係ではない。師弟の一対一関係を基本としつつ、全時空の修行・悟りと連動し、相互相依的に成り立たせ合っていくものとして、道元は様々な祖師の公案と結びつけようとする。その結果、「古鏡」巻自体の記述もまた、修行連関の一つの実現となっているのである(第四節)。

 

 最後に、第一章および第二章における「古鏡」巻注解の成果を踏まえつつ、巻後半の解釈について簡単に見通しを述べる。「看獼猴」の公案では、「獼猴」のような、通常仏教の文脈では否定的に言及されてきた言葉・シンボルであっても、仏祖は自在に真理の表現として使いこなすことができ、それによってむしろ既存の固定的な価値観の方を破壊しうるということが示される。次に「似古鏡闊」の公案では、雪峰・玄沙のような仏祖たちは、仏祖同士だけで修行連関を実現しているのではなく、「火炉」のような身近な事物事象との間にも修行連関を実現していくことが主張される。また「古鏡未磨時」の公案では、「磨」の主体が「百雑粋」と同様修行連関であることが確認される。こうした文脈の中で、「磨塼」の公案は、単独の修行・悟りを問題にしているのではなく、南嶽が仲立ちとなって塼と馬祖との間に修行・悟りの相互相依的成立運動を実現させているものとして読むことができるという仮説を提示する。