本研究は、これまでほとんど未開拓であった在地固有の文書資料に依拠した東南アジア近世研究の可能性を、ビルマを対象として実証的に示そうという試みである。18-19世紀のビルマで広く使用されていた折り畳み写本や貝葉文書の中に、仏典、慣習法の写本などのほかに、人々が取り交わした契約証文が大量に含まれていたことへの驚きを出発点とし、これらの文書を読み解くことから始まった研究だったが、資料を読み進めるうち、従来「パトロンクライエント関係」「二者関係の堆積による社会ネットワーク」などの枠組みで語られることの多かった東南アジア前近代社会の性格を考え直す必要が痛感されるようになった。本研究が、借金証文の分析による社会経済史という枠を超えて、ビルマ近世社会論に踏み込んでいるのはそのためであり、論文の構成も以下のような形となった。

 第I部、第一章では、18世紀中葉から19世紀後半にかけて、コンバウン王朝の中心域に当たるビルマ中央平野部において借金証文があらゆる階層を含めて広汎に書かれ、またその中で農地を担保とする借金が急速に増加していった背景を二つの角度から論じた。第一には、中央平野部の風土、すなわち東南アジアの内陸モンスーン・サヴァンナ地帯の中でも、もっとも乾燥がきついという気象条件と、大地を米の生産が可能な土地とするために古くから中央王権によって建設、維持管理されてきた灌漑網の存在を取り上げた。これらの条件が、「人口は稀少、土地は無尽蔵」とイメージされやすい前近代東南アジア像に反して、ビルマ中央平野の農耕可能地の拡大に一定の制限をかけ、農地が稀少財となる条件を作ったと指摘した。第二の背景として18-19世紀のビルマ王国と外部世界との関係のなかで、重要な意味を持った対外戦争と対外交易を取り上げた。対外戦争に常勝し、遠征がビルマに労働力、貴金属、技術などの重要な資源をもたらしたのは1785年までであり、この年における対シャム戦争での敗北以降、ビルマの軍事的優勢は失われ、近隣王国に対する影響力を失った上、二度の英緬戦争の結果、領土の喪失が続いた。その中で王国の経済は疲弊し、借金証文の数もますます増加した。従来は、気候と特産物の地域差によって王国内の地域間商品流通で、武器弾薬を除く必需品を充分に賄える経済構造が崩れてゆき、英領下ビルマをはじめとする域外交易が王国にとって死活問題になっていった。

第二章では、借金証文を読む前提となる18-19世紀における複雑きわまりない貨幣のシステムを読み解くと同時に、長い歴史を持つビルマ貨幣史の中に位置づけた。銅を基軸とした私鋳の金属貨幣を秤量して用いる慣行が16-18世紀半にはすでに広く見られたが、コンバウン時代には銀が基軸となり、市場に出回る私鋳貨幣はますます多様となった。品質重量ともに規格化されない貨幣の流通を可能としたのは、多数の貨幣鑑定、秤量者の存在であった。

次にこうした複雑な貨幣状況に対して、コンバウン時代に行われた二回の貨幣制度改革の試みを取り上げた。1797年にボードーパヤー王の政府により行われた貨幣制度改革と1865年にミンドン王政府によって行われた改革は、いずれも貨幣の標準化と中央王権による貨幣発行権の独占という共通の目的を持って遂行されたが、その結果は正反対、すなわち1797年改革のまったくの失敗と、1865年改革のスムーズな浸透に帰着した。それらの成否が分かれた原因を王政府とりわけ王個人の資質や性格に求めてきた通説を排し、本論では、ビルマを取り巻く政治経済環境の変化の中にそれを求めた。すなわちボードーパヤー王の改革は、私鋳通貨の流通を媒介してきた貨幣秤量者や貨幣製造者の抵抗を突き崩すほどの準備がないまま拙速に行われたものであり、ミンドン王の改革は、英領となった下ビルマとの交易において外国人商人との競争に後れを取らないよう、英領インド・ルピー貨と同じ品質、重量の貨幣を鋳造したことに成功の原因があったと論じた。

第II部では借金証文の中で人身抵当証文に焦点をあて、コンバウン時代の債務奴隷の在り方を考えた。第三章では、中央平野部一帯から収集された309点の人身抵当証文を分析し、コンバウン時代における債務奴隷契約の趨勢、地域分布など全体的状況を明らかにし、その歴史的変化を跡づけた。第四章「サリン地方における人身抵当証文」では、18-19世紀においてもかなりの数の債務奴隷契約を取り結んでいたエーヤーワディ西岸地方の豪族サリン・ダガウン一族に属する家系に伝わった104点の人身抵当証文を資料として、債務奴隷契約の実態を詳細に検討した。その結果、コンバウン時代における債務奴隷の歴史的意味が、18世紀の第二次タウングー時代における債務奴隷のそれとは大きく変化していたことが明らかになった。タウングー時代には、王権に対する世襲の役務を負った人々が王権の請求から逃れるための手段として債務奴隷になる例が多かったとされるが、コンバウン時代にあっては、そうした債務奴隷化がほとんど消滅し、日々の生活に窮する人々が、生存維持の最後の手段として自らを、あるいは家族を債務奴隷とする例がほとんどであった。

第III部では、コンバウン時代中期以降、人身抵当証文に代る勢いで増加していった農地を担保とする借金証文を扱っている。第五章「借金証文と農地の流動化―ビャンヂャ村の事例」ではシュエボゥ地方の1村落ビャンヂャ村の61点のテッガイッによって、借金を媒介とする農地の流動化の進行過程を跡付けた。私有地、扶持地、寺領地という本来素性の異なる土地が、土地を担保とする借金が急増してゆく中で同じ農地として扱われ、すべての土地が私有地化の方向に動いていたと指摘した。第六章で、中央平野部全体を視野に入れて、農地の質入れ証文を分析すると、18世紀半ばから19世紀後半にかけて、借金の諸形態つまり、担保付借金と無担保利子付借金を合わせた借金証文総数の中で農地を担保とする借金が半数を超え、支配的な形態になっていったことが確認された。ただし、ビャンヂャ村で見たような、農地質入れから農地売却へと進行してゆくプロセスは、王都周辺地域や、金融によって人と農地を集積した豪族が出現した地域にのみ見られた現象であって、資料から見る限り農地売却は、コンバウン時代を通じて一般的な現象とはなっていなかったことも判明した。多くの地域で農地質入れが頻繁に行われていたが、売却に至る例は極端に少なく、そこには農地の売却を押しとどめる強力なブレーキが働いていることが見て取れた。農地は単なる商品に還元できるものではなく、開墾者とその子孫に永久的に結び付けられたものであるとする広く共有されていた観念、慣習法にも明記され、開墾者の子孫に未来永劫にわたって質入れ農地の先取買戻し特権があるという形で現実を規制していた観念がそのブレーキであると推論した。

第IV部では、テッガイッと総称されていた私人の間で取り交わされた証文が、その実効性をいかに社会の中で担保されていたのかという問題を考察した。テッガイッは、それが人間や農地のようなもっとも基本的かつ重要な資源の移動に関する約束事であっても、中央政府にも地方首長にも届け出る義務はまったく課されておらず、東アジアの近世証文でしばしば見られる統治者の公印や署名が証文に添付されるような習慣もなかった。 そこで第七章「契約社会としてのビルマ近世-借金証文の実効性を支える社会システム-」では、上述のような性格を持ったビルマの様々な証文が、どのような力や関係性によって社会における実効性を担保されたのかという問題を考察した。第一には、証文に現れる当事者以外の立会者、すなわち証人、証文作成者、筆記者、貨幣計量者、鑑定者などに注目し、なかでも重要と思われる証人の立ち合いの意味を考えた。第二には、証文に記された約束事項に関して当事者の間に紛争が勃発した時、それを裁定する場、すなわち地方から中央王権に至る各レベルの民事裁判法廷において私人の間に取り交されたテッガイッがどのように扱われたかという点を検討した。第三には中央王権および地方統治者が私人の間の契約に対し、どのような介入を行ったか、あるいは行わなかったのかを検討し、そこから統治権力と民間契約の関係を考察した。

 第八章は、コンバウン時代に実際に頻発した質入農地をめぐる裁判沙汰の複数の事例を取りあげて、農地紛争の生じる背景、原因、そして実際に生じた紛争が各レベルの裁判によってどのように解決されていったかを見ている。この裁判の在り方自身が、植民地時代の裁判とは大きく異なるやり方、原理にのっとっていたことを示し、一見自立した個人と個人によって結ばれる契約として「近代的」に見えるテッガイッの世界を支え、機能させている社会的観念とそれに基づく慣行は、私たちが「近代性」と呼ぶものとは、異なった文化、慣習の中で育まれていたことを示した。

 補章は、借金証文の主題からは離れて、ザガイン地方の村と村の間で起こった1768年から1840年代にかけて起こった二つの境界紛争を取り上げ、紛争の始まりから最終的解決に至る道筋を再現したものである。これらの事例も当時の紛争解決メカニズムを特徴的に示す記録として、コンバウン社会の在り方をよく示している。

 最後に以上の行論から導かれた諸点を要約し、掲げた課題に対して何をどれだけ明らかにすることができたか、解明できず今後の研究にゆだねなければならない課題は何かを明らかにして結論とした。