ハイデガーの実存哲学 『存在と時間』の統一的解釈の試み

髙井 寛

 本稿は、ハイデガー『存在と時間』を実存哲学として統一的に解釈することを試みるものである。同書はハイデガーの主著でありつつ、これまで実存主義的な視角から、あるいは存在論の視角から解釈されてきたが、本稿はこれを「実存するとはどのようなことか」についての哲学的解明として一貫して解釈することを試みる。このとき「実存する」とは、私たちがそれぞれ「私」として存在する、ということを指す。すなわち本稿は、『存在と時間』のなかに「それぞれの「私」がそれぞれの「私」として存在するとはどのようなことか」についての解明を読み取り、その問題系から同書の全体を解釈することを試みるものである。

 本稿第一部は、本稿の以上の解釈方針を正当化することに費やされる。そこでは『存在と時間』の「序文」を手掛かりに、当初のハイデガー自身の構想という点では未刊に終わった『存在と時間』が、そもそもどのような全体的な構想の中に位置づいており、またその構想の中で『存在と時間』に相当する部分が果たすとされていた役割がどのようなものであったのかを明らかにする。本稿の結論は、ハイデガーが当初構想していた「存在の問いの仕上げ」というプロジェクトは「存在の問いに答えること」に対する準備作業であり、『存在と時間』もまたその準備作業の中の一つの部分課題である、というものである。その課題とは、まさしく「実存するとはどのようなことか」を明らかにするという課題である。そして実際、公刊された『存在と時間』のほとんどすべては、その「実存すること」についての哲学的解明としての「実存論的分析論」によって占められている。以上より明らかとなるのは、私たちが手に取ることのできる『存在と時間』は、それ自身で「実存」についての哲学的解明として企図されており、そういったものとしてその全体を解釈する本稿の解釈方針には内在的な根拠が存在するということである。

 本稿の第二部は、『存在と時間』の主に第一篇を解釈する。そこでハイデガーが分析しているのは、私たちが日常的にはどのような仕方で実存しているのか、ということだが、本稿は第二章から第七章にかけて、そうしたハイデガーの分析を解釈することを試みる。

 第二章では、実存するということの最も基礎的な現象としての私たちの行為についてのハイデガーの分析を、周囲世界分析と呼ばれる箇所を中心的に読解することで析出する。簡潔に述べておくなら、私たちは、それぞれにとって重要性をもつ自らの特定の存在の仕方へと自らを参与させつつ、ある全体的な行為の文脈を形作りながら、個々の行為を遂行している。ハイデガーの周囲世界分析は、そうした着想を含みつつ、行為とそうでないものの違い、あるいは行為を可能にしている諸条件について考察している。

 第三章では、第二章で描かれたハイデガーの行為の理論における、行為者性の問題に取り組む。この行為者性の問題とは、ある存在者が行為主体であるとはどのようなことか、にかかわる問題である。その問題に対しては現在まで様々なアプローチが様々な哲学者によって試みられているが、ハイデガーが提示するのは、「存在できることの行為論」である。これは、ある主体が、特定の状況に置かれることによって特定の仕方で存在できるようになっているとき、その行為者は問題の在りかたへと自らをコミットさせていることになるという、行為者性の理論である。

 第四章では、同じく周囲世界分析を読解しながら、ハイデガーにおける意図的行為についての理論を再構成することを試みる。私たちの意図的行為を意図的にしているものの正体については、「意図」という心的状態が引き合いに出されることが多いが、そうした心的状態に基づくアプローチには限界があることが知られている。ハイデガーが周囲世界分析で示唆しているのは、そうした立場とは異なり、意図的行為を意図的にしているのは意図ではないというものである。なお、この立場を『存在と時間』から析出した先行研究に、門脇俊介のものが存在する。本稿は門脇の解釈を吟味しつつ、門脇がある点で主張を弱めてしまった部分を徹底することによって、周囲世界分析のなかに存在する意図的行為論の全体像を明らかにすることを試みる。ここで短く結論を述べておくなら、ハイデガーのそれは、意図的ではない意図的行為が存在しているという、私たちの責任を巡る実践を支える意図的行為論を適切に反映したものとなっている。

 第五章では、周囲世界分析で示された行為の理論を補完する仕方で、空間についてのハイデガーの議論を読解する。すなわち本稿はそれを、行為にとって必要な空間把握についての議論として解釈する。こうした観点から、本稿は『存在と時間』のいわゆる空間論に含まれた重要概念に順に解釈を与えていく。本稿が明らかにするように、そこでのハイデガーの空間論は、「私を中心とする空間」のなかに対象の位置を見出す働きと、「私を中心としない空間的配置」のなかに問題の対象の位置を見出す働きとを区別しつつ論じている。

 第六章では、〈ひと[das Man]〉という有名な概念が現れる、共同存在論と呼ばれる箇所を解釈する。そこでハイデガーが主題化しているのは、私たちが他者たちと共に同一の社会を生きているという事実によって、私たちがある水準では他の人々と区別されない、誰もがそうであるような生き方へと自らをコミットさせてしまっている次第である。〈ひと〉概念にまつわるハイデガーの一連の議論については解釈上の論争が絶えないが、本稿は主に第四章で析出した「存在できることの行為論」に依拠することで、ハイデガーの〈ひと〉論が私たちの日常の在りようを説明する魅力的な理論を含むことを明らかにする。

 第七章では、『存在と時間』第一篇の結論に相当する、「現存在は気遣い」であるというテーゼの内実を、それまでの本稿の解釈の成果を踏まえて明らかにする。また第七章では、第一篇と第二篇という仕方で『存在と時間』の構成を分割することにも関係する、「日常的な在りかた=非本来的な在りかた」と「本来的な在りかた」の間の区別がどのようなものであるかについても、考察する。本稿の結論は、自らが重んじている生き方について明示的な問いを立てないことによって私たちの日常的な在りかたは可能となっており、ハイデガーが「本来的な在りかた」と呼ぶ在りようは、その問いを明示的に立てることで成立する、というものである。以上が本稿の第二部の概要である。

 本稿第三部では、『存在と時間』第二篇を中心的に解釈する。そこでハイデガーが主に分析するのは、同書第一篇が取り組んだのとは異なる「本来的な在りかた」だが、その分析を本稿は、実存する存在者にとって本質的に開かれていなければならない可能性についての分析として読解する。

 第八章では、死を前にして不安を抱くという情動についてのハイデガーの分析を辿る。私たちは一般に死を「おそろしいもの」として考えているが、それは通常の「恐れ」とは異なるタイプの情動だというのが、ハイデガーの分析の結論である。短く述べるならばそれは、自らに固有の死という可能性に向き合うことで、目下の自らの生に保証されていたはずの「生の有意味さ」に疑問符がつく、そのような経験に伴う情動である。

 第九章では、私たちがどのように生きるべきかを明示的に問うという、「実存の問い」についての分析として「良心」を巡るハイデガーの一連の議論を解釈する。そこで論じられている通り、実存の問いは、「私」によって立てられ、また「私」によってしか答えが出せない、ある特殊な問いである。ここには「選択のパラドクス」と呼ばれる理論的困難が指摘されてきたが、本稿はハイデガーの立論がそうしたパラドクスを回避していることを明らかにする。

 第十章では、同じ「良心」を巡る議論の中に、責任ある行為主体であるとはどのようなことかについてのハイデガーの分析を読み解くことを試みる。私たちの責任実践は、ある水準においては、「一般に求められる要求を果たすこと」の周りに成り立っている。しかし、私たちが真に責任ある主体であろうとするなら、そうした「一般的な基準」を満たすだけでは不足しているとハイデガーは考えている。良心論においてハイデガーが積極的に示すのは、一般的に考慮すべきだとされていることを全て満たしたとしてもなお行為者に付きまとう、そういった責任を負う用意がある、そういった「責任ある行為主体」の姿である。

 第十一章では、私たちが「自己」であるとはどのようなことかという、実存哲学の根幹にかかわる問題に対するハイデガーのアプローチを、「歴史性」を巡る一連の議論から再構成することを試みる。私たちは、単に時間的に持続する「自己」である以上に、自分自身が誰であるのかについて物語る存在である。本稿はハイデガーの歴史論を、ここに現れるような自己について物語ることについての理論として解釈する。そこではまた、共同体の歴史に巻き込まれた自己についての、議論を読んできたハイデガーの主張を整合的に解釈することも試みられる。

 以上が、本稿が『存在と時間』に見出す実存哲学の概要であり、また本稿の論旨である。

 

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