本論文は、第一次世界大戦後の日本の海運業および海運政策と国際社会、特にイギリス帝国との関わりに焦点を当てながら、戦間期アジアにおける海運秩序について論じるものである。海運業はその国際的な性格に関わらず、圧倒的海運力を有するイギリスが実質的な支配者であったために、一九世紀末まで国際的統一ルールが成立することはなかった。こうした海運秩序におけるイギリス支配の実情が大きく変容するのが、第一次世界大戦後である。戦中に船腹量を急増させたアメリカおよび日本の影響力が増大し、同時に国際連盟の発足により国際ルールの制定が目指されたのである。アメリカは国際連盟に加入せずまた一貫して保護主義的海運政策を基調としていたため、自由通商を規範とする連盟を舞台とした秩序形成過程においては、日本とイギリスが影響力を分け合うことになった。戦間期の二つの帝国は、国際連盟の一員として「海運の自由」という自由主義的規範を具体化する責任を負うとともに、自らの帝国を守らなければならないという困難を抱えることになる。

 帝国と海運との関係とはどのようなものか。帝国にとって、海運とはその紐帯を保証するインフラストラクチャーである。日本やイギリスが抱えた上述の困難はここに起因する。また、ある地域が海運を発展させることは、宗主国あるいは大国からの経済的、政治的自立を意味するものでもあった。そして、帝国主義が記憶に新しい二十世紀前半においては、ある地域への他国海運の進出は、国防や経済的観点から周辺国家による警戒の対象となった。帝国と海運が内包するこれらの論点から、本論文では一国内の航行を意味する「沿岸貿易」に焦点を当て、国際社会における沿岸航行権の扱いを日本との関わりを中心として検討した。高度な国際的自由市場である海運領域において、国家は沿岸航行権をめぐる問題にどのように関わるのか。こうした問いは、経済的領域における国家の役割についての知見をもたらし得ると考える。それゆえ行論においては、国家の市場への介入、不介入の様相を明らかにすることも強く意識される。

 

 本論文は第一部(第一章~第三章)、第二部(第四章~第六章)から構成される。各章の論旨は以下の通りである。

 第一章では、第一次大戦中に政府が勅令として発令した戦時船舶管理令と戦時日本海運業の関係を論じた。戦間期の日本海運業を論じるにあたり、同令の評価を明らかにする必要があるためである。同令は、当初の構想には低位運賃の固定化が含まれていたように、本来政府による日本海運業統制の性格を強く帯びたものであった。しかし、自由営業を望む社外船主による反対運動とそれに呼応した政党、特に政友会の対政府交渉によって同令は骨抜きとなり、本来禁止されていたスエズ以東アジア地域の航行は実質的に自由となった。戦間期の日本船舶、特に社外船のアジア進出の発端には、当業者の積極的な運動と政治空間との関わりがあった。

 第二章、第三章では、第一次大戦後における国際海運秩序の構想と形成を論じた。ウィルソン的秩序の中に存在していた「海運の自由」構想は、英米の間では帝国特恵を除外するものとして了解されていた。海上交通による帝国の紐帯の維持のために、帝国内交通を自由(差別待遇の禁止)の例外としたのである。しかし、新興海運国日本が構想した「海運の自由」は、それと正反対の、帝国内交通の自由化および沿岸貿易の開放であった。日本外務省は国際連盟や国際会議におけるプレゼンスを着実に高めながら、帝国内交通と、国際法上で自国船への留保が認められていた沿岸貿易について、相互主義のもと外国船舶へ開放することを国際条約に挿入する試みを辛抱強く続けた。交渉中、日本は自国権益に関わる部分については連盟の規範に反する提案も行いながら、特に連盟規約二十三条(E)項の自由通商精神を反映させた海港条約への強いコミットメントを見せた。海上交通における国際的な自由通商規範の実現における日本の役割を示すと言えよう。ところが、イギリスとの対立の結果、日本が要求した帝国内貿易の自由化は議定書に記入されるに止まり、各国への強制力を伴うものにはならず、沿岸貿易の相互開放については何の結果も得られなかった。そのため、日本は沿岸貿易の開放を二国間の通商条約のなかで模索することになるのであるが、日英交渉の過程で日本の国内法改正が必要となる事態を招いてしまい、試みは失敗に終わる。逓信省が国内法改正を忌避する姿勢を見せていたためである。一九二〇年代前半に海運不況を経験した同省が国内法に沿岸貿易の開放を挿入する可能性は皆無に等しかった。国際条約による沿岸貿易開放実現の途は、ここにおいて絶たれる。ここまでの規範の構想、形成とその失敗を論じたのが第一部(第一章~第三章)であり、そのために必要となった事例ごとの沿岸貿易に関する交渉を扱ったのが以下の第二部(第四章~第六章)である。

 第二部の冒頭、第四章では大連の事例を扱った。日本の租借地である関東州大連は国際法上あるいは国内法上の位置づけが極めて曖昧であり、海上交通におけるそれも多様な解釈が可能であった。また、「沿岸貿易」という言葉の定義(帝国内交通を含むか否か)をめぐる問題も第二章、第三章で扱ったような国際会議では棚上げにされていたため、日本内地大連間は沿岸貿易に含まれるかという問題が浮上したとき、日英はそれぞれ国内で問題の対処法を考案した。その方法は、どちらも問題の核心部分、つまり沿岸貿易をどのように定義するかということに触れるのを避けたものであった。そして実益のかかわるイギリスはもちろん、日本外務省も「開放」や「自由」の建前上、内地大連間の航路を外国船舶に開放することとした。このとき日本が市場の「開放」「自由」を維持することが出来た理由としては、その帝国の地理上の特徴による部分が大きい。つまり、日本海のみを挟んだ隣接する帝国領域と内地との接続は、自然と自国海運の競争力が強まるものであり、開放による経済的実害ないし国防上の懸念というものは発生しづらかったものと思われる。ここに、「海運の自由」を主張する際の帝国日本の強みがあったと評価した。

 第五章、第六章ではそれぞれオランダ領東インド、イギリス領インドについて論じた。両地域での日蘭あるいは日英の海運摩擦問題は、安全保障問題または独立問題と関わりながら解決が模索された。いずれの場合も日本は、企業間対立は民間の海運同盟(定期船)の交渉で処理すべきであり、また政府が同盟内対立の仲介に動く際にも、同盟外の不定期船については政府間交渉の対象に含まないという態度を貫いた。不定期船領域には政府が介入しないこと、船籍による待遇差別を生み出さないことが日本にとって最優先事項であった。蘭印の場合、日本がこの不介入に固執し不定期船対応をとらなかったために、蘭印は国内法を制定して開放されていた沿岸貿易を閉鎖した。しかしその後のインドの例では、日本政府は対外的には不介入を貫きながら国内で海運業者に航行を停止させることでインドの国内法改正を阻止することに成功している。アジア海域に複数の植民地を有するイギリス帝国に沿岸貿易閉鎖の事例をつくらせなかったことには、インドにおける実益以上の意味があったであろう。

 終章では、以上の内容の総括を行ったうえで本論文の位置づけを次のように示した。

 まず、戦間期の国際社会における日本の役割を海運というフィールドから明らかにした。これは単純な連盟同調的態度ではなく、時には帝国として連盟規範に反しつつ国益を追求するという、国家経営のための積極的な態度でもあった。

 次に、一九三〇年代の海運秩序が自由主義的であり続けたことを、日本の戦略と関連づけて論じた。日本は対外的な不介入措置を貫き国旗による船舶差別に反対し続けることにより、一九三〇年代のアジアにおいて「海運の自由」を生存させたのである。

 最後に、本論文で論じた対外的不介入による経済的自由主義への固執は、一九三〇年代後半の日本が自由貿易、ブロック経済双方への可能性を内包する背景になったと展望した。本論文は、これまで経済史家のみが担ってきた戦間期海運研究に外交史の立場から寄与しようとするのみならず、この点において、一九三〇年代の政治外交史研究へも寄与しようとするものでもある。