本論文は、明治初期の大阪市中における都市行財政の制度形成過程を、大阪府庁の動向と同業者組織の機能を視角として分析し、都市の近代化について一定の試論を提示しようとしたものである。

 近世身分制秩序が残存し、近代的な地方制度が未整備な明治初期において、大阪府庁という存在が、都市行財政を担う一主体であったとともに、未確定な政府と大阪府双方の行財政の範囲が確定されていく過程を析出するに不可欠の存在であったと捉えた。加えて、府県庁が基盤としながらも機能不全に陥ると評価されてきた明治初期の「大区小区制」が、都市において如何に展開するのかを明らかにするため、近世期に都市行財政の一端を担ってきた仲間との関連性に注意しつつ、明治初期の同業者組織の役割に注目した。

 

 第一章では、大阪町人地における止宿人取締りを検討対象として、維新後に設置された大阪府が市中の支配の確立に際して抱えた問題を析出し、問題が解消されて一円的な支配が形成される過程を明らかにした。

 大阪町人地には、蔵屋敷に代表されるような町人身分ではない諸支配身分が設置した出張機関が点在し、その権威を背景に大阪府の支配と対峙していた。こうした権力同士の対抗関係は、漸次大阪府が新政府との関係を整理し、権限を確認していくことで解消されたが、止宿人を焦点とする市中取締りは、煩雑さを避け戸籍編成を前提とした制度の構築を進める政府と、当座の厳格さを志向する大阪府との間で歩調のズレが生じた。大阪府は、蔵屋敷等の公用機関と宿を介して取締る近世以来の慣行と、戸籍編成を基礎に政府が進める政策基調との双方を折衷する過渡的措置をとることで、戸籍と警察機構とによる新たな取締り体制への円滑な移行を果たした。

 諸支配身分が設置した出張機関や、そこへ出入りする身分を超えた町人の存在は、戸籍編成とともに徐々に解消されていったが、出張機関という空間自体は廃藩置県まで残存することになった。蔵屋敷上邸は、在阪諸藩邸が借銀のために質入れされていた関係で藩債処分と関連していたため、政府の指示である無条件の召し上げという措置を大阪府はとらず、府庁や政府が被る損失を回避するため、債権者である町人へ流質とした。結果、これらの空間は町へ返還され、一部の蔵屋敷はそれまで果たしていた行政的機能を踏まえて、取締出張所として転用されるという固有の措置がとられていた。

 

 第二章では、明治五年末から着手された大阪築港計画を分析対象として、それがもった都市行財政上の意義と、土木行政形成上の意義を論じた。

 都市行財政上の意義を論じる前提として、維新後の市制改革を整理し、身分別行政が町・町人地へ吸収される形で解体されること、町人地は戸籍区に依拠した区画制度に改編され、近世期に町とともに都市行政を担ってきた仲間が解放されたため、戸籍区に置かれた区戸長に、一般行政の実務担当者と住民の惣代という性格が集中するという単一的な都市行財政システムが作られたことを指摘した。築港資金調達は区戸長への依存により有志の出資を募るものであったが、実際には町請制的な性格を帯びたことから、その難航は区戸長の惣代性が揺らぐ要因となった。府庁は資金調達方法を改正して継続を試みたが、維新後の市制改革で解体した同業者単位での住民把握が求められることになり、集金事業は即時性を失って挫折した。その後、府庁が最初にとった措置が区戸長民会の開設と同業組合の認可であったことから、築港計画は大阪市中の都市行政システムの限界を浮かび上がらせるとともに、それを修正、再構築する契機となった。このうち、区戸長民会は、議員が徐々に不動産所有者である区戸長と区総代に、議事の場は府会へといずれも限定されていくことから、民会開設の意義は、公選制の拡大よりも議事公開の実行という点にあったと論じた。

 土木行政形成の意義を論じるにあたっては、維新後の畿内の土木行政を近世の国役堤普請制度との関連から捉え、明治五年末の築港は明治二年の官費築港の中止により引き分けられた築港と淀川修築の再接続であったこと、そこに西洋技術を取り入れた政府の土木寮が具体的な実行の場を求めて関与したことを指摘した。築港の挫折は、大阪府にとって港が再び内国運輸の港という位置づけに回帰したことを意味するが、土木寮にとってはそのまま淀川を直轄化してオランダ流の河川行政システムを構築する足掛かりとなり、かつ技術官を組み込んだ土木寮職制が作成される画期となった。そして、川口と市中川浚いは大阪府が、淀川は土木寮がという分掌が成立することになった。

 

 第三章では、明治六年末以降、大阪府の認可によって設立が進んだ同業組合の行政的機能を、薬種商組合を事例としつつ検討した。大阪府の仲間に対する態度は、行政の「弁利」である限りにおいて利用するというもので、同業組合へも同様であった。従って、大区小区制期の大阪都市行政は、行政実務が属地的にしか遂行できないという区戸長の限界を、同業者単位で把握できる同業組合が補完することで維持されていたというのが実態であった。しかし、行政の「弁利」であるにすぎない同業組合は、区戸長が民会において担う公議形成に参加する途はなく、組合の利害を主張する機会をもたなかった。そうした同業組合の位置づけを脱し、区戸長との関係を再構築するものとして設立されたのが、営業者の公議形成機関である大阪商法会議所であった。

 

 第四章では、大阪都市財政構造の形成過程を、三府開港場における財政構造の形成の一つと捉えることで明らかにした。具体的には、近世期の諸運上・冥加金に由来し、明治一一年に成立する地方税の一つである営業税雑種税に連なる諸税の運用実態を検討した。元来独自財源を持たないとされてきた明治初期の地方財政に対し、三府開港場では特例として、諸運上・冥加金が近世以来都市財源として用いられてきたことを根拠に、引き続きそれらが財源化されるとともに、民費拠出の中心である家持層の負担を回避するために、特定営業者に対する課税が政府との伺い・指令を経て実施されていた。明治八年の雑税廃止・府県税創設という税制改革は、当該諸税の収支原則を目的税から普通税へと変更するとともに、近世以来の収支慣行を断ち切ることで、都市を管轄する府県庁が徴収・支出する財源として、民費や共有金との区別を明確にした。一方、多様な職業をもった人々が集住する都市固有の財源という位置づけに変更はなく、府県庁に収納されてはいても、郡村地域へ分配されるということはほぼなかった。

 大阪府でも三府開港場の一つとして都市固有の財政構造が形成され、とくに明治八年の税制改革後は、府庁内の府税徴収部局の一元化と同業組合の事前調査に基づく府税規則の整備を伴いながら、府税支弁が拡大し、増加する民費負担を吸収する役割を果たしていたことが析出された。そして、三府開港場の中でも府税規模が大きかった大阪府は、三新法制下で三部経済制を採用し、大都市として財政構造を形成していくと展望した。

 

 第五章では、輸入薬品取締り問題を取り上げ、大阪が三府の一つであり、かつ開港場をもつという固有性が、都市行政と如何に関連していたのかを論じた。政府が、国内に流入する贋悪薬品の防遏という課題に対し、輸入品として開港場で取締るか、東京に一局を整備した上で漸次拡大していくかという方針の間で揺れる一方で、大阪府は府営病院付属の診察・施薬機関である「精々舎」と薬種商組合の接続によって輸入薬品検査体制の構築に着手した。しかし、それは、英国商社が公使を通じて条約違反を訴えたことにより外交問題化し、停止に追い込まれた。この一件は開港場での輸入品としての取締りに傾いていた文部省や太政官正院に、それが困難であるとの認識を与え、内政問題として司薬場を設置する方針が確定する契機となった。

 大阪府の輸入薬品取締りは政府の課題として引き継がれ、内政の要地である三府の一つとして大阪府に司薬場が設けられたが、同場の開設と運営には薬種商組合が受け皿となっていた。その後の開港場への司薬場設置に際して、大阪は開港場の一つと読み替えられ、内政的対応から外交・通商的対応へという政策展開の軸となっていた。

 

 終章では、以上の分析を踏まえ、①大阪都市財行政の実態、②大阪府行政の形成と府庁が果たした役割、③三府かつ開港場を有する大阪府の位置、の三点からまとめ、結論とした。

 大阪都市行財政は、大区小区制期の原理的矛盾や、独自財源の不足という「地方」行財政の限界を、同業組合の認可によって同業者把握機能を保持し、諸運上・冥加金由来の都市財源の継承や特定営業者や雑業層へ課税するなど、近世以来の都市行財政システムを部分的に継承することによって維持され、近代のシステムへと架橋されていった。

 この移行にあたって、大阪府庁は、市中の一円的支配の確立を前提とする市中取締り体制の成立、港湾経営と淀川行政の接続・分離、都市財源の継承・確保、輸入薬品取締りの推進と政府の司薬政策への接続など、大阪府・政府ともに行財政制度の形成期であった明治初期において不可欠の役割を担う存在であった。

 その中で用いられたのは、三府であり開港場を有するという大阪府の固有性であった。これは三府として、政府が整備を進める地方「一般」の制度が適用できないことや、内政の要所としての特例を引き出す論理を与え、「一般」とは違う都市行財政の範囲を確定していく背景となった。加えて、開港場を有することは、大阪都市行政が外交問題と隣り合わせであるために制約条件でもあったが、内政的対応と外交・通商的対応の選択・決定の局面において、双方の性格をもつ大阪府はそれらの読み替えが可能な、政策展開の一起点として位置する都市であったといえる。(3996文字)